山野ゆきよしメルマガ

メールマガジン目標月2回、改め、年24回

「ハインリッヒの法則」からみた回転ドア事故

2005年01月29日 | Weblog
 今月26日、昨年3月に起きた、六本木ヒルズで、6歳の男の子が亡くなった回転ドア事故に関して、六本木ヒルズを運営する森ビルの幹部らが書類送検された。
 六本木ヒルズは、2003年4月のオープン直後から、回転ドアでの事故が多発し、昨年3月の死亡事故までの一年の間に、報告されただけでも32件もの事故があったという。十分、今回の事故が予見されたにもかかわらず、安全な対策をとらなかったというのが、嫌疑とされている。

 特に、2003年12月には、6歳の女の子が頭と右ひざをドアに挟まれ、警備員らが助け出そうとしてもドアが動かず、4分後にようやく救出された。その時には、女の子の黒のタートルネックは血まみれになり、すぐに、救急車で病院へ搬送されたが、右耳の後ろを11針も縫ったという。既に軽傷なんていうものではない、大事故が起きていたのだ。

 現在、六本木ヒルズでは、ほとんどの回転ドアは撤去もしくは使用が停止されているという。当然のことである。
 国土交通省と経済産業省も、専門家らによる検討会を設置し、再発防止のためのガイドライン(指針)を作成したようである。

 昨年3月にこの死亡事故が起きる前までの1年の間に、32件の事故が報告されていたということを聞いて、私を含めて、労働災害で有名な「ハインリッヒの法則」を思い出された方も多かったようだ。実際、ある報道でも、そのことが触れられていた。

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 「ハインリッヒの法則」とは。

 「1:29:300の法則」とも呼ばれている。米国のハインリッヒ氏が、労働災害の発生確率を分析したもので、保険会社の経営に役立てられている。それによると1件の重大災害の裏には、29件のかすり傷程度の軽災害があり、その裏にはケガはないがヒヤリ、ハッとした300件の体験があるというものである。日本では、ハインリッヒを文字って、「ヒヤリ・ハット」の法則ともいわれている。
 同じように、ビジネスにおける失敗発生率としても活用されており、例えば1件の大失敗の裏には、29件の顧客から寄せられたクレーム、苦情で明らかになった失敗がある。さらにその裏には、300件の、社員が「しまった」と思っているが、外部の苦情がないため見逃しているケース、つまり認識された潜在的失敗が必ず存在するといえる。
 一言でいえば、小さな失敗なら、上手く隠すこともできる。しかし、その原因を根治しないと、後々300倍の痛手になって返ってくるというものだ。

 具体例をあげる。
 職場の隅っこに、紙くずが落ちている。社内の整理整頓がなされていない。社内で挨拶をしても、生返事しかしない社員がいる。家庭で、いつも置いてあるはずの所に、新聞が置かれていない。そんなことは、大したことではない。会社がつぶれることもないし、家庭内に何の影響もない。しかし、そのようなことが、改善されることなく積み重なっていくと、トラブルが表に出てくる。

 お客様の所に、間違った商品、連絡が行ってしまう。社内で、ちょっとしたことから、言い争いがおきてしまう。新聞を読もうと思った夫が、すぐに見つけられず、家族に不満をぶつける。それらに対して、根本的な改善策ではなく、当座の対処療法しか施さない。

 すると、今度は、信頼関係を構築できなくなった、大切なお客様から契約を打ち切られる。優秀な社員が会社を辞めてしまう。会社の危機。夫婦、親子内で修復できない状態になってしまう。離婚。家出。

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 ハインリッヒという人は、労働災害の専門家である。労務を管理し、データを分析する方であり、される側の人間ではない。ハインリッヒの法則をビジネスの観点からいえば、それは、サービスを供給する側からの法則であり、受け取る側のものではない。それはそうであろう。CS(顧客満足)なんていわれ出したのは、1980年代くらいからであろうか。

