アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第17章 ヨーガ・スートラ ⑫カルマ

2012-07-06 07:37:24 | 第17章 ヨーガ・スートラ
前稿⑪無明において、五種類の煩悩(就中、無明)こそがサマーディへの到達を妨げる要因であることを説明したが、続くⅡ章12節で、パタンジャリはカルマの根源も煩悩に在ると断じている。以下、『インテグラル・ヨーガ』から引用する。

「Ⅱ-12  カルマ【行為とその反作用】[業]の子宮の根は、これらの障害(筆者註:Ⅱ-3に記述された無知、我想、執着、憎悪、生命欲を指す)の中にあり、そうしたカルマが、見える生【現世】、および見えざる生【来世】における諸経験をひき起こす。」

「ここでパタンジャリは“カルマ” [業]とは何か、そしてそれはどのように蓄えられ、どのように働くのかの説明を試みる。サンスクリット語の“カルマ”には二通りの使い方がある。“行為”とその“結果”を指す場合と、そのどちらかを単独に指す場合とである。たとえば、『カルマを行って、カルマを刈り取る』と言う。だが普通“カルマ”と言うときには、過去の行為の反作用を指している。どんな行為でもその後に結果を残す、つまりどんな原因にも結果がある。そしてそれは、どちらが先とも言えないのである。たとえば、木はなぜ生えているのか? 種がまかれたからだ。ではその種はどこから来たのか? 他の木からだ。木が先か種が先か? タマゴが先かニワトリが先か? それはどう考えてもわからない。そういう堂々めぐりにケリを付けるには、タマゴなら呑み込むか、ニワトリならチキンスープにしてしまえばいい(!)。それと同じことで、カルマの始原はどうしてもわからない。それがどこでどのようにして始まったのかは誰にもわからない。だがそれは現にここにあり、こうして見ることができる。だからわれわれは、それにケリをつけるべく努力しなくてはならない。」

「 ― ということで、行為には必ずその反作用がつきもので、それらは消えずに残る。カルマの蓄えられる容器が“カルマ・アーシャヤ” [業遺存]つまりカルマの子宮である。カルマは、表面に浮かび出て反作用をもたらす機会を待っている。クレーシャ(筆者註:煩悩のこと)が原因となってそういうカルマを起こさせ、そのカルマが現世あるいは来世で、つまり見える生と見えざる生で結実するのである。そして我々は、カルマの数に応じて何度も生を享ける ―  だがそれは、一つ一つのカルマに対応してそれぞれの生があるという意味ではない。カルマは群れにもなる。つまり、一つの強いカルマがある身体を要請すると、そのように特定された媒体を使って反作用を起こすことのできる他の良く似たカルマは、全てそれに参入することができるのだ。それは、タクシーの運転手が空港から町まで乗客を運ぶ時に、一人だけではなく何人も相乗りさせるのに似ている。最初の一人がタクシーを呼びとめて、次に同じ方向へ行きたい人が何人も乗り込んで、町へ行く道すがら、少しずつ降りていく ― 。 それと同じように、一つの非常に強いカルマが、『私は身体を持たねばならない、私自身を表現しなければならない』と言う。そしてそういうカルマが新しい身体を招来して、それを通じて働き始めると、その身体を利用することのできる他のカルマの全てがそれに参入する。だから、そのカルマの働きが尽きても、後のカルマが延々と待機している ― 。 現世のこの身体でさえ、強い欲望を持つと変化する。たとえば心が怒りに燃えると、そういう感情を表現して、顔や身体全体が変化する。だから、もしある思いを遂げるに足るほどに現世の身体を変えることができなかったら、その身体は処分されて新しい身体を得ることになる。カルマの力はそれほど強い。」

