アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第17章 ヨーガ・スートラ ⑲業と輪廻

2012-08-24 06:12:58 | 第17章 ヨーガ・スートラ
ヨーガ・スートラに於いて、業と輪廻はどのように表現されているのか、その概略に就いて関連するスートラから引用する。尚、その因果関係を判り易く説明する為、筆者の裁量でその順番を入れ替えているので、予めお断りしておく。尚、障害という言葉が多く出てくるが、これは一般的な障害ではなくて煩悩の意味なので、以下できる限り煩悩に書き換えて引用する。又、無知も単なる知識の欠如ではなくて、その本性(自性)を悟っていないという意味であるから、仏教用語である無明と書き換えた方が判り易いと思う。尚、前半部分は本章⑪で説明した‘無明’と重複している。

「Ⅱ-3  無明、我想、執着、憎悪、生命欲が五つの障害[煩悩]である。」

「ここで彼はそれらの煩悩(クレーシャ)を列挙する。そして、以下のスートラでそれらを一つずつ説明していく。列挙される順序も重要である。まず、<自己>への無知から我想(エゴイズム)が現れる。我想の故に自我の私的享楽物への執着が存在する。執着する者が得られなかったり奪われたりすると、その妨害者への憎悪がうまれる。そして、結局は、物に執着し、死を恐れるがゆえに、身体の中の生命に固執する。」

「Ⅱ-4  無明は、それに続く他の諸煩悩―それらは、(一)休眠状態であったり、(二)弱体
化していたり、(三)遮断されていたり、(四)維持されていたりするが―の田地である。」

「赤ん坊の場合が一つ目のカテゴリーの例である。赤ん坊の煩悩は完全な休眠状態にある。我々は赤ん坊を見ると『なんて純真なんだろう!』と思う。だがそれはそう見えるだけで、成長するにつれて、うまれつき備わった傾向が顕在化してくる。それはいつまでも純真のままではいられない。無明と、その他の心の中に眠っている煩悩は、適当な時期が来ると表面化する。 ヨーガの修習の進んだ人の心が二つめのタイプの例で、それは弱まって希薄になった状態にある。このような人も煩悩から完全に自由ではなく、それらは彼の心の中に微妙な痕跡の形で残っている。それらは、心の湖の底深く沈んで使われないために、非常に弱くなっている。 三つ目の遮断された状態は、初期のヨーガ修習者の心に見られるものである。諸煩悩は、愛、誠実、抑性、明朗などの徳性を絶えず実践することによって一時的に押しとどめられている。しかしそのような求道者が、もしほんの数日でもこれらの美質を培うことを怠ると、諸煩悩はすぐに表面化する。 四つ目のタイプは平均的な人間の場合であり、煩悩がいつも顕在している。彼らの心は一瞬毎に様々な煩悩の影響を受けている。彼らはそれらを全く制御しておらず、それらに対する発言力がない。」

ここで、著者であるスワミ・サッチダーナンダは最も重要なことを解説していない。それは、本章⑪で結論付けた通り、‘無明’こそが全ての煩悩の原因であるという点である。これはいずれ本稿においても再度触れることになると思うので、取敢えず話を先に進める。

「Ⅱ-12  カルマ【行為とその反作用】[業]の子宮の根は、これらの煩悩(筆者註Ⅱ-3)
の中にあり、そうしたカルマが、見える生【現世】および見えざる生【来世】におけ
る諸経験をひき起こす。」

「ここでパタンジャリは、“カルマ”[業]とは何か、そしてそれはどのように蓄えられ、どのように働くのかの説明を試みる。サンスクリット語の“カルマ”には二通りの使い方がある。“行為”とその“結果”を指す場合と、そのどちらかを単独に指す場合とである。たとえば、『カルマを行ってカルマを刈り取る』と言う。だが普通、“カルマ”と言うときには、過去の行為の反作用を指している。どんな行為でもその後に結果を残す、つまりどんな原因にも結果がある。そしてそれは、どちらが先とも云えないのである。例えば、木はなぜ生えているのか? 種がまかれたからだ。ではその種はどこから来たのか? 他の木からだ。気が先か種が先か? タマゴが先かニワトリが先か? それはどう考えても判らない。・・・カルマの始原はどうしても判らない。それがどこでどのようにして始まったのかは誰にも判らない。だがそれは現にここにあり、こうして見ることができる。だから我々は、それにケリをつけるべく努力しなくてはならない。」

「―ということで、行為には必ずその反作用がつきもので、それらは消えずに残る。カルマの蓄えられる容器が“カルマ・アーシャヤ”[業遺存]つまりカルマの子宮である。カルマは、表面に浮かび出て反作用をもたらす機会を待っている。煩悩が原因となってそういうカルマを起こさせ、そのカルマが現世或いは来世で、つまり見える生と見えざる生で結実するのである。そして我々は、カルマの数に応じて何度も生を享ける― 」

