アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第18章 真理 ⑳解脱

2013-02-01 06:12:20 | 第18章 真理
愈々本章の最終稿となる。解脱は仏教、ヒンズー教に於ける最終目的地と普通思われているが、本章では、その先に「イデアの世界」を目指しての修行が待っているというところまで予測することができた。しかし現在輪廻の世界に取り残されている我々が、いきなり「イデアの世界」を目指しても仕方の無いことであり、当面の目標は解脱に置かざるを得ないということには納得頂けるものと思う。
ところで、本章の目的は、真理は一つということを証明することであり、その為には本来キリスト教との一致点も探りたいところである。ところが、解脱は我々が輪廻転生を信じているからこそ、そこから離れて自由になり、一段上のレベルまで上昇するという意味で、大変重要な通過点としての概念になるものと言えるが、この輪廻ということを信じないキリスト教徒にとってはイエス若しくは神の救いのみが大切なことであり、解脱ということにはさして関心を示さないであろう。しかし、キリスト教の聖書にも元々輪廻の概念は含まれており、それが西暦553年のコンスタンティノープル公会議において削除されてしまったということは、これまで何度か本ブログで触れて来た通りである。つまり、キリスト教に「解脱」という概念が有ったのかどうかは判らないが、それと対になる輪廻の概念が無くなってしまったのであるから、取敢えず現在、キリスト教にとって解脱という概念は常識的には無いと言うしかないのであろう。

尚、この解脱の理論は、仏教経典を幅広く渉猟すれば、それなりのものを見いだすことは出来るのかもしれないが、時間の制約もあるので取敢えず前稿と同様、佐保田鶴治先生(著者)の『解説ヨーガ・スートラ』(本書)から引用して行く。著者は、解脱と密接に関わっている「煩悩」の説明から入る。

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さてチッタの作用に関する限りでは、ヨーガ心理学は主知主義的(筆者註:知性や理性を重んじる立場、Intellectualism)であって、情意や情動の面には無関心であるかのように見える。そうだとすればヨーガ行者にとって最も重大な関心事である繋縛と解脱の問題はこの心理学では解明することができないことになる。ではヨーガ心理学は情意、情動の問題をどう取り扱っているであろうか?
スートラ1.5はチッタの作用には五つある(筆者註:正知、誤謬、分別知、睡眠、記憶)ことを述べた上で、それらは煩悩性のものと非煩悩性のものとに分かたれることを説いている。煩悩性のものとは、煩悩と関連しているものという意味であって、煩悩を原因とするもの、煩悩の原因となるもの、煩悩に包まれたもの、煩悩に結び付いているもの、煩悩に染まっているものなどの意味をもっている。煩悩性の作用は人を輪廻の世界に束縛する性格をもつ。バーシャ註によれば煩悩性の心作用は業遺存の群の田地(原因)となるものである。またマニプラバー註は煩悩性ということを、繋縛をもたらすものの意味に解し、すべて人間は正知以下の作用によって知られた対象に対して貪愛等の煩悩で業をつくり、快苦等によって縛られるものであるといっている。これに対して非煩悩性ということばは単に煩悩と繋がりがないというような消極的な意味ではなくて、人を解脱へ導く積極的な働きを示している。バーシャ註によれば非煩悩性の作用は真知を目標とし、グナの任務遂行(輪廻)を抑止する積極的な働きである。マニプラバー註では、非煩悩性の作用は煩悩を亡ぼして解脱を結果する作用であると説かれている。

さて、煩悩ということばについてはヨーガ・スートラのなかには何の説明もない。スートラの作者はこのことばを説明したり、定義づけたりする必要を感じなかったのであろう。それで、このことばがスートラのヨーガ思想のなかでどんな意味に理解されてきたかを知るには、註釈家たちの意見に頼る他はないが、スートラの註釈書の中の主位にあるバーシャ註はこの語の同義語として誤謬ということばを出している。誤謬というのは前に掲げた五つの作用の一つであって、煩悩の同義語としてはややしっくりしない感じがする。バーシャはここで誤謬という語を煩悩の総名としての無知の意味に使っているのだと見ればいくらか納得がゆく。が、しかし、煩悩の定義としては適当ではない。ヨーガ・スートラの思想の範囲内でも、煩悩の意味はもっと広く理解されるべきである。バーシャ以外の註によると、このことばは語源上には「苦しめる」「苦しむ」の意味を根本としている。ヴァーチャスパティミシュラの複註には「これら無明等の煩悩は輪廻しつつあるプルシャ(真我)を種々の苦を以って打ちのめして苦しめるものである」とある。・・・
ところでこの語の源流はどこにあるのであろうか? リグ・ヴェーダのボキャブラリーの中にはこの語はない。この語がバラモン文献の中に初めて現れるのは中期ウパニシャッドである。種々の点から考えて、この煩悩(Klesa)というテクニックとその観念内容は仏教の思想圏から出ているように思われる。・・・
◇◇◇

