先般、石川インドネシア友好協会主催による、講演会に行ってきた。インドネシア総領事が金沢に来て講演していただけるということで、楽しみにしていた。期待通りの、私たち日本にいてはとても知り得ないお話を色々と聴かせていただいた。
講演の後の懇親会で、協会の方で、気を遣っていただき、挨拶の機会をいただいた。
私は、インドネシアと金沢との接点という観点から、先の大戦後、前田家末裔の前田利貴陸軍大尉が殉死された話を手短に述べてきた。ほんの数分、しかもざわめく会場ということもあり、どれだけ、正しく伝わったか分らなかった。ただ、その後、何人かの方から、もう少し詳しく聞かせて欲しいと言われ、私の知っている範囲のことを述べさせていただいた。
―――――
昭和20年8月15日のポツダム宣言受諾。その宣言に基づき、敗戦国日本をターゲットにした戦争犯罪裁判が行われた。
ところで、一般に、A級戦犯及びBC級戦犯とよくいわれているが、私たち日本人は、それらを、被告とされた人物の階級を指した序列を表すものと思い込みがちであるが、決してそうではない。
ABCとは、日本より早くに準備された、ドイツのニュールンベルグ裁判における戦争犯罪の規定に由来している。
すなわち、大まかにいって、A項目「平和に対する罪」、B項目「戦争法規及び慣習の違反」、C項目「捕虜の虐待を含む人道に対する罪」、それぞれを表わすABCなのである。
よって、正確には、A級戦犯ではなく、A項目戦犯容疑者というべきであろう。ABCという順番が、階級好きの日本人の性向にあってか、いつの間にか、A級戦犯、BC級戦犯という誤解を招きがちな表記が一般化していった。
結果的には、A項目戦犯容疑者とは、指導的立場にある高位高官の人物が多く、BC項目戦犯容疑者とは、戦争の現場における直接の指揮者、責任者、執行者等の人物が多くなり、尚一層、その印象が強まってしまったようだ。
ちなみに、A項目の「平和に対する罪」なる概念は、この裁判のために急遽作り上げられた考え方である。しかしながら、言ってしまえば、戦争それ自体が、「平和に対する罪」そのものであり、そのような罪状名を作り上げてしまうと、それで全てが完結してしまう。裁判を行う意味をなさないのではないだろうか。
さらに言えば、日本を裁いた連合国側には、リアルタイムで北方四島と北海道を侵略中で、しかも、日本軍兵士数十万人をシベリアに抑留し、強制労働させている真っ最中であったソ連(現ロシア)までが裁判官として加わっていたことや、この後述べるが、日本の敗戦後すぐに、独立宣言をしたインドネシア占領に乗り出したイギリスなどに、「平和に対する罪」などと言って責められたということでは、全くもって、たまったものではない。
さて、BC級戦犯容疑者裁判である。
これらはアメリカ、イギリス、オーストラリアなど7カ国が主宰国となり、国内外の49の裁判所でほとんど非公開で行われた。5,700人が捕虜虐待や民間人殺戮などの戦争法規違反に問われ、920人が処刑されたという。
BC級戦犯裁判も、東京裁判同様に、首を傾げたくなる内容も多かった。元捕虜の証言などを手がかりに犯人捜しが行われたが、身に覚えのない容疑で逮捕され、処刑された「戦犯」も少なからずいたようである。また、イギリスやオーストラリア、オランダのように、日本軍の捕虜になった者を裁判官に選び、報復的な処置を前提にしたり、罪状調査、陳述などを省略するもの、通訳のつかなかったりしたものも多数あった。中には、法廷では本人に陳述の機会すら与えられないケースもあり、いきおい、感情的な判決も多かったと思われる。
さて、BC級戦犯裁判について書かれた書物をいくつか読んでみると、インドネシアに再侵略したオランダの軍事裁判が、もっとも粗暴であったと書かれたものが多い。
日本とオランダとの戦闘行動は僅か9日間に過ぎず、よって、捕虜や一般市民の受けた人的被害は、他の連合諸国に比べても、最も軽微なものであった。
それなのに、なぜ、戦犯に問われた数とその量刑とは、他とは比較にならないほど重酷なものであったのか。
その理由の一つとしてあげられるのは、オランダの「プライド」であろう。
オランダ本国が、既にヨーロッパ前線において、ドイツとの戦いに疲弊している間隙を縫って、インドネシアが日本に奪われてしまったという「怨み」。また、日本敗戦後も、オランダ自らインドネシアを奪い返したのではなく、イギリス軍が上陸し、日本の武装解除をしてから、オランダが譲り受けたという「屈辱」。
