アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第15章 心と意識 ④心の構造

2011-10-28 06:12:32 | 第15章 心と意識
本章ではこれまで、心、ハート、真我、自己、自我、エゴ、個我、アハム・ヴリッティ、アートマンなどの言葉を使ってきたが、先ずはそれらの意味を、真我と真我でないものという基準で一度整理しておきたい。但し、これは、筆者がこれまで読んだ書籍(参考書籍一覧参照)から導きだした定義であり、基本的に真我探求を目指している多くの識者の見解と然程異ならないと思うが、ハートをどちらに分類するかについては諸説があるかも知れない。

これらのうち、真我(アートマン)ではないものは、自我、エゴ、個我、アハム・ヴリッティであり、それらはいずれも‘心’と略同義と扱って良いと思う。

そして真我(我々自身の本質)と略同義のものは、自己(英語ではSelf、Sが大文字になっている点に注目)、アートマン、ブラフマン、そしてハートである。

さて、筆者は本章①で、(真我ではない)心がこの世界を造っているということを述べたが、本稿を書き始めるに当り、再度その部分を引用する。

「それでは、心はどのように世界を造っている(映し出している)のであろうか。極めて簡略化して云うと、次のようになるのだと思う。先ず地球の大きさの心があると想像してみて頂きたい。そして、その地球大の心の表面にあるのが、所謂想念と呼ばれる、我々一人ひとりの心である(先述した、海の表面の波のようなもの)。我々個々の意識がその表面にある状態(顕在意識)においては、皆別々の心を持つ違う人のように思えるが、奥深く沈んで行くと、ある意識で繋がっている。それが、ユングの云う集合意識であり、例えば民族意識、人類意識などを指しているのではないかと思う。そこから更に深く沈むと、地球の中心に唯一つの中心がある。それが真我(アートマン、或いはハートと言っても良い)であり、それが世界を映し出している光源である。つまり、世界は真我を光源とし、我々の心をフィルムとして我々の顕在意識の上に投影されているのである。従って、世界は自分の外にあるように見えながら、実は自分の内側にあり、我々はそれを体験しているのである。良く‘自分の心を変えれば世界が変わる’といったことを自己啓発の本などで目にするが、それは世界が自分の心を投影したものである、という原理に基づいて起こるのである。」

上記で説明したように、地球大の心があり、我々の想念はその表面の波のようなものだとして、これを平面図に書いてみると、心は地球の中心に向かってある意味で同心円状の階層をなしている。表面にある外側の円が個人の想念や感情である。これは常に動き、波打っている。顕在意識と呼んで良いと思う。その内側に、各個人の今生の記憶や経験があり、それらを我々は普段意識していないが、顕在意識に極めて近い部分において、何時でも直ぐに取り出せる状態になっている。パソコンに喩えて言えば、メモリ-に保存してあるデータやプログラムのようなものではないかと思う。そして更にその内側に集合意識があり、それらは民族意識、人類意識といったものから構成されているではないだろうか。場合によっては、太陽系意識とか銀河系意識といったものもあるのかも知れない。即ち心の奥底に深く入り込んで行けば行く程、その意識は普遍的になる(個人→家族→民族→人類→生物→地球)のと同時に、中心にある真我に近付いて行く。そして真我は、ハートであるから、本当は全ての人がその本質において愛情深いのである。逆に言えば、本当に愛情深い人程、真我に近い場所に自分の意識を置いているのである(例えばマザーテレサ、しかしイエス・キリストのレベルになると、恐らくは完全に真我に自分の意識をおいていたものと思う)。

以上で、心が真我を中心にして同心円上に展開した‘階層’を持つものであることが判って頂けたものと思うが、心が世界全体を表している仕組みを説明するのにはこれで良いとしても、我々の人生に現れる個別の現象を説明するのにはこれでは不十分である。それには、真我から同心円状に展開している人類に共通する階層ではなく、個人個人、縦の切り口で心の‘構造’を解明する必要がある。

ところでヨーガを勉強していると、チッタ、ブッディ、マナス、アハンカーラ、サンスカーラ或いはヴァーサナと云った単語が出てくるが、これらも心全体或いはその一部を特に機能の面から表している概念であり、心の構造を考える際にはそれらを確り理解しておく必要がある。
特にこの内のサンスカーラという言葉は、普段使っている言葉と対になる適切な日本語訳が無いにも拘らず、輪廻の仕組みや業(ごう、カルマ)とも深く関わっており、かなり難しい概念なので(インド哲学やヨーガを勉強した人にはお馴染みの言葉かも知れないが)、詳しく説明する必要があると思う。

