山野ゆきよしメルマガ

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伊勢神宮―日本を感じる「一日神領民」―

2006年08月15日 | Weblog

 5月14日、一日神領民となって伊勢神宮式年遷宮のお木曳きに参加した。

 式年遷宮(しきねんせんぐう)とは。
 『遷宮祭とは、20年に一度お宮を立て替え御装束・御神宝をも新調して、大御神に新宮へお遷りいただくお祭りです。式年遷宮は神宮最大の重儀で大神嘗祭(おおかんなめさい)ともいわれ、社殿や御神宝類をはじめ一切を新しくして、神嘗祭を完全なかたちでとり行うところに本来の趣旨があります。』(伊勢神宮公式HPより)

 伊勢神宮は、天皇の祖先神である天照大御神を祀る皇大神宮(内宮)と、豊受大御神を祀る豊受大神宮(外宮)、及び123の社の総称をいう。
 その式年遷宮とは、内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)のご正殿と14の別宮が新たに造営され、ご装束、ご神宝も新調。神様に新しいお社にお移りいただく儀式のことをいう。一言でいえば、神様のお引越しである。この壮大な儀式は天武天皇が発案し、その夫人である持統天皇の時世の690年に初めて行われた。そして驚くべきことに、二度の断絶の危機にあいながらも、今日まで1300年以上に渡って、連綿と続いている。
 平成25年には62回目の式年遷宮を迎えることになる。そのための儀式は、既に始まっている。一回の遷宮で使用されるヒノキは約1万本、平成25年の遷宮で見込まれている総費用は550億円といわれる。こちらも想像を絶する数字である。

 私が今回参加してきたお木曳きとは、その新宮を作るために使われる、伊勢に届いたヒノキを宮域に曳き入れる行事のことをいう。

 かつてこのお木曳きは、神宮周辺に住まう神領民たちの役務だったが、いまや20年に一度のお祭となっている。今年と来年の5、6月、町内会ごとに奉曳団(ほうえいだん)を組織して、お木曳きを競い合う。神様を祀る神聖な神木を神社内に曳き入れる行事は、神領民たる伊勢市民の特権となったが、前々回の遷宮から伊勢市民以外でも参加できるようになった。そのにわか信者を「一日神領民」という。私も縁あってその貴重な体験をさせていただいた。

 さて、ここで疑問に思われるのは、法隆寺金堂や五重塔に代表されるように、1300年以上もの風雪に耐えうる高度な木造建築の技術が、当時から日本にはあったにもかかわらず、なぜ、天武天皇は20年に一度、ご正殿の隣の宮地に新社殿をそっくり同じに建て、ご神体を移すということを考えたのか。

 調べてみると、この「20年」の根拠は、全くもって明らかにされていない。そもそも遷宮が行われる理由自体も、諸説入り乱れ、確たるものとなってはいないようである。
 ご関心のある方は調べてみられるとよい。歴史の空間を逍遥することができるであろう。

 しかし、私個人は、儀式や建物よりも、やはり人物の方に興味がある。なぜ、天武天皇がそのようなことを言い出したのか。さらに言えば、なぜそれが「伊勢神宮」なのか。

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 日本の歴史において、大化の改新は、明治維新、そして先の大戦の敗戦と並んで、もっとも大きな転換点であったということは、誰もが認めるところであろう。
 大化の改新がなされるまでは、わが国は蘇我氏に代表される地方豪族による、群雄割拠支配の時代であった。天皇といえどもその最大のものという位置づけに過ぎなかった。中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足が、唐の律令制度にならって中央政権国家を作ろうと、当時、専横を極めていた蘇我入鹿、蝦夷親子を打ち破った。以上が、教科書通りの大化の改新である。

 しかしながら、実際に、その理想に最も近づいたのは、天智天皇の時世ではなく、壬申の乱を経て、皇位に就いたその弟の天武天皇(大海人皇子)及びその夫人である持統天皇の時代である。
 この時世には、飛鳥浄御原令・大宝律令の制定、「古事記」「日本書紀」の編纂勅命、本格的な都城である藤原京建造等々がなされている。さらには、天武天皇の時代から「天皇」という称号が使われだしたともいわれている(異説もあるようだが)。天皇中心の中央集権国家形成に向け、着々と成果が上がっている。