 おもしろい数値がある。「サービス・マネジメント」という、マーケティングについて書かれた本からの引用である。顧客の側からみた、「ハインリッヒの法則」といえようか。

 『ある提供されたサービスに対して不満を持った顧客の96%は、その企業に対して何も言わない。一般にクレームが1件あると、問題を抱えた顧客が他にも24人存在することになり、そのうち6件は深刻な問題である』

 つまり、1:29:300の法則における29のクレームは、不満をもった顧客のうち、わずか4%が発するクレームにしか過ぎないということだ。29件のクレームが発せられたとするなら、実は、不満をもった顧客は単純計算で725人いるということになる。

 なるほど、顧客としての自分を振り返ると納得ができる。
 あるレストランで食事をする。味なり価格なりサービスなりに対して、そのレストランに不満をもつことはよくある。私を含めてほとんどの人は、よほどのことがない限り、直接クレームをつけることはしない。二度と、その店に行かないだけである。96%だ。

 こういう趣旨の記述もある。
 『企業とのビジネスに問題があると感じた顧客は、平均9~10人にその事実について話す。特にその13%は、20人以上にも話をする』
 
 その数値はともかく、確かに、そのレストランの話になれば、厳しい意見を吐いてしまうであろう。

 『苦情を訴えた顧客の54~70%は、問題が解決されれば再びその企業とビジネスをしようとする。特に問題が速やかに解決されたと顧客が感じるときには、その数字は95%にまで上昇する』

 私は、まず、クレームをつけない方だが、仮にクレームをつける4%に入った場合、先方が速やかに対応していただければ、逆に、責任を感じて、再度そのレストランに足を運ぶことになるであろう。

 本来の、ハインリッヒの法則が表わす通り、重大な失敗を回避することに留意することが一番大切であることはいうまでもない。しかし、万が一、そのような状況に陥ってしまった場合は、とにかく、スピード感を持って対応することが、非常に重要なポイントになってくる。

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 森ビルほどの大会社の労務担当者が、「ハインリッヒの法則」を知らないはずはない。しかしながら、32件という事故の報告を受けても、小さな女の子が、血まみれの事故にあったということを聞いても、取り返しのつかない事故、事件に繋がりかねないというところにまでは、思いは至らなかったようである。

 私は、私の長男と同い年である男の子が犠牲になった、今回の六本木ヒルズでの事故を報道で知って、とても穏やかではいられなかった。胸が引き裂かれるような思いであった。

 その子の葬儀の際、祭壇には、ピースサインをした笑顔の遺影と、4月から使うはずだった真新しいランドセル、好きだった絵本、幼稚園の修了証などが並べられたという。
 この年齢の子がいる家庭ならどこでも、この時期には小学校入学の準備は万端に整えているはずである。

 ランドセルのほかにも、制服、ズック、文房具等々、その他、数多くの夢、希望。
 ご両親は、一生、それらを大切に守っていかれることであろう。


強制換羽

2005年01月15日 | Weblog
 今年は酉年。「トリ」にちなんだ、話題を一つ。
 本当は、新年早々に、お送りしたかったのだが、どうしても、落し所がしっくりこなかったので、なかなか発信できなかった。実は、これまでも、同じような理由で躊躇し、結局、時機を逸して、出さずじまいのメルマガも数多くあった。
 今年のメルマガのささやかな思いとして、できるだけ、月二回発信を目途にできればと考えている。しっくりこない落し所も含めて、お送りしてしまう。

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 「強制換羽(きょうせいかんう)」という言葉がある。

 卵からひよこが孵り、やがて、成長した鶏たちは新鮮な卵を産むようになる。若い鶏たちは、栄養価の高い、日本人好みの卵を産む(ように管理されている)が、初産から、10ヶ月後くらいから、卵質が低下した卵が増えてくるという。