先ずは、チッタ(心)のおおまかな構造を理解する為、スワミ・サッチダナンダ師の『インテグラル・ヨーガ』(P24)の説明を引用する。

「“チッタ”というのは心の総体である。このパタンジャリ(筆者註:ヨーガスートラの著者)が言うところの心の全貌を掴むには、チッタが様々なレベルを内包するものだということを知っておかねばならない。心の基体は“アハンカーラ”[我慢](筆者註:自我のこと)と呼ばれ、それは‘私’という感じのことだ(筆者註:前述のラマナ・マハルシが言うところのアハム・ヴリッティ、即ち『私』という想念と対応する)。これが“ブッディ”[覚]と呼ばれる知性、つまり識別能力を発生させる。もう一つのレベルは“マナス” [意]と呼ばれ、これは心の中の欲望する部分で、これが色々な感覚を通じて外界の事物に引き寄せられる。」

つまりチッタ(心)とは、自我[我慢]とそれから生じる知性[覚]と欲望[意]から成り立っていると言っている。これは普通に考えてもさほど難しい理屈ではなさそうである。然し、以上はどちらかと言うと、心理学などでいう顕在意識に対応している部分であり、潜在意識に対応する部分が捉えられていない。この部分に対応する概念として、サンスカーラ[行]という言葉が佐保田鶴治氏の『解説ヨーガ・スートラ』に詳しく説明されているので、以下に引用する。

「ヨーガ哲学の考え方によると、行(筆者註:サンスカーラ、‘ぎょう’と読む)はチッタ(心)の大地に眠っている種子である。種子というのは今日のことばでいえば、潜在的可能性であって、時期が来ればチッタの力を借りて隠れた状態から顕わな状態に転換するのである。この種子すなわち潜在的可能性は無始の過去生からの堆積であって、無限に多くあるが、大別して三種とすることができる。業(カルマ)と煩悩(クレーシャ)と薫習(ヴァーサナ)である。つまり行はこれらの三種から成っていて、これら無眼に続いた過去生の遺産がチッタをがんじがらめにしているから、そのままでは輪廻転生のくさりはいつまでも断ち切れないのである。輪廻のくさりを断ち切るには、これらの行の力を弱め、そしてそれから発現する結果を抑止するところのヨーガの修行が大切である。」

つまり、行(サンスカーラ)は、業(カルマ)と煩悩(クレーシャ)と薫習(ヴァーサナ)から成っているということなので、これら三種の内容を改めて確りと定義付けする必要があるが、順序として先ず煩悩から説明する。少々難解だが、再び佐保田鶴治氏(以下、著者)の『解説ヨーガ・スートラ』(以下、同書)からの引用である。以下、「 」は省略する。又各経文に対する著者の説明も適宜省略する。

二・三 煩悩には、無明、我想、貪愛、憎悪、生命欲などがある(ヨーガ・スートラ)。
二・四 以上の五煩悩の中で、無明はその他の諸煩悩の田地である。他の諸煩悩は各個に
    あるは眠り、あるは弱まり、あるは中絶し、あるは栄えたりするが、無明はそれ
    らの田地として存在する。(ヨーガ・スートラ)
二・五 無明とは無常、不浄、苦、無我であるものに関して、常、浄、楽、我であると考
    える見解をいう。(ヨーガ・スートラ)
二・六 我想とは、見る主体である力(真我)と、見るはたらきである力(覚等)とを
    一体であるかの如く想いこむことである。(ヨーガ・スートラ)
    →真我を見る主体である力とよび、覚等の心理器官を見るはたらきである力と表現しているのは、ヨ     ーガ的発想の特徴を示している。真我も覚等も共に能力なのであって、実体ではない。
二・七 貪愛とは、快楽にとらわれた心情である。(ヨーガ・スートラ)
二・八 憎悪とは、苦にとらわれた心情である。(ヨーガ・スートラ)
二・九 生命欲は、その固有な味わいを不断に持ち続けていて、(愚かなものばかりでなく)
    賢明な人たちにもこの煩悩のあることは一般に知られている。

