杉並からの情報発信です

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【YYNewsLive】■追悼 アニメーション監督高畑勲(いさお)さん!

2018年05月15日 22時55分05秒 | 政治・社会
いつもお世話様です。                          

【YYNews】【YYNewsLive】【杉並からの情報発信です】【YYNewsネット世論調査】を主宰する市民革命派ネットジャーナリスト&社会政治運動家の山崎康彦です!

本日火曜日(2018年05月15日)午後8時50分から放送しました【YYNewsLiveNo2551】の放送台本です!

【放送録画】 66分17秒

https://ssl.twitcasting.tv/chateaux1000/movie/464479436#

☆今日の画像

①2017年4月東京で行われた三上智恵監督とのトークイベントでの高畑勲監督

20180515高畠駿

②追悼の言葉を述べる宮崎駿監督 (2018年5月15日 三鷹の森ジブリ美術館)

20180515宮崎駿

☆今日の推薦図書(朗読)

■宋鴻兵(ソン・ホンビン)著『ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ』(ランダムハウス2009年5月20刊)

この本は中国で150万部、韓国で7万部、台湾で3.5万部が売れたベストセラーです。

(序文より)

『本書では18世紀以降に起こった重大金融事件の黒幕にスポットを当て、彼らの戦略瀬的目的や常套手段を分析比較しながら、彼らが将来中国に対して仕掛ける攻撃方法を予測し、中国の取るべき道を探ってみたい。"硝煙のない戦争"はすでに始まっている』

▲第42回 (2018.05.15) P144-147 朗読

第4章 第一次世界大戦と大不況- 国際銀行家の"豊穣なる季節"

「ヴェルサイユ条約」20年間の休戦状
             
(1)今日のメインテーマ

■追悼 アニメーション監督高畑勲(いさお)さん!

①高畑勲さん「お別れ会」 宮崎駿監督は声を詰まらせながら、亡き盟友を偲んだ

ハフィントンポスト日本語版

2018年05月15日

https://www.huffingtonpost.jp/2018/05/14/isao-takahata-farewell_a_23434642/?utm_hp_ref=jp-homepage

4月5日に肺がんで亡くなったアニメーション監督の高畑勲さんを偲ぶ「お別れの会」が5月15日に東京・三鷹の森ジブリ美術館で開かれた。

冒頭、宮崎監督が"開会の辞"として挨拶。宮崎監督は高畑さんと出会った東映動画時代を振り返りつつ、「パクさんは95歳まで生きると思い込んでいた」と、声を詰まらせながら盟友を偲んだ。

その全文を紹介する。

(追悼文全文)

パクさんというあだ名の言われはですね、まあ定かでない部分もあるんですが、大体もの凄く朝は苦手な男でして、東映動画に勤め始めた時もギリギリに駆け込むというのが毎日でございまして。買ってきたパンをタイムカードを押してからパクパクと食べて、水道の蛇口からそのまま水を飲んでいたと。それで、パクパク、パクになったという噂です。

追悼文という形ではありませんが、書いてきたものを読ませていただきます。

パクさんは95歳まで生きると思い込んでいた。

そのパクさんが亡くなってしまった。自分にもあんまり時間がないんだなあと思う。

9年前、私たちの主治医から電話が入った。「友達なら高畑監督のタバコをやめさせなさい」。真剣な怖い声だった。

主治医の迫力に恐れをなして、僕と鈴木さんはパクさんとテーブルを挟んで向かい合った。姿勢を正して話すなんて、初めてのことだった。

「パクさんタバコを止めてください」と僕。「仕事をするためにやめてください」。これは鈴木さん。

弁解やら反論が怒涛のように吹き出てくると思っていたのに、「ありがとうございます。やめます」。パクさんはキッパリ言って頭を下げた。そして本当に、パクさんはタバコをやめてしまった。

僕はわざとパクさんのそばへタバコを吸いに行った。「いい匂いだと思うよ。でも、ぜんぜん吹いたくならない」とパクさん。彼の方が役者が上だったのであった。やっぱり95歳まで生きる人だなあと、僕は本当に思いました。

1963年、パクさんが27歳、僕が22歳の時、僕らは初めて出会いました。初めて言葉を交わした日のことを今でもよく覚えています。黄昏時のバス停で、僕は練馬行きのバスを待っていた。雨上がりの水たまりの残る通りを、ひとりの青年が近づいてきた。

「瀬川拓男さんのところへ行くそうですね」

穏やかで賢そうな青年の顔が目の前に遭った。それが高畑勲こと、パクさんに出会った瞬間だった。

55年前のことなのに、なんとはっきり覚えているのだろう。あの時のパクさんの顔を今もありありと思い出す。

瀬川拓男氏は人形劇団「太郎座」の主催者で、職場での講演を依頼する役目を僕は負わされていたのだった。

次にパクさんに出会ったのは東映動画労働組合の役員に推し出されてしまったときだった。パクさんは副委員長、僕は書記長にされてしまった。緊張で吐き気に苦しむような日々が始まった。

それでも組合事務所のプレハブ小屋に泊まり込んで、僕はパクさんと夢中に語りあかした。ありとあらゆることを。中でも作品について。僕らは仕事に満足していなかった。もっと遠くへ、もっと深く、誇りを持てる仕事をしたかった。何を作ればいいのか。

すみません、どうやって...。

パクさんの教養は圧倒的だった。僕は得難い人に出会えたのだと嬉しかった。その頃、僕は大塚康生さんの班にいる新人だった。大塚さんに出会えたのはパクさんと出会えたのと同じくらい幸運だった。アニメーションの動かす面白さを教えてくれたのは大塚さんだった。ある日大塚さんが見慣れない書類を僕に見せてくれた。こっそりです。

ちょっと、すみません...。

それは、大塚康生が長編映画の作画監督をするについては、演出は高畑勲で無くてはならないという会社への申入書だった。当時、東映動画では「監督」と呼ばず「演出」と呼んでいました。

パクさんと大塚さんが組む。光が差し込んできたような高揚感に湧き上がっていました。

そしてその日がきた。長編漫画第10作目(「太陽の王子 ホルスの冒険」)が大塚・高畑コンビに決定されたのだった。ある晩、大塚さんの家に呼ばれた。会社近くの借家の一室にパクさんも来ていた。

ちゃぶ台に大塚さんはきちんと座っていた。パクさんは組合事務所と同じように、すぐ畳に寝転んだ。なんと僕も寝転んでいた。

(大塚さんの)奥さんがお茶を運んでくれたとき、僕はあわてて起きたが、パクさんはそのまま「どうも」と会釈した。

女性のスタッフにパクさんの人気が今ひとつなのは、この無作法のせいだったが、本人によると、股関節がずれていてだるいのだそうだった。

大塚さんは語った。「こんな長編映画の機会はなかなか来ないだろう。困難は多いだろうし、制作期間が延びて、問題になることが予想されるが、覚悟して思い切ってやろう」。

それは「意思統一」というより、「反乱」の宣言みたいな秘密の談合だった。もとより僕に異存はなかった。

なにしろ僕は原画にもなっていない、新米と言えるアニメーターに過ぎなかったのだ。

大塚さんとパクさんは、事の重大さがもっとよくわかっていたのだと思う。勢い良く突入したが長編10作目の制作は難航した。スタッフは新しい方向に不器用だった。仕事は遅れに遅れ、会社全体を巻き込む事件になっていった。

