山野ゆきよしメルマガ

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「こどもの日」のご愛嬌

2010年05月05日 | Weblog
 こどもの日。

 これも、いい加減な祝日だ。

 言うまでもなく、5月5日は端午の節句、3月3日は桃の節句として、災厄を払う日として大陸から伝わってきた風習である。詳細は、それぞれWikipediaあたりで、調べてもらえればいい。

 私からは、いわゆる祝日法によって、この日が「こどもの日」として祝日に制定された経緯を簡単に。

 昭和23年、祝日法の施行によって、5月5日が「こどもの日」とされた。では、なぜ、男の子の日といわれている5月5日が「こどもの日」とされたのか。なぜ、「こどもの日」が5月5日と決められたのか。

 祝日法制定において、「こどもの日」という日を設けるという意見が、識者の中から強く出されたという。とりあえず、そのような祝日を設けると決まってからも、いつにするかの議論が百出。

 当然、3月3日の案、5月5日の案、七五三の日でもある11月15日の案、児童福祉法が施行された4月1日の案等々。

 結局、気候のよさ等でこの日にしたということだが、私は、そうは思わない。当然のことながら、この段階で、4月29日は天象誕生日、5月3日は憲法記念日と決まっていた。そこで、5月5日を祝日にすることによって、いわゆるゴールデンウィーク(その頃は、そんな呼び方もなかったろうが、そのようなイメージのもの)を作ろうとしたのではないか。

 まぁ、どうでもいいことだが。

 実は、この議論において、「母の日」なる祝日を設けるという意見もあったそうだ。さすがに、それは陽の目を見ることはなかったと思われているが、実は、そっとすべり込まされている。

 祝日法による、「こどもの日」の趣旨としてこう書かれている。

 「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」

 なんのことはない、5月5日は、「こどもの日」であると同時に「母の日」でもあった。

 ちなみにどうでもいいことだが、国連が「こどもの日」なる記念日を制定している、11月20日だそうだ。ネットで調べれば由来も分かるが、そんなことをしても時間の無駄でしかないかもしれない。

 もう一つ、余談。
 
 5月3日の「憲法記念日」については、メルマガとして多くの方にメールしたが、さすがに、これはできんわ。私の思想も歴史観もなんにも表れてないもんな・・・。でも、そっとメルマガのカテゴリーに入れておく。

「憲法記念日」は「国民の祝日」たる日となり得るか

2010年05月03日 | Weblog
 本日5月3日は憲法記念日、つまり、日本国憲法が施行された日である。それはそれでおめでたいことであろう。

 さて、先進国の中で、一番、休日も多く、仕事をしている時間が短いといわれているのは、なんといってもイタリアであろう。

 ところが、最近の日本の祝日の大安売り、さらには、振り替え休日、ハッピィマンディ等々によって、なんと、日本の休日の方が、イタリアよりも多くなっているという。カレンダー上では、日本は、世界でもっとも休んでいる国民になったといえるのかもしれない。

 これだけ祝日が多くなった現在、一体、祝日とは何ぞや、ということをもう一度真剣に考えてもいい時期ではないだろうか。

 具体的には、本当に、この日は日本国及び日本国民にとって、国民の祝日として、お祝いをするに値する日なのかどうか。逆に、本当なら、他に祝日にすべきであろう日というものはないのかどうか。祝日の意義を再確認するためにも、大切なことではないだろうか。

 前者においては、私は、真っ先に、この「憲法記念日」をあげたい。この日が、憲法記念日なる国民の祝日として本当に相応しいかどうか、今一度、じっくりと考えてみてはいかがだろうか。

 そもそも、憲法とは、その国にとっての背骨となるものである。

 ご存知の通り、この日本国憲法は、日本がGHQに占領されていた時代に制定されたものである。ただ、「押し付け憲法」云々の議論はここではしない。たとえ、「押し付け」であろうとも、少なくとも、昭和21年11月3日に公布され、翌22年5月3日に施行されてからの60数年間、この憲法の下で、私たちの生活は営まれてきている。

 この事実は、「押し付け憲法」であるということをもってして、改憲を唱える方たちにとっても、真摯に受け止めなければならないことである。

 私が、この憲法が施行された日をもって「憲法記念日」なる祝日と崇(あが)めることに、今一度、慎重になったほうがいいと考えるのは、そういう理由からではない。

 憲法の基本的な枠組みを作成したGHQが、なぜ、この5月3日という日を、その憲法の施行日としたのか。そのことに思いを馳せてみたい。

 以下、心にもなく、「偶然かもしれないが」、という表現を何回か使う。

 偶然かもしれないが、この5月3日は極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判の開廷日なのである。果たして、偶然同じ日になっただけであろうか。

 では、もう二つ述べる。

 偶然かもしれないが、その東京裁判において、いわゆる「A級戦犯」とされた当時の指導者達28名が、東京裁判にかけられるべく起訴されたのは、昭和天皇誕生日である4月29日である。果たして、偶然同じ日になっただけであろうか。

 偶然かもしれないが、その裁判で絞首刑を言い渡された7名は、当時の皇太子である明仁親王、つまり現天皇陛下の誕生である12月23日に刑が執行された。果たして、偶然同じ日になっただけであろうか。年も迫ったこの時期に・・・。

 これだけ、「偶然かもしれないが」が続くのは、数学的ににいえばどうなるのか。365の3乗分の1か・・・(365の3倍分の1、じゃないよな?「確率」は苦手だったんで・・)。 

 偶然のはずがない。
 明らかに、これからの日本という国の背骨になる憲法の施行日を、東京裁判の開廷日にすることによって、東京裁判を正当化したいという意図の表れと考えるのが自然であろう。

 東京裁判が実質的に始まったともいえる起訴がなされた日が、天皇誕生日であるということも、GHQ側の期待した東京裁判の役割の大きな象徴ともいえる絞首刑が執行された日が、明仁親王(皇太子)の誕生日であったということも、間違いなく、GHQの明確な意図といえる。

 その東京裁判の開廷日に、これからの日本の背骨たる新憲法を施行させる。間違いなく、明確な意図がある。

 否、もしかしたら、もっと安直な理由かもしれない。GHQの日本に対する「嫌がらせ」、「あてつけ」といったら、やや、斜に構えすぎになろうか。

 少なくとも、5月3日の「憲法記念日」とはそういう性格を帯びた日であるということ自体は、覚えておいたほうがいい。

 日本国憲法の内容についての様々な議論は、これまでも、かまびすしくされているし、これからも、色々場面でされていくであろう。しかしながら、私が今回提案したような議論がなされてきたということは、私自身は寡聞にしてほとんど知らない。

 この議論も覚えておいてもいいかもしれない。

 忘れていた。もう一つ、「偶然かもしれないが」があった。

 偶然かもしれないが、日本国憲法が公布された11月3日は、昭和天皇が立太子された日、つまり、皇太子となり正式に次の天皇として名実共に立った日である。さらにいえば、明治天皇の誕生日でもある。果たして、偶然同じ日になっただけであろうか。

 365の4乗分の1か・・・(365の4倍分の1、じゃないよな?) 。

「再び 八田與一の旅~「奥の細道」の旅~」

2009年05月16日 | Weblog
 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」

 上記有名な序文から始まる松尾芭蕉の「奥の細道」。320年前の今日5月16日は、芭蕉が、この「奥の細道」の第一歩を踏み出した、まさにその日である。

 その「奥の細道」で芭蕉が歩いた道をたどることを長年の夢としてきた一人が、台湾元総統の李登輝氏である。李登輝氏は2007年5月に日本を訪問し、その際、深川から千住、日光、松島、平泉、山寺、象潟へと、芭蕉の足跡をたどった。そして、芭蕉がその旅をスタートさせてから320年後の同じこの5月に、再び李登輝氏は、前回歩むことができなかった「奥の細道」の後半部分を訪れる予定であった。

          ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 さて、私も世話人の一人に名を連ねている「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」では、毎年5月8日、台湾の烏山頭ダムのほとりに眠る八田與一技師の墓前において行われている、墓前祭に参列している。

 その際、八田技師を心より尊敬されている李登輝氏にも、毎年、表敬訪問をさせていただいている

 特に昨年は、私たちからは、当初、昨年秋にも予定されていた「奥の細道」後半部の旅の際立ち寄られる金沢において、若い学生さんを対象にした講演を依頼させていただいた。
 これは、従前より、李登輝氏は日本の若い人たちに、日本人の誇りについて話しをしたいと述べられていたことを忖度した上でのことであることは言うまでもない。その場で、発言の機会を与えていただいた私は、講演をお願いした上にさらに僭越ですが、その内容は、金沢の偉人八田與一技師を引き合いに出していただいていた、あの、慶応大学での幻の講演「日本人の精神」でお願いできないかと述べさせていただいた。

 李登輝氏は、その場で、快く引き受けていただき、「友好の会」一同、快哉を叫びながら金沢への帰路についたものである。

 ところが、残念ながら、その後、李登輝氏は体調がすぐれず、その年の秋の来日は延期となり、この5月に日程が改められた。

 年も改まった2009年。
 つい先般行われた、今年5月8日八田技師の墓前祭。私たち「友好の会」の台湾訪問日程には、当然のごとく李登輝氏への表敬訪問も予定に組み込まれていた。
 尚、今年の金沢からの墓前祭参列の一行は格別なものであった。八田技師の母校金沢市立花園小学校6年生の児童18名も含まれていたからだ。

 花園小学校では、数年前に、母校の先輩偉人八田技師を顕彰する歌「あぁ フォルモサ  ダムの父」が作られた。昨年は、八田技師をモデルにした映画「パッテンライ!!」が製作上映され、そのテーマソングとしてこの歌が選ばれた。その勢いのまま、今年の墓前祭では、八田技師の墓前にて、子供たちがこの歌を披露することにまでなった。なんとも、光栄なことだ!さらに嬉しいことに、子供たちは、八田技師を尊敬してやまないという李登輝氏の前でも歌うという、私たちの手がすっかり届かない程大きな話にまでなってしまった。

