ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

漸く通常の態勢に戻ります(20240302)

2024年03月02日 | 沖縄暮らし

おはようございます。2024年3月2日(土)曇

 昨日、やっと、「視点」24の制作物を、夕方発送しました。なんとか間に合った。やはり緊張する。今回は5枚一組の作品で、先祖返りとなりました。昨年12月からやろうかと気を取り直し、準備を進めてきました。ただ撮影に出たから、それらしいものが撮れるわけではありません。天候や光線の具合、何を被写体にするのか、どう撮るのかなど、事前準備と思案が、現場での思案とトライアルが必要です。積み重ねることで、段々とイメージが湧いてくる。現場には、壊された森と壊されていく海という自然と、工事によるグロイ破壊と、警備・弾圧と敢然と座り込んだり抗議する人々がいる。こうしたものを如何に結びつけ、作品にしていくのか。

 今回の5枚の内、極めて足場の悪い中で撮った一枚があります。肝心の撮りたい先が塞がれており、一段高い足場に乗らなければ、何も見えない。このへんかなと決めて登れば、一眼レフカメラだと片手では撮れず、「せいの」でシャッターを押す。絵づくりの余裕なし。もう運しかない。水平に撮れなかったり、逆に水平線とバラ線が100パーセント重なっていたり。偶然のいたずらに、しょぼん。

 ある抗議の現場では、前から横から後ろから。抗議者とターゲット(抗議の相手)と、海上での抗議者の3重奏といきたいが、距離がありすぎて、至難の業。プリントしてみて、もうちょっとやりようがあったと、反省。現場の迫真力に押されてしまうと、もう一歩を発見できなかった。考えが浅い。気がつけば写真だから手のうちようは、あったはず。

 もう一枚も抗議現場。約30度余り傾けて、入れたい者を全部入れた。抗議者のひとりがお皿を叩いている。これをクローズアップしたのだが、バチにあたるものが妙に反射して2本に見える。モアレとかじゃないよねと思いましたが、いずれにしてもおかしいので、ハッキリ1本が写っている方を採用。一寸した角度の差によって、淡い影がでだようだ。あっちもこっちも細部まで観るのは、もうたいへん。

 いつもの事ながら落ち着いて入念に観る、何を画くのかを入念に考え続ける。これしかない。人間は考える芦だとの格言がある。これを私は正しい気が致します。芦は何故芦なのかと言えば、風に対して風に抗せず、半ば押し流されながら、集団的に生命を堅持している。凄い力を持っている。人間の考える力は、パスカル(1600年代の人)が考えたように人間が生きていく価値を得てきたのか。芦を「弱者」として考えるのではなく、人間は芦の強さ(自然の生命力)からも学ぶべきだろう。

 彼は人間の考える力が、軍事力に凝縮してきた近現代をどうみているのだろうか。聞いてみたい気がする。近代主義の前進面(近代的価値)と陥穽の両面を観なければならないはずだ。私達が植民地主義を考えるとき、この両面をみなければならないのだ。

 沖縄の基地問題は、露骨で、破壊と罵倒(「辺野古が唯一」も)・弾圧に全面的に抗することなしに私達は立ち直れないようだ。ともかく、色々と考えさせてくれた制作だった。被写体になって頂いた皆様に感謝申し上げる。 

 ということで、今日から通常に戻ります。



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