ご高齢の方たちのお集まりの会によんでいただき、講演をさせていただいた。人生の大先輩の方たちばかりの前での講演ということで、さすがに人前で話し慣れしているつもりの私も、少々臆してしまった。
何年か前、高砂大学において約四百名のご高齢者を前に講演させていただいたことがあるが、それ以来だろうか。ただ、この時は、当然ではあるが、今よりは数年若かったこともあり、結構、自分のペースで、一方的に話してきた覚えがある。もっとも、決して、いいかげんという意味ではない。
教育問題について、普段から考えていることを中心にお話させていただいた。人物を通して、歴史を学ぶということだ。
小中学校の国語の教科書から、漱石も鴎外もなくなっていること、音楽教科書から瀧廉太郎や山田耕筰の作品はじめ、私たちが聞き親しんできた童謡・唱歌が少なくなってきていることなど、聴衆の皆さんがおそらくはご存知であろう作品名を出しながら、話させていただいた。皆さん、強く頷きながら聞いていただいたようだ。
私がこのテーマの講演でよく取り上げさせていただく、「佐久間艇長の遺書」についても話してきた。「佐久間艇長の遺書」についての話は、時代が重ならないまでも、その時代の空気をご存知の方たちとして、感銘をもって聞いていただいたようだ。涙されていた方も多く、話している私も胸が詰まった。
―――――――――
日露戦争終了の二年後の明治四十三年、佐久間勉艇長率いる潜水艇が、その訓練中に、不幸にして艇の故障により、部下十三名と共に沈没し、二度と自力で浮上することがなかった。
沈没二日後、潜水艇は引き揚げられた。この時、現地に駆けつけていた遺族も遠くへ離され、ごく一部の関係者以外は立入禁止となった。なぜなら、これまで諸外国での潜水艇の事故は、艇引き揚げ後、ハッチが開かれると、そこには乗組員たちが何とかして艇から脱出しようと、出口に殺到して息絶えている修羅のありさまが多かったからだ。我先にと争った形跡があったり、苦しさのあまりのどをかきむしったりした様子などが見られたということだ。そうした悲惨な光景を遺族に見せるわけにはいかない。
ところが、いざ、ハッチを開いてもそこには誰の姿も見えない。
艇内に足を踏み入れ、その内部の様子を一目見た関係者たちは思わず息を呑んだ。
艇長以下十四名の乗組員全員が、それぞれの持ち場についたまま息絶えていたからである。艇内に入った関係者はもちろん、これを伝え聞いた人々の驚きは大変なものであったという。
その後、佐久間艇長の遺書が発見された。
艇長は刻一刻と苦しくなる呼吸の中、司令塔の小さな窓のわずかな光を頼りに、事故の経緯やその事に対して取った対応策等々、遺書を綴った。息の続く限り少しでも多く書き残そうと、懸命に鉛筆を走らせた様子が伺える。その文字はしっかりとし、文章も簡潔明瞭であった。
私が驚くのは、佐久間艇長もそうだが、部下十三名全員が、艇長同様、最期まで自分の持ち場を離れなかったという点だ。その艇長のリーダーシップ、人望。
艇長以下すべての乗組員は、自分たちは助からないであろう事を覚悟していたはずだ。そうであるならば、自分たちにできることは何か。そう考えながらの最期の行動であったはずだ。
「謹ンデ陛下ニ白ス、我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ、我ガ念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ」
佐久間艇長の遺書に書かれた文言の一節。部下たちが艇長に文字通り命を預けて、私淑していた理由のすべてを表しているといえる。
遺書の最後の言葉は、「十二時四十分ナリ」であった。この後、何を書きたかったのか。この時間に何か異変があったことを記したかったのか、それとも、今後の潜水艇訓練に役立つようにと、自分が息絶える時間を記すつもりだったのか。いずれにしても、あまりに切ない。
佐久間艇長は、若干三十歳。今の私より、十歳も若い。
この出来事は、一人、佐久間艇長だけではなく、この時代の日本人の気質を表しているといっても過言ではないのであろう。
――――――――――
講演を終え、控え室で休憩していると、一人の老紳士が私のところに来られた。
「佐久間といいます。今日お話いただいた、佐久間勉の甥です。今日は、伯父の話をしていただき、本当にありがとうございました。」
本当に驚いてしまった。先日、市内在住の八田輿一技師の甥の方とお会いし、私が八田輿一技師のことを、機会あるごとに取り上げていることに関して、やはりお礼を言われたばかりである。しかも佐久間艇長は福井の方で、時代も、日露戦争直後の話である。
その方は、私のような若輩者が佐久間艇長の話をしたことに、いやそれ以上に、そういうことを知っていたことに驚いたようだった。
七十歳は越しているであろう方が、おそらくはご自分のご子息よりも年下であろう私を前にして、感激の面持ちで、深々と頭を下げておられる。
若輩者ではあるが、日本人の語り部としての責任を痛感した。