そして、この後に、ヨーガ・スートラが挙げる五つの煩悩の詳しい説明に入るのであるが、興味のある方は本書を参考にして頂くものとし、ここでは筆者が以前第15章④心の構造で引用した箇所とその説明を再掲する。


二・三 煩悩には、無明、我想、貪愛、憎悪、生命欲などがある(ヨーガ・スートラ)。
二・四 以上の五煩悩の中で、無明はその他の諸煩悩の田地である。他の諸煩悩は各個に
    あるは眠り、あるは弱まり、あるは中絶し、あるは栄えたりするが、無明はそれ
    らの田地として存在する。(ヨーガ・スートラ)
二・五 無明とは無常、不浄、苦、無我であるものに関して、常、浄、楽、我であると考
    える見解をいう。(ヨーガ・スートラ)
二・六 我想とは、見る主体である力(真我)と、見るはたらきである力(覚等)とを
    一体であるかの如く想いこむことである。(ヨーガ・スートラ)
    →真我を見る主体である力とよび、覚等の心理器官を見るはたらきである力と表現して
     いるのは、ヨーガ的発想の特徴を示している。真我も覚等も共に能力なのであって、
     実体ではない。
二・七 貪愛とは、快楽にとらわれた心情である。(ヨーガ・スートラ)
二・八 憎悪とは、苦にとらわれた心情である。(ヨーガ・スートラ)
二・九 生命欲は、その固有な味わいを不断に持ち続けていて、(愚かなものばかりでなく)
    賢明な人たちにもこの煩悩のあることは一般に知られている。

上記の5つの煩悩を構成する要素の内、後半の三つ即ち貪愛、憎悪、生命欲は基本的に読んで字の如しであり、比較的判り易いので説明を省くが、無明と我想に就いては筆者なりの解説を加えたい。
先ずは無明であるが、これは最も基本的な煩悩であって、その他の諸煩悩の田地であるとヨーガ・スートラでは言う。続いて無常を常ととらえ、不浄を浄ととらえ云々と続いて行くが、これらを一言で言えば、般若心経に出てくる顛倒夢想であり、本当の所はもう少し深い意味があるように思う。つまり、この世の中は、本ブログで度々触れてきたように、あくまでも心が投影された現象の世界であって(色即是空)、実在では無いということを悟っていない、即ち現象として展開している世界を実在だと錯覚している状態を無明と呼ぶのではないかと思う。
我想に就いては、既に第15章②において触れたが、これこそまさにラマナ・マハルシ師が言うところの“アハム・ヴリッティ”(『私』という想念)であり(第15章②を参照)、真我ならざる自我(エゴ)を、本当の‘自己’(Self)と取り違えていることである。そして、これも或る意味では無明と言える。


煩悩の説明は以上とし、次に著者が説く「チッタの況位」という部分を引用する。

◇◇◇
さて前に出した問題をもう一度蒸し返してここに提出しよう。本来知性的である五つの「チッタの作用」(筆者註:正知、誤謬、分別知、睡眠、記憶)がどうして人間の繋縛の因となったり、逆に解脱の因となったりするのか?これらの「作用」のなかには煩悩も「止滅」も含まれていないのである。それなのに作用はどうして煩悩性のものと非煩悩性のものとに分かれるのか? この疑問を説くにはもう一つの心理的分類である「チッタの況位」について知らなければならない。このことばはヨーガ・スートラの本文にでていないが、スートラの作者がこの分類を知っていたとしなければスートラ3.9の本文(筆者註:雑念の行が隠滅して、止滅の行が顕現する時、その止滅の刹那に心が不可分に結び付くことが、止滅転変といわれるものである)は理解できない。ここでは「雑念」と「止滅」の二つの行が取り扱われている。行がある以上はそれと相互的関係にある作用にも上記の二種の区別があるはずである。この面から考えられたのがチッタの況位である。況位とは或る人の或る時の心理状態ということである。チッタの況位には五種ある。
(1) 落ち着きがない況位
(2) 痴呆の況位
(3) 散漫な況位
(4) 専念の況位
(5) 止滅の況位
以上五つの心理的況位(状態)は二つのグループに纏められる。(1)から(3)までは雑念の況位として纏められ、(4)と(5)は三昧または止滅という総称の下に纏められる。この況位という点から見た時、作用の煩悩性と非煩悩性の区別の意味が明らかになる。すなわち雑念況位にある作用は煩悩性であり、三昧または止滅の況位にある作用は非煩悩性である。さればこそ、註釈家によって、煩悩性の作用は人を輪廻の世界に束縛し、非煩悩性の作用は人を解脱へ導くといわれるのである。
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続いて、チッタの専念性転変ということを解説している。