 養鶏業者はどうするのか。

 その鶏たちに餌を与えないようにするという。人間でいう、断食である。しかも、当たり前のことだが、鶏の意思は関係ない。強制的に、断食させられる。

 鶏たちの本能が働く。生きていくために、少しでも無駄なエネルギーは消費しない。当然、卵は産まなくなる。羽も少しずつ落ちてくる。そんなところに栄養をまわす余裕はない。この段階で、弱い鶏の中には、死んでしまうものもあるという。

 養鶏業者もプロである。ある段階にきたら(体重の25~30%減少が目途だという)、再び餌を与えだす。鶏たちも、必死に喰らいつき、少しずつ元気になってくる。古い羽から新しい羽に、すっかり生えかわり、再び、卵を産むようになる。この時の卵は、最初のものと変わらないくらい、栄養価の高い卵であるという。

 これを「強制換羽」という。
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 大変、含みのある話だと思う。(鶏たちにとっては、迷惑この上ない話だが。)
 以下、しっくりこなかった落し所を二つ。

 その一。
 人間誰しも、失敗や挫折はある。
 受験での失敗。スポーツ等での苦い敗戦。社会人になってからの仕事上、もしくは、人間関係での、大きな挫折。私の職業でいえば、選挙での落選、等々。
 そんな時であっても、実は、それは、社会から、天から、市民から与えられた、「強制換羽」の機会なのである。
 その苦境は、鶏たち同様、自ら望んだものではない。しかしながら、自らの責任であるという点においては、鶏たちとは全く違う。大切なことは、その間、悪態をついたり、現実から逃避してしまったりといった、無駄なことに時間や気持ちを費やすのではなく、ひたすら、次に必ず訪れるであろうチャンスのために、新たなエネルギーを蓄積する。たとえ、ささやかなものであったとしても、好機がきたならば、それを、しっかりととらまえて、活かしていく。苦しい「断食」の際に、しっかりと蓄えてきたものが基になって、以前同様、否、それ以上の素晴らしい成果を生み出していけるように。
 ・・・・・・。

 その二。
 現在、自分は、誰にも負けないだけの努力をしてきているし、実績も残している。スポーツ、勉強、仕事、さらには、様々な人間関係等々。
 自分がこの立場を抜けてしまうと、きっと、この組織は立ち行かなくなる。間違いなく、このチームは弱くなってしまう。売上は大きく落ち込んでしまう。上手く回転していたものが、滞ってしまう。だから、自分は、絶対に引くわけにはいかない、と一人、思い込んでしまっていることが、決して少なくはない。

 ところが、実は、その自分の思い込みとは相反して、必ずしもそうとは言い切れない場合も、やはり少なくはない。

 むしろ、そうこうしているうちに、だんだん、「卵質が低下した卵」が増えてくることに気付かなくなってしまう。裸の王様。
 最近の大きな経済界の話題で言えば、ダイエーの中内氏や西武の堤氏などがあげられる。ちょっと前の、ヤオハンの和田氏もそうだ。NHKの海老沢会長もそうか。

 どこかの段階で、大所高所から、強制換羽の機会が与えられることが必要かもしれない。そのことが、次なる、大きな飛躍に繋がる。

 「経営の神様」といわれた、松下幸之助は、生まれつき身体が弱く、会社の規模が大きくなるにつれて、仕事を人に任せざるを得なかったという。そのことから、事業部制をひき、多くの仕事とそれらに伴った責任と権限とを、委譲していったという。生来の病弱さが、「強制換羽」の機会になったといえる。
 
