山野ゆきよしメルマガ

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八田與一の旅その4

2005年06月28日 | Weblog
 5月9日、台湾最後の日である。
 八田與一の墓前祭に参列し、李登輝氏、許文龍氏といった八田與一に繋がる、素晴らしい出会いもいただいた。全てを終えたつもりでいた私たちに、この最終日に、さらに素晴らしい出会いの場があった。

 急遽、台北日本人学校にお伺いすることになった。
 台北日本人学校へは、「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」台湾在住世話人の徳光信誠氏のご令嬢が通われている。
 実は、この学校では、4年生の時に八田與一のことを学び、6年生の修学旅行では、烏山頭ダムにまで行き、八田與一の業績に直接触れてくるという。

 徳光氏が、小学6年生のお嬢さんに、八田與一の墓前祭に日本から沢山の方が来られる、その中に、八田與一のご長男の晃夫氏ご夫妻もいらっしゃるという話をされたという。秋に烏山頭ダムへの修学旅行を控えていたお嬢さんが、そのことを、学校の先生に、何気なく話されたところ、先生の方から、ぜひ、お時間があれば、日本人学校にお立ち寄りいただきたいというお願いがあった。晃夫氏から、直接お話をお伺いし、子供たちに、より一層、八田與一に興味を持ってもらい、秋の修学旅行を、格段に実りあるものにしたいとの思いからであろう。

 世話人の方たちで相談の上、私たちは急遽、日本人学校に寄らせていただくことになった。

 私たちの乗ったバスが日本人学校に入ると、既に、先生方が迎えに来ておられた。
 6年生の子供たちは、ピロティで私たちを出迎えてくれた。
 長旅でお疲れの八田晃夫氏は車椅子で、子供たちの前に移動された。
 マイクを持った晃夫氏はしっかりとした口調で、子供たちに向って話を始められた。

 「私は烏山頭で生まれ、小学校は烏山頭小学校でした。その頃は、二学年ずつの合同授業でした。そこで、10年いました」
 「私のふるさとは台湾です。台湾以外に、私のふるさとはありません」
 「皆さんは、台湾と日本との架け橋になってください。これが、私からのお願いです」

 ゆっくりとした口調ではあったが、一言一言、丁寧に話されていた。本当に、この子供たちに、台湾と日本との架け橋になって欲しいという強い思いの表れであろう。子供たちにも、十分伝わったはずだ。

 ちなみに、この日の、まさに私たちがお伺いした時間は、数日後に行われる予定の運動会で、6年生が発表する原住民ダンスの練習をしている時間であった。その講師である、台湾原住民の林さんという、まだ、若い男性の方もその場に同席されていた。日本語が理解できるのかどうかは分らないが、理解できなかったとしても、後から、この出来事を聞き、何か感じてもらえれば嬉しい。また、子供たちにとっても、林さんとの関係でも、同じような思いを持ってもらえるのではないだろうか。

 さて、金沢に帰ってから、子供たちが書いた感想文が掲載された学級通信を送っていただいた。子供たちの素直な気持ちが伝わってくるものであった。
 金沢に戻って、もう一つ、いただいたものがある、それは、日本人学校の子供たちが授業で使っている、社会科副読本「みんなで学ぼう 台北台湾」のコピーである。 
 これは、実際に授業を行っている先生方がまとめられたものという。八田與一の偉業が、9ページにも渡って詳細に書かれていたことにも感銘を受けたが、何といっても、「はじめに」と題された巻頭言は、秀逸である。

 最初に、大きな字で「台湾の良さをおもいきり知ろう!」
 中ほどに、この副読本作成の最大の眼目が書かれている。
 
 「この社会科副読本『みんなで学ぼう台北台湾』は、あなた方が、今以上に台湾を知り、台湾が好きになり、台湾が愛せるようになるために、先生方の力を結集して作り上げたものなのです」

 日本の学校で使われている社会科副読本はもちろん、社会科の教科書でも、その観点で作られたものは、一体どれだけあるだろうか。
 「日本を知り、日本が好きになり、日本が愛せるようになるために、先生方の力を結集して作り上げたもの」と、作成者が胸を張って言えるものが、どれくらいあるのか。

