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『8月15日、「終戦の日」の不思議』

2008年08月16日 | Weblog
 8月15日は、いわゆる「終戦の日」として、日本全国、様々な行事が行われている。

 私自身も、例年のごとく、石川護国神社にて県戦没者追悼平和祈願祭に参列してきた。正午からの、時報にあわせての黙祷では、いつもながら、まさに時間が止まっているかのような厳粛な気分にさせられる。

 ただ、私はこれまでも何度か指摘しているが、この8月15日をもって「終戦」とされるのは、いささかの抵抗を感じてもいる。

 簡単に述べる。

 先の大戦をまさに終結させることになったポツダム宣言。それを日本国政府として正式に受諾を決定し、そのことを連合国側に伝えられたのは、その前日の8月14日である。

 翌8月15日の玉音放送により、そのことが国民に知らしめられた。おそらく、このことをもって、この日を「終戦の日」としているのであろう。

 9月2日、ミズーリー号上で降伏文書調印。日本の軍隊が交戦国軍隊全体に関する全面的休戦を意味する調印である。

 ミズーリー号での降伏文書調印の後、GHQによる日本への占領が行われ、昭和27(1952)年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により、正式に、戦争状態の終結を迎えることになった。国際法的に言っても、日本国の実態から言っても、この日が、本当の終戦の日。

 一方、ソ連軍は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本へ攻め入ってきたのは8月9日。それにあわせて、ソ連もポツダム宣言の共同声明に加わる(なんのこっちゃ)。ソ連は、日本がポツダム宣言を受諾後も侵攻を進め、9月5日に北方四島を支配するに至った。この日まで、日本国民はソ連の軍事力に弾圧・抑圧されていた。その後の、ソ連による旧日本兵のシベリア抑留、さらには、現在にまで至る北方四島不法占拠・・・。

 以上、簡単に歴史的事実を列挙したが、これらから明らかなように、8月15日を「終戦の日」とするには、相当に無理がある。この日は、単に玉音放送の放送日にしかすぎない。

 では、なぜ、この8月15日という日が、今日のように「終戦の日」とされるようになったのか。

 事務的には、昭和32(1957)年に制定された「引揚者給付金等支給法」において、8月15日を終戦の基準としていること、また、昭和42(1967)年に制定された「引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律」、その第二条に『昭和二十年八月十五日(以下「終戦日」という。)』と明記されていることがあげられよう。

 式典としては、昭和38(1963)年の閣議決定により同年から8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われるようになり、さらには、昭和57(1982)年、8月15日を「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定され、現在に至っている。

 さて、問題は、法的なものはともかく、なぜこの8月15日という日が、閣議決定という形で、戦没者追悼式が行われる日として選ばれるようになったのかということである。そもそも、その全国で行われる追悼式が8月15日とされるようになったがために、この日が、「終戦の日」と一般に認識されるようになったといえるからだ。

 日本国憲法が制定されて、国民主権が明確になり、国民にポツダム宣言受諾が告知された日が8月15日だから、という考えはあまりに迎合的に過ぎるし、そんな軽いものでもあるまい。

 それでは、なぜなのか。

 私は、8月15日という日は、いわゆるお盆の日にあたるからだと思っている。民族的文化と密接に結びついている。

 戦後すぐから、このお盆という死者の魂を追憶し供養すべき日と、悲惨な戦争で亡くなった方たちを供養する日として、戦争が終わったことを知った日であるこの日とをもってして、多くの日本人の意識のなかに根づいていった。そして、その後、閣議決定という形で政府がそれを追認したという方が、自然な流れではないだろうか。

 あのジリジリする暑さとあいまって、戦争で多くの方が亡くなったという悲惨さとその方たちを供養する日として、8月15日という日が「終戦の日」として定着していった。

 そんなことに想いを馳せる日であってほしい。

 余談。
 そう考えれば、8月15日というお盆の日に、靖国神社であろうが、護国神社であろうが、全国慰霊祭が行われる武道館であろうが、厳粛な気持ちでお参りするのは、日本人の文化として、ごく自然なことではないだろうか。

 どうしても、政治的な思いをもって、靖国神社参拝を批判したいとするならば、8月14日、もしくは9月2日に参拝した場合であるべきだろう。