アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第15章 心と意識 ⑬真我探求

2011-12-30 05:56:03 | 第15章 心と意識
本章②自我(エゴ)での説明と一部重複するが、ラマナ・マハルシ(以下、同師)の主張が『あるがままに』の中で以下のように説明されている(P92)。

「『真我の自覚と無知』の章で、シュリー・ラマナは身体と心を通して機能している個人(筆者註:即ち自我)が存在するという観念をただ捨て去るだけで、真我の実現は起こりうると主張し続けている。ほんのわずかな熟達した帰依者たちだけがこれをすばやく容易に為し遂げたが、他の者達にとって、何らかの形式の霊的修練を積むことなしには、それは殆ど不可能に見えた。シュリー・ラマナは彼らの苦境を理解し、真我の自覚を促す霊的修練を指導するよう頼まれたときは、真我探求と呼ばれるテクニックを勧めたのだった。この修練は彼の実践哲学の礎となっている。・・・」

「その(真我探求)テクニック自体の説明にとりかかる前に、心の本性に関するシュリー・ラマナの見解を説明する必要があるだろう。なぜなら、真我探求の目的は、直接体験によって心が実在しないものであると発見することにあるからだ。シュリー・ラマナによれば、心や身体のあらゆる意識活動は、そこに『私』という、何かをする誰かが存在しているという暗黙の想定を軸に展開している。『私は考える』、『私は覚える』、『私は行為する』のなかに共通の要因は、これら全ての活動の責任を持つと想定する『私』である。シュリー・ラマナはこの共通の要因を『私』という想念(アハム・ヴリッティ)と呼んだ。アハム・ヴリッティとは、逐語的に『私』の精神活動を意味する。真我或いは真実の『私』は、決して何かをすることも、何かを考えることもない。それら全てを創造している『私』は、全くの精神的虚構であり、それゆえ、逆説的に真我の精神的活動と呼ばれるのである。この言葉が、アハム・ヴリッティを表すには少々長く、扱いにくい訳であるため、普通は『私』という想念として訳されている。シュリー・ラマナは、個人という概念はただ、『私』という想念が様々な形で現れているだけだという見解を支持している。彼は様々な心の活動(自我、知性、記憶など)を分離した個別の機能として見なす代わりに、それらを『私』という想念の様々な表現形式だと見ている。彼は個人と心、そして心と『私』という想念を同一のものとして見ているため、個人という感覚の消滅が心と『私』という想念の両方の消滅を暗示することになる。このことは、要約すれば、真我の実現ののち、そこには考える人もなく、行為をする人もなく、個人的存在の自覚もない、という彼の言葉によって裏付けられている。」

つまり、本章②で説明した通り、同師は心と自我、そして『私』という想念を基本的には同一のものと見ており、これらは全て非実在であると見ている。要するにこれは、心も自我も実在(プルシャ)ではないということであり、般若心経においても、「無受想行識」と記されている通りである。同書からの引用を続ける(P84)。

「彼は真我だけが唯一存在する真理であると主張し、『私』という想念は、それ自体では存在をもたない一つの誤った仮定だと見なしている。彼はその現れについて、『私』という想念は対象物と同一化することで存在するように見えるだけだ、と説明している。思考が活動するとき『私』という想念は、『私は考える』、『私は信じる』、『私は欲しい』、『私は行為する』といった思考の所有を主張する。しかし、同一化した対象物に依存せずに存在する『私』という想念はない。それはただ、絶え間ない自己同一化の流れによって、現実に継続して存在する実体のように見えるだけである。こういった同一化の殆ど全ては、『私』が身体に限定されているという根本的な想定にその源をたどることができる。この『私は身体だ』という観念が、絶え間なく起こる誤った同一化の根源であり、そして『私は身体だ』という観念の終焉こそが真我探求の根本的な目的なのである。」

確かに我々は、普段自分の肉体を自分自身(自己)であると思っており、そこに自分の心或いは魂が宿っているような錯覚に陥っているが、先ずは自分が肉体であるとの認識を断ち切ることが重要であると同師は主張する。

「シュリー・ラマナは、この自己限定の同一化の傾向は、主体である『私』をそれと同一化した客体である想念から引き離そうと試みることによって阻止することができると主張した。客体である対象物無しに独立した『私』という想念は存在できないため、もし全ての注意が『私』あるいは『私は在る』という主観的感覚に強烈に集中されたならば、『私はこれだ』や『私はあれだ』といった想念は起こることなく、そうすれば『私』という想念は対象物と関係を持つこともできないだろう。もしこの『私』への自覚が維持されれば、個としての『私』という想念は消え去り、そのとき、そこには真我の直接体験があるだろう。この『私』或いは『私は在る』という内的自覚への継続的な感覚が、シュリー・ラマナによって真我探求(ヴィチャーラ)と呼ばれているものである。そして彼はこの真我探求を、『私』という想念の非実在性を発見するための直接的、かつ最も効果的な方法として絶えず奨励したのである。」