 ホンダの本田宗一郎には藤沢武夫が、ソニーの盛田昭夫には井深大が、それぞれ、「強制換羽」の役割を果たしていたのかもしれない。

 本田宗一郎は、退任が決まった後のある会合で、藤沢にいった。
 「まあまあだな」
 「そうまあまあさ」と藤沢。
 「幸せだったな」、「本当に幸せでした。心からお礼をいいます」「おれも礼をいうよ。良い人生だったな」
 ・・・・・。
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 「その一」の方は、理屈では分ってはいるが、やはり、そのような状況には、できるだけ、なりたくはないという保身の気持ちが起きてくる。それだけに、そのようなことで結論付けても、偽善的に過ぎるし、何といっても、書いていて白々しい。

 「その二」の方は、その前提である、大きな成功体験、否、努力さえも十分しているとはいえない私には、僭越に過ぎる。細木数子じゃあるまいし、そんな、無責任で放縦なことを断定的に書くことはできない。だから、途中で書くこともできなくなってしまった。

 文章にしてしまうと、何ということもない、味気ないものになってしまったが、ちょっとしたスピーチで利用してみると、それほど悪くないネタである。

 私は、これまで何度か、スピーチで使ったが、聞き手の方たちが、ぐっと関心を持って、引き込まれてくるのを、ひしひしと感じた(ような気がする)。

 二月くらいまでは、使えるネタである。

日本における「ニュースの天才」

2005年01月05日 | Weblog
 人気ジャーナリストによるスクープ記事捏造という、衝撃的な事実を題材にした米映画「ニュースの天才」が、東京はじめ大都市では既に上映され、好評を博しているという。

 その映画の中で、実在するスーパージャーナリストをモデルにした主人公が、「僕は、『読者が求めているニュース』を書いてきたのだ」と言い切っている場面がある。
 社会に影響力を持ちうる、ジャーナリストとしての大いなる自負と、鼻持ちならない不遜とが感じられ、日々、多くの情報に、一方的にさらされてばかりいる立場の私たちにとっては、複雑な思いにさせられてしまう。

 先日、あるニュースに触れた私は、「読者が求めている」、否、「読者を(無責任に)おもしろがらせる」ことだけを目的とする報道が、この後、センセーショナルにばら撒かれるのではないかという危惧の念を感じた。

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 先月、12月の上旬頃に、埼玉県教育委員会の新しいメンバーに、明星大学の高橋史朗教授が選任される見込みであるとの報道がなされた。高橋氏が、扶桑社から出された「新しい歴史教科書」を主導した「新しい歴史教科書をつくる会」の元副会長であることをもってして、既に、さも大問題であるかのような記事であった。先に述べた「危惧」ではなく、既に、それそのものであったような気さえする。

 埼玉県議会でこの人事案件が正式に承認された、12月20日の翌日のある新聞には、そのことについて、特報として、センセーショナルに大きなスペースが割かれていた。しかも、「揺れる『中立性』?」「教育委員だれが決める?」などという、「?」を多用する、スポーツ新聞張りの大見出し付きである。さらに付け加えて、高橋氏の教育委員任命に反対して、抗議のデモをしている団体の写真も、大きく掲載されていた。その写真にあったプラカードの文言は、ひたすら、「!」の乱れ打ちである。「高橋史朗にNO!」「教育委員にするな!」「知事は法律違反をするな!!」etc。やっぱり、スポーツ新聞だ。東スポを思い出した。
 デスクの激しい気分の高揚が感じられると同時に、記事をまとめた記者の、「僕は、『読者が求めているニュース』を書いてきたのだ」という声がこだまする。明らかに、ある意図を持った記事である。しかも、見出しに「?」を濫用することによって、誘導尋問的に世論操作を企図したものである。

 一方では、幸いなことに、その『読者が求めているニュース』に対して、冷静に、理性的に検証しようという報道も、いくつか見られる。

 それらいくつかの報道を参考にしていきながら、この問題を整理し、教育の中立性、教育委員会のあり方について、考えてみたい。

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 今回、高橋史朗氏の県教育委員就任について、反対団体が問題にしている点は、大きく次の二点である。