「だがそれは、一つ一つのカルマに対応して夫々の生があるという意味ではない。カルマは群れにもなる。つまり、一つの強いカルマがある身体を要請すると、そのように特定された媒体を使って反作用を起こすことのできる他の良く似たカルマは、すべてそれに参入することができるのだ。それは、タクシーの運転手が空港から町まで乗客を運ぶときに、一人だけではなく何人も相乗りさせるのに似ている。最初の一人がタクシーを呼び止めて、次に同じ方向へ行きたい人が何人も乗り込んで町へ行く道すがら、少しずつ降りていく―。 それと同じように、一つの非常に強いカルマが『私は身体を持たねばならない、私自身を表現しなければならない』と言う。そしてそういうカルマが新しい身体を招来して、それを通じて働き始めると、その身体を利用することのできる他のカルマの全てがそれに参入する。だから、そのカルマの働きが尽きても、後のカルマが延々と大気している―。 現世のこの身体でさえ、強い欲望を持つと変化する。たとえば心が怒りに燃えると、そういう感情を表現して、顔や身体全体が変化する。だから、もしある思いを遂げるに足るほどに現世の身体を変えることができなかったら、その身体は処分されて新しい身体を得ることになる。カルマの力はそれほど強い。」

「自分がどれだけの行為を行うか、どれだけの反作用が既に起こったか、そしてあとどれだけの反作用が未発となって残っているかを考えてみよう。良い行為は良い反作用をもたらし、悪い行為は悪い反作用をもたらす。だから、生まれるときというのは、それ以前の行為の反作用を受けている、つまりカルマを浄化しているのだとも云えるし、同時に新しいカルマを作り始めているのかもしれないわけだ・・・・。したがって、カルマには次の三種類がある。現世に発現して使いつくされつつある“プラーラブタ・カルマ”。現世で新たに作り出されつつある“アーガミー・カルマ”。未来の生で遂行されるべく、カルマ・アーシャヤの中で待っている“サンジタ・カルマ”。これらは、弓を射る人の手回り品にどこか似ている。彼の矢筒の中には沢山の矢がある。そして、もしも彼が名人なら、矢を一本取って弓につがえ、ねらって放ったらすかさず次の矢をとってつがえることができる。その瞬間の矢は、三つの位置にある。一本目は既に弓を離れて進みつつある。それはもうどうすることもできない。止めることも戻すこともできない。それが現世をひき起こしたプラーラブタ・カルマである。その身体が存続する限り、それに割り当てられたカルマは続く。だから、心を超越して<自己>を実現した人でも、その誕生にうって生じた運動量(モメント)が続いているので、何かをしているように見える―  二本目の、つがえてねらっている矢は、人が一瞬毎に新しくつくり出すカルマに似ている。それは完全な制御下にある。そして、矢筒はカルマ・アーシャヤを象徴している。その中にある矢は、もしそうしたければ抜き出して狙い定めることができるし、でなければ抜き捨てることもできる。それはまったく意のままだ。それがサンジタ・カルマである。アーガミーとサンジタは制御することができるが、プラーラブタはどうすることもできない―それはただ受け入れるしかない。だからこのサイクルは、<自己実現>の時点まで続く。」

「Ⅱ-13  根因が存在する限り、その結実すなわち、様々な生類への再生と寿命と
 経験とがある。」

「『すると自分は次の生でどういう種に生まれ変わるのだろう?』ということになる。それは必ずしも人間の身体をとるとは限らない。もしもその想念が動物的なら、そのカルマは動物の身体を要請する。この生でいつもずるいことばかりしていると、その反作用は、そうするとよりよくそれが表現されるところの狡猾な行為の形、つまり狐の身体として実を結ぶ。また、食べることに異常に熱心な人は、食べることをもっと楽しめるように豚の身体をとることになるかもしれない。『それは進化の法則に反する』などと言うなかれ、個々の魂は常に進化しているのだから。個々のそれは、何らかの進化した身体を得て、そういういろいろな形で物事を経験するが、それ自身は進み続けているのだ。“からだ”は経験ではない。生が“からだ”を通じて経験されるのだ。身体はただの乗物、つまり媒体である―」
「たとえば『花の香りがする』というとき、その香りを経験しているのは、“鼻”ではなく、鼻を通じて心が経験しているのだ。そのとき心が他のもので占められていて、鼻を通じて機能しなかったら、たとえ鼻先にその花が突き付けられても、その心は香りを経験しない。また、読書に熱中しているときは、友達が大声で呼びかけても聞こえない。それは、そのとき耳がふさがっているからではなく、耳が心と繋がっていないからだ。だから、いろいろなことを経験し享受するのは心なのであって、身体の器官ではない。動物の身体の中でも、心が物事を受け、経験する。そして、経験するときにはいつも進歩し浄化して、最後には目的地に着く。 このわれわれの、実現[解脱]に向かう人生という旅にあっては、夫々の身体が種々の乗物である。一匹の路上の犬は、かつての小さな過ちの為に今はその姿となっている聖者だったのかもしれない。ある狐は昔、強欲でずるい実業家だったのかもしれないし、あるサソリは昔、いつも自分の雇い人を偉そうにチクチク刺してばかりいる雇い主だったのかもしれない。だから我々は、それらを『ただの動物』と言うことはできない。一つ一つの“形”の中に、実現に向かう進化の旅を続ける魂が宿っているからだ。スートラは、『寿命と苦楽の体験はカルマによって決定されるが、そのカルマというのは前述の諸煩悩の結実だ』ということも教えている。」

