山野ゆきよしメルマガ

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ラッキーストライク

2003年12月18日 | Weblog
 報道等でご存知の方も多いであろうが、広島に原爆を落とした米軍B29爆撃機「エノラゲイ」が、12月15日から、ワシントン郊外の国立スミソニアン航空宇宙博物館別館で一般公開されている。

 同機の展示は、原爆投下の被害についてなんら言及がないこともあり、唯一の被爆国である日本からはもちろん、米国内においてでさえも批判が広がっている。公開にあわせ日本から被爆者団体も訪米し、要請・抗議を行ったという。
 それら団体の政治的な立場はともかく、やはり、唯一の被爆国の住民である日本人としては当然の抗議であると思う。

 しかし、一方では、やはり原爆被害に関し、日本国内の施設において、驚くべき展示がなされているということは、ほとんど全く知られてはいない。

 平成14年8月1日にオープンしたばかりの、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館がそれである。

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 今年の夏に、私は出張で広島市に行った際、夕食までの時間が少しあったため、オープンしたばかりの、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館へと足を運んだ。できたばかりということもあり、ぜひ、行きたいと思っていた。
 当日は、ホテルから借りた傘がほとんど役に立たない程の激しい雷雨で、歩いたのはほんの十数分であったが、スラックスの折り目もすっかりなくなり、革靴の中は、雨でぐじゅぐじゅになってしまった。

 祈念館の建物自体が地下に入っていくような構造になっており、瀟洒な中に厳かな雰囲気を感じさせるものであった。
 私は、この手の展示館等では、時間の許す限り、展示されている説明文などを丁寧に読むようにしている。この日もそうであった。

 地下二階にある平和祈念・死没者追悼空間。
 爆心地、いわゆる「グランドゼロ」から見た、被爆後のまちなみを表現した空間である。この展示場に入るには、その入口から、スロープ状の廊下をやや下りながら歩いていく必要がある。そして、その廊下の壁には、原爆被害について書かれた何枚かのパネルがかかっている。短いものばかりであったので、私は、その一つひとつを読みながらも、ほとんど立ち止まることなく歩を進めていった。

 しかし、その最後のパネルを読んでいて、思わず、立ち止まってしまった。暫く、その前にいたが、すぐ横に「グランドゼロ」の空間が垣間見えていたので、そちらの方が気になり、間もなく移動した。

 祈念館には、被爆体験記や追悼記が多く展示され、特に、被爆体験記はいくつか読むだけで、胸が締め付けられるような思いがし、その膨大な量もあって、まさに、色々な意味で圧倒されるような気がした。と同時に、この館の目的である、「核兵器のない平和な世界を築くことを誓います」ということに最大限の努力を惜しまないという思いを新たにした。

 さて、ひと通りの展示を見てから、最初のコースに戻り、やはり気になっていた、先ほどのパネルの前に、再び立った。

 時間もあまりなかったこともあり、後日、精査しようと思い、取り急ぎ、そのパネルに書かれた文章を書き写してきた。すぐ近くにいた警備の方が、いぶかしげな表情で、あわててパネルを書き写す私をちらちら見ていた。私も悪いことをしているような気分になり、「すいません」と卑屈に謝りながら、ペンを走らせていた。

 以下の文面がそれである。

「原子爆弾によって亡くなった人々を心から追悼するとともに、誤った国策により犠牲になった多くの人々に思いをいたしながら、その惨禍を二度と繰り返すことのないよう後代に語り継ぎ、広く内外に伝え、一日も早く核兵器のない平和な世界を築くことを誓います」

 ここまで私の拙文にお付き合いいただいた方には失礼な言い方かも知れないが、私は文章作成力の自信は全くない。しかしながら、文章読解力は、人並みなものを持ち合わせているつもりであるし、バランス感覚も普遍的な日本人のそれを保っているつもりである。

 この説明文は、一体、どういうことか。
 原子爆弾を投下したのは、間違いなく、米軍戦闘機「エノラゲイ」であり、そのスイッチを押したのは、米軍人である。そして、その指示を出したのは、当時の米国大統領ではなかったか。
 この文章では、原子爆弾を投下されたのは、「誤った国策」のため、つまり、日本自らの責任でもって原爆被害を受けたということになりはしないか。

