山野ゆきよし日記
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2025年04月21日(月) 13時37分38秒

【巨星墜つ ローマ教皇死去】

テーマ:後日譚
 





 2025年4月21日、 「ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇 死去」とのニュースが世界中を駆け巡る。


 改めて調べてみる。私がフランシスコ教皇に拝謁するという僥倖に恵まれたのは2018年11月27日。そうか、あれから6年半が経った。いくつかの報道機関からコメントも求められる。

 「巨星墜つ」その一言に尽きる。

 当時のことを著した私のブログを再掲して、お悔やみを申し上げる。
https://ameblo.jp/yamano4455/entry-12423479582.html

※って書いたけど、ローマ教皇が亡くなられて、この表現でいいんかな?日本だったら、高貴な方の場合、「薨去(こうきょ)」とか「崩御(ほうぎょ)」、「入寂(にゅうじゃく)」、「永眠(えいみん)」。

※ChatGPTに聞いたら、カトリックの場合、「帰天(きてん)」というそうな。そんな表現を使った報道はあったのだろうか?寡聞にして知らない。

※2018年のころは日本では「ローマ法王」が一般的であったが、その直後くらいから、「ローマ教皇」との表現が、より正しいという解釈がなされるようになった。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

【2018年欧州訪問備忘録2 ローマ法王庁訪問】
 
 11月27日、朝6時過ぎに自宅を出て一日移動に費やす。夜、ローマ市に入り、先発部隊と合流し軽く夕食をとりながら打ち合わせ。
 
 その際、翌28日にローマ法王との謁見を許されるとの朗報が入ったことを知る。一同、大いにそして控えめに喜ぶ。なにしろ、ひとえに「高山右近」のおかげであるからだ。
 
 金沢市と高山右近との接点を、以下、簡潔に述べる。
 
 右近は、1552年摂津国三島郡高山庄に生まれ、1573年21歳にして摂津の国高槻城主となる。その後、1587年秀吉による禁教令により、棄教を拒否した右近はすべての知行を失い、無禄となってしまう。
 
 加賀藩祖前田利家公が右近を加賀藩に迎え入れたのが、1588年、右近36歳のことであった。右近は、その後26年の長きに渡り加賀藩に滞在し、様々な文化的、土木的な実績・影響を残していくことになる。
 
 特筆されるのは、利家の命を受け、尾山御坊跡の縄張りを行い金沢城の拡張整備をし、以後加賀百万石の本拠地として徐々に近世城郭としての形を整えていったことがあげられる。また、関が原の戦いを控え、わずか27日間で城の周りに内惣構堀(うちそうがまえぼり)という本格的な堀を造りあげる。
 
 土木技術者としての貢献はまだ続く。二代藩主前田利長公にも引き続き庇護を受け、利長の隠居城・富山城の炎上により、新たに築かれた高岡城の縄張を担当したともいわれている。
 
 また、右近亡き後、その薫陶を受けた熱心な隠れキリシタンの一人である板屋兵四郎は、宣教師から西洋の治水、土木工法を学び、その知識を発揮して金沢城に「辰巳用水」を引いたとされる言い伝えも、その真偽はともかく、やはり右近の土木技術における造詣の深さを窺わせる逸話といえるのではないか。
 
 文化面においても、千利休の七哲として、金沢のお茶文化に大きな貢献を果たし、現代につながる文化都市金沢の礎を作った一人といっても過言ではなかろう。
 
 さらに、キリスト教を通して先の土木技術だけではなく、例えば金沢料理の代表例のようにいわれる治部煮も、右近が南蛮料理を元にして考案したものとの説もあり、かぼちゃ料理も右近の時代に本格的に普及したという。
 
 当時としては珍しいクリスマスパーティも、右近が盛大に開催したという文献も残っているということからも、当時、西欧で最も有名な日本人の一人であったということも頷けるところである。
 
 おそらくは都市伝説的なものも含めてではあるが、金沢市(というより加賀藩といったほうが正しいか。だから私たちも謙虚に控えめでなければならない)と高山右近との関係は深いものがある。
 
 その高山右近が、2016年にバチカンのローマ法王庁により、「福者」として認定されたことはまだ記憶に新しいところである。「福者」とはカトリック教会で最高位の崇敬対象である「聖人」に次ぐ称号である。
 
 今回のローマ市訪問にあたり、在バチカン日本国大使の中村芳夫特命全権大使のお骨折りにより、フランシスコ法王に謁見が可能となる。
 
 短い時間ではあったが、高山右近と金沢市とのご縁、福者認定を機に改めて高山右近の顕彰を進めていることと合わせ、日本訪問の際には金沢にお立ち寄りいただくことをお願いさせていただく。
 