 そこで、伊勢神宮。
 天武天皇とはどのような接点があったのか。

 「日本書紀」によると、天武天皇は壬申の乱での戦勝を願って、迹太川(とほがわ)ほとりで、伊勢神宮の方を向いて天照大神を拝んだという。そして、見事に大願成就して、天武天皇はその恩義にむくい、その後、天照大神が伊勢神宮に祀られることになった。
 しかし、この“史実”は、2000年以上前の垂仁天皇26年に、天照大神を伊勢に遷したという伝承と矛盾する。つまりは、これは、天武・持統天皇の時代に、万世一系の皇室神話が最終的な形にまとめられ、それに連動して、伊勢神宮が皇祖神を祀る神社となったという、天皇位の箔付けともいえる。

 今回調べて初めて知ったのだが、初期の大和朝廷で最も敬われていた神様は、皇祖神とされる天照大神ではなく、三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)であったという。この大物主神をお祀りする大神神社(おおみわじんじゃ)は、三輪山そのものが御神体となり、本殿を持っていない。

 さて、天武天皇の命に従って初めて式年遷宮が行われたのは、天武天皇の妻持統天皇の時世の690年であることは既に述べた。

 持統天皇の夫天武天皇に対する深い愛情は格別なものがある。出家する夫について吉野の山に入り、その後、急転直下、壬申の乱をともに戦い、急速に強固な天皇親政国家を作り上げる。その全てを夫君とともに当事者の一人として真正面から取り組んできた。
 実はあまり知られてはいないが、持統天皇は天智天皇の娘である。遺伝であろうか、その政治手腕は先天的なものがあり、天武天皇の伴侶というよりは、文字通り、二人三脚で荒波を乗り越えてきた。実際、天武天皇が病に伏せ、死の淵をさまよっている際には、政務を執り行い、天皇の病気快癒を祈って、様々な善政を敷かれている。
 物納を半分にする大減税、労役の免除、貧農への借金返済を免除する徳政。極めつけは、「朱鳥(あかみとり)」という元号制定である。これは、赤い雀や赤いカラスは、吉兆とされているので、そのことにあやかったものといわれている。日本書紀には、わざわざ、漢字でもって訓読みの発音を記している。元号で訓読みをされるのは、それまではもちろん、今日に至るまで一つもない。この「朱鳥」だけである。それだけ、強い念が感じられるものである。

 天皇という地位を明らかにし、見事な中央集権国家を作り上げた天武天皇の遺志を確固たるものに仕上げるためにも、持統天皇は、皇祖神を祀った伊勢神宮に対しては、より一層強い思いを持っていたのであろう。

 よって、第一回の式年遷宮は挙行された。

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 さて、その後の遷宮は、1462年40回目が実施された後、123年の空白が生じる。応仁の乱から始まる戦国時代の混乱の世が原因である。41回目が行われたのは、秀吉が関白となり、豊臣の姓を名乗って太政大臣に任ぜられる前年の1585年のことである。天下統一を目指した信長、秀吉が多大な寄進をしたことが記録に残されている。

 1945(昭和20)年の敗戦、式年遷宮は再び存続の危機にみまわれる。敗戦後の混乱と伊勢神宮が「国」から「民」に移管されたことが原因である。本来ならば1949(昭和24)年に行われるはずが、資金も足りず中止のやむなきにいたった。しかし、老朽化した宇治橋だけは放置していては危険ということで、本来の式年遷宮が行われるはずであったこの年に、新たに架け替えが行われた。このことが大きく報道され、式年遷宮の中断が国民の知るところとなった。その結果、日本中から莫大な寄付が寄せられ、4年遅れの1953(昭和28)年に式年遷宮が執り行われることになった。
 以上の経緯があり、この宇治橋だけは、現在行われている式年遷宮の4年前、つまり、本来行われているはずであった「式年遷宮の年」にその架け替えが行われている。

