アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第17章 ヨーガ・スートラ ⑳綜制と超能力

2012-08-31 06:44:13 | 第17章 ヨーガ・スートラ
話が前後したかも知れない。本来であれば、サマーディを語る前に、そこに到る具体的な手法である綜制を説明すべきであったが、以下本稿にて示すスートラ第Ⅲ章に示されているポイントは、改めて読んでみると非常に重要なことなので『インテグラル・ヨーガ』から引用しておきたい。

「Ⅲ-1  集中とは、心を一つの場所、対象、或いは観念に縛りつけておくことである。」

「チッタすなわち心の総体が、一つのものや一つの場所に縛られているとき、それは“ダーラナー”の状態にある。いうなればダーラナーであなたは心を“しつけて”いるのである。そしてそれが瞑想の始点である。集中は瞑想の始点であり、瞑想は集中の極点である。いずれにせよ、それらは切り離すことができない。」

「通常我々の心は、あちこちさまよっている。それを一カ所に固定しようとしても、たちまちその場所を離れてしまうことがわかる。たとえば、美しいバラの花に心を固定しておきたいという場合。それを始めるときの一番良い方法は、眼の前に実物のバラの花を置くことである。心にとってはその方が簡単だから。最初に取りかかるときは、具体的な対象、象徴、偶像などがあるとたいへんやりやすい。抽象的なものを把握したり、まして視覚化したりすることは、心にとってそう簡単ではない。だから、バラとかロウソクとか図像を眼の前に置く。集中したいものが観念であるときには、少なくともそれを想起させるような具体的な物を置く。そしてそれを見ながら、それと関係のある観念を想い浮かべる。そうするとそれが、“トラータカ”すなわち“一点凝視”の便法ともなる。 “トラータカ”とは、実際にある物を見つめること、ときには全く瞬きせずに見つめることである。しかし、眼を緊張させないこと。対象を、できるだけ長く、ただ見つめる。そのとき、その対象の背後のものに心を置くと、より長く見つめることができる ― たとえばその美しさとか、茨の茂みからなんとすばらしい贈り物が出現したのだろうとか。そのようにして、関連のある観念が次々に現れる。それらの中に没頭していると、その“凝視”という行為そのものが忘れ去られるが、それでもあなたは見つめている、瞬きもせずに ― 。だが、凝視のための凝視にならないように。でないとすぐに眼が疲れてしまう。 暫くしたら静かに眼を閉じて、集中対象を心の中に描き出してみる。まずそれは外にある。次にそれを心の中に持ち込む努力をする。すると暫くはそれができる。そして消える。そうしたらまた眼を開く― 。 それを徐々に、心の中だけでできるようにする。それは、心の中に印象されたものを発達させる(現像する)ということだ。それは写真術のようなものである。まず、画を撮る。するとそれは、フィルムの上にある。そこでそれが本当に撮れているかどうかを知るためには、どうしたらいいか? 現像する。だが、そこで何の像も現れてこなかったら、もう一度撮り直さなければならない。トラータカの場合も同じである。」

「あなたが考える通りに、あなたはなる。あなたがバラのことを考えると、その心はバラの形をとる。暫くすると、外部の具体的な対象の助けなしでも、それが簡単に内に見えるようになる。その段階になると、祭壇その他はもう必要ない。それは“プージャ(礼拝式)”においてもなされることになっている。つまり、まずプージャを物理的に行い、それを終えたら、その全情景を心の中に描き返す。プージャを始めるときには何をしたか? その次は何だったか? そしてその次は・・・・? というふうに、その手続きの全てを、順を追って再現する。そしてそれが簡単に出来るようになってしまえば、もう具体的な対象つまりプージャそのものが必要なくなるわけだ。・・・・(筆者註:心は全く別の方向へと彷徨ってしまうかもしれないが)決して諦めるな。そして決して『私は瞑想に向いていないのだ』などと思うな。それは多くの人々が犯す最大の誤りである。彼らは、座って眼を閉じたら直ぐに何もかもうまくいくと思っている。心があちこち動きまわると、『瞑想なんて性に合わない』と言う。違う、それはピアノの練習や、ギターを弾く時や、料理のようなものなのだ。あなたは何度、野菜ではなくて指を“料理”してしまったか? 何でもそう簡単にできるようにはならない。自転車の乗り方を覚えた時、あなたは何回転んだか? だから、試み続けよう、粘り強く ― 。 パタンジャリが第Ⅰ部の第14スートラで言っていることを思い出そう。『修習は、長い間、休みなく、大いなる真剣をもって励まれるならば、堅固な基礎を持つものとなる』 ― 」

