山野ゆきよしメルマガ

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八田與一の歌、高峰譲吉の歌

2005年12月18日 | Weblog
 この12月議会において、私は、「金沢の偉人から学ぶ」という項目で、谷口吉郎・吉生父子、柳宗悦・宗理父子、さらに、八田與一ととりあげ、金沢市の施策を質した。

 私は、これまでも、何度も申し上げてきているが、人物を通して歴史を学ぶという観点は、大変、大切だと思っている。少なくとも、歴史教育の入口としては、最も好ましい姿勢だと思っている。これまで、私の拙いメルマガでも、「八田與一」「谷口吉郎」「高橋介州」「高峰譲吉」、さらに、金沢市出身ではないが、お隣福井県の「佐久間勉」等々をとりあげてきた。特に、八田與一の旅では、浜野弥四郎、磯永吉、廣井勇、中島力男等々を紹介させていただいた。近いうちに、新渡戸稲造、後藤新平についても、その人物に関心を持ってもらえるよう、できるだけ平易にまとめてみたいと思っている。さらに、何といっても、児玉源太郎で人物評は止めを刺すのではないかと思ってもいる。

 さて、この議会の答弁で、八田與一に関して明らかにされた、来年秋に、ふるさと偉人館を会場に予定されている「八田與一特別展」。

 実は、私たちが今年の八田與一の墓前祭に参列したのは、その特別展のために、烏山頭ダムを管理する水利会からお借りする資料の確認が、その大きな目的の一つであった。

 ところが、「八田與一の旅その4」でも書いたように、台北日本人学校の子供たちとの思いがけない出会いが、想像もしていなかった八田與一顕彰へと繋がっていった。

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 八田與一のご長男、八田晃夫氏を中心とした、「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」一行が、台北日本人学校を訪問し、烏山頭ダムへの修学旅行を秋に控えていた6年生の子供たちへ、晃夫氏が言葉をかけられたということは、既に、「八田與一の旅その4」で述べた。また、その後、子供たちはそれぞれ感想文を書き、それらを私たちに送ってくれたことも、やはり、「その4」の中で紹介させていただいている。

 実は、さらに後日談があった。私は、つい先日、そのことを知った。

 以下のような出来事があった。

 八田晃夫氏の話を聞いてくれた、6年生。その担任の先生が、子供たちと話し合い、八田與一を顕彰する歌を作ることにした。そして、本当に彼らだけで作り上げてしまったのだという。次のようにして実現させた。

 まず、6年生全員に詩を作ってもらい、先生が、その中から印象的な言葉を抽出し、詩を作り上げる。次いで、先生がその詩に曲をつけ、やはり、他の先生と一緒に編曲をして完成させた歌である。

 このやり方は、実に、うまくできている。子供たちが、詩の中に共通して使うであろう、いわゆる「八田與一キーワード」といえるものがある。
 「烏山頭ダム」、「嘉南大圳(しゅう)」、「珊瑚潭」、「殉工碑」等々。多くの子供たちが、こういった言葉を使って詩を書いたはずだ。

 子供たちは、自分の書いたあの言葉こそが、歌に使われたのだと感じ、その歌に強い愛着を持つようになる。本当に、自分の作った歌である。

 「麗しき烏山頭~八田與一賛歌~」

 (一番)
  青く透き通る烏山頭
  大きな夢抱きつつ
  ふるさとへの思いを力に変えて
  人々は輝きだした
  苦しみを忘れ去るために
  たった一つの希望のダム
  世界一のダム
  素晴らしき烏山頭
  嘉南大しゅう 嘉南大しゅう
  あ~嘉南大しゅう 嘉南大しゅう

 (二番)
  伝説を語る珊瑚潭
  守られ抜いたブロンズ
  差別のない殉工碑優しさに満ち
  人のために尽くす技
  一生を尽くした男
  日台の架け橋
  嘉南大しゅうの父
  ありがとうと心こめて
  嘉南大しゅう 嘉南大しゅう
  あ~嘉南大しゅう 嘉南たいしゅう


 「その4」にも書いたが、台北日本人学校では、4年生で八田與一のことを学び、6年生の修学旅行では、八田與一が全精力を傾けて完成させた、烏山頭ダムを見学に行く。

 今年11月18日、修学旅行で烏山頭ダムに訪れた6年生の子供たちは、八田與一の銅像と八田與一ご夫妻の墓前で、この「麗しき烏山頭~八田與一賛歌~」を合唱したという。

 八田與一も外樹代夫人も、本当に驚かれたのではないだろうか。と同時に、お互い苦笑いをし、照れながら、顔を見合わせていたことであろう。

 閑話休題。

 私は、金沢の偉人のために、子供たちが顕彰する歌を作ったと聞いて、思い起こす方がもう一人いる。

 高峰譲吉である。

 現在、旧高峰家の一部が、金沢市丸の内の「黒門前緑地」に移築復元されている。それは、明治5年、譲吉の父精一が建てた住居の一部で、書斎や茶室として利用された離れにあたるものである。当初梅本町(現大手町)に建てられたが、昭和39年に、この離れの部分だけが、湯涌町にあった「江戸村」に移築された。平成13年、緑地整備にあわせて、高峰家が住まいをしていたすぐ近くという理由で、現在の地に移築復元されることになった。

 そのことを契機に、元々、高峰家があった地が、現在の味噌蔵町小学校校下(金沢市では、学校区のことを、校下という。一般的にいわれているだけでなく、行政用語として市民権を得ている。おそらく、「城下町」からきているのではないだろうか。小学校下を一つの地域活動単位としている)にあったこともあり、平成13年当時の味噌蔵町小学校5、6年生の子供たちが、高峰譲吉を顕彰する歌を作っている。こちらは、作詞も作曲も、子供たちで行い、監修指導として、各々、先生方が名を連ねている。

 高峰譲吉博士賛歌『高き峰めざして』

 (一番)
  科学のふしぎ 追いもとめ
  あゆみ続けた その思い
  今もぼくらの 心の中に
  高き峰めざす 希望をうんだ

 以下、三番まである。

 毎年、高峰譲吉の誕生日である11月3日に、高峰譲吉が顕彰されている金沢市立ふるさと偉人館前庭にある、「高峰譲吉博士胸像」の前で、献花式が行われている。その際、代々、味噌蔵町小学校の子供たちによって、この歌が歌い継がれている。

 また、高峰賞という、市内で特に理数科にすぐれた中学生に贈られる賞の授与式の際にも、歌われているそうだ。

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 毎年、高峰譲吉の誕生日である11月3日に、高峰譲吉が顕彰されている金沢市立ふるさと偉人館前庭にある、「高峰譲吉博士胸像」の前で、献花式が行われている。その際、代々、味噌蔵町小学校の子供たちによって、この歌が歌い継がれている。

 また、高峰賞という、市内で特に理数科にすぐれた中学生に贈られる賞の授与式の際にも、歌われているそうだ。

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 私は、秋に予定されている「八田與一特別展」において、こんなことができればいいなと思っていることがある。

 特別展のオープニングンセレモニー、もしくは、期間中のなんらかのイベントに際して、その会場と台北日本人学校とをインターネットで繋げ、その子供たちに、「麗しき烏山頭~八田與一賛歌~」を歌ってもらう。会場にいるすべての方たちに、台北日本人学校と八田與一との関わりを、さらには、その歌が作られた経緯などを説明してもらい、子供たちが歌う、その歌を、静かに聞いてもらう・・・。

 もちろん、その映像が流れているディスプレイは、許文龍氏の奇美実業が作っている液晶パネルで作られたものである。・・とまでは言わない。