第六章 夕暮れの帰り道(下)
2014年の夏を僕は穏やかに迎えた。
2012年2013年と『彼女』との熱い夏を過ごした僕にとっては、拍子抜けするほどにカラッポの夏・・・僕は虚しさと悔しさを心の奥にしまい込み、会社の仕事に精を出し、生活を見つめ直して忙しく毎日を過ごしていた。
僕は考えないようにしていた・・・「失われた夏」のことを。
そんな夏のある日、小学校高学年と思われる少年3人が僕を訪ねて来てくれた。
彼らは思いつめた表情で僕の目を見据え、ゆっくりと話し始めた。
「おじさん!僕らは柳ヶ瀬のお化け屋敷が日本一やと思っとるんやよ、お願いやから、またやって下さい」
――予想もしなかった彼らの言葉に、僕は「ごめんなぁ・・・」と返すのが精一杯だった。
その夜、僕は彼らの表情と言葉が頭にへばりついたように離れなかった。
『日本一』――僕たちのお化け屋敷は、柳ヶ瀬の町おこしの手段として作ったものであり、ビジネスとして考えているわけでもないし、お化け屋敷業界に参入したつもりもない。正直言って、『日本一』なんて意識したことすら無かった。きっと彼らは、富士急や台場の怪奇学校に行ったことも無いだろう。調子のいいこと言いやがって・・・
だが、そんな自問自答を繰り返すうちに、僕は気がついていた。
『心に火が灯った』ことに。
小さな心に萌芽した地域愛、そしてそれは柳ヶ瀬を日本一だと思ってくれている・・・
なんだ?このデジャブ感は? ああ・・・5歳の僕か?迷子の僕がみた・・・
僕らのチャレンジは街の子どもたちに、そんな幻想を抱かせたのか?
『日本一』というワードが頭に引っかかったまま、2014年の夏の終わり、僕は彼らのことを思い浮かべてこう誓った。「ごめんな・・・来年はやるから・・・」と。
そして、僕はゆっくりと考え始めた、2015年のお化け屋敷のことを。
もうサブタイトルは決めていた。
『夕暮れの帰り道』
誰しもが子どもの時に感じた夕暮れ時の切ない、そして不安な気持ち。それでも帰らなければいけない帰り道を、そして辿りついた『家』の温もりを題材にしたお化け屋敷を作ろう!こうなると僕の得意分野だ。『ああしよう!ふむふむ・・ガキどもの悲鳴が聞こえるぜっ』妄想、空想がとめどなく頭の中で膨れ上がっていく・・・まだ「やながもん」の仲間にも2015年の復活を伝えてはいなかったが、僕の頭のなかでは着々と青写真が出来上がりつつあった。
そんな秋の日のこと。僕は一人の映画監督と出会った。
井坂 聡 さん
1960 年東京生まれ。
大学卒業後、フリーの助監督として瀬川昌治監督、東陽一監督に師事。
1992 年テレビドラマで監督デビュー後、数本のドラマ作品を経て、1996 年 『Focus』で劇場用映画初監督、その後、コンスタントに映画・テレビドラマ作 品を発表している。最近は舞台演出にも進出。
主な映画作品は『破線のマリス』『ミスター・ルーキー』『g@me.』『象の背中』
この年、山口さん主催の「柳ヶ瀬ホラーナイト」というイベントが開催され、僕はそこで「アンフィニ」「同居人」という彼が撮ったホラームービーを観る機会に恵まれた。
著名な俳優が出演している訳では無く、おそらく低予算の短編映画なのだが、短編ならではのスピード感と焦点を絞った構成は、観るものの集中力を研ぎ澄ませていく・・・
これがプロの本物の映画監督の仕事か!そして、目の前に、その井坂監督がいる・・・チャンスだ・・・話そう!
井坂さんは、良識と礼節があり、何よりも優しい人だった・・・
憧れを仕事にしている故の少年っぽい雰囲気と一途に突き進んだ故の求道者の凄みを兼ね備えた男、それが井坂さんだった。
彼はおそらく挨拶程度の気持ちで「吉村さん、今度東京で飲みましょうね」と言ってくれた。僕は爽やかに「はいっ!是非」と答えたが内心『よ~し言ったなぁ井坂さん、絶対行くからなぁ~!』と思っていた。
低予算 ショートムービー ホラー 井坂さん・・・夕暮れの帰り道
再び僕の頭の中で『何か』が繋がった!