 「誤った国策により犠牲になった多くの人々に思いをいたしながら」という箇所は、先の大戦全体のことを指すつもりなのかもしれない。しかし、そうすると、最後尾の「核兵器のない」には繋がらない。現在はもちろん、当時も日本は核兵器などは所有していないのだから。明らかにこの意図は、原爆を落とされたのは、日本の責任だから仕方がない、今後はそういうことのないようにしよう、というものと受け取れる。

 しかし、もしそういう意図であるとするならば、それでは説明できない歴史的事実がたくさんある。

 なぜ、原爆投下は、アメリカにとって、多くの同胞ともいえるユダヤ人を迫害していたドイツではなく、日本であったのか。なぜ、アメリカは明らかに戦時国際法を犯してまで、原爆を使って民間人の大量殺戮を行ったのか。そして、何といっても、なぜ、一度ならず、広島、長崎と二度も投下したのか。等々。

 それらの理由も全て「誤った国策」という言葉で、集約させるつもりなのか。それでは、あまりにも切ない。原爆で犠牲になった先人たちに対して、なんと言葉をかければいいのか。上記の事実に対する理由も含めて、全て「誤った国策」により、犠牲になった、と言えばいいのか・・・。

 先日、朝日新聞を読んでいると、あるコラムの中に、この記述のことが触れられていた。その記事によると、「誤った国策」という表現は、被爆者の中から、入れて欲しいという声があったからということだ。
 私は、その記事を見て、内心ホッとした。その記者の思いはともかくとして、やはり、あの表現に対して、違和感を持つ人が新聞記者の中にもいたのだ。私がこの文章を書き、問題提起をしようと思ったのも、この記事を見かけたことが理由の一つだ。

 被爆者の中には色々な方もいらっしゃる。もちろん、そのような声を上げた方にしても、原爆を落とされた直接の原因は、日本であり、だから仕方のないことだという思いで提案したわけではないことは疑いようもない。純粋に平和を望む気持ちから発せられたことであろう。その思いが捻じ曲げられてしまったのか。
 やはり、そもそも、原爆死没者追悼平和祈念館というところに、そういう記述を展示していこうという発想自体が、極めて偏狭的な政治的嗜好を感じざるを得ない。

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 スミソニアン博物館でのエノラゲイ展示に話を戻す。

 今回、博物館側は「技術的進歩に焦点を当てた」(デーリー館長)と主張しているという。そうであるならば、その原爆によって、人口どれくらいの都市で、どれくらいの被害(この表現が抵抗があるなら、「影響」でも良い。「効果」では困るが)を出したのかを提示した方が、科学的に技術的進歩を証明できるのではないか。もっと言えば、技術面の展示なら、どのB29でも問題ないはずである。

 原爆投下を正当化したいという意図が明らかである。

 何度でも言う。世界唯一の被爆国であり、二度とそのような悲劇が繰り返されないことを心から願う日本人のみならず、米国内からも今回のような形での展示に抗議の声が起こるのは当然のことである。私たちもそれぞれの立場で、意見の表明をしていくべきだ。

 しかし、原爆被害展示に関して、どうやらその前に、私たち日本人はやらなければならないことがあるようだ。


 以下、大きな不謹慎な余話。

 1945年8月6日、広島上空に到達したエノラゲイはウラン型原子爆弾「リトルボーイ」を投下。
 キノコ雲に包まれた広島を眺めながら、エノラゲイの搭乗員はこう叫んだという。

 「ラッキーストライク!」

 タバコの銘柄である「ラッキーストライク」は、この時のパイロットの言葉から名前を取られた、原爆投下を記念して作られたタバコである。

 以上は、もちろん、全くのデタラメな、後から創作されたエピソードに過ぎない。

 もともと、「ラッキーストライク(大当たり)」とは、19世紀のゴールドラッシュの時に金鉱を掘り当てた山師が叫んだ言葉がルーツとされるスラングで、エノラゲイとは何の関係もない。
 もっとも、「ラッキーストライク」は、当時米軍の支給タバコとして、広く吸われていたタバコでもあったので、後日、このような極めて不謹慎、不愉快なエピソードが広まっていったのであろう。