 勇躍台湾に乗り込んでいくことになる子供たちも、さすがに、李登輝氏の前で歌うことには、相当な緊張を強いられたことであろう。

 ところが、残念なことに、本当に残念なことに、李登輝氏はその数日前から軽い肺炎をこじらせてしまう。結果、私たち「友好の会」も花園小の子供たちも、李登輝氏との面談はかなわなかった。子供たちも残念であったろうが、李登輝氏も、本当にこの機会を惜しんでおられたことと思われる。

090507李登輝秘書小栗山氏 李登輝氏秘書小栗山雪枝さんに、李登輝氏の回復を祈り、子供たちが作った千羽鶴を手渡した。


 さらに、李登輝氏にとっても私たちにとっても、大変残念なことに、体調回復が思わしくなく5月下旬に予定されていた、来日及び「奥の細道」踏破を、再び延期せざるを得ない旨の連絡が、つい先般寄せられた。

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 『私は、「奥の細道」を歩いた後、俳句のわび、さびについての研究をし、「さびの構造」についての著作をまとめたい』

 5年前李登輝氏から直接お聞きした言葉である。一日も早く、その日が来ることを心待ちにしたい。

 実は、私たちは墓前祭のたびに、毎回、李登輝氏と許文龍氏という、台湾の日本語世代を代表する偉人お二人とお会いさせていただいている。お二人とも、心から八田技師を尊敬されている、台湾を代表する知識人でもある。

 今回の墓前祭参列の旅においても、当然、お二人ともにお会いさせていただく予定であったが、お二人とも体調をくずされてお会いできなかった。そんなことは、初めてのことであった。

 さすがに考えさせられた。時代の流れ、時代の節目といえようか。八田技師を顕彰する活動は、いつまでも、大先輩たちにばかり頼っていてはいけないのではないか。まさに、私のような年代の者が、これまで以上にしっかりしなければいけない、ということを静かに教えていただいたような気がした。

 ということも踏まえ、今回の八田技師墓前祭参列の報告文を、次回、少しまとめてみたい。題して、「再び 八田與一の旅」。・・・・でも一ヶ月くらいかかるかな?

なぜ、10月10日が東京オリンピック開会日とされたか

2008年10月10日 | Weblog
 10月10日、数年前までは体育の日。なぜ、この日が体育の日とされたのか。それは、昭和39(1964)年10月10日に東京オリンピックが開会したから、というのはあまりにも有名な話しだ。このことをもって、10月10日が体育の日とされることになった。

 では、なぜ、東京オリンピックの開会日を10月10日とするに至ったのか。

 今日も、いくつかの会に出席した際、そのご挨拶の中で、10月10日は「晴れの特異日」なので東京オリンピックの開会日とされました、という話しをされる方が何人かおられた。

 なるほど、という表情でお聞きする方も多かったのだが、実は、それは間違いである。正しくない。

 さて、そもそも、「特異日」の定義とは「暦の上の特定の日に、ある特定の気象状態が現れる割合が前後の日に比べて高い日」とされ、単に晴れの日が多ければ特異日とされるわけではない。気象庁によると、秋の晴れの特異日とは「10月14日と11月3日」だそうだ。10月10日は、統計からいっても、確かに晴れの日が多いことは多いが、気象庁の定義でいうところの「晴れの特異日」でもなんでもない。

 身も蓋もないことを言う。この10月10日が東京オリンピック開会日とされたのは、ぞろ目で語呂が良い、憶えやすいということや、どなたか関係者の偉い人の日程に合わせたものに過ぎないのであろう。

 ちなみに、この東京オリンピック開会日の前日である、10月9日は台風が接近し、大雨であったという。関係者の皆さんは、さぞかし、肝を冷やしながら、翌日を迎えられたことであろう。

 開会式当日、テレビの中継を担当したNHKアナウンサーの言葉、「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和でございます」は、あまりにも有名な名言である。

『8月15日、「終戦の日」の不思議』

2008年08月16日 | Weblog
 8月15日は、いわゆる「終戦の日」として、日本全国、様々な行事が行われている。

 私自身も、例年のごとく、石川護国神社にて県戦没者追悼平和祈願祭に参列してきた。正午からの、時報にあわせての黙祷では、いつもながら、まさに時間が止まっているかのような厳粛な気分にさせられる。

 ただ、私はこれまでも何度か指摘しているが、この8月15日をもって「終戦」とされるのは、いささかの抵抗を感じてもいる。

 簡単に述べる。

 先の大戦をまさに終結させることになったポツダム宣言。それを日本国政府として正式に受諾を決定し、そのことを連合国側に伝えられたのは、その前日の8月14日である。

 翌8月15日の玉音放送により、そのことが国民に知らしめられた。おそらく、このことをもって、この日を「終戦の日」としているのであろう。

 9月2日、ミズーリー号上で降伏文書調印。日本の軍隊が交戦国軍隊全体に関する全面的休戦を意味する調印である。

 ミズーリー号での降伏文書調印の後、GHQによる日本への占領が行われ、昭和27(1952)年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により、正式に、戦争状態の終結を迎えることになった。国際法的に言っても、日本国の実態から言っても、この日が、本当の終戦の日。

 一方、ソ連軍は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本へ攻め入ってきたのは8月9日。それにあわせて、ソ連もポツダム宣言の共同声明に加わる(なんのこっちゃ)。ソ連は、日本がポツダム宣言を受諾後も侵攻を進め、9月5日に北方四島を支配するに至った。この日まで、日本国民はソ連の軍事力に弾圧・抑圧されていた。その後の、ソ連による旧日本兵のシベリア抑留、さらには、現在にまで至る北方四島不法占拠・・・。

 以上、簡単に歴史的事実を列挙したが、これらから明らかなように、8月15日を「終戦の日」とするには、相当に無理がある。この日は、単に玉音放送の放送日にしかすぎない。

 では、なぜ、この8月15日という日が、今日のように「終戦の日」とされるようになったのか。

 事務的には、昭和32(1957)年に制定された「引揚者給付金等支給法」において、8月15日を終戦の基準としていること、また、昭和42(1967)年に制定された「引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律」、その第二条に『昭和二十年八月十五日(以下「終戦日」という。)』と明記されていることがあげられよう。

 式典としては、昭和38(1963)年の閣議決定により同年から8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われるようになり、さらには、昭和57(1982)年、8月15日を「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定され、現在に至っている。

 さて、問題は、法的なものはともかく、なぜこの8月15日という日が、閣議決定という形で、戦没者追悼式が行われる日として選ばれるようになったのかということである。そもそも、その全国で行われる追悼式が8月15日とされるようになったがために、この日が、「終戦の日」と一般に認識されるようになったといえるからだ。

 日本国憲法が制定されて、国民主権が明確になり、国民にポツダム宣言受諾が告知された日が8月15日だから、という考えはあまりに迎合的に過ぎるし、そんな軽いものでもあるまい。

 それでは、なぜなのか。

 私は、8月15日という日は、いわゆるお盆の日にあたるからだと思っている。民族的文化と密接に結びついている。

 戦後すぐから、このお盆という死者の魂を追憶し供養すべき日と、悲惨な戦争で亡くなった方たちを供養する日として、戦争が終わったことを知った日であるこの日とをもってして、多くの日本人の意識のなかに根づいていった。そして、その後、閣議決定という形で政府がそれを追認したという方が、自然な流れではないだろうか。

 あのジリジリする暑さとあいまって、戦争で多くの方が亡くなったという悲惨さとその方たちを供養する日として、8月15日という日が「終戦の日」として定着していった。

 そんなことに想いを馳せる日であってほしい。

 余談。
 そう考えれば、8月15日というお盆の日に、靖国神社であろうが、護国神社であろうが、全国慰霊祭が行われる武道館であろうが、厳粛な気持ちでお参りするのは、日本人の文化として、ごく自然なことではないだろうか。

 どうしても、政治的な思いをもって、靖国神社参拝を批判したいとするならば、8月14日、もしくは9月2日に参拝した場合であるべきだろう。

金沢市内朝鮮総連施設における課税措置について

2008年07月25日 | Weblog
 現在、金沢市内には、朝鮮総連県本部が入る「高麗文化会館」がある。この施設は、民間会社が入っている一室を除き、固定資産税と都市計画税の97%が減免されている。いわゆる外国施設の治外法権というやつだ。

 ところが、昨年11月、熊本市が市内の総連施設に対して行っている減免措置を違法とする判決が最高裁で確定。全国でもその見直しの動きが出てきているという。

 実は、それに先立つ、2006年2月、福岡高裁において、熊本市の減免措置が違法とされた判決がなされた。

 福岡高裁の判断。「朝鮮総連が北朝鮮の指導のもと、北朝鮮と一体の関係にあり、北朝鮮の国益や在日朝鮮人の私的利益を擁護するため、活動を行っていることは明らか。朝鮮総連 による会館の使用は公益性がなく、減免措置は違法」

 さらに、「朝鮮総連の活動が、日本社会一般の利益のために行われているものではないことは言うまでもない」とも裁判所から指摘もされている。

 今回、最高裁が熊本市の上告を棄却した事により、この判決も確定した事になる。

 私は、その2006年2月の福岡高裁の判決を受けて、直後の総務常任委員会において、本市の対応を質した。市執行部の答弁は、裁判所の判断そのものに付いては、まだ判決が確定したわけではないので、もう少し見守りたいという趣旨であったが、本市の減免措置についてはその妥当性を強調したものであった。

 その後、同じ会派の黒沢議員もそのことを委員会で取り上げ、自民党石川県連も市に対して、厳正な対応を求める要望も行った。さらに、議会においても、総連施設の減免措置見直しの陳情が出されたところではあるが、残念ながら他会派の賛同が得られず、自民党のみ賛成の少数否決となった。

 それら一連の流れをうけて、このたび、本市の総連施設における減免措置見直しが決定されたようだ。

 報道(読売新聞7月24日朝刊)によると、市資産税課は「使用実態を調べた結果、朝鮮総連の業務に使われている部屋で、公益性は高くないと判断した」としているという。

 結論として、それはそれで了解するものではあるが、私は常任委員会でこの課題を取り上げた者として、いまひとつ釈然としないものがある。

 2006年2月、総務常任委員会における私の質問に対するの答弁で、市執行部からは次のような答弁がなされた。

 「この会館の利用形態について把握をしているが、文化・教養の教室、あるいは講演会、新年会、成人式、住民交流の場として利用されている。町内会の集会所及び公民館に準ずる施設として認定をしており、条例に基づいて減免をしている」

