今年は酉年。「トリ」にちなんだ、話題を一つ。
本当は、新年早々に、お送りしたかったのだが、どうしても、落し所がしっくりこなかったので、なかなか発信できなかった。実は、これまでも、同じような理由で躊躇し、結局、時機を逸して、出さずじまいのメルマガも数多くあった。
今年のメルマガのささやかな思いとして、できるだけ、月二回発信を目途にできればと考えている。しっくりこない落し所も含めて、お送りしてしまう。
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「強制換羽(きょうせいかんう)」という言葉がある。
卵からひよこが孵り、やがて、成長した鶏たちは新鮮な卵を産むようになる。若い鶏たちは、栄養価の高い、日本人好みの卵を産む(ように管理されている)が、初産から、10ヶ月後くらいから、卵質が低下した卵が増えてくるという。
養鶏業者はどうするのか。
その鶏たちに餌を与えないようにするという。人間でいう、断食である。しかも、当たり前のことだが、鶏の意思は関係ない。強制的に、断食させられる。
鶏たちの本能が働く。生きていくために、少しでも無駄なエネルギーは消費しない。当然、卵は産まなくなる。羽も少しずつ落ちてくる。そんなところに栄養をまわす余裕はない。この段階で、弱い鶏の中には、死んでしまうものもあるという。
養鶏業者もプロである。ある段階にきたら(体重の25~30%減少が目途だという)、再び餌を与えだす。鶏たちも、必死に喰らいつき、少しずつ元気になってくる。古い羽から新しい羽に、すっかり生えかわり、再び、卵を産むようになる。この時の卵は、最初のものと変わらないくらい、栄養価の高い卵であるという。
これを「強制換羽」という。
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大変、含みのある話だと思う。(鶏たちにとっては、迷惑この上ない話だが。)
以下、しっくりこなかった落し所を二つ。
その一。
人間誰しも、失敗や挫折はある。
受験での失敗。スポーツ等での苦い敗戦。社会人になってからの仕事上、もしくは、人間関係での、大きな挫折。私の職業でいえば、選挙での落選、等々。
そんな時であっても、実は、それは、社会から、天から、市民から与えられた、「強制換羽」の機会なのである。
その苦境は、鶏たち同様、自ら望んだものではない。しかしながら、自らの責任であるという点においては、鶏たちとは全く違う。大切なことは、その間、悪態をついたり、現実から逃避してしまったりといった、無駄なことに時間や気持ちを費やすのではなく、ひたすら、次に必ず訪れるであろうチャンスのために、新たなエネルギーを蓄積する。たとえ、ささやかなものであったとしても、好機がきたならば、それを、しっかりととらまえて、活かしていく。苦しい「断食」の際に、しっかりと蓄えてきたものが基になって、以前同様、否、それ以上の素晴らしい成果を生み出していけるように。
・・・・・・。
その二。
現在、自分は、誰にも負けないだけの努力をしてきているし、実績も残している。スポーツ、勉強、仕事、さらには、様々な人間関係等々。
自分がこの立場を抜けてしまうと、きっと、この組織は立ち行かなくなる。間違いなく、このチームは弱くなってしまう。売上は大きく落ち込んでしまう。上手く回転していたものが、滞ってしまう。だから、自分は、絶対に引くわけにはいかない、と一人、思い込んでしまっていることが、決して少なくはない。
ところが、実は、その自分の思い込みとは相反して、必ずしもそうとは言い切れない場合も、やはり少なくはない。
むしろ、そうこうしているうちに、だんだん、「卵質が低下した卵」が増えてくることに気付かなくなってしまう。裸の王様。
最近の大きな経済界の話題で言えば、ダイエーの中内氏や西武の堤氏などがあげられる。ちょっと前の、ヤオハンの和田氏もそうだ。NHKの海老沢会長もそうか。
どこかの段階で、大所高所から、強制換羽の機会が与えられることが必要かもしれない。そのことが、次なる、大きな飛躍に繋がる。
「経営の神様」といわれた、松下幸之助は、生まれつき身体が弱く、会社の規模が大きくなるにつれて、仕事を人に任せざるを得なかったという。そのことから、事業部制をひき、多くの仕事とそれらに伴った責任と権限とを、委譲していったという。生来の病弱さが、「強制換羽」の機会になったといえる。
ホンダの本田宗一郎には藤沢武夫が、ソニーの盛田昭夫には井深大が、それぞれ、「強制換羽」の役割を果たしていたのかもしれない。
本田宗一郎は、退任が決まった後のある会合で、藤沢にいった。
「まあまあだな」
「そうまあまあさ」と藤沢。
「幸せだったな」、「本当に幸せでした。心からお礼をいいます」「おれも礼をいうよ。良い人生だったな」
・・・・・。
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「その一」の方は、理屈では分ってはいるが、やはり、そのような状況には、できるだけ、なりたくはないという保身の気持ちが起きてくる。それだけに、そのようなことで結論付けても、偽善的に過ぎるし、何といっても、書いていて白々しい。
「その二」の方は、その前提である、大きな成功体験、否、努力さえも十分しているとはいえない私には、僭越に過ぎる。細木数子じゃあるまいし、そんな、無責任で放縦なことを断定的に書くことはできない。だから、途中で書くこともできなくなってしまった。
文章にしてしまうと、何ということもない、味気ないものになってしまったが、ちょっとしたスピーチで利用してみると、それほど悪くないネタである。
私は、これまで何度か、スピーチで使ったが、聞き手の方たちが、ぐっと関心を持って、引き込まれてくるのを、ひしひしと感じた(ような気がする)。