パクさんの粘りは超人的だった。会社の偉い人に泣きつかれ、脅されながらも、大塚さんもよく踏ん張っていた。

僕は、夏のエアコンの止まった休日に出て、大きな紙を相手に背景原図を書いたりした。会社と組合との協定で休日出勤は許されていなくても、構っていられなかった。タイムカードを押さなければいい。僕はこの作品で仕事を覚えたんだ。

初号を見終えた時、僕は動けなかった。感動ではなく驚愕に叩きのめされていた。会社の圧力で、迷いの森のシーンは削られる削られないの騒ぎになっていたのを知っていた。パクさんは粘り強く会社側と交渉して、ついにカット数からカット毎との作画枚数まで約束し、必要制作日数まで約束せざるを得なくなっていた。

当然のごとく約束ははみ出し、その度にパクさんは始末書を書いた。一体パクさんは何枚の始末書を書いたのだろう。僕も手一杯の仕事を抱えて、パクさんの苦闘に寄り添う暇はなかった。大塚さんも、会社側の脅しや泣き落としに耐えて、目の前のカットの山を崩すのが精一杯だった。

初号で僕は初めて、迷いの森ヒルダのシーンを見た。作画は大先輩の森康二さんだった。なんという圧倒的な表現だったろう。なんという強い絵。なんという...優しさだったろう...。これをパクさんは表現したかったのだと初めてわかった。

パクさんは仕事を成し遂げていた。森康二さんも、かつてない仕事を成し遂げていた。大塚さんと僕はそれを支えたのだった。

「太陽の王子」公開から30年以上たった西暦2000年に、パクさんの発案で「太陽の王子」関係者の集まりが行われた。

当時の会社の責任者、重役たち、会社と現場の板挟みに苦しんだ中間管理職の人々、制作進行、作画スタッフ、背景・トレース・彩色の女性たち、技術家、撮影、録音、編集の各スタッフがたくさん集まってくれた。もういまはないゼロックスの職場の懐かしい人々の顔もまじっていた。偉い人たちが「あの頃が一番おもしろかったなあ」と言ってくれた。「太陽の王子」の興行は振るわなかったが、もう誰もそんなことを気にしていなかった。

パクさん。僕らは精一杯、あの時を生きたんだ。膝を折らなかったパクさんの姿勢は、僕らのものだったんだ。

ありがとう、パクさん。55年前に...あの雨上がりのバス停で声をかけてくれたパクさんのことを忘れない。

②「火垂るの墓では戦争は止められない」高畑勲監督が「日本の戦争加害責任」に向き合うため進めていた幻の映画企画

2018.04.13 Litera

http://lite-ra.com/2018/04/post-3949.html

2017年4月、東京で行われた三上智恵監督とのトークイベントでの高畑勲監督(撮影=編集部)

5日に亡くなった高畑勲監督の代表作『火垂るの墓』(1988年)が、本日の『金曜ロードSHOW!』(日本テレビ)で放送される。周知の通り「反戦映画」として国内外から高い評価を受けた作品だが、生前、高畑監督は「『火垂るの墓』では戦争を止められない」と発言していたことは、本サイトでも何度か紹介してきた。

「『火垂るの墓』は反戦映画と評されますが、反戦映画が戦争を起こさないため、止めるためのものであるなら、あの作品はそうした役には立たないのではないか」(神奈川新聞2015年1月1日付)

一方、その高畑監督が『火垂るの墓』の次に撮ろうとしていた“まぼろしの作品”については、あまり知られていない。監督作としての次作は1991年の『おもひでぽろぽろ』になるが、実はその間、高畑監督は別の企画を進めていた。しかし、ある理由によりお蔵入りになったという。「国公労新聞」2004年1月1・11日合併号のインタビューで監督自身がこう語っている。

「(『火垂るの墓』は)戦争の悲惨さを体験したものとして、平和の大切さを訴える作品をつくることができたことはよかったのですが、一方で、日本のしかけた戦争が末期になってどんなに悲惨だったかだけを言っていてもいけないと思っています。

じつは『おもひでぽろぽろ』をつくる前に、しかたしんさん原作の『国境』をもとにして、日本による中国への侵略戦争、加害責任を問う企画を進めていたのです。残念ながら、天安門事件の影響で企画が流れたのですが、日本が他国に対してやってきたことをきちんと見つめなければ世界の人々と本当に手をつなぐことはできないと思っています」

そう。高畑監督が『火垂るの墓』の次に取り組もうとしていたテーマは、日本の「侵略戦争」と「加害責任」を問うことだった。ついに日の目を見ることのなくなった“まぼろしの高畑映画”。その原作となるはずだった『国境』とは、どういった作品なのか──。現在、絶版となっている同作を読んでみた。

高畑監督が撮るはずだった“幻の映画”の原作『国境』とは

『国境』(理論社)は、児童文学作家、劇作家のしかたしん氏が、1986年から1989年にかけて発表した小説3部作。1冊にまとめられた1995年版は全600ページを超える長編である。日中戦争、太平洋戦争時の朝鮮・中国・満州・モンゴルを舞台に、ソウル生まれの日本人青年が、死んだはずの幼馴染みを探すなかで、反満抗日や朝鮮独立の地下独立運動に参加していくというのが物語の大枠だ。

同作には、甘粕事件の甘粕正彦や、陸軍大将の東条英機、朝鮮独立運動家としての金日成、あるいは森繁久弥など、実在の人物名が多数登場するが、ノンフィクションではなく、あくまで“冒険小説”としての体裁をとっている。しかしその一方で、物語に作者本人の戦争体験が色濃く反映されているのは疑いない。

著者のしかた氏は1928年、日本統治下の朝鮮・京城(現在のソウル)で生まれた。父は京城帝国大学の教授、母は洋画家で、当時ではリベラルな空気の中で育ったという。京城帝国大予科在学中に終戦を迎えたしかた氏は、引き上げた日本で大学を卒業。民放ラジオ局でディレクターを務めたのち、1974年から作家一本の人生に入り、2003年に亡くなった。しかた氏にとって『国境』は「ライフワークのひと節」「一番かわいい作品」だったという。

第一部「大陸を駈ける」の時代背景は、盧溝橋事件から2年後の1939年。主人公の「昭夫」は京城帝大の予科生だ。学友たちとやがて戦地に駆り出されることを意識しながら飲み会をしていた初夏の夜、密かに好意を寄せる「和枝」から、満州での訓練中に事故死したとされた和枝の兄で幼馴染の「信彦」が生きていることを聞かされる。