 台湾の日本人学校は、日本の文部科学省とどのような関係にあるのか、また、先生方は、どのような資格をもってそのお立場に就かれるのかは、私はよくは知らない。しかし、教員を志すような高邁な精神をお持ちの方たちは、皆、本来は、ここに書かれているようなお気持ちに違いない。外国の地に行き、旧時代の残滓による呪縛から解き放たれた先生方の、子供たちに対する素直な思いが伝わってくる。

 最後の締め括りは次のように書かれている。
 「台湾のことを今以上に知り、台湾を愛せる皆さんになり、将来の日本と台湾の架け橋となれるような国際人に成長してくことを先生方は願っています」

 「日本と台湾の架け橋」
 李登輝氏、許文龍氏、そして、八田晃夫氏。今回の旅で、皆さんから何度も聞かせていただいたお言葉を、改めて、目にすることになった。まるで、お三方は、この副読本を読んでいたかのようである。

 最後に。
 今回の「八田與一の旅」での新たな収穫は、八田與一に勝るとも劣らないくらいの素晴らしい立派な「人物」が、他にもおられるということを知ったことである。

 既に述べた、台湾下水道を整備し、八田與一に大きな影響を与えた浜野弥四郎。やはり、既に書いているが、現地に合った米の品種改良を重ね、蓬莱米という新品種を作った、農学博士磯永吉。

 また、学生時代、気宇壮大な思いを口にする八田與一は、いつの間にか「八田屋の大風呂敷」と陰口をたたかれてもいたという。そんな時、「八田に内地は狭すぎる。内地にいれば、狭量な人間に疎んじられるようになる。八田を生かすには外地で仕事をさせるのが一番だ」として、24歳の八田與一に台湾へ進む道を開いてくれた、東京大学時代の恩師広井勇教授。この恩師がいなければ、「八田與一」はなかった。

 烏山頭ダムというハードは完成したが、先に述べた蓬莱米を豊かに実らせるために、計画給水、計画生産に則った農業が必要である。
 この指導を任されたのが、東京農業大学出身の中島力男技師である。100万人近い嘉南平野の農民は、計画的な水利に基づく米作りの経験はない。中島技師は、農村を巡回して、苗代作り、田植え、稲の消毒から農機具の使い方を指導した。さらに、ダムからの水を田畑に引くための水路作り、完成し張り巡らされた水路にどれくらいの水を放出するかの管理も農民たちに指導した。
 ダムが完成し、台北に戻った八田與一も、時々、現地に来ては、中島技師を激励していたという。
 八田與一が台湾を去り、水利課長となった中島技師の活躍と苦労は終戦間近まで続き、その後も台湾省の留用として1年余現地で指導にあたった。

 その後、故郷大分県宇佐市に帰郷した中島技師は、地元の中学で教鞭をとられていた。しかし、ご本人の性格なのだろう、中島技師は、台湾での功績や苦労をほとんど語ることもなく、地元の人も中島技師がそのような活躍をしたこともほとんど知らなかったという。

 しかし、台湾の人たちは中島技師の功績を忘れてはいなかった。

 八田與一ご夫妻のお墓の横に、中島技師の生前墓が建てられ、現地の人たちは、八田與一と同じように感謝の気持ちを表している。
 実は、中島技師は現在もご存命で、今から4年前に100歳を迎えられた時には、嘉南農田水利会の役員数名が宇佐市を訪れ、感謝状を送っている。その時の写真も水利会事務局に飾られてあった。

 まだまだ、「人物」はいる。たくさんいる。

 最後に、一点のみ付け加えたい。
 忘れてはならないことは、浜野弥四郎にしても、八田與一にしても、中島力雄技師にしても、彼らの行った事業は、全て、日本政府の方針のもと、日本政府からの予算で行ったということである。もちろん、だからといって、彼らの偉大な業績及び人間性に、いささかの曇りももたらされるものではない。

 台湾を領有した日本は、欧米列強から、果たして、日本に植民地経営ができるのかと疑いの目で見られていた。それだけに、日本は、莫大な予算と、優秀な人材を派遣して、慎重に台湾統治にあたった。
 誤解を恐れずに言えば、当時の日本政府の方針が、浜野弥四郎や八田與一を生み出したのである。

 余談。
 「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」が台北で宿泊する時は、福華飯店(ハワードプラザホテル)と決まっている。理由がある。

