新年早々、私たち金沢人にとって、大層嬉しいニュースがとび込んできた。
私のメルマガ
「高峰譲吉にみる日本人、金沢人」の中でも問題提起している、アドレナリン発見にまつわる誤解の解消が、ようやく、少なくとも日本においてなされるということである。
全国版で掲載された、読売新聞(2006年1月4日朝刊)記事より引用する。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『高峰譲吉の「アドレナリン」107年目“名誉回復”』
化学者の高峰譲吉(1854~1922)らが発見した「アドレナリン」が4月から、医薬品の正式名称として使われることになった。
これまでは米国の学者が命名した「エピネフリン」を使用してきた。高峰の業績を正しく評価すべきだとの声が高まり、厚生労働省は医薬品の規格基準を定めた公定書「日本薬局方」を改正、1900年のアドレナリン発見以来107年目の“名誉回復”をはかる。
アドレナリンは、高峰と助手の上中(うえなか)啓三(1876~1960)が、研究生活を送っていた米国で1900年に牛の副腎から初めて抽出したホルモン。「腎臓の上」を意味するラテン語にちなんで高峰が命名した。薬としては、強心剤や気管支拡張薬などに使われている。
厚労省によると、薬品の一般名として欧州ではアドレナリン、米国とメキシコは日本同様にエピネフリンを使っている。エピネフリンは、高峰より先に抽出したと主張した米国人学者が名づけた。後に、その学者の方法では抽出できないと判明したが、米国ではエピネフリンを使い続けた。
日本も米国にならったのか、アドレナリンは日本薬局方では長い間、正式名称「エピネフリン」の別名扱い。96年の改正では別名からも消えた。高峰の業績に詳しい菅野富夫北海道大名誉教授らが「発見者の母国であり、正式名称にしてほしい」と厚労省に申し入れていた。
3月末に告示される改正薬局方では、エピネフリンが入った名称を別名扱いとし、アドレナリンを用いた名称を正式名にする。菅野氏は「ようやく本来の形に戻る。高峰らは米国で研究したので日本に子弟がおらず、業績が正当に評価されなかった」と話している。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
これが地元紙となると、さらに気分が高揚し、やや肩肘の張った記事になっているのは、ご愛嬌であろう。
いずれにしても、誠にもって、ご同慶の至りである。しかし、その「慶事」に水を差すわけではないが、私はこれを機会に、アドレナリン発見に関して、もう一つの“名誉回復”を強く望んでおきたい。
それは、記事中にもある、譲吉の助手として書かれている上中啓三が、アドレナリン発見において果たした役割の再認識についてである。
―――――
1894年、譲吉はタカジアスターゼを発見し、アメリカで特許を出願。1897年には、パーク・デービス社と契約し、日本以外の国においての製造販売権を認めている。これは、間違いなく、譲吉の偉大なる功績である。
さて、「アドレナリン」。
専門的な解説は省略するが、1890年代の後半、欧米の研究者の間では、動物の副腎の作用に強い関心が集まっていたという。副腎抽出液は、血圧上昇や止血作用に対して強い効果があることが、数々の実証データから明らかにされてきた。そこで、副腎抽出の有効成分を、純粋化学物質として精製することに、世界的な先陣争いが行われ、その最先端を走っていたのが、前出の記事中にもある「エピネフリン」を“発見”したとするアメリカのエイベルと、ドイツのフュルトであった。
譲吉から、タカジアスターゼの販売権を得た、製薬会社パーク・デービス社としても、もちろん大きな関心を持ち、何と、エイベルの研究室からその弟子を引き抜き、自社で独自に精製にあたらせてもいる。(しかし、こんなことをすれば、エイベルが怒るのは当たり前。仮に、同意を得ていたとしても、結果的に、パーク・デービス社に先を越された形となったエイベルにとっては、おもしろくなかろう。言いがかりの一つもつけたくなる。)
しかし、いずれも、はかばかしい成果は得られてはいなかった。
また、パーク・デービス社は、譲吉にもその研究依頼をしている。譲吉も期待に応えようとしたであろうが、やはり、残念ながら、それから二年間は、全く何の成果報告を出すこともできなかった。
それも当然のことであろう。それまでの譲吉の研究テーマは、米、麹、麦芽といったものの、発酵作用を中心としたものであって、動物の内臓の抽出液分析などということは、そもそも実験の手法も根本的に違っていよう。そんなことは、素人の私でも容易に想像できることである。
さらに、譲吉にとっては、この時期、タカジアスターゼの製造販売権を、パーク・デービス社に委託すると同時に、彼自身の会社である、タカミネ・ファーメント社の事業へも自ら本格的に乗り出し始めた時期でもあった。実際、研究だけではなく、様々な事業家としての交際も広まっていったようである。
生まれたときから、親戚として譲吉一家と身近に接してきたというアグネス・デ・ミルも、『上中が夜遅くまで実験しているところへ、パーティの帰りにちょっと立ち寄っては、「どうかね」と言って、その日の経過報告を受けるという具合だった』と、譲吉の化学者であり事業家でもある、その生活の一端を述べている。これまでのように、研究にばかり没頭することはできなくなっていたのである。
そんな譲吉にとって、奇跡のような僥倖が訪れた。