日本が1932年に樹立した「満州国」。昭夫はふと、信彦が満州の軍官学校行きを決めたときに「天皇陛下のためには死ねそうもないが、満州の未来のためなら死ねる」と言っていたのを思い出していた。昭夫はその意味を考えながら、(少しばかりの下心をもって)満州まで信彦探しの旅に出る。しかし、その背後を「白眼」(しろめ)と呼ばれる冷酷で残虐な満州公安局の諜報員がつけねらっていた。

実は、信彦は関東軍がさらったモンゴルの将軍の子孫で、軍官学校を脱走して地下工作運動に加っていたのだ。信彦の“帰路”を辿る過程で諜報員から命を狙われた昭夫は、地下運動に関わるモンゴル人「秋子(ナムルマ)」たちに助けられながら、満州国が「五族協和」の美辞を建前にした侵略に他ならないことに気がつく。また、自らが白眼に捕らえられて苛烈な拷問を受けるなかで、日本人による差別、暴力、搾取、性的暴行、戦争犯罪の実態を身をもって知り、旅を終えて京城へ帰る。

続く第二部は太平洋戦争中の1943年。軍属の技師として独立を願う朝鮮人たちと交流しながら武器製造に携わる昭夫は、日本軍人の卑劣な暴力支配、大本営発表の欺瞞を再び目の当たりにして、朝鮮の独立運動に身を捧げる決意をし、信雄や秋子らとの再会を果たす。そして第三部では、独立活動家として1945年8月15日の敗戦を生まれの地・京城で迎え、白眼との戦いにもピリオドがうたれたところで、物語は幕を閉じる。

「朝鮮人が強制連行される現場を見てしまったことがある」

以上が『国境』のあらすじである。予科生の昭夫が漠然と考えていた朝鮮・中国、満州・モンゴルの「国境」とは、侵略者である日本が引いて強要しているものだった。

昭夫がそのことを悟るのは、日本人による暴力や差別を目の当たりにしたことだけがきっかけではない。むしろ、支配を受けている当事者たちとの腹を割った交流から、「祖国」とは「民族」とは何かを見つめ直すことで独立運動に関わっていくのである。たとえば、作中で機関士に扮してモンゴル国境へ向かう最中、昭夫は協力者のモンゴル人や朝鮮人とこのような会話を交わしている。引用しよう。

〈昭夫は改めて運転室の中を見渡した。石炭で真っ黒になった信彦の顔を想像しておかしくなった。ドルジは続けた。

「日本人として育てられ、それから自分の国を選び直したんだからな。国を選び直すというのは大変なことだろうよ。おれなんかは、満州なんか国じゃない、おれの国はモンゴルだ、それ以外に考えたことはなかったけどさ。彼はそうじゃないもんな」

「選べる国があるやつはいいよ」

 突然声がした。李さんだった。

「俺たちには国がないんだからな」
 
ちょっと遠慮がちに昭夫の顔を見てから続けた。

「日本人に国を追い出されて、満州をあちらこちらとうろつきまわったけど、どこへ行ってもよそ者だった。よその国の大地、その国の空をさ迷う人生というのがわかるかい。こうやって働いたり考えたり喋ったりしたことは、みんなよその国の空と土の中に消えちまうのだ。誰がその歴史をついでくれるというあてもなくな。──淋しくってな。本当に淋しいよ」〉

また、同作の特徴のひとつとして、関東大震災時の朝鮮人虐殺、慰安婦や徴用工の強制連行、人体実験をしていた731部隊、植民地解放を謳った傀儡政権の樹立、朝鮮人の創氏改名など、日本による加害事実のエピソードが随所に挿入されることが挙げられる。そのすべてが作者の実体験ではないにせよ、少なくとも日本軍による強制連行については、当時目撃した光景が如実に反映されているようだ。しかた氏はある講演のなかでこう証言している。

〈いっぺん、どこかの小さい駅で朝鮮人が強制連行される現場を見てしまったことがあるんです。これもすごかったですね。ぼくは人間が泣くというのはこういうことかと初めて知ったわけです。オモニが泣き叫ぶ、泣き叫ぶオモニをけ倒し、ぶんなぐり、ひっぺがしながら、息子や夫たちが貨車に積みこまれていく光景を見てしまった。その泣き声は強烈に残っているんです。ぼくはそのとき、自分が朝鮮人をわかっていると言ってたくせに、指一本動かすことができない日本人の限界を、どっかで感じていたんですね。〉(『児童文学と朝鮮』神戸学生青年センター出版部、1989年)

なぜ企画は流れてしまったのか。原作者と高畑監督の無念

また、第三部で細かく描かれている終戦日のソウル市内の活況も、しかた氏本人の体験が元になっている。しかた氏ら京城帝大予科生は、8月15日の正午ごろまでソビエトの侵攻に備え、爆弾を抱えて戦車に飛び込む訓練を行なっていた。直後に聞いた玉音放送。頭が真っ白になって、そのまま京城の町を散歩した。そこで、しかた少年ははじめて朝鮮人のデモ行進を見て、その明るさに感動したという。少し長くなるが、前出の講演から再び引用しよう。

〈大変恥ずかしいことだったんですけれども、そのときは侵略者としての罪の意識はなかった。

ヒョッと気がついてみると、その街角に一人、予科の学生が突っ立っていたんです。これは朝鮮人の学生です。(中略)建国準備会という腕章をつけていた。まずいことに、そいつとバチッと目があっちゃったんですね。目があわなかったら、ぼくは知らん顔をして万歳、万歳と言いながら、おそらく京城駅まで行ってたと思うんです。(笑)
 そいつが、ちょっと来いというんです。「なんやねん」と行ったんです。彼にえらい厳しい顔で、「ここはお前のいる場所じゃないんだよ」って言われたんですね。それはほんとにドキッとしましたね。「ここはお前のいる場所じゃないんだよ」と言われたときに、アッと気がついた。まことにうかつな話ですけれども、それが自分にとって朝鮮に生まれ育ったことをもう一回問い直す、見直す、その大きなきっかけになった気がするんですね。〉

これは推測になるが、おそらく、高畑監督が問いたかった「加害責任」とは、戦時下の暴力や犯罪だけじゃなかったのではないだろうか。事実、『国境』という物語は、侵略者による「加害」が、決して身体だけに刻まれるものではないことを教えてくれる。生まれた国や名前を奪われるということ。自分たちの歴史を奪われるということ。それは、暴力や略奪の「当事者」たちが鬼籍に入ってもなお、永遠に癒えることのない「加害」だろう。
しかし、ついぞ『国境』は高畑監督によって映画化されることが叶わなかった。高畑監督は前述の「国公労新聞」インタビューで「天安門事件の影響で企画が流れた」と多くを語っていないが、調べていくと、しかた氏がその裏側を雑誌『子どもと読書』(親子読書地域文庫全国連絡会)1989年12月号のなかで記していたのを見つけた。

