矢嶋武弘・Takehiroの部屋

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モンゴルの思い出

2024年09月13日 04時12分59秒 | 外国の話

<以下の記事は、2002年6月にモンゴルを旅行した時のものです。>

1) 大学時代からの友人・Y君の強い誘いがあって、私は6月5日から12日までモンゴルを旅することができた。 Y君は大変なモンゴル通で、彼と国内の旅行会社がコースを企画して、今回の観光旅行となったものである。
モンゴルの窓口は首都・ウランバートル(「赤い英雄」という意味)である。 4月から成田とウランバートルの間にモンゴル航空の直行便が就航したので、我々11人のツアー客はそれに乗り込みモンゴル入りした。
到着した5日と翌日はウランバートルの市内観光を楽しんだが、7日にはそこから1100キロほど西北西にある、オブス県のウランゴムという所へ国内便に乗って訪れた。 ここはロシアとの国境に近い極めて辺ぴな地域である。

何故こんな所に旅行したかというと、モンゴルの主だった所は全て訪れたことのあるY君が、中央アジアで最も美しいオブス湖と森を見ようということで、旅行を企画したのである。
ウランゴムに到着した7日午後、我々は早速小型バスに乗り込み、でこぼこ道を約2時間かかってその湖を訪れた。 ところが、オブス湖の周辺には森はおろか一本の木さえ生えていなかった。 Y君を始め我々は皆がっかりしたが、モンゴルとはこういう所かと改めて痛感したのである。
しかし、翌日と翌々日は、ガイドの懸命な調査によって、川の流れる風光明媚な渓谷を2カ所探し当てることができた。 我々はそこでちょっとしたピクニックをしながら、羊肉のシシカバブをほお張っては景観を楽しむことができた。

2) モンゴルを訪れる観光客は年々増えているようだが、日本の4倍の面積がある広大なこの国については、旅行会社でも充分に把握していないようだ。 従って未知の素晴らしい秘境は数多くあるはずで、これからが旅行会社の腕の見せ所となるだろう。
観光の話から入ったので、私は率直にこの点について語っていきたい。 お世辞抜きでざっくばらんに語る方が、今後のモンゴル観光にとってプラスになると考えるからである。
モンゴルはご承知のように“遊牧民”の国である。「ゲル」という円いテント型の移動式家屋に住んでいる人が多い。(中国ではゲルのことを「パオ」と呼ぶ) 遊牧民は羊、ヤギ、馬、牛、ラクダなどを飼って生活している。 数多くの家畜が大草原(ステップ)にのんびりと群れをなしている風景は、実にのどかなもので心が安まる。
しかし、モンゴルは降雨量が極めて少ない乾燥地帯である。 どこでも水が不足しているのだ。遊牧民は牧草や水を求めて移動する。 こうしたことは分かっているのだが、“水不足”は旅行者や観光客にとっても実に大きな問題である。
大抵の旅行者、観光客はミネラルウォーターを用意する。 これはモンゴル旅行の常識で、生水を飲んでいたりすると、いつ食あたりや下痢を起こすか分かったものではないからだ。

3) モンゴルには、牧畜以外にこれといった産業はない。 せいぜい地下資源の採掘加工を行う鉱業、カシミアや皮革などの加工業ぐらいがあるだけである。 従って、観光業は今後大きな収入をもたらすものと期待されている。 ところが、観光についての心構え、受け入れ態勢というものが極めておろそかだと言わざるをえない。 具体的な事例をいくつか挙げてみよう。
例えば、ウランバートルに「ボグドハ-ン宮殿博物館」というのがある。観光客なら誰でも訪れる名所である。 昔はいざ知らず、今は拝観料を2ドルほど徴収する。お金を取るということは立派な観光業である。 そして、それは当然のことだと思う。
そこで、私達の何人かがトイレに行った。 ところが、ここのトイレは、数メ-トルもある深い穴の肥え溜め式のもので、粗末な掘っ建て小屋の中にあった。勿論、臭気が漂っている。 我々一般的な日本人(特に中高年の日本人)は肥え溜め式の便所を知っていると思うが、欧米の観光客なら、多分びっくりするだろう。
代表的な観光名所のトイレがこのようなものでは、やはり問題だと思う。 モンゴルとはそういう所だと理解して行けば良いのだが、これから観光業に力を注ぎ、少しでも拝観料を取るのであれば改善していくべきであろう。