もう一つの大きな理由は、オランダが再びインドネシアに上陸した際の、インドネシア独立共和国との闘争、さらには、そのインドネシア独立に、日本兵が大きく力を貸していたという事実があげられる。
このテーマは長くなるので、ここではこれ以上触れないが、日本人として、是非知っておかなければいけない事実である。
それらを全て受けての、「前田利貴陸軍大尉」である。
―――――
インドネシアのティモール島クーパン収容所で行われた裁判において、昭和23年4月29日に、前田利貴陸軍大尉が死刑を宣告された。
前田利貴は、加賀藩主前田家の末裔で、正確に言うと、第13代藩主前田斉泰(なりやす)の玄孫(孫の子供)にあたる。彼の父親は華族でもあり、彼自身は、学習院高等科から法政大学に入り、卒業後は、三井物産に勤めていた。馬術が得意で、幻の東京オリンピックの候補選手でもあった。
前田の罪状は、ティモール島及びサウ島で逮捕した捕虜に拷問を加え、死に至らしめたということである。
もちろん、それらは、前田の預かり知らぬことであり、むしろ、裁判においては、原住民特にサウ島民の多くが、「最後の公判の時まで、私の為に有利な証言をして呉れた」(『世紀の遺書』より。以下、引用は全て同書より)ことからも明らかなように、「サウ島警備隊長時代の至誠が天にも通じている」仕事ぶりであった。
これは、前田の毛並みの良さが、予め、オランダ当局に目をつけられていたことに起因する罪状であったようだ。本人も、これまでの処遇から、その点は充分覚悟していて、「今日あるを予期し前以て遺髪を送った次第」と認(したた)めている。
前田の育ちの良さ、教育の深さは、この遺書の中からでも自然、感じられてくる。
前田とともに処刑された、穴井秀雄兵長が、「昔の楽しかった思ひ出にふけると死ぬのがいやになる」と言うが、前田の場合は、「将来の希望を胸にうかべた時一番死ぬのが嫌になる」と述べている件からも、充分、彼の性向が窺うことができる。
やや長いが、前田の人格を端的に表わす部分を遺書から引用する。
「兄(前田の遺書は、弟妹に宛てたものである)が死の判決を割合に平然と受けることが出来たのは、之全く御両親の御教養の賜に外ならず、之を見ても我々の御両親は我々が知らぬ間に人間最大の修養をちやんとして居て下さつたのだ。(中略)今となつては其の高恩を何一つ御報いすることが出来ないのは慙愧に耐へない。故に皆は是非兄に代わつて御両親を大切に孝養を尽くしてください」
さて、前田に対してだけではなく、インドネシアに置ける日本人捕虜への虐待は、猖獗を極めたものであった。
捕虜たちは、犬や猫の物真似をさせられたり、夜中に、突然起こされ、コンクリートの上に二時間も座らせられて、罵詈雑言を浴びせられたり、日本人同士の殴り合いをさせられたり、床の上にばら撒いた飯粒を這いつくばって食べさせられたり等々、「彼らが我々のことを事件に取りあげている以上の虐待を重ねて」受け、捕虜たちは半死半生となった。
しかし、捕虜たちは、「『我々はどうせ死ぬのだ。この虐待は我々一身に引き受け(中略)同胞の人に少しでも虐待の及ばぬように!』と申し合わせ神に祈っている次第です」と励ましあっていた。
そんな中でも、前田は最後まで誇りを失わなかった。死の前日に、残る捕虜たちに世話になったお礼の手紙を書き、「私の希望として検事に申し出たこと」として、次のように書いている。
「1.目かくしをせぬ事
2.手を縛らぬ事
3.国歌奉唱、陛下の万歳三唱
4.古武士の髪に香をたき込んだのに習い香水一ビン(之は死体を処理するものに対する私個人の心づかいであります)
5.遺書遺髪の送付
以上全部承認」
処刑前夜、前田は、ともに死ぬことになる穴井に対し、こまごまと注意を与えていたという。
「穴井君。左のポケットの上に白布で丸く縫いつけましたか」
「はい。明るいうちにつけておきました」
「白い丸が心臓のところにあたる。明日は早いから目標をつけて置かぬと弾が当たりそこなったら長く苦しむだけだからね。発つ時は、毛布を忘れないように持って行きましょう。死んだら毛布に包んでもらうのです。砂や石が直接顔に当たって、ちょっと考えるといやな気がするからね」
翌朝早く、二人は書き置いたとおりの手順と態度で銃殺された。大きな声で歌も歌い、二人何か言葉を交わして、静かな笑い声をあげた直後、銃撃音が響いたという。
その時、昭和23年9月9日午前5時45分。
さすがの監視兵たちも、この歌声と笑い声の最期には、恐れと驚きを感じたらしい。あれほど続いていた収容所内での虐待が、その時以来、すっかりやんでしまったという。