 さらに、2006年6月、同僚の黒沢和規議員の質問に対しては、少々時間が経っているという事もあってか、さらに踏み込んだ答弁がなされている。

 「本市の職員が6月に実地調査を行った。現地調査では施設の使用状況と一般住民の使用状況を確認した。その結果、本部については文化講演会あるいは映画上映会、それから住民交流会等に使用されていることを確認した。いわゆる公民館に準じた施設である。また、あとの2つの、いわゆる分会と言うが、それらについては地元町会の集会所として使用されていた。それを受けて、地方税法あるいは条例等に照らし合わせて減免の基準に合致していた」

 今回の市側の回答「使用実態を調べた結果、朝鮮総連の業務に使われている部屋で、公益性は高くないと判断した」と大層な違いである。

 この2年間で総連施設の使用実態が劇的に変わったということだろうか。もしそうだとするならば、これだけ北朝鮮に対する目が厳しくなってきている時に、総連側がわざわざ、行政からの指導が厳しくなるような使用実態に変更するであろうか。

 常識的に考えて、2006年の段階では、市はなんら実態調査をしていなかった、もしくは、総連側の言い分だけを聞いたおざなりの調査しかしていなかったと言われても仕方がないのではないだろうか。

 そして、今回の最高裁の判決を受けて、あわてて、本格的な調査をしたのではないだろうか。いや、もしかしたら、今でも本当のところはきちんとした調査していないのかもしれない。最高裁判決に準じただけで、おそらくはこうであろうとしただけなのかもしれない。

 私のブログは何人もの市執行部の方もご覧になっているようだ。次期、議会もしくは常任委員会ではこのことを確認していきたい。

ハニカミ王子「小学校六年生の作文」

2008年04月15日 | Weblog
 私は、三年前のこの時期、「小学校六年生の作文」と題して、今をときめくイチローが小学校六年生の時に書いた作文を取り上げた。

 昨年5月、現在、日本で最も有名なプロゴルファーが、やはり小学校六年生の時に書いた全く同じような作文を知って、私は心底驚いた。ゴルフの世界を通り越して社会現象にまでなった「ハニカミ王子」石川遼の作文である。

 以下、その作文を引用する。

    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

                 『将来の自分』

 二年後…中学二年生、日本アマチュア選手権出場。

 三年後…中学三年生、日本アマチュア選手権(日本アマ)ベスト8。

 四年後…高校一年生、日本アマ優勝、プロのトーナメントでも勝つ。

 六年後…高校三年生、日本で一番大きなトーナメント、日本オープン優勝。

 八年後…二十歳、アメリカに行って世界一大きいトーナメント、マスターズ優勝。

 これを目標にしてがんばります。マスターズ優勝はぼくの夢です。それも二回勝ちたいです。みんな(ライバル)の夢もぼくと同じだと思います。でも、ぼくは二回勝ちたいので、みんなの倍の練習が必要です。

 みんなが一生懸命練習をしているなら、ぼくはその二倍、一生懸命練習をやらないとだめです。ぼくはプロゴルファーになって全くの無名だったら、「もっとあのときにこうしていれば…」とか後悔しないようにゴルフをやっていこうと思います。

 来年には埼玉の東京GCで行なわれる「埼玉県ジュニア(中学の部)」で優勝したいです。今は優勝とか関係ありません。中学生になってからそういうことにこだわろうと思います。高校生で試合に優勝すると、外国に招待してくれます。その試合で世界から注目される選手になりたいです。

 ぼくは勝てない試合には今は出ません。ぼくの将来の夢はプロゴルファーの世界一だけど、世界一強くて、世界一好かれる選手になりたいです。

    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 私の能書きは、イチローの作文の分析で書いた拙文「小学校六年生の作文」をご覧いただければと思う。イチローも石川遼も全く同じ目線である。

 「一流のプロ野球選手」と「プロゴルファーの世界一」、「中学、高校と全国大会に出て活躍しなければなりません」と年次ごとに具体的な大会での目標成績、そして、その担保のためにイチローは「練習が必要です」と言い切り、石川遼は「みんなの倍の練習が必要です」と宣言している。

 さらに、私にとって、深く感銘を覚えるのは、イチローの「お世話になった人に招待券を配って応援してもらうのも夢の一つです」、石川遼の「世界一好かれる選手になりたいです」という、高度に社会的な知性を感じさせる言葉である。果たして、小学校六年生でこんなことまでを考えるのかと舌を巻くばかりである。この言葉は、間違いなくご両親をはじめとした周りの大人の教育の影響であろう。「栴檀は双葉より芳し」ばかりでもあるまい。

 石川遼は、あの昨年5月の優勝スピーチにおいて、「世界中の人に心から愛されるプロゴルファーになるのが夢」と言い切っている。ハニカミ王子の意識には、六年生の作文を締めくくっている通り「世界一強くて、世界一好かれる選手」になること、それしかないのであろう。

 さて、ここまでは、先に書いたように、三年前の拙文の焼き直しである。これだけだったら、私は新しい文章を書き起こすことはしなかった。気が変わったのは、石川遼のお父さん石川勝美氏の著作「バーディは気持ち」を読んでからである。

 その著作の中で「師に恵まれて」という項がある。その中に、まさに小学校六年生の石川遼くんがこの作文を書いた、いや、書けるに至った経緯が詳細に述べられている。

 少々長いが引用する。

    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 ゴルフの試合で学校を休むことが多くなった小学校6年生の担任の先生は、休むことに対して、決して否定的ではなく、逆に試合の成績を学級新聞に掲載して応援してくれた。

 ゴルフというスポーツは、子供たちにはなかなか理解されず、校内でもゴルフをやる子は遼ひとりだったにも関わらずだ。そして担任の先生もゴルフをやらない。しかし、「ひとつの物事に打ち込む姿」を評価し、応援してくれたのだ。それ以前の遼は、ゴルフをやる子がいないということもあって、学校で試合やゴルフの話題を出さなかったという。

『試合があったら、また、報告してね。クラス皆で応援するよ』

という先生に、遼は、『うん!』と明るく答えた。こうして、クラス内に自分の理解者を増やし、そして、小学校の卒業文集に、堂々と『マスターズ優勝』の誓いを書くことができたのだ。

    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 文字通り、「師に恵まれて」である。この先生がいなければ、あの作文はなかった。私たち凡夫は感動を一つ損するところであった。

 さて、ハニカミ王子は私のようなゴルフに縁のない人間をひきつけただけではなく、ゴルフ取材においては百戦錬磨の報道陣までをも味方にしてしまった。

 昨年7月、先の作文によるところの、この年に優勝すると宣言した日本アマ選手権が行なわれた。ほぼ全てのマスコミからの注目を一身に浴びる中、ハニカミ王子は、残念ながら予選落ちをしてしまった。涙をこらえながらもしっかりとした受け答えで取材を受け、会見が終了。席を立つ記者たちを前に、置きかけたマイクを自ら握り直した。
 「これからも見守っていてください。頑張ります」

 思わず、会場から一斉に拍手が沸き起こった。勝利者の会見でもない、ギャラリーやファンからでもない、報道陣から自然に拍手が沸きあがったのである。

任天堂宮本茂氏講演会のご案内

2007年10月31日 | Weblog
 金沢美術工芸大学の平野拓夫前学長は、現在の工業デザインの世界において、金沢美大の卒業生たちは大変大きな仕事をいくつもしているとおっしゃったことがある。

 確かに、独立してデザイナーとして活躍されておられる方だけでなく、ほとんど名前が出ることはないが、著名な会社のデザイン部門等々で活躍する金沢美大卒業生は決して少なくはないという。

 そして、その代表的な方が、任天堂の代表取締役専務兼情報開発本部長であり、同社のソフト開発の中心的存在でもある宮本茂氏であることは言を待たない。

 宮本氏に関しては、私の拙い紹介よりも、ネットで氏の名前で検索していただければ、膨大な情報が出てくるであろうのでここでは簡単に触れるにとどめておく。

 宮本氏は金沢美大卒業後、任天堂に入社し、『スーパーマリオブラザーズ』、『ドンキーコング』、『ゼルダの伝説』、『ピクミン』、『nintendogs』などの作品を制作。あの『Wii』、『ニンテンドーDS』の開発責任者でもある。「超天才スーパースター」なのである。

 私は、宮本氏に限らず、金沢美大のその財産(金沢市の財産という言葉を使っても言い過ぎではあるまい)をもっと、金沢市民に知らしめる取り組みを、大学設置者である金沢市が、積極的にすべきであると、これまでも再三に渡って提言してきた。実際、私でさえ、宮本氏のことを知ったのは、ここ数年であり、他の実績を残されているとされる卒業生の方々のことは、ほとんど全く知らない。

 今回、宮本氏は金沢美大において創設された栄誉賞を受賞されることになったのも、金沢市がようやくその重い腰をあげることにしたというその一環であろう。

 もちろん伏線はあった。2006年に、フランス政府・文化通信省 レジオン・ドヌール勲章(芸術文芸勲章)「シュバリエ章」受賞。2006年11月「TIME」紙アジア版にて、黒澤明、宮崎駿、小澤征爾、盛田昭夫、井深大 、安藤百福、森英恵、三宅一生、 川久保玲、王貞治と共に「60年以内のアジアの英雄」に選ばれる。極めつけは、今年2007年5月、米「TIME」誌において、「世界で最も影響力のある100人」の第9位に選ばれたということであろう。ちなみに、この100人の中で他に選ばれた日本人は、第66位のトヨタ自動車の渡辺捷昭社長だけである。まさに、「世界の宮本茂」なのである。

 さて、この度、金沢美大においてその栄誉賞贈呈式並びに記念講演会が行われる。私は、初めて知ったのだが、任天堂という会社は、基本的に社員が社外に出ての講演は認めていないという。理由は知らない。ということもあり、世界的なクリエイターである宮本氏の講演を聴ける機会はそうはない。ぜひ、ご都合をつけてお出かけいただきたい。