「それをしていくこと自体が、集中と呼ばれるのである。心が走る、引き戻す、また走る、又引き戻す ― この作業そのものが。あなたは猿を飼いならしているのだ。一旦飼いならされてしまったら、それはちゃんと言うことを聞くようになる。『よし、そこでじっとしていろ』、そう言えばそれはちゃんとそうしている。そのときあなたは瞑想していることになる。それまでは、瞑想するように自分自身をしつけているのだ。瞑想出来るように心を訓練することが、言うところのダーラナーである。」

「Ⅲ-2  瞑想とは、そうした対象への認識作用の絶え間ない流れである。」

「ヒンズーの聖典は、この“絶え間ない流れ”を非常にうまくたとえている。それは、油を一つの壺から別の壺に注いでいるようなものだと言うのである。それは一筋の糸のように流れる。それには切れ目がない。心は固定されている。瞑想者と瞑想対象の間の連絡は、不動である。それがいわゆる“ディヤーナ”である。したがって、通常我々がしているのはダーラナーである。ダーラナーの長い訓練の後に、“認識の流れ”が徐々に長く伸びていって、ディヤーナになるのである。」

「では、自分が本当に瞑想していることが判るのは、いつか? それを知る為の目安がある。例えば四時半に坐って瞑想を始めるとする。そして瞑想に一時間を当てておくとする。そして、五時半のベルが鳴る。そのときもし、『え? こんなに早くベルを鳴らすのは誰だ? 坐ってからまだ五分じゃないか』と感じたら、それは瞑想だったと言ってもよい。ところが五分間を一時間に感じたら、それは瞑想ではない。それはまだ集中していたのだ。瞑想では、時間には何の意味もない。そして空間も失われる。あなたは自分がどこにいるのかを知らない。だから、突然瞑想が破られたら、あなたは、『私の体に何が起きたのだろう?』と不思議に思うだろう。真の瞑想では、身体さえも忘れ去られる。あなたは時間と空間を超える、つまりあなたは身体を脱け出す ― 。 “身体を脱け出す”と言っても、空中を浮遊するというような意味ではない。心が身体意識を超えるという意味である。」

「その点で瞑想は睡眠に似ている。睡眠中は、身体があるということがわからない。それは確かにあるわけだが、それに気付かないのだ。睡眠が本当に深いときには、誰かがあなたの身体を別の場所へ移動させても、そのことにすら気付かない。そして眼が醒めたとき、『私はソファで寝ていたはずだが・・・・誰が私をベッドに運んだのだろう?』と言う。」

「瞑想である徴(しるし)は、他にもまだある。初めのうち、身体を超えるとき、たいへん軽く感じる。またもちろん、瞑想の対象と関係したすばらしいヴィジョンを得ることもある。ときには、関係はなくとも、非常にすばらしく、高揚的なヴィジョンであることもある。又ときにはヴィジョンではなく、単に美しい光であったりする ― たとえば美しい月光を浴びているように思われたりするだろう。あるいは海鳴りとか、鐘の音とか、美しいフルートの音色とかいうような、音であるかもしれない。これらはすべて、出遭うかもしれないいろいろな徴である。しかし普通私はこうしたことを余り話さないことにしている。それは、そういうことを聞くと、『そういうことが今私に起こっているんだ』というふうに想像してしまうからである。それは起こすのではなく、ただ起こるのである。」

「Ⅲ-3  三昧とは、この瞑想そのものが形を失ったかのようになり、その対象がひとり
 輝くときのことである。」

「これについてはあまり多くを語ることはできない。それは少し体験すれば直ぐに判る。瞑想は、“サマーディ”の状態で頂点を極める。サマーディは修習するのではない。誰もサマーディを意識的にすることはできない(筆者註:ここで言っているサマーディは無想三昧を指しているものと思う)。我々の努力は瞑想までである。あなたは、ダーラナーにあらゆる努力を傾ける。そしてディヤーナではそれが無努力となり、あなたはただ、自分が瞑想状態にあることを知りつつそこにいるだけである。ところがサマーディでは、あなたはそのことさえ知らない。それを知る“あなた”はそこにはいない ― なぜならあなたが“それ”なのだから。あなたは初め、たくさんの妨げを伴いつつ念想をする。そしてそれがディヤーナである。次にあなたは、あなたが念想するところのものとなる。それがサマーディである。瞑想には、三つの要素がある。つまり、瞑想者と瞑想と瞑想される対象である。しかしサマーディには、対象か瞑想者かの、どちらかしかない。そこには、『私はこれこれのものに瞑想している』という感じがない ― 」