 今から10年ほど前、やはり、墓前祭に参列すべく、台湾に来ていた一行が、台北のあるホテルで宿泊していた。団体での行動であるため、バスを一台チャーターする。バスの前面には、『「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」一行様』というような案内が貼られる。ある早朝、中川外司世話人が、そのバスのところに行くと、一人の老人が、そのバス前面に書かれた案内をじっと見つめている。中川世話人に気付いた老人が、きれいな日本語で、「八田技師とは、八田與一先生のことですか」と聞いてきたという。

 「私は、まだ10代の若い頃、烏山頭ダムの現場で働いていた。八田先生は既に雲の上のような人であったので、とても言葉を交わすことは出来なかったが、私たちの仕事を、いつもニコニコして見ていてくれた」

 驚いたのは、中川世話人たちの方であろう。烏山頭ダム建設にあたり、八田與一と一緒に仕事をした方で、ご存命の方にお会いできるとは、夢にも思っていなかった。聞けば、その後、一念発起して、事業家に身を転じ、福華飯店を創業されたという。現在は、99歳というご高齢ということもあり、ご子息に、オーナーの座は譲られているという。今回、残念ながら、体調がすぐれず、私たち一行はお会いすることは出来なかった。
 
 少なくとも、その方がご存命の間、私たちは、福華飯店に宿泊することになる。

 次、本当に余談、蛇足。
 実は、前出した徳光氏は、私の中学時代の同級生である。彼は現在、日本一の和風旅館加賀屋の台湾現地社員として、台湾加賀屋立ち上げのため、日夜奔走している。
 さらに、水利会のこれからの通訳及び説明役は、だんだん、徐氏から、私の慶應の後輩の李尚仁氏になってくることであろう。

 ますます、私は、「八田與一」から抜け出せなくなってくる。

八田與一の旅その3

2005年06月26日 | Weblog
 5月8日、八田與一の命日である。

 墓前祭の前に、隣接したホテルで、「追思八田技師音楽会」が開催された。
 音楽会とはいうものの、関係者や来賓の紹介、挨拶等々だけで1時間。お客様や目上の方を大事にするお国柄を感じた。

 昼食を挟んで、墓前祭は滞りなく行われた。八田與一の半生をテレビドラマ化するということもあってか、テレビカメラが、やたらと目に付いた。

――――――

 その日、ダム近くのホテルに宿泊した私たちは、早めに起床し、1.2キロのダム堰堤の途中まで歩いた。ダムに貯められた水の中で泳いでいる方がいたのには、驚いた。聞くと、もちろん、遊泳は禁止であるという。のどかな光景である。

 八田ご夫妻のお墓は、満面に水がたたえられたダムを見下ろすことができる小高い丘の上に作られ、そのすぐ横に、八田與一の銅像が置かれている。

 銅像は、現地で働いていた方たちが、八田與一の功績をたたえ、製作を依頼し寄贈したものである。そして、この銅像は、日本と台湾との関係に翻弄されるかのように、数奇な運命をたどることになる。

 終戦後、中華民国国民政府の蒋介石軍が、台湾に上陸し、台湾を統治することになった。
 当然、日本人の銅像や碑は全て撤去された。八田與一の銅像も、同じ運命にあったと思われていたが、実は、水利会の方たちが、ずっと隠し守ってきたのである。

 時代の流れを見、1975年、水利会は、政府に対し、銅像設置の許可を求めたが、不許可の通知。その後、1978年、再び、銅像設置の許可申請をしたが、その返事はずっと来なかった。政府としても、日本と正式に国交がない以上、許可を出せないまでも、不許可を出す理由までもないとして、黙認せざるを得なかったのであろう。その3年後の1981年1月1日、八田與一像は、台座をつけて元の場所に再び設置されることになった。こうして、烏山頭から持ち去られてから37年ぶりに「八田與一」は、温かい嘉南の人達の心に囲まれて、烏山頭ダムを見下ろし、現在に至っている。

 朝食後、嘉南農田水利会顧問徐欣忠氏のご案内のもと、長い工事の間に亡くなられた方たちの霊を慰めるために作られた、「殉工碑」に向う。

 徐氏は、「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」の世話人の方たちからすれば、まさに旧知の間で、私たちだけでなく、八田與一の話を聞きに来る、台湾、日本の方たちほとんど全ての、通訳及び説明役をされているという。
 余談だが、徐氏の後継者として、私の後輩にあたる、慶応義塾への留学経験をもつ李尚仁氏という30代の若い方がおられたが、80歳近い徐氏には、まだまだ及ぶべくもないようだ。