◇◇◇
雑念況位のことをスートラは「あらゆる対象に惹かれる状態」ということばで表現している(スートラ3-11)。この状態に対立するのは「専一の状態」即ち心が特定の唯一の対象に専注する状態である。スートラ3-12には、「一つの生滅した想念と次に現れる想念とが等似であるのをチッタの専念性転変という」とある。真我(プルシャ)以外の全ての存在を、刹那ごとのダイナミックな転変の結果と見るサーンキャの哲学においては、心の対象が同一のままでなんらの変化も示さない場合でも、それは刹那ごとに転変する想念が連続して等似であったということだと解釈するのである。
かようなチッタの転変によって、雑念況位から専念況位へ移ることを三昧転変とよぶ。三昧はヨーガ八部門の最後の段階である。これによると、三昧は未だヨーガの修習の最後の段階ではない。ヨーガ行の最終目的は、スートラ1-2に簡潔明瞭に唱われているように「チッタの作用の止滅」にあるが、それはつまり、三昧の段階を経ることによって雑念の況位を克服し、止滅の況位を実現することにある。スートラ3-9はこのことを転変の面から説明して、雑念の行(サンスカーラ)が隠滅して、止滅の行が顕現するのを止滅転変というといっている。止滅の況位に達して、心の動きが全くなくなった寂静の境地に帰したように見えても、それはチッタの動きが全くなくなったのではなく、刹那ごとのチッタの転変は少しも休んではいない。それはただ止滅の行の転変が続いているというだけであって、油断をすれば、たちまち雑念の転変に移るのである。止滅(ニローダ)ということばには、「絶滅する」「完全に破壊する」という意味があって、仏教の滅尽定という定(筆者註:三昧を指す)の名になっている。しかし、スートラでは、このことばは必ずしも全ての心の作用を断滅した状態を示していない。有想三昧の場合のように、心の作用が部分的に残っていても止滅ということができる。止滅つまりヨーガは心の作用を次第に抑制して止めてゆく修習のプロセスをも含めているのである。勿論、そのプロセスの極限における、作用の完全な止滅状態も含まれている。だから無想三昧もまた止滅つまりヨーガなのである。要するにヨーガの修行は、Silent meditationの過程なのである。
◇◇◇

続いて著者は「行(サンスカーラ)」について説明しているが、これも実は前稿においても、本ブログ第15章④心の構造で説明済みなので一部重複するが、再掲する。

◇◇◇
ヨーガ哲学の考え方によると、行(筆者註:サンスカーラ、‘ぎょう’と読む)はチッタ(心)の大地に眠っている種子である。種子というのは今日のことばでいえば、潜在的可能性であって、時期が来ればチッタの力を借りて隠れた状態から顕わな状態に転換するのである。この種子すなわち潜在的可能性は無始の過去生からの堆積であって、無限に多くあるが、大別して三種とすることができる。業(カルマ)と煩悩(クレーシャ)と薫習(ヴァーサナ)である。つまり行はこれらの三種から成っていて、これら無眼に続いた過去生の遺産がチッタをがんじがらめにしているから、そのままでは輪廻転生のくさりはいつまでも断ち切れないのである。輪廻のくさりを断ち切るには、これらの行の力を弱め、そしてそれから発現する結果を抑止するところのヨーガの修行が大切である。だからスートラは最初のところで「ヨーガとはチッタの作用の止滅である」と言い切っているのである。この止滅もまた一つの「チッタの作用」であって、当然その行すなわち潜在的発言力をチッタの上に残すはずであるが、しかし、止滅の行は自己の作用は発現しないで、かえって他の行の発現を妨げる働きをするとされる。
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尚、業遺存(カルマ)と薫習(ヴァーサナ)に就いては、同じく第15章④心の構造で説明しているので参考にされたい。
続いて、煩悩の除去即ち解脱ということを、「逆転変」というチッタの作用と共に説明している部分を本書(P274)から引用する。