何年か前、高砂大学において約四百名のご高齢者を前に講演させていただいたことがあるが、それ以来だろうか。ただ、この時は、当然ではあるが、今よりは数年若かったこともあり、結構、自分のペースで、一方的に話してきた覚えがある。もっとも、決して、いいかげんという意味ではない。
教育問題について、普段から考えていることを中心にお話させていただいた。人物を通して、歴史を学ぶということだ。
小中学校の国語の教科書から、漱石も鴎外もなくなっていること、音楽教科書から瀧廉太郎や山田耕筰の作品はじめ、私たちが聞き親しんできた童謡・唱歌が少なくなってきていることなど、聴衆の皆さんがおそらくはご存知であろう作品名を出しながら、話させていただいた。皆さん、強く頷きながら聞いていただいたようだ。
私がこのテーマの講演でよく取り上げさせていただく、「佐久間艇長の遺書」についても話してきた。「佐久間艇長の遺書」についての話は、時代が重ならないまでも、その時代の空気をご存知の方たちとして、感銘をもって聞いていただいたようだ。涙されていた方も多く、話している私も胸が詰まった。
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日露戦争終了の二年後の明治四十三年、佐久間勉艇長率いる潜水艇が、その訓練中に、不幸にして艇の故障により、部下十三名と共に沈没し、二度と自力で浮上することがなかった。
沈没二日後、潜水艇は引き揚げられた。この時、現地に駆けつけていた遺族も遠くへ離され、ごく一部の関係者以外は立入禁止となった。なぜなら、これまで諸外国での潜水艇の事故は、艇引き揚げ後、ハッチが開かれると、そこには乗組員たちが何とかして艇から脱出しようと、出口に殺到して息絶えている修羅のありさまが多かったからだ。我先にと争った形跡があったり、苦しさのあまりのどをかきむしったりした様子などが見られたということだ。そうした悲惨な光景を遺族に見せるわけにはいかない。
ところが、いざ、ハッチを開いてもそこには誰の姿も見えない。
艇内に足を踏み入れ、その内部の様子を一目見た関係者たちは思わず息を呑んだ。
艇長以下十四名の乗組員全員が、それぞれの持ち場についたまま息絶えていたからである。艇内に入った関係者はもちろん、これを伝え聞いた人々の驚きは大変なものであったという。
その後、佐久間艇長の遺書が発見された。
艇長は刻一刻と苦しくなる呼吸の中、司令塔の小さな窓のわずかな光を頼りに、事故の経緯やその事に対して取った対応策等々、遺書を綴った。息の続く限り少しでも多く書き残そうと、懸命に鉛筆を走らせた様子が伺える。その文字はしっかりとし、文章も簡潔明瞭であった。
私が驚くのは、佐久間艇長もそうだが、部下十三名全員が、艇長同様、最期まで自分の持ち場を離れなかったという点だ。その艇長のリーダーシップ、人望。
艇長以下すべての乗組員は、自分たちは助からないであろう事を覚悟していたはずだ。そうであるならば、自分たちにできることは何か。そう考えながらの最期の行動であったはずだ。
「謹ンデ陛下ニ白ス、我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ、我ガ念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ」
佐久間艇長の遺書に書かれた文言の一節。部下たちが艇長に文字通り命を預けて、私淑していた理由のすべてを表しているといえる。
遺書の最後の言葉は、「十二時四十分ナリ」であった。この後、何を書きたかったのか。この時間に何か異変があったことを記したかったのか、それとも、今後の潜水艇訓練に役立つようにと、自分が息絶える時間を記すつもりだったのか。いずれにしても、あまりに切ない。
佐久間艇長は、若干三十歳。今の私より、十歳も若い。
この出来事は、一人、佐久間艇長だけではなく、この時代の日本人の気質を表しているといっても過言ではないのであろう。
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講演を終え、控え室で休憩していると、一人の老紳士が私のところに来られた。
「佐久間といいます。今日お話いただいた、佐久間勉の甥です。今日は、伯父の話をしていただき、本当にありがとうございました。」
本当に驚いてしまった。先日、市内在住の八田輿一技師の甥の方とお会いし、私が八田輿一技師のことを、機会あるごとに取り上げていることに関して、やはりお礼を言われたばかりである。しかも佐久間艇長は福井の方で、時代も、日露戦争直後の話である。
その方は、私のような若輩者が佐久間艇長の話をしたことに、いやそれ以上に、そういうことを知っていたことに驚いたようだった。
七十歳は越しているであろう方が、おそらくはご自分のご子息よりも年下であろう私を前にして、感激の面持ちで、深々と頭を下げておられる。
若輩者ではあるが、日本人の語り部としての責任を痛感した。