 当時のアメリカにとって原爆投下は、その程度の認識でしかなかったという象徴的なエピソードではある。

誇りあるお二人の外交官を悼む

2003年12月13日 | Weblog
 12月議会が終了した。
 私がお送りした質問予定原稿に対して、何人もの方からご意見をいただいた。極めて専門的な内容にも関わらず、お目通しいただき、素直にうれしい。

 さて、当日、実際の質問に入る前の前口上として、私は、以下のように述べさせていただいた。

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 質問に先立ちまして、イラクで殉職された、お二人の誇りある外交官のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 亡くなられた奥大使がイラク駐在中に書き綴った、「イラク便り」の中に、テロの被害に遭った現状を見ての、次のような記述が見られます。

「犠牲になった尊い命から私たちが汲み取るべきは、テロとの闘いに屈しないと言う強い決意ではないでしょうか。テロは世界のどこでも起こりうるものです。テロリストの放逐は我々全員の課題なのです。」

「『我が日本の友人よ、まっすぐ前に向かって行け!』 と語りかけてくるようです。『何をためらっているんだ。やることがあるじゃないか。』と語りかけてくるのです。」

「一刻も早い支援の実施が唯一の解決策でしょう」

 これらは、現場から遠く離れた、日本において語られた言葉ではありません。現場で汗を流し、一日も早い、日本からの支援を心待ちにしていた外交官の言葉なのである。

 私はこれらの言葉の中に、お二人の外交官としての崇高な使命感と、世界の中の日本人としての静かなる矜持とが、感じられてなりません。
 お二人の数々のお言葉と行動に対して、心より敬意を表すると同時に、改めて、お二人のご冥福を衷心よりお祈り申し上げ、以下、質問に移らせていただきます。

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 自衛隊派遣について、政府の態度を「自衛隊派遣ありき」と批判する論調が一部見られる。一見、もっともらしい意見に聞こえるし、私もそれらの論調を見聞きしていると、正論のように感じてしまう。しかし、慎重、冷静に、様々な意見に耳を傾けていると、実は、それら論調を発している方こそが、「自衛隊派遣反対ありき」で凝り固まっているということに気づかされる。

 その顕著な例を一つあげる。
 朝日新聞12月10日の社説で、次のような記述があった。しかも、わざわざ一面にもってきた社説の中にである。

『国民は自衛隊派遣の不安をますます募らせている。だが、一方で、「彼らの遺志を継げ」「テロに屈するな」と、しきりに派遣を促す声がある。』

 この前段の部分に、イラクで殉職されたお二人の外交官について触れられている。この社説で言うように、「テロに屈するな」との言葉が、即、「(自衛隊)派遣を促す声」であるとするならば、その声は、まさに「イラク便り」の中で述べられている、故奥大使の声そのものである。

 「イラク便り」や、「外交フォーラム」に書かれた、故奥大使の文章には、世界の中の日本としての、一日も早い然るべき対応を望む気持ちを読み取ることができる。しかし、現職の外交官でもあり、言葉としてはっきりと、そこまでは表わすことはできない。

 その立場を、悪意があってとは思わないが、結果的に利用した形になっている「派遣反対ありき」陣営の論法を、私は道義的に許すことはできない。人の死は確かにいたましい。しかし、その人が亡くなったからといって、その方が残された言葉を曲説して、自分たちの主張を述べることが、許されて良いはずはない。

 そのことを、地方議会の場ではあるが、ささやかながら表わしたかった。

 自衛隊派遣に関して、12月9日の読売新聞に、中谷元代議士と前原誠司代議士の「論陣」が掲載されている。自民党と民主党、それぞれの良識派の真摯な姿勢が読み取れて面白い。寸評の最後に書かれた、「自衛隊派遣を含むイラク復興支援の重要さについては両者一致している。それだけに自衛隊派遣には、党利党略を離れた的確な情勢認識が何より大事だろう。」が全てであろう。

 やはり、12月9日、小泉首相は自らの言葉で、自衛隊派遣の必要性を国民に説明し、理解を求めた。このような説明は、どれだけ行っても、多すぎることはない。小泉総理自らの、国民に説明する姿勢を今以上に求めると同時に、何が何でも「反対ありき」陣営の冷静な対応も望みたい。それら陣営の報道に多くの国民が注視をし、影響も受けるのだから。もちろん、報道関係だけではない。その陣営に与している有識者も然りである。