 余談になるが昨年、モンゴルの妊婦が用をたしていた時、赤ちゃんを「深い穴」に産み落としてしまったために、その赤ちゃんが死亡するという事故が起きた。 そういう悲劇を防ぐためにも、水洗式が無理なら穴をもっと浅くして、せめて汲み取り式のものにすべきであろう。
観光名所がこのようなものだから、一般のレストラン、店、ホテルなども、水洗式のトイレがあっても水が流れない、又は流れにくい所が少なからずあった。 それで良いと割り切るなら別だが、これから観光客を増やしていくなら、衛生面でも安全面でもトイレの改善は絶対に必要である。
ホテルでもシャワーのお湯が出ないとか、トイレの水が出にくい所があった。これは、配水装置の単純な不備・故障が多かった。 大草原や渓谷などを観光する時は、男性は立ち小便をすれば良いし、女性は岩陰を探して用をたせば済むことだが、ホテル等の配水の不備は、大いに改善すべきである。

 現地で聞いた話だと、大阪・茨木市の高校生約400人が6月中旬以降、日本から初めて修学旅行でモンゴルを訪れるという。 彼等はウランバートル郊外のゲルに泊まり込んで、モンゴルの生活や文化を体験するそうだ。これはモンゴルを知る上で大変結構なことだろう。
今の日本の高校生は存分にシャワーを浴び、毎日のように“朝シャン”をしているという。 水不足と配水装置の不備が多いモンゴルへ行けば、多分カルチャーショックを受けるだろう。更に自然で野性的な生活がどんなものか、体得できるかもしれない。

4) モンゴルの大草原を見ていると、どうしてもチンギス・ハ-ンのことを思い出す。 800年ほど前、アジアからヨーロッパにかけて空前の大帝国を築いた英雄だ。アレクサンドロス大王やカエサルに比肩する大征服者である。 彼の子孫は「元」帝国を興し、13世紀後半には日本にまで来襲してきた。 モンゴル民族とは、いかに強盛であったかと思わざるをえない。
しかし、栄枯盛衰は歴史の必然である。 かつて大帝国を築いたモンゴル民族は、今や250万人弱が日本の4倍の国土の中で静かに暮らしている。 モンゴルは20世紀に入ってソ連の影響で社会主義化したが、10年ほど前から民主主義国家として再生しようとしているのだ。
私はここで、モンゴルの歴史や政治を詳しく論じることは控えるが、一言でいって、この国は“アジアのスイス”になって欲しいと願うものである。 現在、モンゴルは全方位外交を展開している。その方針を今後も貫いて欲しいと思うものである。
1924年に社会主義国家となったモンゴルは、ソ連との密接な関係を維持してきたが、ソ連の崩壊もあり自身も民主化せざるをえなくなった。 日本とは30年前から国交を結んでいるが、西側諸国や中国とも関係を改善させてきている。 一時は8万人ほどいた軍隊も今や10分の1に減り、善隣友好の外交方針を取っている。(旧ソ連軍も、中ソ対立の最盛時には30万人も駐留していたが、今では勿論、一兵たりともいない。)
これは、モンゴルが「永世中立国」として進んでいけることを、十分に示していると言えよう。 また、他国との抗争や紛争を極力避けることによって、自国の経済発展に全力で取り組むことを可能にするものだ。 山や湖、ゴビ砂漠などに囲まれ、大草原の中に息づくモンゴルは、“アジアのスイス”に十分になりえると思う。

5) 民主化したモンゴルでは、復権したものが三つあると聞いた。チンギス・ハ-ンとモンゴル仏教、徹夜で酒を飲む若者達だそうである。 社会主義時代には嫌われたり、弾圧されていたものだ。
民主化や市場経済化は時の流れであり、また好ましいことだろう。しかし、貧富の格差が拡大したり、汚職や腐敗も目立ってきているという。 また産業を振興しなければならないのに、この国には牧畜以外に、一向に産業らしきものが育つ気配がない。 友人のY君に聞いてびっくりしたが、ゲルの生活に絶対必要なタオル、バケツさえも自国で生産できないというのだ。 
従って、日本を始め各国から経済援助、技術援助等を受けているが、はたして新しい産業が育ってくるのか、今のところ疑わしい面もある。 モンゴルのいつ果てることもない大草原を見ていると、もし気候にさえ恵まれれば、この国は大農業生産国になっていただろうにと思ってしまう。 残念ながら牧畜だけで、農業がほとんど育っていないのだ。
大統領や首相の給与が月額6~7万円、一般の給与所得が月額7~8千円というから、日本では考えられないくらい低い所得水準だ。 生活水準や地方の町並、経済環境などを見ていると、私は昭和20年代の日本の生活と同じようなものだと思ってしまった。