 法王からは、「神のご加護があらんことを」と応じていただき、お付きの方から十字架の飾り「ロザリオ」をいただく。
 
 なお、金沢市は、高山右近の福者認定を受けて、右近の金沢の足跡をまとめたマップを作成し、日本語、英語はもちろんイタリア語、フランス語の4カ国語にも対応させている。
 
 このタイミングでのローマ市訪問であった。ところで、なぜローマ市訪問となったかは次回に。
 
 余談を二つ。
 実は、私は議員時代の平成13年12月の議会質問において、金沢市と高山右近と関係を述べ、もっと顕彰活動に取り組んでいくべきではないかと提案した。その時に相当勉強もし今回につながる。
 
 ローマ法王に謁見した日本の市長は、長崎市長、広島市長、大村市長に次いで私は4人目だという。なんとも光栄しきり。もっとも、右近が福者に認定される2016年以前であれば、とてもかなわなかったこと。
2025年04月16日(水) 12時26分51秒

4月15日、遠州流茶道「金沢真甫会」にてお稽古

テーマ:後日譚

 4月15日、金沢真甫会にてお稽古。

 

 

 金沢真甫会とは、遠州流茶道宗家十三世お家元小堀宗実先生を金沢にお迎えしてのお稽古する仲間の会。私にしては珍しく、お家元をお迎えしてお稽古に二か月連続して参加できた。お家元監修のもと、地元の先生方にご指導いただいてのお稽古。

 

 ちょうど、他の生徒さんが少なかった時間帯だったこともあり、じっくりご指導いただく。一時間以上正座をしてのお稽古。先生から何度か足を崩してもいいですよおっしゃっていただくも、大丈夫です、と心にもないことを言いながらお作法を。死ぬかと思った。

 

 でも、二か月続けてのお稽古なので、なんか今回は少しは身についたような。茶会記も写せる余裕も出てきた。

 

 

 次の予定があり、退席。毎回、お稽古終了後にお家元からご指導いただく勉強会も参加できず残念。次回には。でも、楽しかった。

2025年04月14日(月) 09時44分57秒

「教科書名短篇(人間の情景他シリーズ)」(中公文庫)

テーマ:一夜一冊

 中学生ころであろうか、何かのきっかけで、『掌小説』という言葉を知った。ああいいなあ、なんとなくしんみりと情緒深いなあと感じたことを覚えている。読み方も、自分で勝手に『たなごころしょうせつ』と思い込んでいた。でも、いいよね。

 

 今回、この本を取り上げようと、この『掌小説』をネットで調べてみると、そんな言葉はないよう。『掌編(しょうへん)小説』ならあった。やっぱり、『たなごころ』という訓読みのほうが味わい深い。そうなると、『編』なんていらない。

 

 これも、同じ年代のころ、中学、高校の国語の教科書に取り上げられた小説をまとめた本を手に取ったことがある。当たり前だが、秀作ばかり。そのことに味を占めたわけでもないが、ときどき、教科書に掲載された小説がまとめられた本を読むことがあった。

 

 先般、図書館で、「教科書名短篇」(中公文庫)を見かける。人間の情景、少年時代、科学随筆、家族の時間とシリーズ化されていた。まさに、『掌小説』の集まり。

 

 

 早速それらをすべて借りて一気に読了。以前からよく知った秀作も多く、安心して読み進める。

 

 以前、このブログにも取り上げたが、『人間の情景』篇に入っている森鴎外の「最後の一句」なんて、中学生か高校生くらいに読んで、深く考えてもいいかもしれない。ただ、これが教科書として学校の授業で読まれるとなると、指導される先生の力量が問われる。

 

 同じく『人間の情景』篇に掲載されている野坂昭如の「凧になったお母さん」。これは初めて読んだが、この野坂昭如という人、破天荒なイメージが強いが、この作品といい「火垂るの墓」といい、すごい作品を残している。否、その照れ隠しであえて、あのイメージを演出しているのか。

 

 このシリーズでなくとも、教科書に掲載された『掌小説』を読んでみられることをお勧めしたい。

 

 日本は不思議な国だ。歴史の教科書はひどいものがいくつもあるのに、国語の教科書はなんかいい。

2025年04月12日(土) 06時16分25秒

金沢市内を一望できる花見の名所

テーマ:後日譚

 「高尾城址見晴らし台」において桜を愛でる。

 

 