『そうだ!夕暮れの帰り道というタイトルのショートホラームービーを低予算(すみません)で井坂さんに撮ってもらおう!』・・・
日本を代表する映画監督に対して無謀で失礼極まりない思いつきだ。分かっている、分かってはいるが僕の気持ちは止まらなかった。まだ寒い翌年3月20日の夕方、僕は品川の居酒屋で井坂さんと待ち合わせた。そして酒を酌み交わしながら、僕の思いを語らせてもらった。お化け屋敷のこと、コラボムービーのこと・・・こんな田舎のバカな人間の分かりにくい話を彼は真剣に聞いてくれた。
成った!!承諾してくれた!
僕は、その日の夜、心地よく酔った夢見心地の気分で最終の新幹線に乗って岐阜に帰った。
全ての準備は整った。5月22日、僕たち「やながもん」は「恐怖の細道~夕暮れの帰り道」の開催を正式に発表した。
記者会見の席上で、僕はこう宣言した。「柳ヶ瀬に『日本一』の価値を作る」と。日本一面白く、怖いお化け屋敷を目指すのはもちろんだが、「柳ヶ瀬が日本一だ!」と思ってくれる子どもたち、地域に誇りを持ってくれる若者たちを増やしたい!という思いから、あえて『日本一』というキーワードを使わせていただいた。会見には、山口さんも、井坂さんも、再び共催してくれた柳商連さんも集まってくれた。あの少年たちが僕の心に灯した炎は、どんどん大きくなっていた。
井坂さんは、6月12日に撮影の為に、再び岐阜に来てくれた。さのてつろうさんという腕利きのカメラマンを伴って。この時のエピソードについては別の機会に譲るが、撮影最終日にみんなで見た夕焼けのことは、僕は一生忘れないだろう。ずっと曇っていた空が奇跡のように晴れ、今まで見たことが無いような綺麗な夕焼けが広がったあの時・・・とにかく完成した『夕暮れの帰り道』という映画を多くの人に観てもらいたい、岐阜という場所を舞台にした少年の心に映る夕暮れの帰り道の恐怖を映した傑作である。
そして7月19日、岐阜 柳ヶ瀬お化け屋敷 恐怖の細道~夕暮れの帰り道~は無事オープンを迎えることが出来た。この『やながもんの唄』というブログは、本当はオープンまでに書き終える予定だったのだが・・・執筆中の今は8月12日・・・駄文の上に遅筆・・・誠に申し訳ない。
されど、今年のお化け屋敷は2012年・2013年、そして失われた2014年を経た「恐怖の細道」の集大成であり最高傑作と自信を持って言える!過去の良い部分の踏襲と新しい試みが融合している。何より、誰しもが持っている「記憶」に襲いかかるお化け屋敷というコンセプトを余すところ無く表現できたと感じている。
「怖いけれど、楽しい」それが「恐怖の細道」の目指すところだ。お化け屋敷の出口から、悲鳴をあげながらも笑顔で出てくるお客さんたち――僕の心は幸せに満ちている。
再び、僕の柳ヶ瀬はキラキラした子どもたちの笑顔に溢れた街になった!
「行き道」と「帰り道」。僕の帰り道はどこから始まったのだろう・・・多分それは45歳の時、山口さんと出会ってからだと思う。燻り続けた「行き道」。それでも僕は心を滾らせて生きてきたつもりだ。そして今「帰り道」。この5年間で色んな人に出会った・・・
今、僕はその人たちを思いだしている。
表情や言葉、仕草の全てを思い出している。
僕の内で起きた歓喜や失望、怒り、希望が『やながもん』たちの中に溶け込んで美しく反射している。
おかげさまだぁ・・・みんなのおかげだ・・・
魂コガシテ生きてきてよかった!
(完)
the G Street Band「魂コガシテが聞こえる」