「自分がどれだけの行為を行うか、どれだけの反作用が既に起こったか、そしてあとどれだけの反作用が未発のなって残っている蚊を考えてみよう。良い行為は良い反作用をもたらし、悪い行為は悪い反作用をもたらす。だから、生まれるときというのは、それ以前の行為の反作用を受けている。つまりカルマを浄化しているのだとも言えるし、同時に新しいカルマをつくりはじめているのかもしれないわけだ・・・・。 したがって、カルマには次の三種がある現世に発現して使いつくされつつある“プラーラブタ・カルマ”。現世で新たにつくり出されつつある“アーガミー・カルマ”。未来の生で遂行されるべき、カルマ・アーシャヤの中で待っている“サンジタ・カルマ”。これらは、彼が名人なら、矢を一本取って弓につがえ、ねらって放ったらすかさず次の矢を取ってつがえることができる。その瞬間の矢は、三つの位置にある。一本目はすでに弓を離れて進みつつある。それはもうどうすることもできない。止めることも戻すこともできない。それが現世をひき起こしたプラーラブタ・カルマである。その身体が存続するかぎり、それに割り当てられたカルマは続く。だから、心を超越して<自己>を実現した人でも、その誕生によって生じた運動量(モメント)が続いているので、何かをしているように見える ―  二本目の、つがえてねらっている矢は、人が一瞬ごとに新しく創り出すカルマに似ている。その中にある矢は、もしそうしたければ抜き出して狙い定める事が出来るし、でなければ抜き捨てることもできる。それはまったく意のままだ。それがサンジタ・カルマである。アーガミーとサンジタは制御することができるが、プラーラブタはどうすることもできない ― それはただ受け入れるしかない。だからこのサイクルは、<自己実現>の時点まで続く。」

「Ⅱ-13  根因が存在する限り、その結実すなわち、様々な生類への再生と寿命と経験とがある。」

「『すると自分は次の生でどういう種に生まれ変わるのだろう?』ということになる。それは必ずしも人間の身体をとるとは限らない。もしもその想念が動物的なら、そのカルマは動物の身体を要請する。この生でいつも狡いことばかりしていると、その反作用は、そうするとよりよくそれが表現されるところの狡猾な行為の形、つまり狐の身体として実を結ぶ。また、食べることの以上に熱心な人は、食べることをもっと楽しめるように豚の身体をとることになるかもしれない。『それは進化の法則に反する』などと言うなかれ。個々の魂は常に進化しているのだから。個々のそれは、何らかの進化した身体を得て、そういういろいろな形で物事を経験するが、それ自身は進み続けているのだ。“からだ”は経験ではない。生が“からだ”を通じて経験されるのだ。身体はただの乗物、つまり媒体である ―  たとえば『花の香りがする』というとき、其の香りを経験しているのは“鼻”ではなく、花を通じて心が経験しているのだ。そのとき心が他のもので占められていて、花を通じて機能しなかったら、たとえ鼻先にその鼻が突き付けられても、その心は香りを経験しない。また、読書に熱中しているときは、友達が大声で呼びかけても聞こえない。それは、そのとき耳がふさがっているからではなく、耳が心と繋がっていないからだ。だから、いろいろなことを経験し享受するのは心なのであって、身体の器官ではない。動物の身体の中でも、心が物事を受け、経験する。そして、経験するときにはいつも進歩し浄化して、最後には目的地に着く。 このわれわれの、実現[解脱]に向かう人生という旅にあっては、それぞれの身体が種々の乗物である。一匹の路上の犬は、かつての小さな過ちのために今はその姿となっている聖者だったのかもしれない。ある狐は昔、強欲で狡い実業家だったのかもしれないし、あるサソリは昔、いつも自分の雇い人を偉そうにチクチク刺してばかりいる雇い主だったのかもしれない。だからわれわれは、それを『ただの動物』ということはできない。一つひとつの“形”の中に、実現に向かう進化の旅を続ける魂が宿っているからだ。 スートラは『寿命(アーユ)と苦楽の体験(ボーガ)はカルマによって決定されるが、そのカルマといいうのは前述の諸障害の結実だ』ということも教えている。」

「Ⅱ-14  カルマは、善業に起因するものは楽、悪業に起因するものは苦として結実[業報]する。」

「善いことをすれば幸と楽を、悪いことをすれば苦を味わう。自分の人生が幸福であろうと不幸であろうと、それは自分自身の創作なのだ。他の誰の責任でもない。このことを忘れずにいるならば、あなたは誰も責めようとしないだろう。あなた自身があなたの最大の敵である、と同時に最良の友でもある。」

尚、Ⅱ-12節は第15章④心の構造にても引用済みである。サンスカーラとの関連も併せ説明しているので、再度読み返して頂くと理解がより深まると思う。

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