 実は、これらの写真は、知人から送られてきたもの。金沢市南部に位置する「高尾城址見晴らし台」からの展望。

 

 私が植樹した桜の写真も。植樹をする際、金沢市内を一望できる場所に山野市長に植樹してもらおうと思ってこの個所を確保しておきました、と言われたことを思い出す。

 

 最近、行っていない。桜も少しづつ大きくなっているよう。今度、見(観)に行ってこよう。

2025年04月06日(日) 13時47分11秒

地元での講演を二つばかり書く

テーマ:後日譚

 地元講演ネタを二つ。って言うか、30分少々のちょっと短めなものなので講演っていうよりは、談話、プレゼンに近いもの。でも楽しかった。

 

 3月19日、白山市倫理法人会にて、演題は「孫正義、ソフトバンクとの出合い」。私が最初にソフトバンクに入った30数年前、当時の孫社長さらにはソフトバンク(当時は、株式会社日本ソフトバンク)にまつわる思い出話もどきを、少しばかり、否、それなりに、否、相当に膨らませて話す。

 

 

 当初は、違う演題であったが、トランプ大統領誕生で、『孫正義』コンテンツが俄然注目され出したこともあり、急遽この演題に変更。

 

 もちろん、主催団体の目指すべき想いにも触れながら話を敷衍させる。私はこの種の工程は得意。

 

 4月1日、金沢みなとロータリークラブでの卓話。演題は、「能登半島地震での取り組み」、言うまでもなく、ソフトバンクの最新の知見をもってしての災害支援で、実際に、私が能登で行ってきたことを中心に。個人のネットワークでの支援は触れてはいない。

 

 写真はメンバーさんからいただいたもの。ちょっと圧が強すぎ、ご勘弁を。

 

 

 皆びっくりしていたよう。私はこのテーマで全国で話をしているが、行政関係者、政治関係者、経済界、一般(公民館、PTA、各種団体等々)、それぞれに内容を少々入れ替えている。今回は時間が短かったのでエッセンスのみ。

2025年04月03日(木) 11時58分12秒

エピソード⑥『木と漆「輪島キリモト」と世界的建築家坂茂先生とのコラボ』

テーマ:後日譚

 4月2日、この日予定していたスターリンク回収を終え、木と漆「輪島キリモト」へ。この地のすべての方がそうであるように、地震と豪雨とで大きな被害を受けながらも、輪島塗の将来を信じて前向きに取り組んでおられる。

 

 地震前から、伝統工芸の世界において常に新しいことに挑戦し続ける姿勢に、心から敬意をもって拝見していた。驚くべきことに、今回の被災を経ても、まったくその指針はぶれていない。

 

 特に、世界的な建築家坂茂(ばんしげる)先生のご協力のもと、紙管を使った仮設工房を作って復活に向けておられるということを報道で知る。旧知の桐本さんでもある、是非にお伺いしたいと思っていた。

 

 ちょっと時間が経ってしまった。すみません。

 

 実は、私は市長時代、坂先生とはご縁があった。今回のキリモトさんのところでも活躍した紙管を使った避難所支援に関して、先生の作られたNPOと協定を締結した。しかも、私から働き掛け、近隣自治体を巻き込み、4市2町での協定。

「災害時における避難所用簡易間仕切り等の供給に関する協定締結式」(2021.02.27)

 

 

 これまで、単独自治体との協定はあったが、広域での協定は初めてとのことであった。自然災害は、ある自治体だけをターゲットに起きるものではない。広い地域で準備が必要。その思いから提案し、皆のご理解をいただく。

 

 今回の地震においても、大いに役立ったことは、ここでも書いた。

「自慢話」(2024.03.11)

 

 その坂先生が、同様の技法をもってキリモトさんの工房を作られたという。これは見ておきたい。写真をいくつか。私の下手な説明より、ここのページをご覧いただいた方がきれいにまとめてある。

「坂茂が設計を手がけた輪島塗の仮設工房が2日間で完成!」(「ELLE」HPより引用)

 

 

 こんな苦境にあっても、さらに、新しいことに挑戦をし復活を期しておられる。のんびりとした私たちこそが刺激を受ける。金沢から東京から、これからも出来る限りのことをしていく、改めてその想いを強くする。

 

 輪島塗の名刺入れを注文させていただく。ネーム入り。完成したらここでもお披露目をしたい。

2025年04月02日(水) 23時47分48秒

奥能登に設置してあったいくつかのスターリンクの回収

テーマ:後日譚

 4月2日、奥能登に設置してあったいくつかのスターリンクの回収。仕事そのものは単調なのだが、一年以上能登にかかわっていると、こんなことでもいくつかエピソードが出てくる。

