ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

昨日は、私の記念日でした(20221014)

2022年10月14日 | 沖縄暮らし

 おはようございます。昨日、2022年10月13日は私にとって記念日でした。私が沖縄に住み始めたのが、2013年10月13日でした。それから9周年です。私が沖縄に関わり始めたのが、1989年5月でしたから、33年が経過しています。それまで沖縄について知らなすぎた。また、「日本」について知らなさすぎた。以来日々発見・見直し・再考の日々です。

 特に昨年は、辺野古テント村から離脱するという大転換を行い、その整理・再生が難題となり、一苦労。おかげさまで、自分の撮影という道を歩めることになったのです。一方で、自分の足下が揺らぎ、一から立て直さないとならないことに気づき、まだその途上にあります。否、人生とは常に途上であり、完成はないのでしょう。否、現在進行形だからおもしろいと、言いたくもある。

 辺野古テント村は、2004年から始まり、座り込みました。海上行動は2004年9月から始まりました。こうした取り組みがあったからこそ、「沖合案」を潰せたのです。今の「沿岸案」に代わったのが2006年。「米軍再編」の一環としてのグアム再編の動きと重なっています。在沖米軍の過半がグアムに移るのに、新しい基地がいるのか? これが私の疑問でした。米軍がグアムに移る理由は、明快です。米国が次に構える相手は中国だからです。中国の至近距離にむやみと米軍がいたら、やられてしまう。攻撃も(反撃されるから)やりにくい。南に部隊を下げるのは軍事的合理性があります。

 そして沖縄から下がった米軍を補完するために、沖縄に自衛隊が増設されていくと、当時私は読んでいました。そのことを明示したのが2010年末のこの国の「防衛計画大綱」です。「動的防衛力」「南西諸島防衛」が打ち出されていました。ここでは詳しく触れませんが、自衛隊が「専守防衛」から攻撃的な軍事力になる先端がここ琉球諸島に据えられたのです。以来私は、与那国島、石垣島、宮古島に通い出しました。

 私は90年代から自衛隊の変容を追いかけていましたが、沖縄に深く関わることで、自衛隊研究は疎かになっていたことは否めません。沖縄にいたら、自衛隊は「急患搬送」「災害派遣」などで「いい集団」扱いでした。「南西諸島防衛」「島嶼防衛」は、沖縄でも「日本」でも無視されていました。私は2011年頃から辺野古テント村に来る度に、きてからは日々、この問題を来訪者に語り続けていましたが、伝わらなかった。

 伝わらなかったのは、お聞きになった方々が、地元に帰れば、「沖縄事」でしかないから、有事法制反対とも重ならない。沖縄の人にとっても、沖縄戦の記憶はあっても、今いち結びつかない。「沖縄本島と先島」の差別は根深いです。私は「沖縄本島」とか「先島」と言ったことも書いたこともない。国家・軍隊からみたら、民衆のこうした差別意識は利用価値を高めています。

 私がエグいなと思うのは、琉球諸島を軍事化し、衝突の前線に据えれば、「専守防衛」という建前を使えるのです。「守るための軍事力」だと標榜できる。しかし今この国が準備していることは「敵基地攻撃能力」の完成です。防衛=攻撃、攻撃=防衛。「島嶼奪還作戦」と彼らが言ってきたことも、この理屈。急襲されたら守り得ないから、一端引いて、あらためて取り戻す。防衛=攻撃の論理です。ヒタヒタと私たちの島を戦場に据える。

 米国はまともに中国と戦争したら、核戦争になり、米・中お互いの破滅を招きます。だからそうしたくない。非核の日本が正面に立てば、地域限定戦争となり、まさか核戦争になるまいと、たかをくくっている。

 沖縄は、日本国に併合され(1879年)、沖縄戦までやられて、「基地の島」にされて、77年。再び戦場に据える動きが公然化している。わたしたち「日本人」は、再び沖縄を押しつぶし、挙げ句の果てに破滅を迎えるのか?! 冗談じゃない。

 私の9周年はこうした地平の上にあります。微力だからと言って、諦めてはいけない。辺野古テント村が(私にとって)なくなっても、できることはある。頑張ります。共に頑張りましょう。今後ともご支援をお願いいたします。



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