上記の5つの煩悩を構成する要素の内、後半の三つ即ち貪愛、憎悪、生命欲は基本的に読んで字の如しであり、比較的判り易いので説明を省くが、無明と我想に就いては筆者なりの解説を加えたい。
先ずは無明であるが、これは最も基本的な煩悩であって、その他の諸煩悩の田地であるとヨーガ・スートラでは言う。続いて無常を常ととらえ、不浄を浄ととらえ云々と続いて行くが、これらを一言で言えば、般若心経に出てくる顛倒夢想であり、本当の所はもう少し深い意味があるように思う。つまり、この世の中は、本ブログで度々触れてきたように、あくまでも心が投影された現象の世界であって(色即是空)、実在では無いということを悟っていない、即ち現象として展開している世界を実在だと錯覚している状態を無明と呼ぶのではないかと思う。
我想に就いては、既に本章②において触れたが、これこそまさにラマナ・マハルシ師が言うところの“アハム・ヴリッティ”(『私』という想念)であり(本章②を参照)、真我ならざる自我(エゴ)を、本当の‘自己’(Self)と取り違えていることである。そして、これも或る意味では無明と言える。

行を構成する三つの大きな要素の内、煩悩の説明が終わったので、次は業(カルマ)の説明である。ヨーガスートラは、業(詳しくは‘業遺存’という)も煩悩から生じるという。次も同書からの引用である。「 」は省略する。

二・一二 業遺存は、煩悩を根因とし、現世において、あるいは他生において感知されうる。
業遺存は行の一種である。業遺存の原因となる善悪の行為または思想はいろいろな煩悩を根因として発生するものであるから、その潜在的残存印象たる業遺存もまた煩悩を根因とするわけである。この業遺存はやがて業報を生むが、業報として結実するのに二様の場合がある。一つは、善または悪の行為が強度の熱心さを以って行われた時、その業遺存が即座に個の現世において善または悪の結果を表すという場合である。他の一つは、行為がそれほど強烈なものでない時、次生以後の転生において業遺存が業報を表すという場合である。・・・

行の三つの構成要素の最後は、薫習(ヴァーサナ)である。この言葉の説明も同書から引用する(P271)。

「この原語ヴァーサナは仏教では薫習(くんじゅう)とか習気(じっけ)とか訳されている。あたかも衣服などに香を焚き染めるように、過去世において繰り返して経験した結果生じた気分(性向、性癖)といったやや漠然とした記憶の残存のことである。輪廻転生を通じて一貫した自己同一性が存在すると考えられる根拠は、この行と再生された記憶との間の同一性にあるとスートラは説いている。とにかく残存印象を原因として生じた潜在印象である。ここで経験というのはバーシャの註(二・一八)によると、好ましいもの、好ましからぬものについての確認であるから、残存印象の原因になる経験は煩悩を原因とする‘チッタの作用’である。その潜在印象は機会が来ると、チッタの作用の一種である記憶として発現する。人の経験意識のなかには記憶が不可欠の要素として含まれていることは現代心理学においても認められていることであるが、インド心理学は現世の経験のなかで過去生の記憶の再生が大きい役割をすることを知っていた。そしてこの記憶要素と新しい認識要素との複合物が、やがてまたその印象即ち行をチッタの中に残す。かくして行は永久に存続していくのである。残存印象(ヴァーサナ)は、煩悩(原因)、記憶(結果)、チッタ(依体)、経験対照(所縁)の四者に支えられているといわれる。」

以上を要約すると、行(サンスカーラ)は煩悩、業、薫習から成り立っているが、煩悩の全ての田地は無明であり、又業も薫習も煩悩を原因とする心(チッタ)の作用である。従って、行を生む大本の素地は、無明であると言うことになる。

ところで、‘行’という言葉は、今回初めて説明するものではない。実は、第14章⑩、般若波羅蜜多心経の説明でサンスカーラという言葉を既に使っている。‘無受想行識’の内の‘行’(ぎょう)がサンスカーラに相当する部分である。つまり、般若心経が受想行識は無いと言っているのは、感覚も想念もサンスカーラも知性(ブッディ)も無い、即ちそれらの総体としてある(ように思われている)心というものは実在では無いと言っていることになる。何故なら実在はプルシャである真我だけだからである。そして、その実在では無い心を真我(自己)と取り違えることが、アハム・ヴリッティであり、これも無明である。

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