高畑監督を〈アニメ映画界のなかでもっとも尊敬する人〉だったというしかた氏は、作品の提供を快諾し、完成を楽しみにしていた。高畑監督も〈全力をかけてやりたい〉と意気込んでいたという。しかし、『国境』第三部が完結した1989年に天安門事件が起きて、配給会社から「あの事件のために日本人の中国イメージが下がり販売の自信がなくなったから」との理由でキャンセルを申し入れられたという。しかた氏はそのショックについてこう綴っていた。

〈私が何ともやり切れない思いにかられたのは、そういう(引用者注:マーケットの)リサーチを受けた時の日本人一般の反応を想像してしまったからなのです。
「人民解放軍だってあんなひどいことをやったんだ。おれたち日本がやったことも、これでおあいこさ。もう免罪になったんだ。この先侵略者の罪とか歴史とか、そんなうっとうしいことはかんがえるのはやめにしようや。もっと軽く楽しくいこうや」〉

翻って現在。安倍政権のもとで、戦中日本の加害事実を抹消・矮小化しようとする歴史修正主義が跋扈している。安倍首相は、戦後70年談話で「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と胸を張って述べた。

こんな時代だからこそ、やはり、映画版『国境』は“まぼろしの作品”になるべきではなかった。きっと、高畑監督も、そう思いながら眠りについたのではないだろうか。そんなふうに思えてならないのだ。

(小杉みすず)

(終わり)

(2)今日のトッピックス

① ガザ衝突、催涙ガスで乳児1人が死亡 保健省発表

2018年5月15日 AFP日本語版

http://www.afpbb.com/articles/-/3174677?cx_position=4

パレスチナ自治区ガザ市東部のイスラエル境界付近で、パレスチナ人のデモ隊に向かって使用された催涙ガス(2018年5月14日撮影)。(c)AFP
PHOTO / MAHMUD HAMS

【5月15日 AFP】パレスチナ自治区ガザ地区(Gaza
Strip)とイスラエルとの境界付近で発生した在イスラエル米大使館のエルサレム移転に抗議するパレスチナ人とイスラエル軍との衝突で、ガザの保健省は15日、催涙ガスを吸い込んだパレスチナ人の乳児1人が死亡したと明らかにした。

死亡したのは生後8か月の女の子で、14日にガザ市(Gaza
City)東部で行われた大規模な抗議デモ中に催涙ガスにさらされたという。同省によるとこの抗議デモでパレスチナ人58人が死亡し、死者の多くが狙撃者から銃撃を受けたという。

女の子とその家族が境界からどのくらいの距離にいたのかはわかっていないが、境界に配備されたイスラエル軍はデモ隊に対して催涙ガスの使用や銃撃を行った。

14日のパレスチナ人による大規模デモは物議を醸してきた在イスラエル米大使館のエルサレム移転に抗議するもので、東エルサレムを首都とみなすパレスチナ人が境界フェンス周辺に大挙して集まり、中にはフェンスを突破しようとする人もいたという。(c)AFP

②排除された安倍首相…日本抜きで進む北朝鮮和平シナリオ

2018年5月15日  日刊ゲンダイ

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/229011

中国包囲網から一転、李克強首相にゴマすり随行

まさに泣きっ面に蜂だ。急転する北朝鮮情勢をめぐり、蚊帳の外批判にイライラを募らせる安倍首相は自ら外交無策をさらし、恥の上塗り。一方、強気の北朝鮮は拉致問題について朝鮮中央通信の論評を通じ、「解決済み」と再宣言。23~25日に予定される核実験場廃棄の公開取材では日本メディアを対象外とした。

史上初の米朝首脳会談を控え、日本抜きの和平構想が着々と練られているともいう。もはや安倍政権は蚊帳の外どころか、排除されているのが実態だ。

■「北京ルートなどを通じて努力」の赤っ恥

安倍首相が醜態をさらしたのは、11日に生出演した“親密メディア”フジテレビの「プライムニュースイブニング」だ。南北首脳会談で金正恩朝鮮労働党委員長が口にした「(拉致問題について)韓国や米国など周りばかりが言ってきているが、なぜ日本は直接言ってこないのか」という発言をめぐり、真偽を問われた安倍首相は虚を突かれたのか目をキョロキョロ。

「あの~、金正恩委員長に直接言わないのか、ということであると思います」とトンチンカンな釈明を始め、「われわれは北京ルートなどを通じてあらゆる努力をしています」とシドロモドロだった。

「北京ルート」は在中国日本大使館を通じた各国との接触を指しているのだが、これすらマトモに機能しているのか疑わしい。朝鮮半島情勢に詳しい東京新聞論説委員の五味洋治氏は、日刊ゲンダイのインタビュー(4月6日付)でこう指摘していた。

〈北朝鮮がミサイルを発射するたびに、「政府は北朝鮮に対し、北京の外交ルートを通じて厳重に抗議した」と報じられ、拳を振り上げて怒りを表明したかのようですが、実際は北朝鮮大使館にファクスを送っているだけなんです〉

■いまだに大使館ルートの周回遅れ

改めて五味氏に聞くと、呆れた様子でこう話した。

「中国の習近平国家主席や韓国の文在寅大統領は金正恩委員長とすでに直接交渉し、6月12日にセットされた米朝首脳会談ではトランプ大統領も直談判に臨む。関係国が首脳外交を展開する中、安倍政権はいまだに大使館ルートで対話の糸口を探っているというのですから、周回遅れもいいところです。CIA(米中央情報局)が中心になって動く米国は、数年前から北朝鮮の交渉担当者と携帯電話で直接やりとりをしていたとも聞きます」

 一方、2度の平壌詣でで米朝会談をまとめたポンペオ国務長官は「北朝鮮が速やかに早期の非核化に向けて大胆な行動を取れば、北朝鮮の繁栄に協力する用意がある」と言及。制裁緩和を飛び越え、経済支援にまで踏み込んだ。どういう腹積もりなのか。

「北朝鮮が保有する核弾頭やICBM(大陸間弾道ミサイル)の一部を国外に搬出させ、北朝鮮が誠意を見せたとの理由で経済的なサポートを始める。これが米国が描く青写真だといいます。コトを急ぐのは、中朝関係の修復によって中国が北朝鮮への影響力を強めるのを懸念しているためで、対北支援に積極的な韓国はもちろん、爪はじき状態の日本も巻き込む算段です。兆円単位の戦後補償が見込める日本は、北朝鮮のヤル気を引き出す重要なファクターですから」(米韓外交関係者)

関係国が米国プランに沿って動きだせば、日本固有の案件である拉致問題の棚晒しは避けられない。拉致問題解決を米朝国交正常化の前提とする安倍政権にとって、悪夢のシナリオだ。

安倍首相は6月8日からカナダで開かれるG7サミットでの日米首脳会談を模索し、米朝会談直後の再来日をトランプに要請しているようだが、トンデモない手土産を渡されること必至である。