 1.今回、例として取り上げた新聞記事の大見出しにあるように、任命にあたって、「教育の中立性」はどのように担保されたのか。
 2.高橋氏は、扶桑社から出された「新しい歴史教科書」を主導した「新しい歴史教科書をつくる会」の元副会長であり、現在も会員である。そのような人が、教育委員では、教科書採択の公正が侵害されるのではないか。

 他にも、相当、感情的な議論もあるようだが、論評に値するものは以上二点であろう。

 さて、一つ目。
 恥ずかしながら、今回の問題が起きて、私は、初めて、教育委員会の法的根拠というものをじっくり精査した。

 教育委員会は、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」によって、その存在が担保されている。そのうち、委員の任命についての制約は、第四条三項、「委員の任命については、そのうち3人以上が同一の政党に所属することとなってはならない。」と、第十一条五項の「委員は、政党その他の政治的団体の役員となり、又は積極的に政治運動をしてはならない。」だけである。(もちろん、破産者とか禁固以上の刑、職務違反云々とかいうものもあるが、それらは常識以前のものとして、ここでは触れない。)

 つまり、第四条三項の規定は、一人一人の教育委員が、どのような思想信条、政治的立場を取っているかを問題にしているのではなく、五人で構成される合議体の決定・執行機関である教育委員会総体として、特定政党の政策に左右されないということを意味しているのである。個々の教育委員に、政治的中立を求めているものではない。その証拠に、第十一条五項にある、「委員は、政党その他の政治的団体の役員となり、又は積極的に政治運動をしてはならない。」とは、個々の教育委員の政治的活動を前提にしており、あくまでも、その行き過ぎに注意喚起を促しているものである。

 そもそも、教育委員会制度は、戦前の教育制度の反省から、住民自治で政策決定することを前提に、昭和23年から、市民が直接委員を選ぶ「公選制」として始まったものである。委員一人一人を選挙で選んでいたのである。委員個々が自分の政治的立場、教育的思想を明確にすることによって、選挙によって決められていたのである。ところが、実際には、55年体制のもと、政治的イデオロギー対立が教育の場に持ち込まれることが少なくないこともあって、昭和31年から現在の、自治体の首長が「任命」し、議会の同意をもって「承認」とされる制度になったのである。もともとが、委員個々人は、政治的、思想的立場を明確にされていたのである。そうでないと、選ぶ方が困ってしまう。

 もう一つ、そもそも論で言えば、何の教育的、政治的思想を持たない委員たちで教育委員会が構成されてしまっては、単なる烏合の衆の集まりとなってしまい、これまでにも多々見られた、様々な圧力に、唯々諾々として従属する「仲良しクラブ」に堕してしまいかねない。
 残念ながら、そのような教育委員会が少なくないがために、文科相の諮問機関である中教審からでさえも、その存在意義が問われているのである。

 高橋氏の任命において問題があるとするならば、高橋氏がある政党の党員で、埼玉県教育委員会には、既に、その政党の党員である教育委員が二名存在している場合だけである。
 私は寡聞にして、その議論を耳にしたことはない。高橋氏はどの政党の党員でもないという報道を見かけたが、私はその確認をしてはいない。するまでもないであろう。

 「?」や「!」を濫発する、感情的な物言いはさておいて、教育委員会に求める、「教育の中立性」とは、以上の議論につきるのである。

 二つ目。
 教科書採択の公正が侵害されるという意見を述べる方たちは、先の法律の第十三条五項「教育委員会の委員は、自己の従事する業務に直接の利害関係のある事件については、その議事に参与することができない。」を、その根拠に、過去、教科書監修者の経歴を持つ高橋氏は、教育委員としてふさわしくないとしている。

 しかし、教科書の執筆者・監修者であっても、教育委員になっている例は、決して少なくはないという。例えば、東京都文京区では、教育委員である上智大学の猪口邦子教授は、教育出版の中学校社会科教科書の執筆者で、しかも、文京区では、その教育出版の教科書が三年前から採択されている。それでは、先にあげた法律に抵触するのではないかと思われるかもしれない。