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(カルマ、ヴァーサナに続く)第三の行である煩悩はそれ自身で独立しては発現せず、善悪の行為の動機の要素として発現するのであるから、煩悩は業遺存の根因である(スートラ2-12)、その業遺存が業報として発現する際にも根因となる(2-13)。煩悩こそは輪廻の根本原因なのである。従ってヨーガ修行の根本目的は煩悩を除去するにある、ということができる。煩悩除去の手段は三段階から成る。先ず行事ヨーガ(クリヤー・ヨーガ)の修習によって煩悩の力を弱め(2-2)、次に静慮(ディヤーナ)によって煩悩のはたらきが捨て去られ(2-11)、最後に未発の状態にある行としての煩悩はチッタの逆転変によって初めて除去される。チッタの逆転変というのはチッタがこれまでとは逆の方向に転変するということである。すでに述べたようにチッタは元来プルシャ(真我)の経験享受と解脱とを目的としていろいろな心理器官でそのはたらきを転変(展開)してきたのであるから、ヨーガの修行によってプルシャが自己の真相を知ったならば、チッタの任務は完了したのである。そこで為すべき任務を終えたチッタはその転変を逆の方向に向け変えて、今まで転変してきたいろいろな形の煩悩の行をだんだんと消していって、チッタの本源である自性(プラクリティ)の中へ没入してしまうのである(筆者註:完全な解脱ではないが、この瞬間を、筆者は前稿で「我々の意識がプルシャに埋没した時」と表現した。どちらが適切な表現であるのか、読者諸賢の判断に委ねたい)。逆転変は還元、退行、還滅の意味をもっているともいえよう。
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最後に、筆者はヨーガの修習の積み重ねの重要性を説いている。筆者自身を勇気づけてくれる内容であり、おそらく解脱或いはアセンションを目指して修行を続けている本ブログの読者諸賢にも非常に参考になると思われるので、その部分と、それに関連するスートラ及びその解説を引用して、本稿及び本章の締め括りとしたい。

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以上で紹介した行はいずれも輪廻の世界に関係のある行であるが、この外に輪廻に関係のない行、つまり煩悩に無関係な「チッタのはたらき」によって生じた行もある。例えばヨーガの修習によっても行が生ずる。行が残ってゆけばこそ、ヨーガの修習の積み重ねが可能なのである。そしてこの行は、他の雑念によって生じた行が転変して意識面に発現するのを抑止する働きをするのである(1-50)。

1-50  この三昧智によって生ずる行は、他の行を抑圧する性質をもっている。

行とは、すでに述べたように(1-18)、いろいろな心理現象が生じた時、その現象の印象が潜在意識の領域のうちになんらかの形で残存してゆくのを云うのである。ヨーガ心理学では、この行即ち潜在印象という概念は大切な役目をする。行は後に顕在意識の世界に姿を現わしてくるからである。行には二つの種類がある。一つは、単に心理的な結果を意識面に現わしてくる行で、記憶や煩悩の原因となる。他の一つは業遺存といわれるもので、個人の運命、環境の原因となる。
ところで無伺三昧(筆者註:有種子三昧の最後の段階)中に生じる直観智に由来する潜在印象は、他の潜在印象すなわち散動心の働きによって、それまで潜在意識内に残されていた印象を抑圧して、それが観念(記憶)として意識面へ現れることを防ぐ力がある。散動心(雑念)に由来する行の現実化が止められると、おのずから三昧が生じ、従って三昧智が現れる。三昧智はまたその行を残す。かようにして三昧智とその行とが互いに因となり果となって、連続してゆくことになる。ところが、この三昧智によって作られた行は、煩悩を消滅させる力を以っているから、チッタの働きを促進するようなことはなく、かえって、心をその任務から解放する。任務から解放され、業報を離れた心(チッタ)は、真我(プルシャ)に直面して、真我と自性の二元性を悟ることができて、自己本来の目的を完遂する。サーンキャ・ヨーガの哲学からいえば、心は、二つの相反する目的をもっている。一つの目的は、真我をして、現象の世界を経験させることであり、他の一つの目的は、真我をして、自己が現象の世界とは元来無関係なものであることを悟らせるにある。この第二の目的は、心の中に真我と世界の二元性の覚智が生ずることによって到達されるのである(2-26・27、3-52・54、4-26、4-29参照)。
◇◇◇

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