 

 エピソード①

 法政大学の水野雅男先生が中心になって始められた「ボラキャンすず」でのスターリンク回収。

 

 

能登半島先端の珠洲市で終日ボランティア活動に参加できるように、滞在拠点となるベースキャンプ「ボラキャンすず」を開設しました。』(当初からテント貸し出しでお手伝いされているモンベルのHPより

https://about.montbell.jp/release/disp.php?id=687

 

 今回のような厳しい環境でのボランティア支援(ボランティアを支援するボランティアとでもいえるかな)の一つのお手本になるのではないか。ソフトバンクが早い段階からお手伝いできたことは、なんだかうれしい。

※「「ボラキャンすず」でのスターリンク設置」(2024.3.8)

https://ameblo.jp/yamano4455/entry-12843635690.html

 

 エピソード②

 岩井戸公民館。回収作業をしていると公民館の方から、また山野さんのアメブロでアップしてもらえるんですか?あっ、はい、いいんですか?はい、お願いします。だから、今、慌てて書いている。よかったよかった。

※ 「3キャリアによる通信環境整備」(2024.09.24)

https://ameblo.jp/yamano4455/entry-12868790598.html

 

 

 エピソード③

 例の「ココハサトマチ」の「南志見(なじみ)市場」。倉木麻衣さん登場に合わせて設置する。それ以降、重宝がってくれた。

※ 「輪島市南志見地区にて、倉木麻衣オンラインコンサート」(2025.03.03)

https://ameblo.jp/yamano4455/entry-12888569524.html

 

 

 この段階で、時間がタイトになってきたので、大将の奥田氏にはあいさつのみ。しまった、なじみポーズをするのを忘れていた。ということで、以前やったやつをアップしておく。

 

 

 エピソード④

 昼食は、「季刊 能登」で見かけた「カフェ銀次郎」へ。もとは、民宿だったところを、カフェにして営業。その準備中に、地震、豪雨。それでもめげずに、オープンにこぎつけ営業している。私は、銀次郎カレーをいただく。ソフトバンクの同僚3名で行ったのだが、全員違うものを注文。ちょっと手間をとらせてしまった。

 

 

 お店の人と話をしていると、他のお客さんが、あれ?山野さん?と声をかけてくれる。お聞きすると、私たちが泥出しボランティアに行ったお宅の方だという。

※ 「ソフトバンクとして輪島市での泥出しボランティア」(2024.11.16)

https://ameblo.jp/yamano4455/entry-12875201430.html

 

 その泥出しボランティアでソフトバンクのビブスを身に付けていた方たちがいたので、もしかしてと思って・・・。はい、私を含めて今日ここに来ている3人ともそのお宅の泥出しをお手伝いしました。ありがとうございます、その家のものです。おかげで今は、その家に戻って生活できています、ああ、直接お礼を言えてよかった、との会話。

 

 私たちは、かっこつけて田村正和のようにクールに、いえそれほどのことではありません、お役に立てたのなら・・・と申し上げる。内心、あのWBCでトラウトを三振に切って取った大谷翔平のようにガッツポーズ。よかったよかった。

 

 エピソード⑤

 鵠巣公民館。ここは回収よりも、設置の時のエピソードが記憶に残る。その時のブログから引用する。

 

 

『(9月24日)豪雨から3日目。鵠巣公民館へは、当初、山側から行くだけ行って、残念ながら行き止まり。逆戻りをして、昨日まで行き止まりと聞いていた海岸線をダメもとでクルマを飛ばす。

 

 なんと、この地震で新たに隆起した海岸底(?)に砂利を敷き詰めている真っ最中であった、仮設のう回路もどきの”道路”を利用して現地に到着。

 

 「どうして、ここまで来れるって知ったのですか?自衛隊の方からお聞きになったのですか?ありがとうございます」

 

 それはそうだろう、砂利を敷き詰めてクルマを走れるようにしている工事車両の後ろをノロノロしながら付いていったのだから。こんな経験は二度とない。

 

 エピソード⑥

 疲れたので、後日。

 

 エピソード⑦

 忘れたので、思い出したら書く。

2025年03月31日(月) 22時39分00秒

4月1日、おついたちまいり

テーマ:後日譚

 4月1日、白山比咩神社へのおついたちまいり。先月と続けてお詣りできる。ありがたい。。3時50分、コーヘイ、ソーイチロー、ダイスケといつものフルメンバーで向かう。4時半からの日供祭(にっくさい)及び「おついたちまいり」。

 