③[ニュース分析]「果敢で迅速に…」北に2つの“非核化見返り”示した米国

2018/05/15  ハンギョレ新聞日本語版

6月12日、シンガポールで歴史的な朝米会談を行うドナルド・トランプ米大統領と北朝鮮の金正恩国務委員長

米「廃棄した核兵器はオークリッジへ」 「投資+体制保障」見返りを具体化

北朝鮮と米国が、首脳会談の場所と日付を「6月12日シンガポール」と確定した後、本格的な議題交渉に突入し、米国の交渉戦略が次第に輪郭を現わしている。米国の戦略は、北朝鮮が核兵器搬出などの「果敢で迅速な非核化措置」をすれば、米国も民間投資および安全保障と関連して「果敢で迅速な相応措置」を取るという“ビッグディール”と要約できる。

ボルトン「既存の核、米国に持ちこみ 
ウラン濃縮・再処理能力も除去 
未申告施設まですべて検証すれば 
米国が直接核兵器を解体する」 
 
弾道ミサイル・生物化学兵器も議題に 
米、相応措置として制裁の緩和など“ニンジン”ぶら下げ 
ポンペオ「民間資本の直接投資が可能」

マイク・ポンペオ米国務長官は13日(現地時間)、フォックスニュースとCBS放送に、ホワイトハウスのジョン・ボルトン国家安保補佐官はABCとCNN放送に出演し、首脳会談の議題に対する米国側の立場を詳細に紹介した。

ボルトン補佐官はまず、朝米首脳会談の核心議題である「非核化」と関連して「(完全な)非核化決定の履行はすべての核兵器を除去すること、核兵器を廃棄しテネシー州のオークリッジに持っていくことを意味する」と明らかにした。これは「過去の核」と呼ばれる既存の核兵器の全面廃棄とその米国搬出を要求したものだ。この問題が今回の交渉の最大の争点であり、峠になると予想される。北朝鮮はこれまで「(敵に)武器庫を見せることはできない」として、既存の核兵器を北朝鮮安保の“最後の安全弁”と考えてきた。

米国は既存の核兵器の搬出を北朝鮮の非核化意志に対する“リトマス試験紙”と見て、これに対する北朝鮮の同意を引き出し、首脳会談合意文に入れるという計算をしているという。ボルトン補佐官は、ここからさらにもう一歩踏み出して「それ(完全な非核化)はウラニウム濃縮とプルトニウム再処理能力を除去することを意味する」として、現在進行中の北朝鮮の核計画も除去するという意志を明確にした。

ボルトン補佐官はまた、核とミサイル施設のすべての位置を公開することと、その施設に対する開放的査察を許容しなければならないと北朝鮮に要求した。検証方法と関連しては、濃縮と再処理施設など現在進行中の核計画については「国際原子力機構(IAEA)が役割」を果し、すでに完成された「核兵器の解体は米国がするとし、おそらく他国の支援を受けるだろう」と話した。核拡散禁止条約(NPT)体制では、国際原子力機構は核兵器の解体には参加できず、核保有国である国連安保理5カ国だけにその権限がある。

ボルトン補佐官は続けて、弾道ミサイル、生物化学兵器、北朝鮮拉致日本人問題なども議題に上げると明らかにしたが、「非核化問題」が核心だと強調した。北朝鮮がこれまで非核化と大陸間弾道ミサイル(ICBM)を越えた議題の拡大には強く反発してきた点を考慮すれば、また別の争点になり得る。

米国はさらに北朝鮮が度量の大きい非核化に応じれば、得られる相応措置として「韓国同様に豊かに暮らせるようにする」という経済の繁栄と体制の安全保障計画を明らかにした。

ポンペオ長官は「私たちの企業家、冒険企業家、資本供給者の中でも最も優れた人々と彼らが持ってくる資本を(核放棄の見返りに)得ることになるだろう」と明らかにした。これは、対北朝鮮制裁の緩和または解除を通じて、米国民間資本の対北朝鮮直接投資を許容できるという言葉だと解釈できる。しかし、彼は「米国の納税者のお金を支援することはできない」として、米国連邦政府の直接財政投入はないことを明確にした。ポンペオ長官はさらに「彼ら(北朝鮮)はばく大な量の電力が必要で、インフラを開発するために協力することを望んでいる」とし、特に米国の農業と技術が北朝鮮を支援すれば「彼らは肉を食べることができ、健康な生活を送ることができる」と話した。彼は金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長とこうした目標を「共有している」と強調した。

第二の“ニンジン”は安全保障だ。ポンペオ長官は「当然、私たちははっきりと安全保障を提供しなければならないだろう」とし、「この問題は過去25年間解決できなかった交換的性格の問題であった」と明らかにした。彼は「今までどの米国大統領も北朝鮮の指導部に対し、本当にこの問題(安全保障)が可能と考えさせる立場を取ったことがない」として、果敢な安全保障を北朝鮮に約束する意向を明らかにした。

ポンペオ長官は、北朝鮮が主張する段階的・同時的解決法と関連して「金委員長は(過去とは)異なり大きく特別で以前とは違う何かがなければならないという点を認識していると考える」と明らかにした。金委員長も「果敢で迅速な交換」という大原則には同意しているという意味と捉えられる。

非核化とこれに対する相応措置の順序と関連して、ボルトン補佐官は「私たちは(北朝鮮の)履行を見る必要がある」として「履行がなされるまでは大統領が(最大の圧迫)政策を変えるとは思わない」と答えた。「完全化非核化」に対する検証まで終えるには、相当な時間がかかるので、核兵器の搬出時点などに合わせて朝米国交正常化および制裁の緩和や解除ができるという意味だとワシントン消息筋は伝えた。

ワシントン/イ・ヨンイン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )



⑤ソンミ村虐殺部隊率いた元米軍将校が死去 A・メディナ氏、81歳

2018年5月15日 AFP日本語版

http://www.afpbb.com/articles/-/3174616?cx_position=19

ベトナム中部クアンガイ省のソンミ(ミライ)村に建てられた「ソンミ村虐殺事件」の慰霊像(2018年3月15日撮影)

【5月15日 AFP】ベトナム戦争(Vietnam
War)中の1968年に起きた「ソンミ(ミライ)村虐殺事件(My Lai
massacre)」で、数百人の村人を殺害した米部隊を率いたアーネスト・メディナ(Ernest
Medina)米陸軍大尉が、ウィスコンシン州で死去していたことが分かった。81歳だった。

今月8日に亡くなっていたことを家族が公表した。

1968年3月16日に起きたソンミ村虐殺事件では、当時の南ベトナムのクアンガイ(Quang
Ngai)省ソンミ村で、米軍部隊が武器を持っていない村人多数を殺害。犠牲者の多くは子どもや女性、高齢者だった。事件は米軍史上、最大の暗部の一つとされる。

米軍は当初、虐殺の事実を隠蔽(いんぺい)していたが、後に村人347人が殺害されたと認めた。ベトナム側は犠牲者数を子ども173人を含む500人超としている。

メディナ氏は当時、虐殺に関与した小隊が属する歩兵中隊を指揮していたため、軍法会議にかけられた。裁判では、虐殺が行われていることに気づかなかったと主張。責任は問われず無罪となった。

