山野ゆきよしメルマガ

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八田輿一

2002年12月13日 | Weblog
 先般、私の母校でもある慶應義塾大学の学園祭である、三田祭において、台湾の李登輝元総統をお呼びしての講演が企画された。予想されたことではあるが、中国の横槍と、相も変わらず、外務省の事なかれ役所主義のため、ビザが発給されることができず、中止のやむなきに追いこまれてしまった。
 ここでは、この話題にこれ以上触れない。

 その後、あるマスコミが台湾の李登輝氏の元をお伺いし、取材されたところ、氏は既に講演予定原稿も用意され、その日を楽しみに待っていたという。後日、その講演予定原稿がある新聞に掲載されていたが、それを一気に読み終えた私は、深い感動を禁じえなかった。

 「日本人の精神」と題された、その講演原稿は、冒頭の儀礼的な挨拶の後は、全て我が金沢市出身の八田輿一氏のことを引用しながらの話が進められていた。八田輿一氏の偉業や人間性を通して、「日本人の精神」が諄諄と述べられていた。
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 八田輿一は金沢市の今町出身で、土木技師として当時日本の統治領であった台湾に赴任した。それまで、台湾南部の嘉南平野は、水利の不便さゆえに不毛の大地と呼ばれていた。八田輿一はこの地にダムをつくることによって嘉南の地を豊穣の緑地に変えられるとの調査を行い、当時の台湾総督府を説き伏せ、1916年着工、1921年に烏山頭ダムの完成にこぎつけた。
 このダム及び水路のおかげでこの嘉南の地は、天から雨が降って初めて耕作できる貧困な土地から、15万ヘクタールに及ぶ緑豊かな豊穣の地に生まれ変わることができたという。

 八田が構想したダム建設にともなう大規模な灌漑水利工事は、当時の日本国内でも前例がないほど巨大なものであった。完成したときは、アメリカの土木学会でも「八田ダム」と命名され、世界でも、驚愕と賞賛とを持って受けとめられたという。
 また、八田は安心して働ける環境があってこそ初めて、よい仕事が生まれるとの信念のもと、職員宿舎200戸の住宅をはじめ、病院、浴場、学校を作るとともに、娯楽施設、弓道場、テニスコートといった設備まで建設した。
 大工事を進めていく上で、数多くの困難もあった。実際この工事に携わった方たちのうち、134人もの人が犠牲になり、ダム完成後に殉工碑が作られ、そこには、台湾人、日本人の区別なく名前が刻まれているという。また、設計当時、ダムの寿命は50年と見られていたが、実際は、80年を経た現在でも、貯水能力は3分の2を維持し、竣工当時と同じように満々と水をたたえている。

 戦争が始まり、八田輿一はフィリピンの灌漑施設の実施調査へ向かう船の中で、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没、戦死した。
 終戦の年の9月1日、烏山頭ダム工事がスタートした25周年目のこの日、八田の次男が復員して帰ってきた。八田夫人は、その喜びを家族一同と共にしたその翌朝早くに、愛する夫の銅像脇のダムに、和服姿で薄化粧をされて身を投ぜられた。この悲報に、嘉南地区の農民たちは言うまでもなく、新聞で知った台湾の方たちは慟哭してやまなかったという

 確かに事業そのものは日本統治時代のことであり、当時の日本の国策によったものかもしれない。しかしながら、終戦とともに日本人の手でつくられた多くの石碑や像がすべて取り壊された中、ご夫婦のお墓は逆に終戦後、現地の方たちの手によって国有地という公の場で作られ、八田輿一の命日には欠かさず墓前で法要が営まれ続けているという事実。八田輿一の銅像も、現地の方たちが戦中・戦後の混乱の中、守り続け、現在に至っているという事実。さらには、台湾の中学校の歴史教科書に八田輿一の業績が紹介されているという事実。
 それらは単にダムをつくり、緑豊かな土地にしてくれたという尊敬だけではなく、その八田御夫妻の人間性を含めた意味での敬いの証ではないだろうか。
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 李登輝氏の原稿の中に、次のような記述があった。
 「(八田輿一の人間性について)天性ともいえるかもしれませんが、これを育んだ金沢という土地、日本という国でなければかかる精神はなかったと思います。」

 日本人、金沢人として、思わず背筋を伸ばされるような気持ちにさせられた。