 余談。現在、金沢美大は、独立行政法人化について様々な議論がなされているという。正直、市民にとってはピンとこないテーマである。まずは、こうやって、金沢美大に関係する人たちのことを知ってもらって、市民に「わが町の学校」という意識を持ってもらうような努力が必要である。独立行政法人化なんて、はるかその先の議論である。

●トークセッション
平成19年11月3日(土) 16:30~18:00
金沢21世紀美術館 レクチャーホール
聞き手 秋元雄史 金沢21世紀美術館 館長
入場無料(当日15:30から会場で整理券を配布)

●金沢美術工芸大学栄誉賞贈呈式と記念講演
平成19年11月4日(日) 14:00~15:30
金沢美術工芸大学 美大ホール
入場無料(先着順)
(注)駐車場はありません

 詳細はこちらからどうぞ。金沢美大のHPです。 

 ついでに私のメルマガ「金沢美大と米百俵」もご覧ください。
 

文化としての日本語―慙愧に堪えない―

2007年09月23日 | Weblog
 安倍総理が辞任を表明された。閣僚の不祥事や失言が、その大きな原因の一つともされる参議院選挙惨敗の責めを負わされたとも言われている。ここは、それ以上その議論をするつもりはない。
 ただ、松岡農相(当時)自殺は、その原因が何であれ、安倍総理は、自分自身の任命した閣僚が縊死するという、政治と行政の長として、また、一人の友人として、大変つらい思いをされたことであろうことは間違いない。だからこそ、報道陣に囲まれた際に、思わず、「慙愧に堪えない」という言葉がでたのであろう。

 「慙愧に堪えない」。その安倍総理の言葉を、私は新聞で知って、心情的なものは理解できるとしても、やはり、強い違和感を覚えざるを得なかった。

 白川静の著書「字統」(平凡社)によると、「慙愧」とは大要、以下のような語源となる。

 最古の部首別漢字字典「説文解字」(紀元100年頃成立)の中に、「慙(ざん)」は「媿(は)づるなり」とあり、「媿(き)」は同じく「慙(は)づるなり」とある。つまり、「慙愧(媿の略字)」は、お互いに意味を注釈しあう文字同士である「互訓」である。

 つまり、「慙愧」とは、自らを省みて恥じる、正しくないことを自責するという意味なのである。
 私の漠然とした違和感を説明してくれている。

 安倍総理は、その発言の前段において、「任命権者としての責任を感じている」という趣旨のことを述べられている。しかし、ここで続けて、「慙愧に堪えない」という言葉を使ってしまうと、松岡氏を農相に任命した自分自身を恥ずかしく思う。つまり、もともと農相の任にふさわしくなかった松岡氏を農相に任命した自分自身の不明を恥じる、という意味になってしまう。そのことがあたっているかどうかはともかくとして、これでは、松岡氏はあまりにも浮かばれない。切ない。

 もちろん、安倍総理がそんな意図でこの言葉を使ったわけではなく、同じ内閣の松岡氏の突然の逝去を悼み、また、日本の農政に真摯な想いを抱いていたであろう松岡氏の無念の気持ちを代弁した言葉であろうことは疑いようもない。いくつもの新聞紙上においても、安倍総理のその言葉をそれなりの見出しにもってきていたのは、総理のその思いを忖度した上でのことであったろう。少なくとも、事件直後の新聞紙上では、その言葉の意味合いを詮索する議論は見かけなかった。死者に鞭打つことになりかねないことはしない日本人の美意識なのであろうか。

 しかし、この時代、ネットというものがある。やはり、総理のその言葉に対する誤用を指摘する記述がそこここで見られた。強烈な記述もあった。私自身も安倍総理が在任中はこの文を書くつもりもなかったが、今となってはすんだことだ。総理の真意さえ理解していれば、どうでもよいことだ。(実は気になっているけど・・)

 さて、安倍総理には、自らが、再チャレンジの範となって必ずや復活して欲しいし、その責任もあるということを自覚して欲しい。

 私のメルマガ「強制換羽」でも読んでもらおうか。

体育の日と特異日

2006年10月09日 | Weblog
 今日は体育の日。
 敬老の日と同じ書き出しになるが、やはり、いくらかの逡巡を感じながらも、国旗を掲揚する。曲がりなりにも、公の立場、しかも選挙でその立場を与えていただいている者として、そのことは義務だと思っている。

 翌10日は、ハッピィマンデイ法ができるまでの体育の日。言わずとしれた、東京オリンピックの開会日。そのことを記念し、この日が体育の日と決められた。
 しかし、10月の第二月曜日を体育の日にするなんて一方的に決め付けられると、なぜ、この体育の日なるものが制定されたのか、その由来が分からなくなる。

 ところで、この10月10日が東京オリンピックの開会日と決められたのは、どういう理由からであろうか。

 以下、追っかけていく。
 
 気象学上の言葉で、「特異日」というものがあるという。その気象学的な理由は不明とされているが、統計的に毎年その日には特定の天気が現われる傾向が強いことをいうそうだ。
 典型的なものは、台風の特異日とされる、9月26日。有名な洞爺丸台風(1954年、死者・行方不明1,761名)、狩野川台風(1958年、死者・行方不明1,269名)、極めつけは、最も強烈に歴史上記録されている伊勢湾台風(1959年、死者4,697名、行方不明者401名)。もちろん、全てが9月26日だけで起きた被害ではないが、この日が大きなポイントになっていることは間違いない。

 さて、この10月10日は、晴れの特異日とされていて、そのことをもってオリンピックの開会日とされたという意見が散見される。確かに、この日は天候の良い日が多いということは事実のようである。もっとも、やはり、この日だけがそうというわけでもなさそうで、別に9日でも11日でも大勢に影響はなかったらしい。つまり、本当のところは、語呂がよかっただけなのか、偉い人のスケジュールに合わせただけなのではないだろうか。
 ちなみに、気象庁によると、秋の晴れの特異日とは「10月14日と11月3日」だそうだ。しかし、敬老の日ほどではないが、体育の日の制定も好い加減なものである。否、話しがあまり膨らまない分、こちらの方が、魅力は乏しいかもしれない。

 余談だが、この「特異日」なるものも最近の恒常的な天候不順で、曖昧になりつつあるようだ。現に、私が先にあげた台風の特異日の実例は、既に40年以上前のものばかりである。こちらの方がよっぽど深刻に考えなくてはならない。

「敬老の日」と「老人の日」

2006年09月18日 | Weblog
 本日9月18日は9月の第三月曜日につき祝日。いささかの抵抗感を覚えながらも、早朝、自宅前に日の丸を掲げる。

 私自身、数ある祝日のうち、もっとも根拠が脆弱と思っていたのが、正直、この「敬老の日」である。その祝日の由来はあまり知られてはいないが、極めて単純なものである。

 昭和22年9月15日、兵庫県の旧野間谷村(現多可郡多可町)において、当時の村長の発案で、村内のお年寄りを集めて敬老会を行った。それまで、特定の日を選んでお年寄りをお祝いする習慣のなかった日本では、極めて珍しいことであったようだ。
 3年後の昭和25年には、兵庫県が9月15日を「としよりの日」として、野間谷村の運動を県単位のものにした。その活動を受けて、今度は、昭和26年に、中央社会事業協議会なる組織が9月15日から一週間を老人福祉週間とし、その初日の15日を「としよりの日」と定めたという。
 しかし、中央社会事業協議会という、ありがちな団体名にせよ、「としよりの日」という捨て鉢な名称にせよ、いかにもいいかげんな感が否めない。戦後間もなくなので仕方がないか、という感じだ。
 ところが、昭和38年に、老人福祉法が改正されて、9月15日を法的に認められた「老人の日」となったのである。何があったのだろうか。さらに昭和41年6月、祝日法改正で、「敬老の日」として正式に国民の祝日になってしまったのである。その経緯は、いくら調べても(と言っても、さして真面目には調べていない)、分からなかったが、思い当たるふしにぶつかりはした。

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 平成13(2001)年、祝日法改正。祝日を近くの月曜日に移動して、三連休にするというハッピィマンディ法。当初案では、「成人の日」、「体育の日」などとともに、「敬老の日」もその中に含まれていた。しかし、財団法人全国老人クラブ連合会(以下、全老連と略する)なる組織が猛反対を唱えた。

 「祝日はそれぞれの歴史・経緯を考慮して制定されたもので、休日を目的に制定されたものでない」

 全くもって正論である。しかし、敬老の日制定の「歴史・経緯」とはなんぞや。
 なんと、全老連は「続日本紀」を持ち出してきた。

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 霊亀3(717)年9月、美人(しかも独身)で有名な元正天皇は「万病を癒す薬の水」との報告を受けられ、美濃の国多度山の美泉に行幸。温泉につかり、その効能に驚き、この年11月、元号を霊亀から養老に改められた。

 「自分で手や顔を洗ったら、皮膚はつるつるときれいになり痛むところも治った。また、白髪も黒くなり、見えにくくなった目も明るくなった人もいるという。この水は真に老を養う若返りの水だ。これは瑞兆である。よって改元して養老とする」

 元正天皇はよほど嬉しかったのだろう、行幸に協力した地元の人の税金を免除し、下級役人を1階級昇進させたという。
 言うまでもなく、この説話は、岐阜県の養老の滝や養老山地の語源ともなっている。

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 全老連は、元正天皇がこの養老の滝に行幸されたのが、現在の暦に直すと9月15日なのだという。だから、9月15日の敬老の日を、他日に移すのは反対だ、とおっしゃったそうな。

 しかし、それから約900年下った、前田利家公入城の日でさえ6月14日が怪しいとか何とかいっている時に、その信憑性はいかがなものだろうか。しかも、冒頭で、歴史年表のように書き連ねた「敬老の日」制定の経緯を見ていただいても明らかなように、この元正天皇行幸をして、「敬老の日=9月15日」ともってくるのは乱暴である。
 しかし、乱暴だろうがなんだろうが、この理屈が、とりあえず通って、「敬老の日」は、祝日法改正にもかかわらず、9月15日にそのまま据え置かれた。
 その2年後、平成15(2003)年、敬老の日は法律に則り、9月の第三月曜日に移ることになった。しかし、ただでは転ばない、全老連。政府と交渉し、老人福祉法を改正させた。結果、9月15日は、祝日ではないが、「老人の日」とし、15~21日は「老人週間」となった。どんな意味があるのかと詮索してはいけない。変えさせたこと自体に意味があるのである。