 この2度の危機を乗り越えての現在の式年遷宮なのである。

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 さて、遷宮存続の危機は、違う側面からも襲ってくる。

 一回の遷宮で使用されるヒノキはおよそ一万本。当初は神宮の背後に控える宮域林から供給されていたが、第33回の1304年までの約600年間において、ほぼ採りつくされてしまう。その後、供給地は神宮の脇を流れる宮川の上流、木曽川中流部の中津川へと移り、明治になってからは皇室財産である木曽谷の御料林(現在は国有林)から供給されることとなった。

 しかしながら、その木曽のヒノキも出荷量が年ごとに減っている。ご用材の規格に合うものを探すだけで精一杯で、品質を考える余裕も、選ぶ余地もないという。また、品不足のせいで価格も上がってきた。ご用材が手に入りにくくなってきている。

 神宮としても、今日まで何もしないでいたわけではない。80年前から布石は打ってきていた。

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 庶民の旅行が厳しく制限されていた江戸時代にあって、お伊勢参りだけは例外的に許されていたこともあり、伊勢信仰は爆発的に広がった。毎年50万人以上が参拝し、当時の総人口の8~9割が伊勢神宮の信者であったといわれる。第53回の遷宮が行われた翌年の文政13(1829)年の3月から9月までの半年間だけで、伊勢神宮の「おかげまいり」は450万人を数えたという記録がある。余談であるが、この伊勢信仰を広めたのは、伊勢神宮そのものではなく、周辺に住む「御師(おんし)」という、現代でいえばいわば、伊勢神宮専属代理店さんのような役割を負った人たちであった。御師については、機会があれば少し触れたい。
 伊勢の森は、そうした参詣・宿泊者らの燃料基地として使われ、明治時代にはほとんど裸に近い状態であった。

 また、境内を流れる五十鈴川は江戸時代から何度も氾濫を繰り返し、とくに1918(大正7)年の豪雨では、伊勢の町内が床上2メートルまで浸水した。
 その洪水を契機に、疲弊した森をつくり直すことになったのである。

 1923(大正12)年、風致維持・水源涵養・ご用材供給の3つを柱とする「神宮森林経営計画」が作られた。詳細は割愛するが、この計画に沿って、大正末期から毎年約50ヘクタールずつ、ヒノキ苗を植林してきた。これまで25万本のヒノキが植林されたという。既に巨木に仕立てていく候補木も選び出し、印をつけてあるという。500年後までの育成計画も出来上がっている。 気が遠くなるような壮大な計画である。

 実は、今回の遷宮は伊勢神宮の森にとって歴史的なものとなる。
 植林が始まって80年。ついに直径30~50センチにまで成長したヒノキが、ご用材として700年ぶりに宮域林から供給されることになるという。
 植樹500年計画がいよいよ日の目を見ることになるのである。遠大な計画の一部が、いよいよ姿を現してくるのである。

 尚、式年遷宮によって新しい神殿が作られるわけであるが、当然のことながら、解体された古材はすべて全国の神社に引き取られて再活用されることになっている。

 伊勢神宮は、その遷宮制度によって、様々な儀式と技術、伝統文化を確実に引き継いできた。
 次の遷宮からはご用材の一部も自給し、これからの遷宮のたびにその比率は高まり、ついには、ご用材の供給という点に関しては、伊勢神宮内で完結することになる。悠久の時を超えて引き継がれていくのは、技術と伝統文化だけではない。伊勢の木と森も、明確な意志を持った人間の手を介しながら、確実に未来へと引き継がれていく。そして、その意志と自然とが相俟って、伊勢神宮の神秘性をより高めていくことになるのである。

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 僧西行が伊勢神宮で詠んだとされる歌。

  「何ごとの おはしますかは 知らねども
               かたじけなさに 涙こぼるる」

 あの神秘性漂う伊勢神宮を歩いた者でないと分からないかもしれないが、間違いなく日本を感じる場所であり、日本人を気付かされる歌である。

 私の曳いたあのヒノキが次の遷宮で使われ、その後、20年間多くの方に拝まれるのである。

 悪いことはできない。