 実は、法律をよく読めば書いてあるのだが、この第十三条は、教育委員会の「会議」の持ち方、進め方を規定したものであり、教育委員の任命とは全く関係はない。
 この規定に従い、文京区では、中学校社会科教科書の採択の議事に限り、猪口氏は一時退席しているという。第十三条の二項においては、そのことを前提としての規定も記されている。それはそうであろう。教育委員の仕事は教科書採択だけではない。猪口氏はその他多くの議事において、大切な役割を果たしているに違いない。
 議論を混同してはいけない。

 そもそも、高橋氏は確かに、「新しい歴史教科書をつくる会」の会員ではあるが、来年度採択を検討される教科書には、執筆者としても監修者としても、全く関与していないという。何のことはない、今回の場合、問題にしている前提そのものが存在していないのである。

 以上、できるだけ感情論は排して、法律に基づき、一般の議論に耐え得る検証を加えてきたつもりである。

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 実は、今回の問題が起きるまで、私は、高橋史朗氏なる人物をほとんど全く知らなかった。その著作はもちろん、執筆された文章すら読んだことはなかった。

 私が問題提起したかったことは、「高橋史朗」、「埼玉県」、「教科書」などという、具体的個別的なテーマではなく、「教育委員会のあり方」、「マスコミ報道のあり方」といった普遍的一般的な課題である。

 教育委員会のあり方については、私は過去にも、このメルマガで問題提起をしている。(「教育委員会のあり方」参照)
 今回のテーマは、さしずめ「教育委員のあり方」といったところであろうか。

 さて、問題は、マスコミ報道の方である。先に例にあげたもののように、今回の高橋氏の任命にあたって、一部で見られる報道は、明らかに、偏りが見られる。記事は、いかにも多くの市民が反対しているように書かれているが、法に基づいた理性的な決定を反故にしようとしているのは、明らかに、衆を恃んでデモ行進を行ったりして威嚇行動に出ている人たちである。私は、扇動されて声をあげている方たちの善意を疑うものではないが、あまりにも無防備に過ぎる。

 もちろん、デモ行為自体は、憲法で保障された表現の自由の範囲内で行われる限りにおいては、正当な権利である。私は、その行為そのものを否定しているのではない。
 私は、今回のデモを直接見たわけでもないし、あくまでも、この偏った内容の新聞記事内で、必要以上に大きく扱われている写真からの判断でもあり、いくらか曇った目で見てしまっているのかもしれない。

 先にも書いたように、その写真に写っているプラカードには、「高橋史朗にNO!」、「教育委員にするな!」、「知事は法律違反をするな!!」なる言葉が見られる。これでは、主義主張でも何でもない。単なる、個人に対する品のない誹謗中傷であり、不勉強なマスコミ受けを狙った示威行為である。知事は、法律を守っているし、そのことをそうでないように喧伝し、理性的な合法行為を否定しようとしているは、そのプラカードを担いでいる彼ら自身である。中には、「上田知事は恥を知れ、マスコミと市民をだましてるぅ!!」なんていうものまであった。そのまま、まっすぐ、自分たちにかえってきている。

 再度繰り返すが、そのような意思表示であっても、法律に則ってデモ行為を行うこと自体については、私は、権利としては、理解しているつもりである。しかし・・・。

 弱者に立ったふりをして(もしくは、そう思い込んで)、自分たちの意見と違う声を消し去ろうという、威嚇的行為を繰り返すことは、全体主義、ファシズムを彷彿とさせかねないものである。そして、そのような行為を、空疎な正義感で、勉強不足のまま、大掛かりに報道しようという姿勢に対しては、私たちは、良識とバランス感覚とを持って、しっかりと対峙していかなければならない。

 「ニュースの天才」は、米娯楽映画の世界だけのものではない。