2009年には米紙に「あの日ミライで起きたことについて、良心の呵責を覚えない日は一日もない」と述べ、事件について謝罪している。

メディナ氏はウィスコンシン州のマリネット(Marinette)で妻と不動産業を営んでいた。葬儀は14日にマリネット近郊で営まれた。

⑤辺野古釘付けの裏で極東最大と化した岩国基地 120機体制で轟く爆音 

2018年5月12日 長周新聞

https://www.chosyu-journal.jp/shakai/7985

愛宕山の米軍住宅

山口県岩国市の米軍岩国基地では、米軍厚木基地からの空母艦載機60機の移転が3月末に完了し、所属する航空機は120機へと倍増した。これにともなって年度末にかけて米兵や家族、軍属3800人も移転してきつつあり、愛宕山には米兵や家族が1000人規模で暮らす米軍住宅が完成した。そして艦載機移転後の1カ月、岩国基地での戦闘機訓練は激しさを増し、これまで以上に朝も昼も夜も市民は轟音が鳴り響くなかでの生活を強いられている。メディアが国民の目を沖縄・辺野古に釘付けにしている間に、岩国が嘉手納基地に匹敵する極東最大の軍事要塞に変貌している。最近の岩国の実情と市民の問題意識を取材した。

米軍基地所属の戦闘機の訓練の頻度と規模に大きな変化があらわれている(グラフ参照)。4月に岩国市に寄せられた航空機騒音苦情は670件と、過去最多となった。過去数年は1カ月間に多くても300回をこえる程度だったのに対し、今年4月は急増している。
また、市内5カ所でおこなっている騒音測定の値が急増している。この測定は、航空機の騒音70デシベル以上が5秒以上続いたさいにカウントされるもので、基地に近い場所に設置してある川口町1丁目では、4月の測定回数が1127回、尾津町5丁目では1311回を数えた。どちらの地域も昨年度は1カ月あたり200~400回台であったが、艦載機移転が本格化し始めた12月からは500~800回台と増え始め、4月はついに2010年5月の滑走路沖合移設後、初めて1000回をこえた。

艦載機の移転が完了して以降、訓練をおこなう回数、機数、時間帯など規模が拡大しており、その変化を多くの市民が感じている。実際、基地ではどのような訓練がおこなわれているのか、岩国市の担当者ですら「把握するのは難しい」という。

現在、岩国へ移転してきた艦載機は13日まで硫黄島での陸上空母離着陸訓練(FCLP)をおこなう。それが終われば、艦載機のパイロットが空母への着艦資格を得るための訓練(CQ)を九州沖でおこなう。このさい、夜間の離着陸が増えたり、訓練を終えた艦載機の帰還が午後11時を過ぎる可能性があるという。岩国基地の滑走路運用時間は朝6時30分から午後11時までと定められているため、岩国市はそれを過ぎて飛行する場合は事前の通告を求めているが、違反行為を制限するものではない。

ある住民は「艦載機移転完了後からとくに音がひどい。とり決めの時間に関係なく飛ぶため苦情が出るが、議会で追及されてもいつも“運用上の問題”といって済ます。とり決めなどあってなきがごとしだ。沖縄でも米軍機が墜落したり部品を落としたりして、地元自治体が抗議しているのに平気で無視してすぐに訓練を再開する。沖縄のことを考えると、今後事件や事故が増えるのではないかと不安になる」と語っていた。

周辺の住民は「朝の早い時間に目が覚めるほど騒音が増えた」という人もいれば、屋外で仕事をする人は「日中に訓練に飛び立つ機数が増えている」という。滑走路延長上の地域に住む住民は「夜9時くらいまで訓練することが最近は増えている」と話している。「ベトナム戦争やイラク戦争の時期の物物しい雰囲気と被るものがある」「着艦訓練がおこなわれていたときの、バリバリといった、雷のように空気を振るわせる轟音を思い出す」という住民も少なくない。

岩国基地の滑走路では、戦闘機が10機以上連続して飛び立ったり、2機一緒に飛び立つ様子、何度もタッチアンドゴーをくり返す様子、最新鋭のF35Bが垂直離着陸をおこなう様子などが目撃されている。今後は海兵隊も加えて厚木ではおこなってこなかった内容の訓練が増える可能性もある。

市街地上空を飛ぶF35

基地の街のアメリカ・ファースト

艦載機移転に向けてここ10年余り、岩国では一気に都市改造が進んできた。基地内の軍事施設や兵舎など7割をリニューアルする工事が終了し、基地に接続する道路も次次に新しくつくっている。現在、基地の正門では、門を基地側に引き込んだ場所へ移す工事が来年3月までの予定で進行中だ。北門に続く道路の拡張工事もおこなわれており、これまでの道路を11㍍拡張するために民家の立ち退きが進められ、すでに承諾したところから次次に解体して、整地が進められている。

愛宕山では、1戸につき約100坪もある将校用の住宅270戸が完成し、住宅の周囲をフェンスで囲っている。1000人規模で米兵と家族が暮らす一つの街が生まれ、入り口には基地並みのゲートができて、日本人は入れない。「岩国市のなかに米軍基地が増えた」といわれている。

愛宕山にできた米軍住宅入り口のゲート

すでに入居が始まっているが、一方で最近は米軍や家族が基地内や米軍住宅ではなく、街中の一般家屋に住みたがる傾向があるという。川下地区の商店主は「街中に軍関係者が増えているのは、スーパーの客層を見れば明らかだ。愛宕山の米軍住宅は米兵や家族にとっては上下関係もあり、社宅のような場所で暮らすことを嫌がっている。そのため市街地には米軍専用の住宅が建てられ、家賃は日本人の倍以上の20万円ほど。積水ハウスなど大手住宅メーカーが1坪80万円などで土地を買いとって家を建て、ぼろもうけしている。あまりにも米軍住宅に関係者の入居が進まないため、借り上げ住宅の補助を打ち切る方針のようだ」と話していた。一種の不動産ビジネスがたけなわとなり、一部の富裕層が土地を買って米軍用の住宅を建てたり、土地を売ったりする動きも出ている。

米軍基地に近いある地区の幼稚園では、今年度から金髪のアメリカ人の子どもが一挙に増え、園長は父兄向けの入園式の挨拶を、最初は英語で、その次に日本語で話したという。別の幼稚園では、子どもが転んでけがをしたことなどを親に電話で報告するさい、保育士が英語で話していたと変化が驚かれていた。

それだけでなく、街そのものが「アメリカ・ファースト」になっているというのが市民の実感だ。愛宕山にあったゴミ焼却施設は、米軍住宅にとって邪魔になるため、築20年にも満たないのに「老朽化」説が持ち上がり、市街地により近い海辺の日の出町へ移転させた。煙突から煙が出るため、本来なら住環境から離れた山間地域に建設されるものだが、旧施設は愛宕山の米軍住宅に近かったことから移転を迫られた。新施設は米軍基地からも近いため、廃棄物の処理場として将来的に共用することも考えられる。さらに基地周辺では30㍍以上の建造物は規制されて高い煙突も建てられず、帝人が愛媛県に移転するなど経済活動の障害になってきた。

