山野ゆきよしメルマガ

メールマガジン目標月2回、改め、年24回

佐久間艇長の遺書

2002年09月17日 | Weblog
 ご高齢の方たちのお集まりの会によんでいただき、講演をさせていただいた。人生の大先輩の方たちばかりの前での講演ということで、さすがに人前で話し慣れしているつもりの私も、少々臆してしまった。
 何年か前、高砂大学において約四百名のご高齢者を前に講演させていただいたことがあるが、それ以来だろうか。ただ、この時は、当然ではあるが、今よりは数年若かったこともあり、結構、自分のペースで、一方的に話してきた覚えがある。もっとも、決して、いいかげんという意味ではない。

 教育問題について、普段から考えていることを中心にお話させていただいた。人物を通して、歴史を学ぶということだ。
 小中学校の国語の教科書から、漱石も鴎外もなくなっていること、音楽教科書から瀧廉太郎や山田耕筰の作品はじめ、私たちが聞き親しんできた童謡・唱歌が少なくなってきていることなど、聴衆の皆さんがおそらくはご存知であろう作品名を出しながら、話させていただいた。皆さん、強く頷きながら聞いていただいたようだ。

 私がこのテーマの講演でよく取り上げさせていただく、「佐久間艇長の遺書」についても話してきた。「佐久間艇長の遺書」についての話は、時代が重ならないまでも、その時代の空気をご存知の方たちとして、感銘をもって聞いていただいたようだ。涙されていた方も多く、話している私も胸が詰まった。

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 日露戦争終了の二年後の明治四十三年、佐久間勉艇長率いる潜水艇が、その訓練中に、不幸にして艇の故障により、部下十三名と共に沈没し、二度と自力で浮上することがなかった。

 沈没二日後、潜水艇は引き揚げられた。この時、現地に駆けつけていた遺族も遠くへ離され、ごく一部の関係者以外は立入禁止となった。なぜなら、これまで諸外国での潜水艇の事故は、艇引き揚げ後、ハッチが開かれると、そこには乗組員たちが何とかして艇から脱出しようと、出口に殺到して息絶えている修羅のありさまが多かったからだ。我先にと争った形跡があったり、苦しさのあまりのどをかきむしったりした様子などが見られたということだ。そうした悲惨な光景を遺族に見せるわけにはいかない。

 ところが、いざ、ハッチを開いてもそこには誰の姿も見えない。

 艇内に足を踏み入れ、その内部の様子を一目見た関係者たちは思わず息を呑んだ。
 艇長以下十四名の乗組員全員が、それぞれの持ち場についたまま息絶えていたからである。艇内に入った関係者はもちろん、これを伝え聞いた人々の驚きは大変なものであったという。

 その後、佐久間艇長の遺書が発見された。
 艇長は刻一刻と苦しくなる呼吸の中、司令塔の小さな窓のわずかな光を頼りに、事故の経緯やその事に対して取った対応策等々、遺書を綴った。息の続く限り少しでも多く書き残そうと、懸命に鉛筆を走らせた様子が伺える。その文字はしっかりとし、文章も簡潔明瞭であった。

 私が驚くのは、佐久間艇長もそうだが、部下十三名全員が、艇長同様、最期まで自分の持ち場を離れなかったという点だ。その艇長のリーダーシップ、人望。
 艇長以下すべての乗組員は、自分たちは助からないであろう事を覚悟していたはずだ。そうであるならば、自分たちにできることは何か。そう考えながらの最期の行動であったはずだ。

 「謹ンデ陛下ニ白ス、我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ、我ガ念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ」

 佐久間艇長の遺書に書かれた文言の一節。部下たちが艇長に文字通り命を預けて、私淑していた理由のすべてを表しているといえる。

 遺書の最後の言葉は、「十二時四十分ナリ」であった。この後、何を書きたかったのか。この時間に何か異変があったことを記したかったのか、それとも、今後の潜水艇訓練に役立つようにと、自分が息絶える時間を記すつもりだったのか。いずれにしても、あまりに切ない。