「『我々はどうせ死ぬのだ。この虐待は我々一身に引き受け(中略)同胞の人に少しでも虐待の及ばぬように!』と申し合わせ神に祈っている」
彼らの祈りは、神に通じたのである。
講演の後の懇親会で、協会の方で、気を遣っていただき、挨拶の機会をいただいた。
私は、インドネシアと金沢との接点という観点から、先の大戦後、前田家末裔の前田利貴陸軍大尉が殉死された話を手短に述べてきた。ほんの数分、しかもざわめく会場ということもあり、どれだけ、正しく伝わったか分らなかった。ただ、その後、何人かの方から、もう少し詳しく聞かせて欲しいと言われ、私の知っている範囲のことを述べさせていただいた。
―――――
昭和20年8月15日のポツダム宣言受諾。その宣言に基づき、敗戦国日本をターゲットにした戦争犯罪裁判が行われた。
ところで、一般に、A級戦犯及びBC級戦犯とよくいわれているが、私たち日本人は、それらを、被告とされた人物の階級を指した序列を表すものと思い込みがちであるが、決してそうではない。
ABCとは、日本より早くに準備された、ドイツのニュールンベルグ裁判における戦争犯罪の規定に由来している。
すなわち、大まかにいって、A項目「平和に対する罪」、B項目「戦争法規及び慣習の違反」、C項目「捕虜の虐待を含む人道に対する罪」、それぞれを表わすABCなのである。
よって、正確には、A級戦犯ではなく、A項目戦犯容疑者というべきであろう。ABCという順番が、階級好きの日本人の性向にあってか、いつの間にか、A級戦犯、BC級戦犯という誤解を招きがちな表記が一般化していった。
結果的には、A項目戦犯容疑者とは、指導的立場にある高位高官の人物が多く、BC項目戦犯容疑者とは、戦争の現場における直接の指揮者、責任者、執行者等の人物が多くなり、尚一層、その印象が強まってしまったようだ。
ちなみに、A項目の「平和に対する罪」なる概念は、この裁判のために急遽作り上げられた考え方である。しかしながら、言ってしまえば、戦争それ自体が、「平和に対する罪」そのものであり、そのような罪状名を作り上げてしまうと、それで全てが完結してしまう。裁判を行う意味をなさないのではないだろうか。
さらに言えば、日本を裁いた連合国側には、リアルタイムで北方四島と北海道を侵略中で、しかも、日本軍兵士数十万人をシベリアに抑留し、強制労働させている真っ最中であったソ連(現ロシア)までが裁判官として加わっていたことや、この後述べるが、日本の敗戦後すぐに、独立宣言をしたインドネシア占領に乗り出したイギリスなどに、「平和に対する罪」などと言って責められたということでは、全くもって、たまったものではない。
さて、BC級戦犯容疑者裁判である。
これらはアメリカ、イギリス、オーストラリアなど7カ国が主宰国となり、国内外の49の裁判所でほとんど非公開で行われた。5,700人が捕虜虐待や民間人殺戮などの戦争法規違反に問われ、920人が処刑されたという。
BC級戦犯裁判も、東京裁判同様に、首を傾げたくなる内容も多かった。元捕虜の証言などを手がかりに犯人捜しが行われたが、身に覚えのない容疑で逮捕され、処刑された「戦犯」も少なからずいたようである。また、イギリスやオーストラリア、オランダのように、日本軍の捕虜になった者を裁判官に選び、報復的な処置を前提にしたり、罪状調査、陳述などを省略するもの、通訳のつかなかったりしたものも多数あった。中には、法廷では本人に陳述の機会すら与えられないケースもあり、いきおい、感情的な判決も多かったと思われる。
さて、BC級戦犯裁判について書かれた書物をいくつか読んでみると、インドネシアに再侵略したオランダの軍事裁判が、もっとも粗暴であったと書かれたものが多い。
日本とオランダとの戦闘行動は僅か9日間に過ぎず、よって、捕虜や一般市民の受けた人的被害は、他の連合諸国に比べても、最も軽微なものであった。
それなのに、なぜ、戦犯に問われた数とその量刑とは、他とは比較にならないほど重酷なものであったのか。
その理由の一つとしてあげられるのは、オランダの「プライド」であろう。
オランダ本国が、既にヨーロッパ前線において、ドイツとの戦いに疲弊している間隙を縫って、インドネシアが日本に奪われてしまったという「怨み」。また、日本敗戦後も、オランダ自らインドネシアを奪い返したのではなく、イギリス軍が上陸し、日本の武装解除をしてから、オランダが譲り受けたという「屈辱」。
もう一つの大きな理由は、オランダが再びインドネシアに上陸した際の、インドネシア独立共和国との闘争、さらには、そのインドネシア独立に、日本兵が大きく力を貸していたという事実があげられる。