消防署も一昨年2月、旧市内の市街地にあった中央消防署と西消防署を閉鎖して、愛宕山に集約・拠点化し、そばに国立医療センター、その前には防災広場やヘリポートをつくった。国立医療センターは、県東部では唯一の第3次救急(複数科にわたる重篤患者に対応する救急)の指定病院で、米兵の事故想定なのかと話されている。医療・救急・消防といった重要施設は愛宕山の米軍住宅周辺にみな集中させた。

経済効果の実感は乏しく

しかし、米軍・軍属・家族が1万人にふくれあがることで岩国市の経済が活性化するという期待は市民のなかでは乏しい。

岩国駅前商店街のある商店主は「商店街の疲弊状況は見れば分かるだろう。新規出店すると市が3年間家賃補助を出すが、補助が切れたらやっていけない。よその人から見れば“米軍が増えてビジネスチャンス”と思うかもしれないが、そういう訳ではない。商店街を通行する外国人は増えたが、基地の中で生活に必要なものはほとんど揃うため、飲食はいいが物販はほとんど経済効果はない。かわりに商店街に全国チェーンの居酒屋がいくつも増え、結局もうけは外の企業が吸い上げていく」と話していた。

基地周辺の市街地では、北門近くのパチンコ屋跡地にコスモス(ドラッグストア)が建設予定で、周辺にはこれで3件目となる。ダイレックスなど大型ディスカウントストアも進出しており、「外」から露骨に吸い上げていく構図が浮き彫りになっている。

朝鮮半島非核化 殴り込み部隊は何のために駐留?

岩国基地の大増強は市民をだまして進めることの連続だった。

1969年に九州大学構内に米軍のファントムが墜落し、市民の怒りが高まると、「騒音や事故の被害軽減のために基地を沖合に移設する」「跡地は返還する」といってだまし、数十年を経てできたのは2440㍍の新滑走路と空母も接岸できる水深13㍍の大型岸壁だった。そして跡地は返還せず、基地面積は1・4倍になって横田基地を上回った。騒音は軽減されるどころか、前述のように2倍、3倍にもひどくなった。

愛宕山も「市民のためのニュータウン建設」と宣伝し、170人いた地権者には「岩国の将来のため」とだまして土地を売却させたが、当初から「大赤字必至の無謀な事業」と関係者は指摘していた。予想通り250億円の大赤字となると、2006年に山口県が唐突に事業廃止を発表し当時の二井県政が米軍住宅用地として売り飛ばした。そして、いつの間にか日本人が自由に出入りできない米軍基地の「飛び地」となった。はじめから米軍部隊の移転と基地の大拡張は決まっており、そのために市民をだまし続けたのだった。

「北朝鮮の脅威から米軍が日本を守る」という装いで、岩国基地のF35Bは有事のさいには空母ロナルド・レーガンとともに侵攻作戦に加わり、普天間基地に配備されたオスプレイも岩国を作戦行動の拠点として佐世保の強襲揚陸艦に乗るという形で、岩国基地を北朝鮮や中国への核攻撃の拠点にする配置が進行してきた。

しかしここにきて、朝鮮半島とアジアをめぐる情勢は激変している。11年ぶりとなる北朝鮮と韓国の南北首脳会談がおこなわれ、65年間停戦状態にある朝鮮戦争を終結させ、朝鮮半島の非核化と平和体制の構築に向けて関係を改善することを宣言した。6月には米朝首脳会談がおこなわれる。岩国市民のなかではそれをめぐって鋭い問題意識が語られている。

「朝鮮の人たちは同じ民族であり、殺し合う必要はなかった。ミサイルそのものは怖いが、岩国はとくに米軍基地があるということでいつ攻撃されてもおかしくないし、それが私たちが一番恐れていることだ。だから平和に向けて進むことは岩国にいる私たちにとってもありがたい。それにしても、Jアラートで頭を抱えさせたあの訓練はいったい何だったのかと思う。米兵のなかにも、大学に進むお金がないために軍隊に入隊する青年もおり、ある意味かわいそうな面もある。一刻も早く平和になればいい」

「金正恩と文在寅の2人が非核化の方向で一致した。トランプは在韓米軍の撤退もいい出している。在韓米軍がいらないのであれば、在日米軍も必要なくなるのではないか。安倍晋三はアメリカに国益を売り飛ばしてひたすら貢ぐだけだ。アジアがこれだけ変わりつつあるなかで、それに対応できる政治家が日本には何人いるか」

「南北会談をやって朝鮮戦争を終わらせるという方向が進められている。これは当たり前のことだ。同じ民族が戦後、これほど長い間戦争状態に置かれていたこと自体が異常だ。朝鮮半島だけでなく、世界から核をなくすべきだ。朝鮮半島の非核化が進めば、極東最大の基地を置いておく必要性はあるのか? アメリカからはTPPの次は2国間交渉を迫られ、国益は奪われるばかり。いつまでこんな関係を続けるのか」と論議になっている。
朝鮮半島で、同じ民族が、またアジア人同士が血を流しあう戦争の歴史に終止符を打ち、同じ民族としてみずからの力で平和な未来を切り開いていくという大きな動きが起こっている。そのなかで、米軍岩国基地はいったい誰を睨み、殴り込み部隊は何のために駐留しているのかが改めて問われている。新情勢を前にして、沖縄や岩国、日本国内に120カ所以上もある米軍関連施設の存在や日米安保を問題にしないわけにはいかない。アジアとの平和、友好、平等互恵の関係を発展させるものへ国の政治を抜本的に転換させることが求められている。

(3)今日の重要情報

①安倍首相が集中審議で前川前次官の発言を捏造!「前川も京産大は熟度が十分でない、加計しかないと認めた」と大嘘

2018.05.15 Litera

http://lite-ra.com/2018/05/post-4011.html

14日、衆参合同の予算委員会で答弁する安倍首相

「膿を出し切る」とは一体何だったのか。昨日、衆参予算委員会で集中審議がおこなわれたが、与党は愛媛県の中村時広知事の参考人招致を拒否。そして安倍首相は、柳瀬唯夫・元首相秘書官の答弁について「愛媛県や今治市との面会は『記憶にない』と言っていたが、加計学園関係者と会っていないとはいままでも証言したこともない」「嘘はついていない」とし、あの茶番答弁を「3年前の記憶をひもときながら正直に話していた」と評価したのだ。

いや、自分の不正をごまかすために、元秘書官の嘘を評価しただけではない。安倍首相は昨日の答弁で、唖然とするようなでっちあげまでおこなった。

それは、国家戦略特区に京都産業大学ではなく加計学園を選んだという選定が正当であった理由を強弁したときのことだ。

「前川前次官ですらですね、京産大はすでに出していたんですが、そのことはまだ準備がまだ十分じゃないという認識の上に、熟度は十分ではないという認識の上に、加計学園しかなかったとおっしゃっていたわけであります」