6) しかし、モンゴル人は全体的に大らかで屈託がない。こせこせとしていないように見える。 大草原と砂漠の中に遊牧する国民だからであろう。何事もなるようになれという感じである。 そこが、どちらかと言うと几帳面で、細かくて、ちまちまとした日本の国民性と大いに違うところだ。やはり大陸的なのだろう。
旅行に出かける前にY君が、「日本には、今や“大和なでしこ”はほとんどいないが、モンゴルには“なでしこ”が沢山いる」と冗談半分に言った。 私は冗談だとは受けとめたが、“モンゴルなでしこ”がいないか、旅行中、注意深く観察したつもりだ。
昭和20年代の貧しかった日本に大勢いた少女と、同じようなモンゴル少女が至る所にいた。 貧しいけれど、純朴で素直で飾らない“モンゴルなでしこ”が大勢いた。少女達を見ていると、何故か心が安まるような気がしてきた。 日本に失われたものがモンゴルにはあるような感じがしたのだ。
ウランゴムで私達11人は、地元の小学校を訪れてささやかな学用品を贈ることができた。30人ほどの子供達を前に、平均年齢60歳以上の私達は、一所懸命「ふるさと」を歌った。 すると子供達は、モンゴル語で「幸せなら手をたたこう」を歌ってくれた。今回のモンゴル旅行で最も心暖まる一時であった。
もう一つ予期せぬ嬉しかったことは、同じくウランゴムの宿舎で9日夜、「FIFAワールドカップ」の日本・ロシア戦をロシアのテレビ局の実況中継で見れたことだ。 まさか見れるとは思っていなかったので、我々11人は食堂のテレビにかじり付くようにして観戦し、日本を応援した。 その場にはモンゴル人とフランス人(画家)、それにJIKA(国際協力事業団)からモンゴルに派遣された日本人医師しかおらず、ロシア人はいなかった。 我々は、日本が1ー0で勝利すると大いに歓声を上げることができた。

7) ウランバートル市内のダンバダルジャーという所に、日本人墓地がある。 ここには、旧日本軍兵士800人以上の遺骨が埋葬されており、昨年10月、日本政府によって慰霊碑が建てられたばかりである。 私達11人はそこに参拝した。先の大戦で日本が敗北した結果、モンゴルでは1万2000人ほどの日本軍兵士がソ連軍の捕虜となり、強制労働に従事させられた。 そして、この厳冬の地で1686人が死去したといわれる。
私達11人の中に、ウランバートルで2年間強制労働に従事させられたTさん(77歳)がおられた。 Tさんは、慰霊碑が建てられる前に、墓参などのために30数度もモンゴルを訪れた人だ。 彼は一命は取り留めたものの、極寒の中で凍傷にかかり両足を切断、現在は義足を付けておられる。 私達はTさんに付き従って、慰霊碑に参拝することができたのである。
1939年のノモンハン事件等、日本とモンゴルの間には悲劇の歴史があった。 しかし、今は違う。日本とモンゴルは国交を回復して30年、新たな友好親善の段階に入っている。 厳冬・極寒の地で、遠く祖国・日本に想いを馳せながら亡くなられた方々に対して、我々はどのように応えることができるだろうか。

8) ところでモンゴルへ向かう時、我々が乗った飛行機に、たまたま大相撲の旭鷲山らの一行も同乗していた。 モンゴル出身の力士では最近、朝青竜が実力をつけてきて大関にも昇ろうという勢いだ。 旭鷲山らを見ていると、モンゴルが非常に身近に感じられる。
旅行中に我々のガイドをしてくれたバーゾ君という青年(21歳)は、高知の明徳義塾高校に10ヵ月留学した経験があるという。 その時、朝青竜も明徳義塾に共に留学していたそうだ。 また、ウランバートルでお世話になったツェレンバット君も、千葉大学を卒業して今は旅行会社を経営している。 このように、日本とモンゴルの人的交流は進展している。平和な時代は本当にありがたいものだ。
モンゴルから帰国する時、お土産で一番人気があったのはカシミアだった。 我々11人の仲間は女性が7人、男性が4人だった。女性上位である。 女性方はどんどんカシミア製品を買っていった。 モンゴルの数少ない加工品の一つである。買ってあげることは、モンゴルのためにもなるというものだ。
私はカシミア製品を買うつもりはなかったが、女性方に猛烈に煽られて、しぶしぶカシミアのショールとセーターを、妻と娘のために買わざるをえない羽目に陥った。 これも、モンゴルと日本の友好親善、貿易(?)のためには、悪いことではなかったと思う。
ただし、モンゴルに対して日本は最大の援助国だというのに、円がまったく通じないのは残念なことである。米ドルだけが通じるのだ。 モンゴルと日本の関係強化のためにも、一日も早く円が通じるようになって欲しいものだ。 (2002年6月16日)


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