 写真はおまいり前。

 

 

 今月の言葉。

「忘形の交(まじわり)」(李白)

 

 次のように解説がされている。

「身分の高下や貧富の差を忘れて、お互いに「君、僕」と呼び合って親しく交わることをいいます。年度が替わり、人との付き合いが、ぎこちなくなる頃、熟練の人と新人の人とが心を開いて楽しく接しましょう。」

 

 そのフルメンバーのまま金澤神社のおついたちまいりへ。金澤神社では国産の真榊もいただく。実は、この真榊は東京のマンションの神棚にもお供えをしている。金沢でも東京でも毎日、感謝の気持ちでお水を替える。

 

 

 その後、妻と二人で、自宅の氏神様の長坂埜神社へおついたちまいり。次いで、山野家本家のお墓、私の両親が眠るお墓、妻の実家のお墓におまいりする。


 長年の毎月1日、山野家の恒例行事。

2025年03月22日(土) 11時41分05秒

「医者の父が息子に綴る 人生の扉をひらく鍵」(中山祐次郎 著)

テーマ:一夜一冊

 最初にこの本を知ったのは、新聞か雑誌の書評だったと思う。ネット見かけた際、すでに作家としての実績を残してきたこの著者は、あえて、新興の出版社を選んででこの本を出したということを知った。

 

 

 編集者でもあった社長と、本当に自分たちの子供に読んでほしい、残したい本を作ろうと何度も打ち合わせをされたという。それらのことを知ったら、妙に気になって仕方がない。

 

 地方新聞で書かれたエッセイ一つ一つに、(自分の)子供向けにメッセージを添えたもの。それでいて、全体もやはりエッセイとなっている。すべて著者自身の実体験からのメッセージなので、著者よりも年上の私にとっても、共感を覚える箇所も多い。

 

 一つだけ取り上げる。

 

 著者は、東日本大震災の状況を報道で見て、医療者として現地に行きたいとも思ったが、目の前の忙しさを自身の言い訳として、数年してから現地に入ることになった。

 

 そのことに対して、著者は今現在も、ずっと気に病んでいる。ちょっと長いが著書から引用する。

 

『 「情けあるなら今宵来い、明日の朝なら誰も来る」という幻冬舎社長の見城徹さんが広めた言葉がある。僕は情けが足りなかったので、つまり本気ではなかったので今宵行くことができなかった。5年も経って、いろんなことが整ってから行ったのだ。本当に、現地の人たちが一番困っている時に僕は行かなかったのだ。 

 

 僕は自分の心に問いかけた。 なあ、お前はなんのために行きたいんだよ、と。何度も問うてみたら、やっと正直に答えた。 

 

「僕は自分のために行きたいんだよ。被災者を支援している自分になりたいから行くん だ」と。』

 

 能登半島地震支援を経験した私にも身につまされる話。もしかしたら、私もそうだったのかもしれない。

 

 それはそれとして、著書の人気作「泣くな研修医」を何冊か読んでいる。あの「半沢直樹」シリーズみたいにサクサク読める。 

2025年03月20日(木) 12時43分32秒

いつも久しぶりに、茶道遠州流お家元ご指導のもと金沢真甫会のお稽古

テーマ:後日譚

 3月19日、茶道遠州流お家元ご指導のもと金沢真甫会のお稽古。

 

 金沢真甫会とは、遠州流茶道宗家十三世お家元小堀宗実先生を金沢にお迎えしてのお稽古する仲間の会。なかなか日程が合わず、久しぶりの参加。毎回、久しぶりなので、毎回、一からやり直すことに。いや、ゼロからか。

 

 と、毎回同じことを書いている。やれやれ。

 

 

 お稽古の後は、お家元ご指導の下、勉強会。今日この段階で教えていただいた内容はほとんど覚えてはいないが、その時は、知的好奇心が大いに刺激される。

 

 

 お稽古、勉強会の後は、お家元を囲んでの懇親会。メンバーのどなたかの何だったかのお祝いで車多酒造「五凛 凛粋 -RINSUI- 2020 水楢樽熟成」をいただく。美味しかった。いわゆる熟成といやつか。ワインのような日本酒って感じか。

 

 

 さて、今回、いろいろと経緯があり、私の妻の運転のクルマでお家元をお稽古場から懇親会場へお送りし、懇親会終了後、ホテルまでご案内する。

 

 山野家にとって、私のお稽古よりも、そのことの方が、インパクトのあるできごと。

 

 それにしても、なかなかお作法を覚えることはできない。東京ででもお稽古の場を探そうか・・・。

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