 徐氏は、殉工碑の前にきて、これまで以上に力を込めて、説明を始められた。

 「八田先生が当時から、そして今でも、私たち台湾人に、心より尊敬されている、その最大の理由が、この殉工碑にあります。二つの点で、その偉大さが際立っていることがあります」

 声震わせて、話される。

 その一つは、碑に刻んである名前は、日本人、台湾人の分け隔てなく、全て、亡くなられた順番に書いてあるということである。しかも、工事中の事故だけでなく、病気で亡くなられた方たちの名前も同じである。
 とかく、安直に「人権」なるものが吹聴される現代の価値観からすれば、さしたることではないかも知れない。しかし、当時、台湾は日本に統治されていたという事実を考えた場合、まさに、あり得ないことであったろう。その決断力、実行力。

 もう一つは、工事の従業員だけでなく、その家族の名前までもが刻まれているということである。

 八田與一は自分の家族を大事にしているのと同じように、従業員たちの家族も大事にしていた。そもそも、「よい仕事は安心して働ける環境から生まれる」という信念のもとに、職員用宿舎二百戸の住宅をはじめ、病院、学校、大浴場を造るとともに、娯楽の設備、弓道場、テニスコートといった設備まで建設した。
 それ以外にも、芝居一座を呼び寄せたり、映画の上映、お祭りなどを行ったり、従業員だけでなく家族のことも頭に入れてのまちづくりを行っている。工事は人間が行うのであり、その人間を大切にすることが工事も成功させるという思想からであった。

 家族があっての、現場の従業員であり、工事である。その家族が亡くなられるということは、大切な、従業員が亡くなることと同じである。その考え方のもと、殉工碑には、工事期間中に亡くなられた、従業員家族の名前も刻まれている。 

 工事期間中、八田與一にとって一番辛かったことは、随道内で発生した爆発事故であったであろう。
 随道工事の最中に、石油ガスが噴出し、そのガスに火花が引火して爆発した。50名以上死亡するという大惨事となった。
 その事故もあり、この殉工碑に刻まれている方のお名前は、134名にもなる。

 また、この殉工碑には、八田與一の文章も刻まれている。
 漢語調の、やや長めの文章であったが、徐氏は既に、何百回何千回と口にしてきたのであろう。
 「読み上げます」と言い、単調な口調の中、時には、途中で簡単な解説をつけ加えながら、既に暗誦しているであろう八田與一の書き上げた文章を読み、説明してくれた。その感情を押し殺した静かな韻律に耳を傾けているだけで、徐氏及び台湾の方たちが、八田與一を心より崇拝しているお気持ちが伝わってくる。

 その最後の方に、次の言葉がある。
 「諸子の名も亦(また)不朽なるへし」
 このダムの水によって、灌漑用水が流れている限り、皆さんの労苦は、忘れられることはない。

 この一文を読むだけで、八田與一が、従業員の皆さんを思う気持ちが伝わってくる。また、その関係者も、この一文だけで、心震わされる思いをしたことであろう。

 私は、殉工碑の前に立って、その文章を凝視し、言葉の力というものに、一人圧倒されていた。

八田與一の旅その2

2005年06月19日 | Weblog
 20世紀アジア最大の政治家李登輝氏にお会いした後、空路、台南に入り、八田與一が作った烏山頭ダムを管理する嘉南農田水利会主催による晩餐会にご招待いただいた。

 李登輝友の会全国総会長の黄崑虎氏、国策顧問の呉天素氏等々、通常ならとてもお会いできないような方たちとも、懇談の場をいただく。
 このご縁も全て、八田與一の名声によるものである。なにより、彼らにとって、八田與一は神様のような存在であり、八田與一と郷里が同じというだけで、大変な歓待振りである。

 実は、今回の「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」一行に、八田與一のご長男の八田晃夫氏と奥様が、現在お住まいの春日井市から合流されている。なおさらのこと、現地の方たちは、「ご一行様」として大切にしてくれたのであろう。