尚本章ではこれまで、同書に記載されたとおりを出来るだけ忠実に引用してきたが、今後は原則として真我を『私』として表記し、心或いは自我は、‘『私』という想念’として記すのではなく、『私という想念』と記述した方が判り易いのではないかと思うので、以下、基本的にそのように記載する。

「シュリー・ラマナ自身の表現によれば、『私という想念』は真我或いはハートから立ち現れる。『私』を対象物である想念と同一化する潜在的傾向がやんだとき、それは真我の中に沈みゆく。このために彼は、『私という想念』をその源までたどりなさい、或いは『私という想念』がどこから起こるのかを見出しなさいと言うかもしれない。だが、その意図するところはつねに同じだった。どんな言葉が用いられようとも、彼は帰依者たちに、『私という想念』への自覚を、それが立ち現れて来た源のなかへ消え去るまで保ちなさいと勧めたのだった。」
「彼は『私という想念』を想い続けること、或いは『私』という言葉を繰り返し言い続けることもまた正しい方向へ導くと言及している。だが注意すべき重要なことは、それはただ修練の初期の段階にすぎないということである。『私』という言葉を復唱することは、主体(『私という想念』)が客体(『私』、『私』という想念)を知覚していることを依然としてともなっている。そのような二元性が存在するかぎり、『私という想念』は成長しつづけるだろう。身体的、そして精神的な全ての対象物の知覚が完全にやんだときにのみ、それは消え去る。これは『私』に気付くことによってではなく、『私』で在ることによってのみ、もたらされるのである。客体(対象物う)に気付くことよりも主体を体験するというこの状態こそ、真我探求が成就した段階である。」

それでは、真我探求(ヴィチャーラ)と瞑想はどこが異なるのであろうか? (P95)

質問者  はっきりわからないのですが、私は何について瞑想すれば良いのでしょうか?
マハルシ 瞑想には瞑想する対象が必要となる。一方ヴィチャーラにおいては対象がなく、主体だけがある。ヴィチャーラと瞑想が異なるのはこのためである。

質問者  ディヤーナ(瞑想)は真我実現の為の効果的な過程の一つではないのでしょうか?
マハルシ ディヤーナは対象への集中である。それは思考を脇道にそらさず、一つの想念に固定させるという目的を果たす。その一つの想念さえも真我の実現の前には消え去らなければならない。しかし、実現は新たに獲得するような何かではない。それはすでにそこにある。ただ、想念のヴェールに覆われているだけなのだ。我々の試みは、すべてこのヴェールを取り去ることに向けられている。そうすれば実現は顕わになるだろう。

つまり、瞑想には対象が必要であり、想念が対象に固定されるということは或る意味でその想念が強化されることになるが、ヴィチャーラの場合はその想念自体を消し去ることが目的となっている点で瞑想とは異なるのだという。
因みに、ババジのクリヤー・ヨーガにおいては、第一イニシエーションを受講すると7種類の瞑想法を伝授されるが、その内の一つは基本的にこのヴィチャーラと同じものだと言って良いと思う。

ここで話は変わるが、筆者は最近ヨーガの瞑想をしている間、或いはアーサナの合間に、一時的に呼吸が止まることがあり、その状態においては比較的容易に心の動きを停止させる(所謂無念無想状態に入る)ことができるようになった。どうやらシュリー・ラマナはこのことを、「マノラヤ」と呼んでいるようであるが、この状態をもって、慢心してはいけないといった趣旨のことを次のように述べている(P113)。

「一時的な心の静止(マノラヤ)と想念の永久的な破壊(マノナーシャ)の違いを理解するサーダカ(修行者)は非常に稀である。マノラヤでは想念の波が一時的に止まるが、たとえそれが千年続いたとしても、マノラヤが止まったとたん、一時的に静止された想念の波は湧きあがってくる。それゆえ、人は自分の霊的修練の進展を注意深く見守っていなければならず、そのような思考の静止に魅了されるのを許してはならない。これを体験した瞬間意識を取り戻し、この静寂を体験しているのは誰かと内側に向けて尋ねるべきである。いかなる想念が入りこむことも許さず、と同時に深い眠り(ヨーガ・ニドラー)或いは自己催眠にも襲われないようにしなければならない。これも目的に向けての向上の兆候ではあるが、それはまた解放への道とヨーガ・ニドラーへの道の分岐点でもある。やさしく直接的な解放への道がヴィチャーラ・マールガ、真我探求の道である。探求によって、あなたはその想念の流れを深くその源に達するまで導き、そのなかへと溶け去る。そのときこをあなたは内なる感応を得るだろう。全ての想念を破壊して、ついに永久の安らぎを見出すのである。」

更に彼の質問者との対話を続ける(P116)。

質問者  心を内面に向けることも、いまだに心を用いていることにならないでしょうか?
マハルシ もちろん心を用いている。心の助けによってのみ、心を殺すことができるのは良く知られ、認められていることである。だが、そこに心が存在すると想定し、それからそれを殺したいと言うよりも、先ず心の源を探求しなさい。すると、心などまったく存在していなかったことを発見するだろう。外面に向いた心は想念や対象物を生み出す。内面に向かえば心そのものが真我となるのである。

