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岩城正和 東大野球部OB会(一誠会)会長の現役時代の思い出

2021-04-04 05:05:19 | 日記
私が東大野球ファンになったのは、1970年(昭和45年)ごろだったと思う。監督が小柄で白髪の上品な坪井忠郎監督、エースが門松武(湘南)、1学年上に石渡明(日比谷)投手、ベストナイン捕手に選ばれた早川昌保(甲府一)がいたのを覚えている。

どうしても、歴代エース投手で時代、時代を覚えている。野球部公式ホームページでのレジェンドインタビューで門松のインタビューが掲載されていたが、当時は、法政に田淵、山本浩二、富田、山中、江本、早稲田に、谷沢、荒川、明治に星野、慶応に藤原、上岡などがいた時代。

卒業後、プロ入りして直ぐに1軍の主力選手になった選手がたくさん居た時代で、その中、下手投げで4勝挙げた門松は、当時、プロ入りしないかなと思ったぐらいだった。

当時、70年安保の東大紛争で1969年(昭和44年)の東大入試が中止になり、そのため、門松が4年生の1970年(昭和45年)は、東大は、2年生がおらず、春季リーグ戦は、まだ1年生も、居なかったために3年生、4年生しかおらず、選手不足。その為に特例として6月卒業生が出場できた。確か、やはり下手投げの石渡が投げていた記憶がある。

現在、一誠会会長の岩城正和(戸山)は、門松の1学年下の右のスリークウォーターの綺麗なフォームの投手で、最近で言えば2年前に卒業した有坂望(城北)に似たタイプの投手。当然、門松の後のエース。

当時、東大のエースは、卒業までにリーグ戦で最低1勝は、挙げると言われ実際に、そうだった時代。ただ、岩城は3年生まで未勝利。

実は、手元に資料も無く50年近く前の事なので若干、記憶が、曖昧なのだが、岩城が4年生の春季リーグ戦に先発して好投していた時に、急に、タイムが、かかり監督がマウンドに行き、交代してベンチに下がってしまった。当時、内野席で観ていて何が起こったのか分からなかった。
翌日のスポーツ紙で岩城が自然気胸を発症して交代したとの記事が出ていて、ビックリしたし、がっかりした。

それ以降は、誰が投げていたのか、はっきり覚えていないが岩城より2学年下の小柄な下手投げの早川聞多(京都教育大付属)が投げていたのかもしれない。早川も最終的にはリーグ戦通算3勝を挙げるのだが当時は、まだ力不足だった。

又、早川の1学年下に後に通算4勝を挙げる御手洗健治元監督(戸山)と通算3勝で法政にいた「昭和の怪物」江川卓に3対2で完投勝ちして6大学初黒星をつける、通算3勝の山本隆樹(木更津)がいた。

それはともかく、当然、その後、岩城は、リーグ戦には出てこなくなった。症状の程度や、回復具合などは分からないまま、岩城が最後の4年生秋季シーズンに出てきた時は、嬉しかった。

そして、遂に1勝を挙げた。この試合も観戦しているのだが、相手や内容などは、覚えていない。ただ、病気で倒れてカムバックできるかどうかも分からず長期離脱した岩城がカムバックして最後のシーズンに念願の初勝利を挙げたのが嬉しかった。こういうことがあるので東大野球ファンを辞められない。

一昨年、東大駒場博物館で行われた「東大野球部の歴史展」で岩城が卒業後、社会人野球、新日鉄名古屋に進み1974年都市対抗野球にも出場したのを初めて知った。岩城正和は、私にとって記憶に残る投手である。(敬称略)