二月くらいまでは、使えるネタである。
本当は、新年早々に、お送りしたかったのだが、どうしても、落し所がしっくりこなかったので、なかなか発信できなかった。実は、これまでも、同じような理由で躊躇し、結局、時機を逸して、出さずじまいのメルマガも数多くあった。
今年のメルマガのささやかな思いとして、できるだけ、月二回発信を目途にできればと考えている。しっくりこない落し所も含めて、お送りしてしまう。
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「強制換羽(きょうせいかんう)」という言葉がある。
卵からひよこが孵り、やがて、成長した鶏たちは新鮮な卵を産むようになる。若い鶏たちは、栄養価の高い、日本人好みの卵を産む(ように管理されている)が、初産から、10ヶ月後くらいから、卵質が低下した卵が増えてくるという。
養鶏業者はどうするのか。
その鶏たちに餌を与えないようにするという。人間でいう、断食である。しかも、当たり前のことだが、鶏の意思は関係ない。強制的に、断食させられる。
鶏たちの本能が働く。生きていくために、少しでも無駄なエネルギーは消費しない。当然、卵は産まなくなる。羽も少しずつ落ちてくる。そんなところに栄養をまわす余裕はない。この段階で、弱い鶏の中には、死んでしまうものもあるという。
養鶏業者もプロである。ある段階にきたら(体重の25~30%減少が目途だという)、再び餌を与えだす。鶏たちも、必死に喰らいつき、少しずつ元気になってくる。古い羽から新しい羽に、すっかり生えかわり、再び、卵を産むようになる。この時の卵は、最初のものと変わらないくらい、栄養価の高い卵であるという。
これを「強制換羽」という。
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大変、含みのある話だと思う。(鶏たちにとっては、迷惑この上ない話だが。)
以下、しっくりこなかった落し所を二つ。
その一。
人間誰しも、失敗や挫折はある。
受験での失敗。スポーツ等での苦い敗戦。社会人になってからの仕事上、もしくは、人間関係での、大きな挫折。私の職業でいえば、選挙での落選、等々。
そんな時であっても、実は、それは、社会から、天から、市民から与えられた、「強制換羽」の機会なのである。
その苦境は、鶏たち同様、自ら望んだものではない。しかしながら、自らの責任であるという点においては、鶏たちとは全く違う。大切なことは、その間、悪態をついたり、現実から逃避してしまったりといった、無駄なことに時間や気持ちを費やすのではなく、ひたすら、次に必ず訪れるであろうチャンスのために、新たなエネルギーを蓄積する。たとえ、ささやかなものであったとしても、好機がきたならば、それを、しっかりととらまえて、活かしていく。苦しい「断食」の際に、しっかりと蓄えてきたものが基になって、以前同様、否、それ以上の素晴らしい成果を生み出していけるように。
・・・・・・。
その二。
現在、自分は、誰にも負けないだけの努力をしてきているし、実績も残している。スポーツ、勉強、仕事、さらには、様々な人間関係等々。
自分がこの立場を抜けてしまうと、きっと、この組織は立ち行かなくなる。間違いなく、このチームは弱くなってしまう。売上は大きく落ち込んでしまう。上手く回転していたものが、滞ってしまう。だから、自分は、絶対に引くわけにはいかない、と一人、思い込んでしまっていることが、決して少なくはない。
ところが、実は、その自分の思い込みとは相反して、必ずしもそうとは言い切れない場合も、やはり少なくはない。
むしろ、そうこうしているうちに、だんだん、「卵質が低下した卵」が増えてくることに気付かなくなってしまう。裸の王様。
最近の大きな経済界の話題で言えば、ダイエーの中内氏や西武の堤氏などがあげられる。ちょっと前の、ヤオハンの和田氏もそうだ。NHKの海老沢会長もそうか。
どこかの段階で、大所高所から、強制換羽の機会が与えられることが必要かもしれない。そのことが、次なる、大きな飛躍に繋がる。
「経営の神様」といわれた、松下幸之助は、生まれつき身体が弱く、会社の規模が大きくなるにつれて、仕事を人に任せざるを得なかったという。そのことから、事業部制をひき、多くの仕事とそれらに伴った責任と権限とを、委譲していったという。生来の病弱さが、「強制換羽」の機会になったといえる。
ホンダの本田宗一郎には藤沢武夫が、ソニーの盛田昭夫には井深大が、それぞれ、「強制換羽」の役割を果たしていたのかもしれない。
本田宗一郎は、退任が決まった後のある会合で、藤沢にいった。
「まあまあだな」
「そうまあまあさ」と藤沢。
「幸せだったな」、「本当に幸せでした。心からお礼をいいます」「おれも礼をいうよ。良い人生だったな」
・・・・・。
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「その一」の方は、理屈では分ってはいるが、やはり、そのような状況には、できるだけ、なりたくはないという保身の気持ちが起きてくる。それだけに、そのようなことで結論付けても、偽善的に過ぎるし、何といっても、書いていて白々しい。
「その二」の方は、その前提である、大きな成功体験、否、努力さえも十分しているとはいえない私には、僭越に過ぎる。細木数子じゃあるまいし、そんな、無責任で放縦なことを断定的に書くことはできない。だから、途中で書くこともできなくなってしまった。
文章にしてしまうと、何ということもない、味気ないものになってしまったが、ちょっとしたスピーチで利用してみると、それほど悪くないネタである。
私は、これまで何度か、スピーチで使ったが、聞き手の方たちが、ぐっと関心を持って、引き込まれてくるのを、ひしひしと感じた(ような気がする)。
二月くらいまでは、使えるネタである。