 しかし、全老連の名誉のために、一つだけ触れておきたい。

 実は、この「老人の日」という名称は、全老連にとっては、思い入れのある名称なのである。先に触れたように、敬老の日が制定された昭和41年の祝日法改正の際、全老連の中では、次のような議論があったという。

 「敬老の日という名称では、一方的に敬愛される対象となり、高齢者自身が社会的自覚を持つ趣旨が活かされない。その意識を促すためにも、『老人の日』とすべきである」

 9月15日「老人の日」は、彼らにとっては、40年越しの悲願なのである。

 余談。
 「敬老の日」発祥の地である旧野間谷村では、9月15日をその日に設定した理由を次のように述べているという。

 「8月では暑すぎるし、10月になると稲刈りが始まって忙しいから、ちょうど端境期の9月の真ん中を選んだのではないでしょうか」(「祝祭日の研究」(角川書店))

 私が今まとめたこの文章は、一体なんだったろうかと思われるような拍子抜けの言葉である。全老連のみなさんも・・・。

 追伸。

 このメルマガをお送りした直後に、ある方からご意見をいただいた。

 「明治38年9月15日は日露戦争戦勝記念日です。それが伏線になっていると私は考えていました」

 私は思わず膝を打った。間違いない。
  
 初めて敬老会を開いた旧野間谷村の村長さんにしても、年齢からいえば、おそらくは、日露戦争経験者であろう。昭和22年、敗戦で打ちひしがれた当時の日本人、特に、お年寄りにとって、もっとも痛快な日とは日露戦争戦勝記念日であったろう。お年寄りの方に集まってもらって、初めて敬老会を開催するには、またとない日である。これに、文中にある、役場の方の言われる、「暑すぎず、稲刈りに影響のない時期」が重なって、9月15日を初めての敬老の日としたのであろう。確信に近い思いを持てる。


伊勢神宮―日本を感じる「一日神領民」―

2006年08月15日 | Weblog

 5月14日、一日神領民となって伊勢神宮式年遷宮のお木曳きに参加した。

 式年遷宮(しきねんせんぐう)とは。
 『遷宮祭とは、20年に一度お宮を立て替え御装束・御神宝をも新調して、大御神に新宮へお遷りいただくお祭りです。式年遷宮は神宮最大の重儀で大神嘗祭(おおかんなめさい)ともいわれ、社殿や御神宝類をはじめ一切を新しくして、神嘗祭を完全なかたちでとり行うところに本来の趣旨があります。』(伊勢神宮公式HPより)

 伊勢神宮は、天皇の祖先神である天照大御神を祀る皇大神宮(内宮)と、豊受大御神を祀る豊受大神宮(外宮)、及び123の社の総称をいう。
 その式年遷宮とは、内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)のご正殿と14の別宮が新たに造営され、ご装束、ご神宝も新調。神様に新しいお社にお移りいただく儀式のことをいう。一言でいえば、神様のお引越しである。この壮大な儀式は天武天皇が発案し、その夫人である持統天皇の時世の690年に初めて行われた。そして驚くべきことに、二度の断絶の危機にあいながらも、今日まで1300年以上に渡って、連綿と続いている。
 平成25年には62回目の式年遷宮を迎えることになる。そのための儀式は、既に始まっている。一回の遷宮で使用されるヒノキは約1万本、平成25年の遷宮で見込まれている総費用は550億円といわれる。こちらも想像を絶する数字である。

 私が今回参加してきたお木曳きとは、その新宮を作るために使われる、伊勢に届いたヒノキを宮域に曳き入れる行事のことをいう。

 かつてこのお木曳きは、神宮周辺に住まう神領民たちの役務だったが、いまや20年に一度のお祭となっている。今年と来年の5、6月、町内会ごとに奉曳団(ほうえいだん)を組織して、お木曳きを競い合う。神様を祀る神聖な神木を神社内に曳き入れる行事は、神領民たる伊勢市民の特権となったが、前々回の遷宮から伊勢市民以外でも参加できるようになった。そのにわか信者を「一日神領民」という。私も縁あってその貴重な体験をさせていただいた。

 さて、ここで疑問に思われるのは、法隆寺金堂や五重塔に代表されるように、1300年以上もの風雪に耐えうる高度な木造建築の技術が、当時から日本にはあったにもかかわらず、なぜ、天武天皇は20年に一度、ご正殿の隣の宮地に新社殿をそっくり同じに建て、ご神体を移すということを考えたのか。

 調べてみると、この「20年」の根拠は、全くもって明らかにされていない。そもそも遷宮が行われる理由自体も、諸説入り乱れ、確たるものとなってはいないようである。
 ご関心のある方は調べてみられるとよい。歴史の空間を逍遥することができるであろう。

 しかし、私個人は、儀式や建物よりも、やはり人物の方に興味がある。なぜ、天武天皇がそのようなことを言い出したのか。さらに言えば、なぜそれが「伊勢神宮」なのか。

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 日本の歴史において、大化の改新は、明治維新、そして先の大戦の敗戦と並んで、もっとも大きな転換点であったということは、誰もが認めるところであろう。
 大化の改新がなされるまでは、わが国は蘇我氏に代表される地方豪族による、群雄割拠支配の時代であった。天皇といえどもその最大のものという位置づけに過ぎなかった。中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足が、唐の律令制度にならって中央政権国家を作ろうと、当時、専横を極めていた蘇我入鹿、蝦夷親子を打ち破った。以上が、教科書通りの大化の改新である。

 しかしながら、実際に、その理想に最も近づいたのは、天智天皇の時世ではなく、壬申の乱を経て、皇位に就いたその弟の天武天皇(大海人皇子)及びその夫人である持統天皇の時代である。
 この時世には、飛鳥浄御原令・大宝律令の制定、「古事記」「日本書紀」の編纂勅命、本格的な都城である藤原京建造等々がなされている。さらには、天武天皇の時代から「天皇」という称号が使われだしたともいわれている(異説もあるようだが)。天皇中心の中央集権国家形成に向け、着々と成果が上がっている。

 そこで、伊勢神宮。
 天武天皇とはどのような接点があったのか。

 「日本書紀」によると、天武天皇は壬申の乱での戦勝を願って、迹太川(とほがわ)ほとりで、伊勢神宮の方を向いて天照大神を拝んだという。そして、見事に大願成就して、天武天皇はその恩義にむくい、その後、天照大神が伊勢神宮に祀られることになった。
 しかし、この“史実”は、2000年以上前の垂仁天皇26年に、天照大神を伊勢に遷したという伝承と矛盾する。つまりは、これは、天武・持統天皇の時代に、万世一系の皇室神話が最終的な形にまとめられ、それに連動して、伊勢神宮が皇祖神を祀る神社となったという、天皇位の箔付けともいえる。

 今回調べて初めて知ったのだが、初期の大和朝廷で最も敬われていた神様は、皇祖神とされる天照大神ではなく、三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)であったという。この大物主神をお祀りする大神神社(おおみわじんじゃ)は、三輪山そのものが御神体となり、本殿を持っていない。

 さて、天武天皇の命に従って初めて式年遷宮が行われたのは、天武天皇の妻持統天皇の時世の690年であることは既に述べた。

 持統天皇の夫天武天皇に対する深い愛情は格別なものがある。出家する夫について吉野の山に入り、その後、急転直下、壬申の乱をともに戦い、急速に強固な天皇親政国家を作り上げる。その全てを夫君とともに当事者の一人として真正面から取り組んできた。
 実はあまり知られてはいないが、持統天皇は天智天皇の娘である。遺伝であろうか、その政治手腕は先天的なものがあり、天武天皇の伴侶というよりは、文字通り、二人三脚で荒波を乗り越えてきた。実際、天武天皇が病に伏せ、死の淵をさまよっている際には、政務を執り行い、天皇の病気快癒を祈って、様々な善政を敷かれている。
 物納を半分にする大減税、労役の免除、貧農への借金返済を免除する徳政。極めつけは、「朱鳥(あかみとり)」という元号制定である。これは、赤い雀や赤いカラスは、吉兆とされているので、そのことにあやかったものといわれている。日本書紀には、わざわざ、漢字でもって訓読みの発音を記している。元号で訓読みをされるのは、それまではもちろん、今日に至るまで一つもない。この「朱鳥」だけである。それだけ、強い念が感じられるものである。

 天皇という地位を明らかにし、見事な中央集権国家を作り上げた天武天皇の遺志を確固たるものに仕上げるためにも、持統天皇は、皇祖神を祀った伊勢神宮に対しては、より一層強い思いを持っていたのであろう。

 よって、第一回の式年遷宮は挙行された。

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 さて、その後の遷宮は、1462年40回目が実施された後、123年の空白が生じる。応仁の乱から始まる戦国時代の混乱の世が原因である。41回目が行われたのは、秀吉が関白となり、豊臣の姓を名乗って太政大臣に任ぜられる前年の1585年のことである。天下統一を目指した信長、秀吉が多大な寄進をしたことが記録に残されている。

 1945(昭和20)年の敗戦、式年遷宮は再び存続の危機にみまわれる。敗戦後の混乱と伊勢神宮が「国」から「民」に移管されたことが原因である。本来ならば1949(昭和24)年に行われるはずが、資金も足りず中止のやむなきにいたった。しかし、老朽化した宇治橋だけは放置していては危険ということで、本来の式年遷宮が行われるはずであったこの年に、新たに架け替えが行われた。このことが大きく報道され、式年遷宮の中断が国民の知るところとなった。その結果、日本中から莫大な寄付が寄せられ、4年遅れの1953(昭和28)年に式年遷宮が執り行われることになった。
 以上の経緯があり、この宇治橋だけは、現在行われている式年遷宮の4年前、つまり、本来行われているはずであった「式年遷宮の年」にその架け替えが行われている。