上中啓三との出会いである。
上中啓三は、1876年、現在の兵庫県西宮市名塩に生まれ、今の大阪大学薬学部の前身である大阪薬学校に入学、三年後に国家試験に合格し薬剤師に。その後、東大医科附属薬学選科で、日本における薬学研究の泰斗といえる長井長義教授から、二年半の間、直々に指導を受ける。
長井教授は、麻黄からエフェドリンを抽出し、世界的に名を知られる薬学者となっていた。そのエフェドリンは、今日になっても気管支喘息、喘息性気管支炎の治療に使用されている。
上中は、その長井教授からすぐれた実験技法の手ほどきを受けている。そして、その手法を工夫することによって、「アドレナリン」発見に結び付けていったのである。
上中は、長井教授らの紹介をもって、1990年2月、アメリカの譲吉のもとを訪ね、助手として働くことになる。
そして、信じられないことに、何と、その年のうちに上中の手によって、「アドレナリン」は発見されたのである。前述したように、長井教授のもとで培った経験を活かした成果である。
その詳細は、いくつもの書籍や、また、上中死後明らかにされた、上中の実験ノートをご覧いただくとして、ここでは、長井教授のもとで研鑚を積んだ上中の功績を再度、強調しておきたい。
さて、ここで、なぜ、日本人二人が発見した「アドレナリン」が否定されて、アメリカ人の“発見”したとされる「エピネフリン」が流布するようになったのか触れておきたい。
譲吉がアドレナリン発見を発表したのが1900年。それ以来、ずっと、それは譲吉の功績とされてきた。1922年、高峰譲吉死去。その5年後の1927年、唐突に、エイブルが、譲吉のアドレナリンは自分の発見の“盗作”であると言い出した。
時代背景がある。1924年、アメリカでは、排日移民法が成立。1931年満州事変勃発、1933年日本が国際連盟脱退と、特に、アメリカにおいて、反日感情の高まってきた時期であった。しかも、譲吉も既に亡くなっていて、科学的に反論もできはしない。その間隙を縫った異論とも言える。
時代に翻弄された、「アドレナリン」でもあった。
上中啓三の功績に話を戻す。
確かに、上中は、譲吉から給与をもらい、譲吉の研究所で、譲吉がパーク・デービス社から依頼された研究に取り組んだものであり、研究テーマそのものは上中独自のものではない。仮に、上中がエイベルやフュルトに知遇を得ることができたとしても、その時代、そんな若い日本人研究者に、そこまでの研究のための環境整備を提供されていたかどうかは疑わしい。そう考えると、譲吉にとって、上中がいなければ、「高峰譲吉のアドレナリン」は100%あり得なかったであろうが、上中にとっても、これほどの大発見に、直接かかわることも難しかったのではないだろうか。(しかし、上中の場合、その可能性も無いこともなかったようだ。なぜなら、エイベルは、エフェドリンを抽出した長井教授のことを高く評価していたといい、上中が、長井教授の下で、エフェドリン抽出の研究に関与していたことを知れば、どうなっていたかは分からないとも言われている。)
ここまで書いてきて、私自身、少々気が重くなってきた。決して、郷土の偉人高峰譲吉の偉業に意見を差し挟むものではない。しかし、冒頭で述べたように、「高峰譲吉のアドレナリン」の名誉回復とともに、このことに関する、上中啓三の名誉というものも、今一度、光があてられても良いのではないだろうか、と素直に感じている。
尚、誤解を受けないためにも、ここで譲吉の名誉のために付け加えなければいけない。
何と言っても、この時代背景を理解しなければならないということだ。前出したアグネス・デ・ミルの著作にも書かれていることだが、この時代、労働法のような考え方もない頃である。法律がどうであろうと、個人には侵してはならない権利があるという認識が、アメリカの社会にも、まだ全く定着していなかった時代である。「新世紀の冒険者たちのように、高峰も未知の世界に進出し、そこにあるものを自分の所有物だと宣言したのです。彼の場合、剣の代わりに特許権を振りかざして」(「高峰譲吉伝」(アグネス・デ・ミル著)より)。そういう時代なのである。だからこそ、「彼(譲吉)は、研究者をましな下男並に扱いました」(同)からといって、譲吉を責めることはできない。
むしろ、譲吉は、上中が帰国するに際して、三共において研究者としての道を提供し、遺産相続に際して、「寛大と誠実に感謝を込めて」という添え書きとともに、それなりの待遇を供してはいる。
決して、譲吉は上中を蔑ろにしたわけではない。また、上中にも色々な思いがあったであろうが、彼は、終生愚痴らしいことを述べることはなかった。それは、研究の全てが記録された、「上中ノート」を彼の生前、決して公表しようとしなかったことからも明らかであろう。上中の人物である。
上中の出生地、西宮市名塩にある彼の菩提寺教業寺において、1981年、その顕彰碑が建立された。しかし、ほとんど、訪れる人はないという。
アドレナリンの名誉回復を機に、高峰譲吉を顕彰する様々な事業にあわせて、色々な意味で上中啓三に敬意を表す、何か働きかけというものがあっても良いのではないだろうか。もちろん、それらは、金沢市もしくは金沢市に事務局を置く、高峰譲吉博士顕彰会からなされるべきものであろう。
そうすることによって、高峰譲吉はもちろん、彼を郷土の先人としていただく、私たち金沢市民にとっても、より一層、「アドレナリン発見」の価値が高まるのではないだろうか。