安倍総理が辞任を表明された。閣僚の不祥事や失言が、その大きな原因の一つともされる参議院選挙惨敗の責めを負わされたとも言われている。ここは、それ以上その議論をするつもりはない。
ただ、松岡農相(当時)自殺は、その原因が何であれ、安倍総理は、自分自身の任命した閣僚が縊死するという、政治と行政の長として、また、一人の友人として、大変つらい思いをされたことであろうことは間違いない。だからこそ、報道陣に囲まれた際に、思わず、「慙愧に堪えない」という言葉がでたのであろう。
「慙愧に堪えない」。その安倍総理の言葉を、私は新聞で知って、心情的なものは理解できるとしても、やはり、強い違和感を覚えざるを得なかった。
白川静の著書「字統」(平凡社)によると、「慙愧」とは大要、以下のような語源となる。
最古の部首別漢字字典「説文解字」(紀元100年頃成立)の中に、「慙(ざん)」は「媿(は)づるなり」とあり、「媿(き)」は同じく「慙(は)づるなり」とある。つまり、「慙愧(媿の略字)」は、お互いに意味を注釈しあう文字同士である「互訓」である。
つまり、「慙愧」とは、自らを省みて恥じる、正しくないことを自責するという意味なのである。
私の漠然とした違和感を説明してくれている。
安倍総理は、その発言の前段において、「任命権者としての責任を感じている」という趣旨のことを述べられている。しかし、ここで続けて、「慙愧に堪えない」という言葉を使ってしまうと、松岡氏を農相に任命した自分自身を恥ずかしく思う。つまり、もともと農相の任にふさわしくなかった松岡氏を農相に任命した自分自身の不明を恥じる、という意味になってしまう。そのことがあたっているかどうかはともかくとして、これでは、松岡氏はあまりにも浮かばれない。切ない。
もちろん、安倍総理がそんな意図でこの言葉を使ったわけではなく、同じ内閣の松岡氏の突然の逝去を悼み、また、日本の農政に真摯な想いを抱いていたであろう松岡氏の無念の気持ちを代弁した言葉であろうことは疑いようもない。いくつもの新聞紙上においても、安倍総理のその言葉をそれなりの見出しにもってきていたのは、総理のその思いを忖度した上でのことであったろう。少なくとも、事件直後の新聞紙上では、その言葉の意味合いを詮索する議論は見かけなかった。死者に鞭打つことになりかねないことはしない日本人の美意識なのであろうか。
しかし、この時代、ネットというものがある。やはり、総理のその言葉に対する誤用を指摘する記述がそこここで見られた。強烈な記述もあった。私自身も安倍総理が在任中はこの文を書くつもりもなかったが、今となってはすんだことだ。総理の真意さえ理解していれば、どうでもよいことだ。(実は気になっているけど・・)
さて、安倍総理には、自らが、再チャレンジの範となって必ずや復活して欲しいし、その責任もあるということを自覚して欲しい。
私のメルマガ「強制換羽」でも読んでもらおうか。
ただ、松岡農相(当時)自殺は、その原因が何であれ、安倍総理は、自分自身の任命した閣僚が縊死するという、政治と行政の長として、また、一人の友人として、大変つらい思いをされたことであろうことは間違いない。だからこそ、報道陣に囲まれた際に、思わず、「慙愧に堪えない」という言葉がでたのであろう。
「慙愧に堪えない」。その安倍総理の言葉を、私は新聞で知って、心情的なものは理解できるとしても、やはり、強い違和感を覚えざるを得なかった。
白川静の著書「字統」(平凡社)によると、「慙愧」とは大要、以下のような語源となる。
最古の部首別漢字字典「説文解字」(紀元100年頃成立)の中に、「慙(ざん)」は「媿(は)づるなり」とあり、「媿(き)」は同じく「慙(は)づるなり」とある。つまり、「慙愧(媿の略字)」は、お互いに意味を注釈しあう文字同士である「互訓」である。
つまり、「慙愧」とは、自らを省みて恥じる、正しくないことを自責するという意味なのである。
私の漠然とした違和感を説明してくれている。
安倍総理は、その発言の前段において、「任命権者としての責任を感じている」という趣旨のことを述べられている。しかし、ここで続けて、「慙愧に堪えない」という言葉を使ってしまうと、松岡氏を農相に任命した自分自身を恥ずかしく思う。つまり、もともと農相の任にふさわしくなかった松岡氏を農相に任命した自分自身の不明を恥じる、という意味になってしまう。そのことがあたっているかどうかはともかくとして、これでは、松岡氏はあまりにも浮かばれない。切ない。
もちろん、安倍総理がそんな意図でこの言葉を使ったわけではなく、同じ内閣の松岡氏の突然の逝去を悼み、また、日本の農政に真摯な想いを抱いていたであろう松岡氏の無念の気持ちを代弁した言葉であろうことは疑いようもない。いくつもの新聞紙上においても、安倍総理のその言葉をそれなりの見出しにもってきていたのは、総理のその思いを忖度した上でのことであったろう。少なくとも、事件直後の新聞紙上では、その言葉の意味合いを詮索する議論は見かけなかった。死者に鞭打つことになりかねないことはしない日本人の美意識なのであろうか。
しかし、この時代、ネットというものがある。やはり、総理のその言葉に対する誤用を指摘する記述がそこここで見られた。強烈な記述もあった。私自身も安倍総理が在任中はこの文を書くつもりもなかったが、今となってはすんだことだ。総理の真意さえ理解していれば、どうでもよいことだ。(実は気になっているけど・・)
さて、安倍総理には、自らが、再チャレンジの範となって必ずや復活して欲しいし、その責任もあるということを自覚して欲しい。
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