 この2度の危機を乗り越えての現在の式年遷宮なのである。

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 さて、遷宮存続の危機は、違う側面からも襲ってくる。

 一回の遷宮で使用されるヒノキはおよそ一万本。当初は神宮の背後に控える宮域林から供給されていたが、第33回の1304年までの約600年間において、ほぼ採りつくされてしまう。その後、供給地は神宮の脇を流れる宮川の上流、木曽川中流部の中津川へと移り、明治になってからは皇室財産である木曽谷の御料林(現在は国有林)から供給されることとなった。

 しかしながら、その木曽のヒノキも出荷量が年ごとに減っている。ご用材の規格に合うものを探すだけで精一杯で、品質を考える余裕も、選ぶ余地もないという。また、品不足のせいで価格も上がってきた。ご用材が手に入りにくくなってきている。

 神宮としても、今日まで何もしないでいたわけではない。80年前から布石は打ってきていた。

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 庶民の旅行が厳しく制限されていた江戸時代にあって、お伊勢参りだけは例外的に許されていたこともあり、伊勢信仰は爆発的に広がった。毎年50万人以上が参拝し、当時の総人口の8~9割が伊勢神宮の信者であったといわれる。第53回の遷宮が行われた翌年の文政13(1829)年の3月から9月までの半年間だけで、伊勢神宮の「おかげまいり」は450万人を数えたという記録がある。余談であるが、この伊勢信仰を広めたのは、伊勢神宮そのものではなく、周辺に住む「御師(おんし)」という、現代でいえばいわば、伊勢神宮専属代理店さんのような役割を負った人たちであった。御師については、機会があれば少し触れたい。
 伊勢の森は、そうした参詣・宿泊者らの燃料基地として使われ、明治時代にはほとんど裸に近い状態であった。

 また、境内を流れる五十鈴川は江戸時代から何度も氾濫を繰り返し、とくに1918(大正7)年の豪雨では、伊勢の町内が床上2メートルまで浸水した。
 その洪水を契機に、疲弊した森をつくり直すことになったのである。

 1923(大正12)年、風致維持・水源涵養・ご用材供給の3つを柱とする「神宮森林経営計画」が作られた。詳細は割愛するが、この計画に沿って、大正末期から毎年約50ヘクタールずつ、ヒノキ苗を植林してきた。これまで25万本のヒノキが植林されたという。既に巨木に仕立てていく候補木も選び出し、印をつけてあるという。500年後までの育成計画も出来上がっている。 気が遠くなるような壮大な計画である。

 実は、今回の遷宮は伊勢神宮の森にとって歴史的なものとなる。
 植林が始まって80年。ついに直径30~50センチにまで成長したヒノキが、ご用材として700年ぶりに宮域林から供給されることになるという。
 植樹500年計画がいよいよ日の目を見ることになるのである。遠大な計画の一部が、いよいよ姿を現してくるのである。

 尚、式年遷宮によって新しい神殿が作られるわけであるが、当然のことながら、解体された古材はすべて全国の神社に引き取られて再活用されることになっている。

 伊勢神宮は、その遷宮制度によって、様々な儀式と技術、伝統文化を確実に引き継いできた。
 次の遷宮からはご用材の一部も自給し、これからの遷宮のたびにその比率は高まり、ついには、ご用材の供給という点に関しては、伊勢神宮内で完結することになる。悠久の時を超えて引き継がれていくのは、技術と伝統文化だけではない。伊勢の木と森も、明確な意志を持った人間の手を介しながら、確実に未来へと引き継がれていく。そして、その意志と自然とが相俟って、伊勢神宮の神秘性をより高めていくことになるのである。

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 僧西行が伊勢神宮で詠んだとされる歌。

  「何ごとの おはしますかは 知らねども
               かたじけなさに 涙こぼるる」

 あの神秘性漂う伊勢神宮を歩いた者でないと分からないかもしれないが、間違いなく日本を感じる場所であり、日本人を気付かされる歌である。

 私の曳いたあのヒノキが次の遷宮で使われ、その後、20年間多くの方に拝まれるのである。

 悪いことはできない。


4月28日「日本の独立記念日」

2006年05月02日 | Weblog
 ゴールデンウィークただ中である。
 一体、祝日というものは、「この国のかたち」を端的に表す象徴的なものの一つといえる。わが国の場合でも、その中には、日本の伝統・文化・風習等々が、自ずから感じられるものであるはずである。
 私自身、これまでも、祝日に関していくつかの文章もまとめているし、まとめきれていないまでも、それなりの思いを持っているものも、やはりいくつもある。

 一方、なぜ、この日が祝日でないのか。否、祝日にしないまでも、少なくとも、日本にとって格別な日と認識できるようにすべきではないかと考えている日がある。

 4月28日。この日を、日本の独立記念日、もしくはそのことを理解させるような日にしてもよいのではないだろうか。

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 昭和27(1952)年4月28日。この日は、日本にとって、世界48ヶ国と締結したサンフランシスコ講和条約が発効し、6年8ヶ月に及んだ被占領状態から脱し、独立した日なのである。

 私は、従前から、8月15日を「終戦の日」と呼ぶことに対して、何となく違和感を持っていた。この日は、「終戦」ではなくて、「敗戦」の日ではないだろうかと。修辞的な問題としては理解できないことはないが、4月28日の意味合いを曖昧にしてしまうものとならないだろうか。

 ご存知の通り、1945年8月15日は、ポツダム宣言受諾が玉音放送によって国民に知らされた日である。要するに、この日はあくまでも、日本にとって戦争停止が国民に知らされた日でしかない。国際法的にいっても、全く意味のない日であり。日本にとっては、「軍事的敗戦」が知らされた日にしか過ぎないのである。
 ちなみに、ポツダム宣言受諾からほぼ二週間後の9月2日に、ミズーリ号上で降伏文書が調印された。この日は、日本の軍隊が交戦国軍隊全体に関する全面的休戦を意味する。つまり、国際法的には、日本が連合国の軍政下に置かれた日といえる。その休戦状態から解放されたのが、1952年4月28日なのである。

 実際、サンフランシスコ講和条約第一条には、「日本国と各連合国間との戦争状態は、(中略)この条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。」つまり、1952年4月28日までは、「日本国と各連合国間との戦争状態」なのであり、その状態は、この日をもって「終了する」と明記されている。

 整理する。8月15日は敗戦が国民に知らされた日、9月2日は休戦状態で、被占領化された日、4月28日は連合国軍隊からの占領が解かれ、日本が独立した日。これが国際法的にいって正しい。

 この4月28日から、現代日本の新しい歩みが始まるのである。

 「4月28日」の意味というものを、もう少し真剣に、大切に考えてみても良いのではないだろうか。少なくとも、日本という国のあり方を考える上では、教育基本法に「愛国心」という言葉を入れることにこだわるよりも、はるかに重要で、優先順位の高い課題ではないだろうか。

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 昨今、中国と韓国が、一方的に問題としている、靖国問題と竹島問題を考えるにおいても、この4月28日という日は、その考え方にヒントを与えてくれる日ともなっている。

 靖国問題。

 日本が独立した1952年4月28日直後から、極東国際軍事裁判などによって有罪とされた人たちへの、釈放を求める国民運動が展開され、その署名は何と4000万人以上にものぼった。
 その国民の声を受け、1951年8月3日、衆議院は「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が全会派一致で可決された。右も左もない。全国会議員である。さらに、この決議を受け、受刑者などを対象とする遺族援護法や恩給法の改正が、やはり社会党をも含めた全議員の賛成で成立した。これにより、遺族年金の対象になる人たちは靖国神社の合祀対象の基本名簿に入り、1978年10月17日の合祀となった。

 小泉首相の靖国参拝に賛成・反対、どちらの意見を述べるにおいても、少なくとも、以上の国民的議論の経緯を理解していなければいけない。全ては、1952年4月28日から始まっている。

 竹島問題。

 サンフランシスコ講和条約は、日本の領土を規定するものでもあった。その領土を既定していく過程において、1951年3月、連合国の代表であるアメリカは、その最終草案を韓国へも提示。7月、韓国は、竹島(韓国名:独島)も、韓国領内に含めるよう要求。8月、アメリカは、『独島、又は竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人島である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐支庁の管轄下にあります。この島は、かつて朝鮮によって領土主張がなされたとは思われません。』として、韓国の要求を拒否。竹島は、日本の領土として国際的に確定した。
 韓国側としては、このまま、この国際条約が発効してしまってはおもしろくない。日本の占領状態の間に、新たな既成事実をつくり上げるべく、韓国は1952年1月18日、つまり、サンフランシスコ講和条約発効の3ヶ月前のこの日、突然に李承晩ラインなる水域を宣言し、韓国領内に竹島を含め、不法に軍事占拠することになった。

 よって、韓国に国際司法裁判所への提訴を訴えても、絶対に応じることはしない。既に、サンフランシスコ条約の領土既定の際に、韓国の主張は退けられ、国際的に、日本領土と決められたことを韓国自身が知っているからである。それだけに、韓国とすれば、この問題で世界の耳目を集めるようなことはしたくはない。竹島問題をすぐに、植民地問題、さらには靖国問題にまですりかえる所以である。望むらくは、日本がさして物言わぬ間に、静かに既成事実を積み上げていくだけが肝要なのである。
 
 この竹島問題は、政府与党はもちろん、野党第一党の民主党のみならず共産党も含めて、全政党が韓国の不法占拠と訴えている。前述した、いわゆるA級戦犯を含めた戦争犯罪による受刑者の赦免を、全会派一致で求めたことと同じように。

 この問題も、4月28日が一つ区切りとされたのである。

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 尚、4月28日を「国家主権回復の日」という意見も散見することもある。基本的には、これまで述べてきたことと同じ理由によると思われる。また、占領下といっても、6年8ヶ月という期間を考えれば独立というよりは、この言い方の方が、実態に合っているのかもしれない。ただ、私は、何となく釈然としない気持ちがある。それは、北朝鮮による拉致事件があるからだ。

 北朝鮮による拉致は、個人の何十人の方たちがかわいそうだという問題ではない。それでは、いつまでたっても、解決することはないのではないか。拉致問題は、国家主権にかかわる問題と認識しなければいけない。この問題の解決なくして、日本という国の主権が確立されたとはいえないのではないだろうか。