 翌7日、午前中、台南市内にある水利会を表敬訪問。

 私は、そこの資料室で、八田與一が残した様々な資料に目を通す機会をいただいた。改めて、紹介できる機会もあるかもしれない。

 その後、ABS樹脂生産で世界一を誇る台湾の奇美実業グループ許文龍氏の会社が所有する、「奇美博物館別館」にお伺いする。残念ながら、本館の方は、工事中ということでお伺いできなかったが、別館だけで、その蒐集の品の良さは十分窺い知れる。

 広大な台南サイエンスパーク内に点在する、奇美実業グループの社屋をバスで見て回った後、社員食堂で夕食。正面に用意された舞台には、バイオリンのケースと、何かを覆っているであろう黄色い生地がかけられた台座が一つ。

 そこに、許文龍氏が静かに現れた。

 食事の後、許氏は、舞台端にある、黄色い生地が掛かった台座の傍らに行き、その生地をめくりながら、静かな口調で話しを始められた。

 その生地の中には、一人の日本人の胸像があった。

 浜野弥四郎の胸像である。

 日本の統治前、亜熱帯の台湾にはマラリアやペストなど様々な風土病が存在し、街頭にはゴミが堆積し汚水があふれていた。洪水があれば、汚水・汚物までをも含んだ水が街道を覆った。そのため、先の伝染病などが蔓延し、平均寿命は30歳前後であったといわれている。

 日清戦争後、日本の統治領となった台湾。その民生局長となった後藤新平は、イギリス人衛生技師で当時東京帝大の講師であったウィリアム・バルトンを台湾に呼び、衛生土木監督に任命。バルトンは一番弟子の浜野弥四郎とともに、3年かけて台湾各地をまわり、上下水道の設計と水源地調査を行った。

 バルトンは淡水と基隆の水道を完成させたところで、マラリアに感染し、東京に戻ったが、そのまま治癒することなく死去してしまった。そこで浜野がその事業を受け継ぎ、23年もの長い年月をかけて完成させた。

 バルトンと浜野が建設した上下水道は鉄筋コンクリート製で、何と信じられないことに、本土の東京や名古屋に先んじて建設されている。これで台湾の衛生環境は一気に改善され、マラリアやペストなどの根絶の一翼を担った。

 その浜野の後輩として、浜野の手伝いをしたのが、八田與一である。先にあげた新渡戸稲造もバルトンも、全ては、後藤新平から始まっている。後藤新平については、一度、しっかりと取り上げたい。

 許氏は、台湾の下水道の歴史にバルトンの名は刻まれてはいるが、浜野弥四郎のことはほとんど触れられていないということに、以前から気になっておられたという。また、以前、台南県山上郷浄水場に建てられた浜野の銅像も、戦後の混乱の中、紛失してしまっているということを知り、浜野弥四郎の胸像を関係各方面に寄贈することを思い立ったという。尚、以前建てられていたという浜野の銅像には、「友人一同贈」と書かれていたが、許氏が色々と関係者に確認すると、どうやらそれは、八田與一からの寄贈であったという。そのことも、許氏が胸像寄贈を思い立った理由であった。

 趣味とはいえ、相当な腕前の油絵をたしなむ許氏。
 「デッサンから彫刻までを、私一人で行いました。私の第一号彫刻作品です」
 一同、和やかな雰囲気に包まれた。

 その後、許氏手製による歌集「懐かしき若き日の歌」が、私たちに配られた。日本の懐かしい童謡・唱歌が掲載されている。私たちのリクエストにあわせ、許氏が、何人かの社員さんたちとともに、時にはバイオリンをひき、また、時にはギターを爪弾きながら、一同、楽しいひとときを過ごした。

 八田晃夫氏も大好きな軍艦マーチを歌われ、「私は海軍なので、ここのところの歌詞はこうだ」と、海軍式の歌詞も教えていただいた。

 すべての演奏を終えると、八田晃夫氏は、許氏に抱きつき、「会いたかった。本当に会いたかった」と泣きながら叫んだ。許氏が、来年もまた来てくださいというと、晃夫氏は、「私はもう年だから、来られない」
 傍らにおられた奥様が、静かに、来年もきますとおこたえになられた。
 大変、印象的な光景であった。

 八田與一のご子息である晃夫氏には及ばないまでも、心打たれ、涙しない者はいなかったのではないだろうか。