じつは安倍首相は、先週生出演した『プライムニュース
イブニング』(フジテレビ)でも、同じようにこう主張していた。

「そういうなかにおいて、前川前次官も認めていることなんですが、そういう意味における熟度の高かったところが加計学園であり、積極的なアプローチをしたということなんだろうと」

前川喜平・前文科事務次官が、京産大よりも加計学園のほうが熟度が上だったと認めている……? そんな話は聞いたことがない。むしろ、前川氏はこれまで“京産大は恣意的に排除された”と語っており、「サンデー毎日」(毎日新聞出版)2017年12月3日号に掲載されたインタビューでは、京産大の提案を「京大のiPS細胞研究所とタイアップする、というそれなりに立派な構想だった」と評価し、「国家戦略特区法が求める国際的な競争力はむしろ京産大の方があったかもしれない」と話していたのではなかったか。

前川氏は「京産大より加計が熟度が高かった」などと一切発言していない

実際、前川氏の過去の発言を総ざらいしてみたが、「熟度の高かったところが加計学園」という発言はまったく確認できなかった。

にもかかわらず、安倍首相がこんな妄言を語ったのは、どうやら、昨年7月の閉会中審査で、前川氏が口にした「京都産業大学が意向があるということは確かにございましたけれども、具体化したようなものではなかった。むしろ、その時点で具体的な計画として意識しておりましたのは、やはり今治市の加計学園しかなかったわけであります」という発言を指したものらしい。

しかし、そのときの質疑応答を見返せばすぐにわかるが、言葉がまったく違っているのはもちろん、趣旨もまったく違う。

前川氏の発言は、2016年9月9日、和泉洋人首相補佐官に呼び出され、「総理は自分の口からは言えないから、私が代わって言う」と言われ、獣医学部設置の特例について文科省の対応を早くしろと圧力をかけられたことについての説明のなかで出てきたものだ。自民党の小野寺五典衆院議員から「(和泉補佐官の発言を)なぜ加計学園と指したものだと確信したのか」という質問に対して、「その時点では」京産大の計画が具体化していると認識していなかったから、加計学園のことだと受け止めたと答えただけなのである。

じつは、前川氏はこのとき、さらに小野寺議員から「前川さんも実は、獣医学部をつくる、その成熟した計画があるのは加計学園の岡山理科大しかなくて、京産大もある面ではまだそこまでいっていない、そういう認識だったということか」と揚げ足を取るような質問をされていた(実際、小野寺議員は質問の前に「これはちょっと言葉をやったとったかもしれませんが」と、揚げ足取りを認めるような発言をしている)。

しかし、前川氏は「実際に京産大がどの程度の具体化した計画を持っていたかということは、その時点で私は承知しておりませんでした」と、これをきっぱり否定している。

つまり、前川氏の発言は、準備や計画の熟度が低いという意味ではまったくなく、前川氏自身が9月9日時点で具体的な計画を知らなかった。そう言っているにすぎない。

実際、京産大は2016年3月に国家戦略特区の申請をおこなったが、9月9日の時点ではまだ、国家戦略特区ワーキンググループからのヒアリングを受けていなかった。そういう意味では、前川氏が京産大の具体的な計画内容を知らなかったとしてもなんら不思議はなく、加計のヒアリングしかおこなっていない段階で「文科省の対応を早くしろ」と迫った和泉首相補佐官の指示を加計の認可を早くしろ、という働きかけと受け取ったのも当然だろう。

しかも、前川氏が京産大について「準備や計画の熟度が低い」などと考えていかなったことは、その後の前川氏の発言からもはっきりしている。約1カ月後の10月17日、京産大が正式に国家戦略特区ワーキンググループからヒアリングを受けて、21ページにも及ぶ資料を提出すると、その日、前川氏は再び和泉首相補佐官から呼び出され圧力を受けているが、そのときの自分の返答について「その時点では、強力なライバルである京都府、京都産業大学が具体的な構想を持っているということも承知していた」「10月17日の時点では、やはり引き続き検討中ですという以上の答えはできなかった」と語っているのだ。

一体これのどこをどう解釈すれば、「前川前次官も加計のほうが熟度が上だったと認めている」という話になるのか。前川氏は閉会中審査の時点で小野寺議員の「成熟した計画があったのは加計のほうという認識か」という質問を否定し、その後、「強力なライバルである京産大が具体的な構想を持っている」とまったく逆の発言をしているのに、安倍首相はあたかも前川氏が加計と京産大を比較した上で「加計のほうが熟度が上だった」と認めているかのようにテレビや国会で主張したのである。

山本前地方創生相が京産大の獣医学部新設を断念するよう圧力をかけていた

 よくもまあ、こんな捏造、でっちあげができたものだが、これ、どうも元ネタはネトウヨらしい。実際、この閉会中審査の後、ネトウヨが一斉に前川氏の発言を歪めて「前川が京産大は論外だったと証言した」などとわめきたてていた。おそらく最近になってそれを知って「これは使える」とそのまま口にしたのだろう。

まったく一国の首相とは思えないフェイク体質だが、しかし、不正をごまかすためにいくら必死で嘘を重ねても、そのあとから、次々に嘘がばれているのがいまの安倍政権の状況だ。

昨日の集中審議でも、安倍首相が「熟度が十分でなかったから」と説明した京産大に関して当時の山本幸三地方創生相が獣医学部新設を断念するよう圧力をかけていたという新事実が明らかになった。共産党の田村智子参院議員が独自入手した文書によると、獣医学部新設を1校に限るという方針が決まる2カ月も前の2016年10月に、山本地方創生相が京都府に対して、「経過もあり、1校しか認められない。難しい状況なので理解してほしい」と説得していたというのである。この面談内容について、梶山弘志地方創生相は「行政文書は残していない」などと逃げたが、自民党の西田昌司参院議員のブログには、京都府副知事とともに山本地方創生相のもとに陳情に訪れたことが写真とともにはっきりと書かれている。

安倍首相はこれまで「加計学園のために1校に絞るということにしたわけではなく、広域的に獣医師系養成大学等の存在しない地域に限る、1校に限るという要件は獣医師会等の慎重な意見に配慮したもの」などと答弁してきた。だが、これもやっぱり嘘で、実際は加計を通すために「京産大は断念しろ」と迫っていたのである。

JNNの世論調査では、参考人招致の際の柳瀬氏の説明について、「納得できない」と答える人は80%にものぼった。安倍首相の口にしていることが真っ赤な嘘であることは、いまや全国民周知の事実なのだ。にもかかわらず、安倍首相とその応援団たちの間でだけ、パラレルワールドのような嘘が堂々と流通している。

こんな“フェイク総理”をいつまでも放置していたら、それこそこの国の価値観や常識そのものがおかしくなってしまいかねない。

(編集部)

(4)今日の注目情報

①ナクバから70年目の5月に──パレスチナ難民の「帰還の権利」実現を 重信房子

2018年5月8日 人民新聞

https://goo.gl/VUxU1M

(以下略)

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【杉並からの情報発信です】【YYNews】【YYNewsLive】
情報発信者 山崎康彦
メール:yampr7@mx3.alpha-web.ne.jp
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