 そういう意味では、横田めぐみさんの母親の横田早紀江さんが、この4月28日という日に米国議会で拉致問題について意見を述べ、さらにブッシュ大統領にその訴えをしたということは、偶然とはいえ、極めて象徴的なことであった。


※本当は、4月28日早朝にこのメルマガを出したかったのだが、まとめきれなかった。昨年も、全く同じパターンで時機を逃してしまった。一年経っても全く変わらないので、来年も同じことになるだろうと思い、少々遅れはしたが出してしまう。

※明日5月3日は憲法記念日という祝日である。現日本国憲法施行日。実は、ほとんど知られてはいないが、この日は東京裁判の開廷日なのである。日本国憲法を作成したGHQは、この裁判を正当化するために、この日を新しい憲法の施行日にしたのであろうか。そんなこととは知らずに、私たち日本人は祝日としてお祝いる。もちろん、そのことと憲法改正の議論とを混同してはいけないが、事実として認識して置くことも必要である。

※上記の文章は全て、5月2日に書き上げたもの。これから書くことは、5月5日現在のものである。
 5月4日午後、少し時間ができたので、しばらくたまっていた新聞を整理して読み返した。その際、ある記事が目に止まった。報道によると、いわゆる小泉チルドレンの何人かの議員さんが、この4月28日を、国家主権回復の日として靖国神社に参拝したという。なぜ、国家主権回復が、即、靖国神社参拝に繋がるのか。私にはそのセンスは理解できない。少なくとも、私のこの文章は、その流れの中にあるものではない。


女たちの「2.26事件」

2006年04月20日 | Weblog

 今年2月、ある方から講演会のお誘いをいただいた。あいにくその日は、他の用事が既に入っていたが、講師の先生がノートルダム清心学園の渡辺和子理事長とお聞きし、理事長の79歳という年齢を考えると、もしかしたら金沢という地方都市で、直接お声を聞けるのはこれが最後かもしれないと思い、日程を調整し出席することにした。

 その返事をした一週間後くらいであったろうか。私は、何気なく手にした週刊誌において、「2.26事件重臣たちの惨殺写真」としたグラビア記事を見かけた。事件で殺害された斉藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監、各々が、まさにその惨殺現場そのままの状態での写真が掲載されていた。これほどの写真が公になったのは初めてだという。凄惨なものであった。「むごい」の一言であった。

 その犠牲者となった渡辺錠太郎教育総監こそが、先のノートルダム清心学園渡辺和子理事長の実父である。当時九歳の彼女は、手を伸ばせばすぐ届きそうな距離で、自分の父親が、青年将校たちに軍刀でとどめをさされる場面を目にすることになった。

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 「男が子供を産むのならおかしいが、女が産むのに何がおかしいことがあるものか」

 和子の母は、43歳という年齢と、政府高官の妻という立場を考え、身ごもった、後の和子を堕胎しようと考え、医師でもある長女の夫に相談もしていたという。そんな時、父親になる錠太郎は、先のなんだかよく分からない理屈をもって、「産んでおけ」と述べたという。和子が「私は『望まれないで産まれた子』でした」と述べる所以である。

 既に52歳であった錠太郎は、和子を孫のように可愛がったという。実際、事件の半年前に写された二人並んでの写真を見ると、その可愛がりようが伝わってくるものである。和子自身も、「この9年間に私は一生涯分の愛を父から受けたように思っています」と述べている。

 2.26事件。その時、錠太郎61歳、和子9歳。
 2.26事件については、既に膨大な量の書物や研究資料が出されているので、ここでは、その詳細には触れない。

 安田優、高橋太郎両少尉率いる約30名の青年将校は、荻窪の渡辺邸を襲撃。錠太郎は布団を盾に拳銃で応戦。錠太郎は一緒に寝ていた和子を、一端は、部屋から出した。しかし、恐かったのか、父親が心配になったのか、その幼子は父親の元に戻ってきてしまう。

 「戻ってきた私を見た父は、そばにあった座卓を立てかけて、私を隠してくれました。父は、もう自分が助かることは考えずに、私を守るために応戦したのだと思います」

 銃弾で倒れた父を、青年将校たちの軍刀が襲う。その父親に溺愛された娘のすぐ目の前の出来事である。

 「私はたまたま父の死を1メートルのところで見届ける唯一の者となってしまったのですが、今思うと父を敵の最中でたった一人さびしく死なせないために、私は産まれてきたのかもしれないと思うようになりました」

 出生時のいきさつやそれまでの可愛がりようを思い起こすと、このように思い至るのかもしれない、否、そうでも思わないと今日まで生きてこれなかったのかもしれない。

 和子は、父を殺害した将校たちに対して、怨みや憎しみを抱いたことはなかったという。むしろ、この時期でなければ、より悲惨な最期を迎えていたかもしれないと考えることさえあった。宗教人のなせるわざであろうか。そもそも、宗教に帰依したのも、この事件とは全く関係なく、母親との確執が原因であったという。

 自分には、2.26事件のわだかまりは何もない。そう信じて生きてきた。

 しかし、事件から40年以上経ったある日のこと。2.26事件の特集番組収録のため、あるテレビ局に出向いた際、スタッフから、一人の年配の男性を紹介された。「反乱軍にいた方です」。

 簡単な挨拶の後、目の前にあったコーヒーに手を伸ばす。しかし、そのときまで、平穏なはずと思い込んでいた気持ちとは裏腹に、知らぬ間に体が硬直してしまい、大好きなはずのコーヒーにどうしても口をつけることが出来ない。動かない。初めての経験である。「心の奥底で、私は父を殺した人々を許してはいないのかもしれない」。

 青年将校たちは、事件の年の7月12日に処刑にされ、元麻布の賢崇寺に分骨埋葬。遺族らによって毎年法要が営まれている。

 事件から50年経った1986年7月12日、節目の年だからと自分に言い聞かせ、和子は、初めてその法要に参列した。墓前で静かに手を合わせ、もと来た方へと向き直ると、二人の男性が深々と頭を下げ、涙を流して立っていた。「ありがとうございました」。父の命を奪った将校二人の弟たちであった。

 つらいのは自分たちだけではない。反乱軍の汚名を受け、処刑にされた将校たちの遺族の苦しみは、いかばかりであったろうか。宗教人、教育人として何十年と過してきたが、初めて気づかされたことである。

 その二ヵ月後、今度は、その青年将校の弟がお彼岸に合わせて、錠太郎のお墓参りをした。
 以来、和子と彼らとの、年一回の交流が続いているという。わだかまりが消えたとはお互いに思ってはいない。穏やかな時間を過すだけだという。

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 渡辺和子理事長の講演では、2.26事件について全く触れられることはなかった。聴き終えてしまえば、それは当然のことである。宗教人としても教育人としても、既に立派な実績をあげられている方である。今さら、「2.26」でもあるまい。実際、私は主催者側の何人かの方にお聞きしたが、どなたも、渡辺理事長と2.26事件との関係はご存知なかった。

 じっとお聴きする。

 渡辺理事長のその容姿、お声、身振り、話し振り、全ての挙措が、お人柄をそのまま表しておられる。静かでたおやかな感じが漂っておられる。

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 2.26事件に関して一つだけ触れておきたい。事件で惨殺された高官の夫人たちのことである。

 斉藤実内大臣の春子夫人は、二階夫婦寝室の前で、乱入してきた青年将校たちの前に立ちふさがった。夫人越しに内大臣に銃撃が放たれる。夫人は倒れた内大臣をかばいながらも、火を噴く機銃を掴み、「撃つなら私を撃ちなさい」と言い、そのもみ合いの際、腕に貫通銃創を負う。夫は、40数発の弾丸を受け即死した。
 邸内で寝ていた孫である当時8歳の岡百子は、邸内の大きな声で目を覚ます。静かになった頃に祖父の部屋に行くと、母が出てきて、「帰りなさい。後でお辞儀をさせてあげるから」と涙を流しながらもしっかりと話したことを覚えているという。

 高橋是清蔵相は銃で撃たれた上、左腕を切られている。その写真を見た遺族が、思わず絶句し、「これほどまで恨まれていたのか」と絞り出すように言うのがやっとであった。
 志な夫人は、来訪した新聞記者に向って、「青年将校は卑怯に存じます」と毅然として言い放った。

 渡辺錠太郎教育総監のすず夫人は、いきなり邸内に入ってきた将校たちに対して、「どこの部隊ですか。見れば歩三(麻布歩兵第三連隊)ですね。それが軍部の命令ですか。他に方法がないのですか」と銃剣の前に立ちふさがった。将校たちは、それに答えることなく、夫人をつき退け、進んでいった。

 鈴木貫太郎侍従長の孝子夫人は、銃撃の末倒れた夫の横で、いつの間にか威儀を正して正座をしている。凛とした姿であったという。青年将校の安藤中隊長は、夫人に対して所属と名前を明らかにし、その目的は昭和維新断行のためですとだけ言った。「まだ脈はある。武士の掟にしたがい、閣下にとどめを・・」と言ったときに、それまで静かに座っていた夫人が、初めて声を出した。「それだけは私に任せてください」。少しも身じろぎすることなく言った。安藤中隊長は、「閣下に対して敬礼」と号令をかけ捧げ銃をしてそのまま立ち去った。その結果、夫は一命を取り留めた。
 尚、孝子夫人は昭和天皇の乳母であり、天皇のもとに、事件の第一報が届けられたのは、この孝子夫人からであった。天皇の怒りは想像にあまりあるものであろう。

 いずれも、事件後の調書において、将校たちは、夫人たちの立派な姿勢を褒めたたえている。 

 夫人たちも夫とともに、日本という国を支えているという自負があったのであろう。残念ながらベクトルを間違えてはいるが、青年将校たちも真っ直ぐであった。

 女たちにとっても、重たい「2.26事件」なのである。



「アドレナリン」もう一つの名誉回復

2006年01月21日 | Weblog
 新年早々、私たち金沢人にとって、大層嬉しいニュースがとび込んできた。
 私のメルマガ「高峰譲吉にみる日本人、金沢人」の中でも問題提起している、アドレナリン発見にまつわる誤解の解消が、ようやく、少なくとも日本においてなされるということである。

