河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
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歴史35 昭和――春やん戦記③

2023年08月12日 | 歴史

最初の現役を終えて、昭和14年の暮れ、大阪の聖天坂の家に帰ってきて、久々に小春との正月を迎えた。
小春は道頓堀の劇場でお茶子(客接待)して、舞台にもちょこちょこ上がっとった。
わしも、いつまでもぶらぶらしてられんので、入隊前に勤めていた岸里の工務店の社長はんに働かせとくなはれと頼みに行った。
社長はんは、ご苦労さんあったと言うて、心良う引き受けてくれはったがな。
大工に左官に電気の配線と忙しかったが、一ぺん軍隊にいったら多少のことは辛抱できるもんや。
贅沢は出来んけども、まあまあ幸せな日々あった。
しかし、それも一年半ほどや。

わしが満州から帰ってきた昭和14年9月には、ドイツが突如ポーランドへ侵攻して、すでに第二次世界大戦が始まてた。
おまけに、三年前のから始まった日中戦争がまだ続いてる。
そこへきて、昭和15年9月に、日本はドイツ、イタリアと三国軍事同盟を締結したんや。
なんのことはない、ドイツに攻撃され弱体化したフランス領の北部仏印(現在のベトナム北部)へ軍を進めよったんや。
イギリス・アメリカに喧嘩をうりにいったようなもんや。
ここらへんから、わしも覚悟はしていた。
今度こそはアカン!
除隊になったとはいえ「予備役」という、召集令状がきたら有無を言わずに戦地へ行かなあかんかった。
案の定、16年5月の末にに召集令状がきよった。

森の宮の歩兵第八連隊への入営が決まってからというものは皆優しかったなあ!
小春は、「劇場主さんから休みもらいました」というんで、京都、奈良やら、有馬、城崎やら、いろんなとこへ二人で行った。
工務店の社長は、ええ歳あったさかいに、「わしの分も御国のために頑張ってこい! 明日から何もせんでも一月分の給料を出したる」言うてくらはった。
隣に住んだはる渋谷天外さんからは、「あまりもんや」というて、肉やら刺身やらを持ってきてくれはぁった。
入営の二日ほど前の日には、浪花さん(千栄子)から、珍しいもんが手に入ったというてウヰスキーをくらはったがな。
小春に「そんな敵国のもん飲んだら、憲兵につかまるさかいに返してこい!」と言うと、その晩に舞台を終えた浪花さんが家に来やはった。
めずらしく河内弁で「なにをアホなこと言うてんねん! ウヰスキといっしょに英米を飲んでしまわんかいな! ということでんがな!」
ほんで、ウヰスキーといっしょにチョコレートも置いて、舞台でしゃべるような口調で、
「よろしおますか。御国のために、立派に戦こうて・・・死なんと帰ってくるのが、日本男児だっせ!」と言うて帰っていかはった。
ウヰスキー飲みながら、「みんなの好意を死に土産にしたらあかんな・・・」と、小春と二人で、笑うて、泣いた。

入営の前の夜、小春が「劇場の仲間やお客さんに頼んで縫うてもらいました」と言うて、「千人針」を渡してくれた。
一枚の白い布に、千人の女性が一人一針ずつ赤い糸で千個の縫い玉を作ったのを腹巻にしていれば、弾丸よけのお守りになるというやつや。真ん中に大きく、天外さんと浪花さんの名で「武運長久」と書いてあった。
「武運」の文字は涙でかすんで見えへんかったけど、「長久」の文字だけは今でもはっきりと覚えてる。
※④につづく

※『千人針風景』軍事郵便(京都大学附属図書館)・『写真週報』175号 昭和16年7月2日号 (国立公文書館デジタルアーカイブ)


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