質問者  しかし、まだ良く理解できません。あなたは「私」が偽りの「私」(筆者註:自我のことを指す)だと言われます。いったいどうやって偽りの「私」を消滅させるのでしょうか?
マハルシ 偽りの「私」を消滅させる必要はない。いったいどうやって偽りの「私」がそれ自身を消滅させると言うのだろう? あなたがすべきことは「私」の源を見いだし、そこに留まることだけである。そうすることによってのみ、あなたの努力は実る。そのあとは彼方なるものに身を任せるだけでいい。・・・

つまりシュリー・ラマナは心を真我(或いはハート)の中に留める修行を勧めているようである。更につづける(P118)。

質問者  心はどのくらいの間、ハートの中に留めておくことが出来るのでしょうか?
マハルシ その期間は修練による。
質問者  その期間が過ぎると、何が起こるのでしょうか?
マハルシ 心は現在の通常の状態に戻る。ハートの中での融合が、知覚されたさまざまな現象に取って代わられる。これが外向的な心と呼ばれ、ハートに向かう心は安らいだ心とよばれるのだ。このように日々修練を重ねることで、心の欠陥は除去され、非常に純粋になっていく。そして修練は容易になり、純化された心は探求が始まるやいなやハートの中に飛び込むだろう。

質問者  ひとたび瞑想の中でサット-チット-アーナンダ(存在-意識-至福)を体験した人が、瞑想が終わると共に再び身体と同一化することはありうるのでしょうか?
マハルシ それはありうる。しかし、彼は修練によってその自己同一性を徐々に失って行くだろう。そして真我のあふれる光の中で、幻想の闇は永遠に消え去るだろう。全てのヴァーサナ(筆者註:心の傾向。薫習と訳される。本章④参照)が根絶されないまま得られた体験は、定着することができない。ヴァーサナを消滅させるための努力が必要である。(筆者註:ヨーガにおいても心の止滅が究極の目的であり、ヨーガスートラの内容とも一致する)全てのヴァーサナが根絶されたときにのみ知識は揺るぎないものとなるのである。我々は長年の精神的傾向と闘わなければならない。それらはみな消え去るだろう。ただ、過去において(筆者註:過去世のことを指していると思われる)サーダナ(修練)を重ねて来た者の場合は比較的早く消え、他の者たちの場合はより遅いだろう。」

更に質問者との問答を続ける(P120)。

質問者  しかし「私」が「私」を探さなければならないということは、おかしなことではないでしょうか? 「私は誰か?」と言う問いは、結局空虚な形式に終わってしまうのではないでしょうか? それとも、私はそれを或る種のマントラのように繰り返しながら、際限なく自分に問い続けるべきなのでしょうか?
マハルシ 真我探求が空虚な形式でないことは明らかだ。 それはどんなマントラの復唱よりもすぐれたものである。「私は誰か?」という問いが単なる知的な質疑でしかないなら、たいした価値は無いだろう。真我探求の目的そのものは、心を完全にその源へ集中させることにある。それゆえ、それは一つの「私」がもう一つの「私」を探し求めることではない。真我探求は純粋な真我の覚醒の内に不動の安定を確立すべく、心の全てを注ぎ込む強烈な活動を要する。そのため、決して空虚な形式などではありえない。・・・心を掴み、それを調べていくようにと初心者は教えられる。しかし、結局心とは何だろうか?それは真我の投影である。それがどこから現れ、誰にとって現れるのかを見いだしなさい。すると『私という想念』がその根本原因であることが知られるだろう。更に深く見極めなさい。すると、『私という想念』は消え、そこには『私』という意識の無限の広がりがあるだろう。」

最後に、「何として(どのように)在るべきか」について、シュリー・ラマナは次のように語る(P123)。

あなたの務めはただ在ることであり、あれやこれとして在ることではない。「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)という言葉が全ての真理の要諦である。その方法は、「静かに在ること」に尽きる。では静寂とは何を意味するのだろうか? それはあなた自身(筆者註:自我或いは偽我のこと)を打ち壊すことを意味する。なぜなら全ての名前と形が苦しみの原因だからだ「私はこれである」という観念を放棄しなさい。真我を実現するために必要なのはただ在ることだけである。それ以上簡単なことがあるだろうか?それゆえ、アートマ・ヴィディヤー(真我の知識)の達成は最も容易なことなのである。
唯一、自己の真の本性だけが、調べられ、知られる価値のあるものである。それを注意の的として射止め、ハートの中で強烈にそれを知るべきである。この自己の本性の知識は、苛立ち苦しむ心の活動から解放された、明晰で平静な意識にのみ明らかにされるだろう。ハートのなかで絶えず輝き続ける意志こそが無形の真我であり、存在や非存在である何か、などと考えることなく、ただ静かに在ることによって知られるもの、ただそれだけが完全な実在であると知りなさい。

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