 佐久間艇長は、若干三十歳。今の私より、十歳も若い。
この出来事は、一人、佐久間艇長だけではなく、この時代の日本人の気質を表しているといっても過言ではないのであろう。

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 講演を終え、控え室で休憩していると、一人の老紳士が私のところに来られた。

 「佐久間といいます。今日お話いただいた、佐久間勉の甥です。今日は、伯父の話をしていただき、本当にありがとうございました。」

 本当に驚いてしまった。先日、市内在住の八田輿一技師の甥の方とお会いし、私が八田輿一技師のことを、機会あるごとに取り上げていることに関して、やはりお礼を言われたばかりである。しかも佐久間艇長は福井の方で、時代も、日露戦争直後の話である。

 その方は、私のような若輩者が佐久間艇長の話をしたことに、いやそれ以上に、そういうことを知っていたことに驚いたようだった。

 七十歳は越しているであろう方が、おそらくはご自分のご子息よりも年下であろう私を前にして、感激の面持ちで、深々と頭を下げておられる。

 若輩者ではあるが、日本人の語り部としての責任を痛感した。

武士道-文化としての日本語その3-

2002年09月08日 | Weblog
 前回、日露戦争までの指導者の資質に大きな影響を与えたのは、新渡戸稲造がいうところの「武士道」精神であり、江戸時代における藩校、寺子屋で身に付けた、古典的素養ではないかと述べた。

 古典的素養はともかくとして、その武士道精神なるものはどの時代に日本に生まれてきたのか。

 武士が日本の歴史の表舞台に現れてくるのは、鎌倉時代、もしくは平安時代末期の平家からといわれている。
 それまでの日本は、律令体制のもと、公地公民制がひかれていたが、当然、貴族や有力農民の中には私有地を持つ者も出てくるようになる。その最大のものが藤原氏である。藤原一族は、天皇家と姻戚関係を持つようになり、その力を背景に、不輸・不入の権を朝廷に認めさせ、実質的に公地公民制は瓦解し、三世一身の法、さらには墾田永年私財法へと繋がっていく。(まっ、現代でいえば、族議員、抵抗勢力というやつでしょう。)

 さて、貴族や有力農民たちが少しずつであったとしても、税金を納めなくても良い田畑、つまり私有地という概念ができてくると、当然、それらを守ることが必要になってくる。
 法律的には、三世一身の法であり、墾田永年私財法となる。一方、ならず者たちから力ずくで守るためにも、武装化が必要となってくる。
 司馬遼太郎のいうところの、「用心棒」であり、谷沢永一のいう、「保安官」の登場である。それが武士の起こりといえる。

 これまでの公地公民制のもとでは、自らが開墾した土地であっても、自分の死後は朝廷に没収されていた。しかし、墾田永年私財法により、自ら開墾した土地は、自分の死後も、自分の子孫たちに伝えられることが、とりあえずは法律的に認められるようになった。
 また、自らが武装化したり、武装化した集団を雇い入れたりすることにより、その安寧を守ることに意を配るようにもなった。
 その一族にとってはまさに「一所懸命」の土地となる。そのことが担保されることによって初めて、自分のためだけではなく、自分の子孫たちのために、「後世に名を残す」という概念が澎湃として生まれてくることになる。
 いわゆる、「名こそ惜しけれ」、「恥を知る」という武士道の起こりである。

 この武士たちの美意識が、長い日常生活の中、儒教や仏教などの影響を受け、昇華され、蒸留されたものが、新渡戸稲造のいう「武士道」といえるのではないだろうか。
 そして、その美意識が日本の文化史の表舞台に現れてきたものが、かの有名な平家物語の「青葉の笛」である。

