山野ゆきよしメルマガ

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八田與一をテレビドラマ化

2005年02月16日 | Weblog
 台湾の著名な番組プロデューサーである陳銘城氏は、2月6日、米国ダラスでの講演で、「嘉南大圳の父」と呼ばれる日本人技師、八田與一氏を描く連続テレビドラマを作る意向を表明した。

 陳氏の話によれば、ドラマは嘉南大圳や烏山頭ダムを建設する八田氏と外代樹夫人の物語になるという。

 「日本の植民地統治は経済利益を追求しただけではなく、台湾の近代化を促進した。八田夫妻はその象徴」。「台湾各地では多くの人々が黙々と台湾のために貢献してきた」と語る陳氏。「このような物語をどんどん紹介し、台湾意識の宣揚に役立てたい」との抱負を述べた。

 撮影は日本のテレビ局との協力で、4月に開始される。日本のスター俳優も起用の予定で、将来は日本でも放映の見込みという。なぜ、日本で、そういう声が上がらないのか。

 ヨン様もいいが、台湾のドラマも楽しみにしたい。 

日本語によるカウントダウンの不思議

2005年02月06日 | Weblog
 今から4~5年程前、新聞の文化欄を読んでいて、フッと疑問に思ったことがあった。確か、その記事は、日本語について書かれたものであったような気がするが、思いついたことは、その内容とは全く関係ないことであった。

 私たちは、普通、数字を数え上げていくときには、「いち、にー、さん、しー、ごー、ろく、しち、はち、くー、じゅう」と発音する。ほとんどの人はそうであろう。

 ところが、逆に数えるとき、つまりカウントダウンのときは、多くの方は、「じゅう、くー、はち、なな、ろく、ごー、よん、さん、にー、いち」と発音するのではないだろうか。この際、7を「しち」と、4を「しー」という人は、まずいない。

 つまり、数字を数え上げる場合は、ほとんどの方は、全ての数字を「音読み」で発音するのに、数え下げる(なんて言わないか。「カウントダウン」の方が、馴染んだ言い方かもしれない。)の時は、なぜか、「4」と「7」だけは、いきなり、「訓読み」になってしまう。なぜだろう。不思議だ。

 と言っても、根が怠惰な私であるので、そのままほっておいた。ただ、ある時、図書館で議会質問の調べものをしているとき、やはり、そのことをフッと思いつき、半日かけて様々な資料を調べまくった。その後、インターネットを利用して色々と調べたが、いずれも、確信を持てる「解答」にまでは至らなかった。また、そのまま3年くらい経過。

 ところが、つい先日、井上ひさしの著作「にほん語観察ノート」を読んでいると、まさに、それそのものの「解答」が載っていた。以下、引用する。

『筆者の(あまり当てにならない)理論ではこうなります。
「わたしたちはふだんの生活の中で数え上げることをよくする。そこで、『しー』『しち』という漢語風の言い方に慣れている。ところが数え下げるのは稀で、慣れていない。そこで『なな』『よん』という大和言葉風な生地が現れるのだ」』

 天下の大先生ではあるが、一時期、色々調べた私には納得できない「解答」であった。「数え下げるのは稀で、慣れていない」のなら、なぜ、「7」と「4」だけ、「大和言葉風な生地が現れる」のか。「10、9、8」くらいまでは、緊張感を持って数え下げているので、数え上げる場合と同じ音読み(漢語風の言い方)をするというのは、理解できる。では、なぜ「7」で大和言葉風な生地が現れ、「6、5」で、漢語風の言い方に戻ってしまうのか。しかも、「4」で、再び、大和風・・・。
 失礼ながら、大先生の「(あまり当てにならない)」が正しいような気がする。

 私の結論。

 「7」の「しち」という発音は、「1」の「いち」という発音と紛らわしいということが原因ではないだろうか。「しち」と「いち」とを混同しないために、意図して、「7」を「なな」と発音することは、日常生活でもよくあることである。特に、電話で会話をしている場合は、「午後しち時」というと、「いち時」と聞き間違えることもあるので、わざと、「午後なな時」ということも決して少なくはない。あわせて、「しち」の最初の発音である「し」と、「4」を意味する「しー」とも、混同しかねない。だから、「よん」と発音することも、やはり、少なくはない。

 実際、数え上げる際も、「いち、にー、さん、よん、ごー、ろく、なな、はち、くー、じゅう」と言っても、さして、違和感を持たなくなっている。それは、前述したように、日常生活の中で、音読みの「1」と「7」、さらには、「7」と「4」との明確な区別のために、音読み、訓読みを入り組ませて発音するということに慣れてしまっているからであろう。

 私は、そのことは、日本語の乱れとは感じない。
 
 これまでも、私は一連の「文化としての日本語シリーズ」で、何度も書いてきているように、私たちの祖先は、漢字という圧倒的な先進文化の中に呑み込まれることなく、わが国語の中に漢字を取り入れる工夫をして、漢字仮名交じり文という洗練された国語の表記法を作り上げてきた。大陸文化を主体的に日本文化の中に取り込んできた。
 また、「仮名」と並んで、わが国の言葉を豊潤なものにしたものとして、「訓読み」の発明があげられる。そのことによって、漢字の持つ表意性をそのまま日本語に反映させることができた。

 さらに、ここにまた、上手く、音読みと訓読み、井上ひさし式に言えば、漢語風と大和言葉風とを組み合わせ、数え下げ(カウントダウン)という、比較的新しい試みを、日本語で表わそうとしているのではなかろうか。

 そもそも、カウントダウンを意味する適切な日本語が思い浮かばないというのは、そのようなことは、日本には、それほどなじみ深い習慣とはいえないものなのであろう。新しい文化(?)を表わす、新しい日本語の発音の方程式、新しい試みがなされるということは、当然のことである。そのような作業が、日本語をさらに豊潤(芳醇)なものにしていくのではないだろか。