「・・・それ(筆者註:サマーディ)を言葉で言い表すのはたいへん難しい。しかし、ただやり続けて行けば、サマーディとは何かがわかる。もちろんそこには、種々の、低位のサマーディがある ― 第Ⅰ部で論じたように、達成してはまた戻るレベルのものが。これらは、形、観念、至福、純粋我に結び付いたサマーディである(サヴィタルカ、サヴィチャーラ、サアーナンダ、サアスミターの各サマーディ。筆者追記:本章⑰有想三昧参照)。これらの四つにはまだ、隠された欲望を持つ心の一部が残っている。あなたは完全に自由ではない。その心の中の想いは、完全に焼かれていない。それらはまだ、再び発芽し得る。それが、これらの四つがサビージャ・サマーディと呼ばれる理由である。ビージャとは種子である。それらには種子がある。だから、これでもうきれいになった、もう大丈夫、などと思ってはならない。たしかに袋の中にあるうちは純真そうに見える。ところが一粒それを取り出して、小さな穴を掘り、そこに埋めて水をかけると、それはすぐに頭をもたげる。発芽する傾向が、そこにはまだ残っているのだ。 そういう性質を残しているかぎり、あなたはまだサビージャ[有種子]あるいはサヴィカルパ[有分別]・サマーディの段階にある。しかしあなたを完全に“焙って”しまうと、その発芽能力も消えてしまう。種子は確かにそこにある。外見は全く変わらない。しかしそれらは、土に埋めて水をやっても発芽しないのである。それはどういうことを意味しているか? 全ての想念、全ての欲望が無私になる、ということである。利己性が発芽の胚、『私はそれを欲する』と言って芽を出す胚である。その利己性が完全に取り除かれてしまうと、あなたは無胚となる。それがニルビージャ[無種子]あるいはニルヴィカルパ[無分別]・サマーディ(筆者註:無想三昧と略同義)と呼ばれるのである・・・・。

「Ⅲ-4  同一の対象についてこれらの三者【ダーラナー、ディヤーナ、サマーディ】を
なすことがサンヤマ[綜制]と呼ばれる。」

「これを行うことから、シッディ[霊能]が生まれる。対象又は対象となる観念の奥深くへ突き進むと、それ(対象)はその秘密を解き放つ。科学者というのは、或る意味で、原子に対して“サンヤマ”を行っていたのである。そしてそれら(原子)は、それらのエネルギーを解き放ち、彼はその知識を手に入れた ― 彼はその奥に潜む心理に到達したのだ。サンヤマは通常、何らかの結果につながる対象或いは観念に対してなされる。そしてその結果が生じたとき、それをシッディ(筆者註:仏教用語では悉地、千里眼などの所謂超能力)とかヴィブーティと呼ぶ。」

このサンヤマという技法を様々に用いることによって、修行者は様々なシッディを得ることが出来るという。詳しくは、スートラの第Ⅲ章-16以下を参照して頂きたいが、各スートラで紹介している主たる超能力を簡単に紹介しておきたい。

Ⅲ-16  過去と未来を知ることができる能力
Ⅲ-17  動物などの発した声から、その意味を知る能力(ラーマクリシュナにも備わっていた)
Ⅲ-18  サンスカーラを直感することで、前世を知る能力
Ⅲ-19  他人の身体的特徴からその人の想念を知る能力
Ⅲ-21  自分の体を他人から見えなくする能力(チベットの聖人、ミラレパにも備わっていた)
Ⅲ-26  微細なもの、秘匿されたもの、遠くの者を見る能力(所謂、千里眼)
Ⅲ-33  シッダ(神人)を見る能力
Ⅲ-42  超常的聴覚(所謂、天耳通)
Ⅲ-43  空を飛ぶ能力(空中浮揚など冗談半分に話題になるが、筆者は信じている)
Ⅲ-46  身体を非常に小さくする能力(ラーマクリシュナにも備わっていた)等


ところで、これら超能力を獲得する方法に関連して、スートラには心の中から生起してくる雑念や、それを止滅する為の仕組み、更に「転変」ということがかなり詳細に記述されている。例えば、

「Ⅲ-9  生起してくる印象[サンスカーラ、雑念]は、それに代わる新たな心の作用を生む
 ところの抑止の努力の出現によって、止滅される。この、新たな作用と心との結合の
 刹那が、ニローダ・パリナーマ[止滅転変]である。」

この最後の経文も含め、これらは非常に重要であり且つ難解な経文であるのだが、残念ながら『インテグラル・ヨーガ』においては、何ら説明されていない。然し、佐保田鶴治先生の『解説 ヨーガ・スートラ』の125頁以下にこれらの経文に関する形而上学的な詳しい説明があるので、興味のある方は是非参照されたい。いずれ筆者の理解が更に深まった時点(多分次章)において、他の仏教関連の書籍も引用しながら解説を試みることになると思う。

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