 一の谷合戦で平家は敗れ、平家一門は海上へと敗走していった。
 平家の公達・平敦盛(あつもり)は馬に乗ってその助け船にたどり着こうとしていた。その時、平家の残党狩りをしていた、源氏の武将、熊谷次郎直実(なおざね)がその後ろ姿を見つけ、「まさなうも、敵に後を見せ給ふものかな。返させ給へ」と挑発する。
 敦盛は、踵を返し、直実と組み合うも力の差はいかんともしがたく、あっさりと組み伏せられてしまう。直実が、相手方の鎧冑をとって、その顔を見ると、大将軍と思ったその武将は、自分の子供とたいして変わらない、若い公達であった。直実は助けてやりたいと思いながらも、他の源氏の軍勢が背後に迫っていることを知る。

 「あなたを助けてあげたい。お名前は。」
 「私は名乗るまい。私の首を取って人に聞くがよい。お前にとっては大手柄となるだろう。」
 「若武者ながらも、あっぱれな心意気。」

 直実は、「名も無き雑兵の手にかかるよりは」と泣く泣く、敦盛の首を切り落とした。

 その敦盛の腰には、笛がかかっていた。直実は、その日の早暁、戦場に響く美しい笛の音を聞いて、戦場でも情緒を忘れない平家の武士に感銘を受けていたのだが、その奏者が、今、自分が命を奪った若い公達だということを知り、無常を感じその後出家をする。
 その笛が、大本山須磨寺の寺宝として現存する、「青葉の笛」である。

 敦盛は、直実の呼び立てになぜ取って返したのか。おそらくは、そうすれば自分の命のないことは覚悟していたであろう。「まさなうも」と、背中から吐きつけられ、そのまま、敗走するわけにはいかない。それがその時代の武士の美意識といえる。現代人からすれば、むしろ忌避される行動かもしれない。
 中世武士の美意識、モラルが、新渡戸稲造のいう「武士道」のように未だ決して洗練されたものではなく、武骨でゴツゴツした激烈なものとして表されている、その顕著な例といえる。

 さて、その敦盛のことを歌った、「青葉の笛」が、明治時代に唱歌として、当時の子供たちに歌われていたという。
 戦後、「青葉の笛」はどの音楽の教科書からもなくなってしまった。確かに今風の歌とはいえないかも知れないし、歌詞にある、一の谷の合戦にしても、子供たちにはすぐに理解はできないであろう。
 私も、さすがに、唱歌「青葉の笛」の復活を声高にいうつもりもない。しかし、いつか、何かの機会に、その精神だけでも子供たちが、触れることができる、そういう社会環境であって欲しいし、その責任の一端を担える大人であっていたい。

 蛇足を一つ。

 敦盛は、この「青葉の笛」の唱歌としても有名だが、幸若舞の「敦盛」としての方が知られているかもしれない。例の、信長が舞うことを好んだという、「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり」というやつだ。

 「利家とまつ」をはじめ、様々なドラマにおいて、本能寺で信長が自害した際に、舞ったとされている。しかし、当たり前のことだが、誰も見た者がいない。
 幸若舞の「敦盛」を、信長が普段から好み、特に、桶狭間の戦の朝に舞ったことが強烈な印象となっていることから、後世の歴史家が信長の最期に相応しいエピソードとして作り上げ、広まっていったのだろう。
 それはそれで良い。

 さて、詳細な説明は割愛するが、「下天(化天)」という世界に住まう、その住人の定命は五百歳とされているという。そんな世界に比べれば、この世はまさに、「夢幻のごとく」であろう。
 私が、疑問に思っていることは、先の、「利家とまつ」の信長の最期のシーンでもそうであったが、その舞を口付きに謡う際、信長に、「にんげん(人間)五十年」と発音させていることだ。
 この場合は、人が生きている間、人の寿命の長さのことをいっている事は間違いない。下天の住民(という表現が適切なのかな?)との、生きている間の長さを比べていることでもあろう。

 私はこの部分は、「じんかん(人間)五十年」と発音させる方が正しいような気がして仕方がない。
 浅学な私にはどのように調べてもわからない。井上ひさしか丸谷才一、もしくは山崎正和あたりならわかるでしょうが、私にはその伝手もない。

 どなたかおわかりになる方がいらっしゃれば、ご教授いただきたい。