ということで、スートラは、我々がカルマを無くしてしまう(或いは、焼き尽くすという表現が良く用いられる)までは、輪廻それも場合によっては動物に生まれ替わることすらあると言うのであるが、同時にそのカルマを制御する手段も教えてくれている。

「Ⅱ-10  これらの煩悩が微妙な状態にあるときは、始原の原因【=自我】に還元する
 ことによって破壊することができる。」

「Ⅱ-11  それらが活動の状態にあれば、瞑想によって破壊することができる。」

「妨げとなる想念には二つの段階がある。表面化して行為に典化する前の潜在力としての状態と、行為として発現している状態である。顕在しているものは制御しやすい。だから我々は、粗大なものからだんだん微妙なものへと進めていくのである。ところが潜在状態にある想念(サンスカーラ=行)は、瞑想に依っては取り除くことができない。だからそれらは、それらに瞑想することによってまず表面に浮かび上がらせる。そして―そうすることでそれらを破壊することはできないが―それらを良く見、理解して、行為として発現させるえきかどうかの制御を行う。次にそれらを微妙な状態にまで遡ると、そうした妨げとなる想念すべての基礎は自我(エゴ)にあることが直接に知られる。そこで心をより高いサマーディの中へ超越させると(筆者註:これこそ前稿⑱で取り上げた無想三昧を指すものと思う。尚、同書に於いては、『始原の原因』=【自我】と記載されているが、これまでのスートラの流れから考えると【自性】即ち、プラクリティの原初の状態と考えるのが妥当だと思う。尚、筆者はこの『始原の原因』をプルシャ即ち<真我>と解している)、その自我さえもが失われる。そのようにして自我がなくなれば、その中にある全ての印象もなくなる― 。しかし、そういうことが起こるまでは、いろいろな印象は消えない・・・・  それはアソフェティダという香辛料を扱うときとどこか似ている。アソフェティダには、消化を助け、ガスを抑制する働きがある。インドではそれはカレーに使われ、泥の甕で保存させる。しかしそれはたいへん臭いが強いので、甕を何回洗っても臭いが抜けない。どうしたらその臭いを消すことができるか。ただ一つの方法は、その甕を割ってしまうことである。自我は、非常に微妙な形で、あなたの想念の“臭い”をもっている。だがその臭いがわかり、それらの想念を見ることができるのは、それらが顕在化するときだけである。従って、それらの印象を取り除くには、自我そのものを壊してしまわねばならない。だから、まず表面にあるものをきれいにしてから甕を割る。つまり、瞑想によって想念の形態を理解して、それらをきれいにする。次に、それらがどこにあり、どのようにあるのかを掴んだら、根っこのところまでゆっくりとさかのぼって、最後にそれを引き抜く―。 木を根こそぎ倒すときは、先ず枝を払って、それから根っこそのものを掘り起こすものだ。」

以上を簡単に纏めると、人は煩悩を持っている限り、カルマをつくり続け(アーガミー・カルマ)、それがこれまで積み上げて来たカルマ(サンジタ)と一緒になって輪廻転生の原因になる。この輪廻の循環を断ち切る(即ち解脱する)ためには、先ずは悟りを開き、全ての煩悩の原因となる無明から脱することが求められる。但し、それだけではカルマ・アーシャヤに残っているサンジタ・カルマから逃れることは出来ず、次の転生を余儀なくされる。このサンジタ・カルマは、基本的に瞑想(ディヤーナ)で無力化することは出来ないので、解脱を目指す修行者は無想三昧を目指して修行を続け、最終的にはその三昧境においてこれを自我と一緒に焼き尽くさなければならない、ということになる。

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