 全国版で掲載された、読売新聞(2006年1月4日朝刊)記事より引用する。

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『高峰譲吉の「アドレナリン」107年目“名誉回復”』

 化学者の高峰譲吉(1854~1922)らが発見した「アドレナリン」が4月から、医薬品の正式名称として使われることになった。
 これまでは米国の学者が命名した「エピネフリン」を使用してきた。高峰の業績を正しく評価すべきだとの声が高まり、厚生労働省は医薬品の規格基準を定めた公定書「日本薬局方」を改正、1900年のアドレナリン発見以来107年目の“名誉回復”をはかる。
 アドレナリンは、高峰と助手の上中(うえなか)啓三(1876~1960)が、研究生活を送っていた米国で1900年に牛の副腎から初めて抽出したホルモン。「腎臓の上」を意味するラテン語にちなんで高峰が命名した。薬としては、強心剤や気管支拡張薬などに使われている。
 厚労省によると、薬品の一般名として欧州ではアドレナリン、米国とメキシコは日本同様にエピネフリンを使っている。エピネフリンは、高峰より先に抽出したと主張した米国人学者が名づけた。後に、その学者の方法では抽出できないと判明したが、米国ではエピネフリンを使い続けた。
 日本も米国にならったのか、アドレナリンは日本薬局方では長い間、正式名称「エピネフリン」の別名扱い。96年の改正では別名からも消えた。高峰の業績に詳しい菅野富夫北海道大名誉教授らが「発見者の母国であり、正式名称にしてほしい」と厚労省に申し入れていた。
 3月末に告示される改正薬局方では、エピネフリンが入った名称を別名扱いとし、アドレナリンを用いた名称を正式名にする。菅野氏は「ようやく本来の形に戻る。高峰らは米国で研究したので日本に子弟がおらず、業績が正当に評価されなかった」と話している。

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 これが地元紙となると、さらに気分が高揚し、やや肩肘の張った記事になっているのは、ご愛嬌であろう。
 いずれにしても、誠にもって、ご同慶の至りである。しかし、その「慶事」に水を差すわけではないが、私はこれを機会に、アドレナリン発見に関して、もう一つの“名誉回復”を強く望んでおきたい。
 それは、記事中にもある、譲吉の助手として書かれている上中啓三が、アドレナリン発見において果たした役割の再認識についてである。

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 1894年、譲吉はタカジアスターゼを発見し、アメリカで特許を出願。1897年には、パーク・デービス社と契約し、日本以外の国においての製造販売権を認めている。これは、間違いなく、譲吉の偉大なる功績である。

 さて、「アドレナリン」。

 専門的な解説は省略するが、1890年代の後半、欧米の研究者の間では、動物の副腎の作用に強い関心が集まっていたという。副腎抽出液は、血圧上昇や止血作用に対して強い効果があることが、数々の実証データから明らかにされてきた。そこで、副腎抽出の有効成分を、純粋化学物質として精製することに、世界的な先陣争いが行われ、その最先端を走っていたのが、前出の記事中にもある「エピネフリン」を“発見”したとするアメリカのエイベルと、ドイツのフュルトであった。

 譲吉から、タカジアスターゼの販売権を得た、製薬会社パーク・デービス社としても、もちろん大きな関心を持ち、何と、エイベルの研究室からその弟子を引き抜き、自社で独自に精製にあたらせてもいる。(しかし、こんなことをすれば、エイベルが怒るのは当たり前。仮に、同意を得ていたとしても、結果的に、パーク・デービス社に先を越された形となったエイベルにとっては、おもしろくなかろう。言いがかりの一つもつけたくなる。)

 しかし、いずれも、はかばかしい成果は得られてはいなかった。

 また、パーク・デービス社は、譲吉にもその研究依頼をしている。譲吉も期待に応えようとしたであろうが、やはり、残念ながら、それから二年間は、全く何の成果報告を出すこともできなかった。
 それも当然のことであろう。それまでの譲吉の研究テーマは、米、麹、麦芽といったものの、発酵作用を中心としたものであって、動物の内臓の抽出液分析などということは、そもそも実験の手法も根本的に違っていよう。そんなことは、素人の私でも容易に想像できることである。
 さらに、譲吉にとっては、この時期、タカジアスターゼの製造販売権を、パーク・デービス社に委託すると同時に、彼自身の会社である、タカミネ・ファーメント社の事業へも自ら本格的に乗り出し始めた時期でもあった。実際、研究だけではなく、様々な事業家としての交際も広まっていったようである。
 生まれたときから、親戚として譲吉一家と身近に接してきたというアグネス・デ・ミルも、『上中が夜遅くまで実験しているところへ、パーティの帰りにちょっと立ち寄っては、「どうかね」と言って、その日の経過報告を受けるという具合だった』と、譲吉の化学者であり事業家でもある、その生活の一端を述べている。これまでのように、研究にばかり没頭することはできなくなっていたのである。

 そんな譲吉にとって、奇跡のような僥倖が訪れた。

 上中啓三との出会いである。

 上中啓三は、1876年、現在の兵庫県西宮市名塩に生まれ、今の大阪大学薬学部の前身である大阪薬学校に入学、三年後に国家試験に合格し薬剤師に。その後、東大医科附属薬学選科で、日本における薬学研究の泰斗といえる長井長義教授から、二年半の間、直々に指導を受ける。
 長井教授は、麻黄からエフェドリンを抽出し、世界的に名を知られる薬学者となっていた。そのエフェドリンは、今日になっても気管支喘息、喘息性気管支炎の治療に使用されている。
 上中は、その長井教授からすぐれた実験技法の手ほどきを受けている。そして、その手法を工夫することによって、「アドレナリン」発見に結び付けていったのである。

 上中は、長井教授らの紹介をもって、1990年2月、アメリカの譲吉のもとを訪ね、助手として働くことになる。
 そして、信じられないことに、何と、その年のうちに上中の手によって、「アドレナリン」は発見されたのである。前述したように、長井教授のもとで培った経験を活かした成果である。

 その詳細は、いくつもの書籍や、また、上中死後明らかにされた、上中の実験ノートをご覧いただくとして、ここでは、長井教授のもとで研鑚を積んだ上中の功績を再度、強調しておきたい。

 さて、ここで、なぜ、日本人二人が発見した「アドレナリン」が否定されて、アメリカ人の“発見”したとされる「エピネフリン」が流布するようになったのか触れておきたい。

 譲吉がアドレナリン発見を発表したのが1900年。それ以来、ずっと、それは譲吉の功績とされてきた。1922年、高峰譲吉死去。その5年後の1927年、唐突に、エイブルが、譲吉のアドレナリンは自分の発見の“盗作”であると言い出した。
 時代背景がある。1924年、アメリカでは、排日移民法が成立。1931年満州事変勃発、1933年日本が国際連盟脱退と、特に、アメリカにおいて、反日感情の高まってきた時期であった。しかも、譲吉も既に亡くなっていて、科学的に反論もできはしない。その間隙を縫った異論とも言える。
 時代に翻弄された、「アドレナリン」でもあった。

 上中啓三の功績に話を戻す。

 確かに、上中は、譲吉から給与をもらい、譲吉の研究所で、譲吉がパーク・デービス社から依頼された研究に取り組んだものであり、研究テーマそのものは上中独自のものではない。仮に、上中がエイベルやフュルトに知遇を得ることができたとしても、その時代、そんな若い日本人研究者に、そこまでの研究のための環境整備を提供されていたかどうかは疑わしい。そう考えると、譲吉にとって、上中がいなければ、「高峰譲吉のアドレナリン」は100%あり得なかったであろうが、上中にとっても、これほどの大発見に、直接かかわることも難しかったのではないだろうか。(しかし、上中の場合、その可能性も無いこともなかったようだ。なぜなら、エイベルは、エフェドリンを抽出した長井教授のことを高く評価していたといい、上中が、長井教授の下で、エフェドリン抽出の研究に関与していたことを知れば、どうなっていたかは分からないとも言われている。)

 ここまで書いてきて、私自身、少々気が重くなってきた。決して、郷土の偉人高峰譲吉の偉業に意見を差し挟むものではない。しかし、冒頭で述べたように、「高峰譲吉のアドレナリン」の名誉回復とともに、このことに関する、上中啓三の名誉というものも、今一度、光があてられても良いのではないだろうか、と素直に感じている。

 尚、誤解を受けないためにも、ここで譲吉の名誉のために付け加えなければいけない。
 何と言っても、この時代背景を理解しなければならないということだ。前出したアグネス・デ・ミルの著作にも書かれていることだが、この時代、労働法のような考え方もない頃である。法律がどうであろうと、個人には侵してはならない権利があるという認識が、アメリカの社会にも、まだ全く定着していなかった時代である。「新世紀の冒険者たちのように、高峰も未知の世界に進出し、そこにあるものを自分の所有物だと宣言したのです。彼の場合、剣の代わりに特許権を振りかざして」(「高峰譲吉伝」(アグネス・デ・ミル著)より)。そういう時代なのである。だからこそ、「彼(譲吉)は、研究者をましな下男並に扱いました」(同)からといって、譲吉を責めることはできない。
 むしろ、譲吉は、上中が帰国するに際して、三共において研究者としての道を提供し、遺産相続に際して、「寛大と誠実に感謝を込めて」という添え書きとともに、それなりの待遇を供してはいる。
 決して、譲吉は上中を蔑ろにしたわけではない。また、上中にも色々な思いがあったであろうが、彼は、終生愚痴らしいことを述べることはなかった。それは、研究の全てが記録された、「上中ノート」を彼の生前、決して公表しようとしなかったことからも明らかであろう。上中の人物である。

 上中の出生地、西宮市名塩にある彼の菩提寺教業寺において、1981年、その顕彰碑が建立された。しかし、ほとんど、訪れる人はないという。

 アドレナリンの名誉回復を機に、高峰譲吉を顕彰する様々な事業にあわせて、色々な意味で上中啓三に敬意を表す、何か働きかけというものがあっても良いのではないだろうか。もちろん、それらは、金沢市もしくは金沢市に事務局を置く、高峰譲吉博士顕彰会からなされるべきものであろう。
 そうすることによって、高峰譲吉はもちろん、彼を郷土の先人としていただく、私たち金沢市民にとっても、より一層、「アドレナリン発見」の価値が高まるのではないだろうか。