このテーマは長くなるので、ここではこれ以上触れないが、日本人として、是非知っておかなければいけない事実である。
それらを全て受けての、「前田利貴陸軍大尉」である。
―――――
インドネシアのティモール島クーパン収容所で行われた裁判において、昭和23年4月29日に、前田利貴陸軍大尉が死刑を宣告された。
前田利貴は、加賀藩主前田家の末裔で、正確に言うと、第13代藩主前田斉泰(なりやす)の玄孫(孫の子供)にあたる。彼の父親は華族でもあり、彼自身は、学習院高等科から法政大学に入り、卒業後は、三井物産に勤めていた。馬術が得意で、幻の東京オリンピックの候補選手でもあった。
前田の罪状は、ティモール島及びサウ島で逮捕した捕虜に拷問を加え、死に至らしめたということである。
もちろん、それらは、前田の預かり知らぬことであり、むしろ、裁判においては、原住民特にサウ島民の多くが、「最後の公判の時まで、私の為に有利な証言をして呉れた」(『世紀の遺書』より。以下、引用は全て同書より)ことからも明らかなように、「サウ島警備隊長時代の至誠が天にも通じている」仕事ぶりであった。
これは、前田の毛並みの良さが、予め、オランダ当局に目をつけられていたことに起因する罪状であったようだ。本人も、これまでの処遇から、その点は充分覚悟していて、「今日あるを予期し前以て遺髪を送った次第」と認(したた)めている。
前田の育ちの良さ、教育の深さは、この遺書の中からでも自然、感じられてくる。
前田とともに処刑された、穴井秀雄兵長が、「昔の楽しかった思ひ出にふけると死ぬのがいやになる」と言うが、前田の場合は、「将来の希望を胸にうかべた時一番死ぬのが嫌になる」と述べている件からも、充分、彼の性向が窺うことができる。
やや長いが、前田の人格を端的に表わす部分を遺書から引用する。
「兄(前田の遺書は、弟妹に宛てたものである)が死の判決を割合に平然と受けることが出来たのは、之全く御両親の御教養の賜に外ならず、之を見ても我々の御両親は我々が知らぬ間に人間最大の修養をちやんとして居て下さつたのだ。(中略)今となつては其の高恩を何一つ御報いすることが出来ないのは慙愧に耐へない。故に皆は是非兄に代わつて御両親を大切に孝養を尽くしてください」
さて、前田に対してだけではなく、インドネシアに置ける日本人捕虜への虐待は、猖獗を極めたものであった。
捕虜たちは、犬や猫の物真似をさせられたり、夜中に、突然起こされ、コンクリートの上に二時間も座らせられて、罵詈雑言を浴びせられたり、日本人同士の殴り合いをさせられたり、床の上にばら撒いた飯粒を這いつくばって食べさせられたり等々、「彼らが我々のことを事件に取りあげている以上の虐待を重ねて」受け、捕虜たちは半死半生となった。
しかし、捕虜たちは、「『我々はどうせ死ぬのだ。この虐待は我々一身に引き受け(中略)同胞の人に少しでも虐待の及ばぬように!』と申し合わせ神に祈っている次第です」と励ましあっていた。
そんな中でも、前田は最後まで誇りを失わなかった。死の前日に、残る捕虜たちに世話になったお礼の手紙を書き、「私の希望として検事に申し出たこと」として、次のように書いている。
「1.目かくしをせぬ事
2.手を縛らぬ事
3.国歌奉唱、陛下の万歳三唱
4.古武士の髪に香をたき込んだのに習い香水一ビン(之は死体を処理するものに対する私個人の心づかいであります)
5.遺書遺髪の送付
以上全部承認」
処刑前夜、前田は、ともに死ぬことになる穴井に対し、こまごまと注意を与えていたという。
「穴井君。左のポケットの上に白布で丸く縫いつけましたか」
「はい。明るいうちにつけておきました」
「白い丸が心臓のところにあたる。明日は早いから目標をつけて置かぬと弾が当たりそこなったら長く苦しむだけだからね。発つ時は、毛布を忘れないように持って行きましょう。死んだら毛布に包んでもらうのです。砂や石が直接顔に当たって、ちょっと考えるといやな気がするからね」
翌朝早く、二人は書き置いたとおりの手順と態度で銃殺された。大きな声で歌も歌い、二人何か言葉を交わして、静かな笑い声をあげた直後、銃撃音が響いたという。
その時、昭和23年9月9日午前5時45分。
さすがの監視兵たちも、この歌声と笑い声の最期には、恐れと驚きを感じたらしい。あれほど続いていた収容所内での虐待が、その時以来、すっかりやんでしまったという。
「『我々はどうせ死ぬのだ。この虐待は我々一身に引き受け(中略)同胞の人に少しでも虐待の及ばぬように!』と申し合わせ神に祈っている」
彼らの祈りは、神に通じたのである。