アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第17章 ヨーガ・スートラ ⑬一切皆苦

2012-07-13 06:50:26 | 第17章 ヨーガ・スートラ
釈迦の教え、その中でも最も偉大な悟りの内容に“四聖諦”というものがある。インターネットで調べて見たところ、川口秀俊氏が著した『仏の道』というお施本の説明が判り易いと思われたので、以下に引用させて頂く。

「四聖諦は、仏教の大切な教説で、苦しみから解脱し、涅槃へと至るための実践方法論であります。 まず、苦諦でありますが、一切皆苦でも述べさせて頂きましたように、この世のあらゆる一切の全ては苦しみであるということですが、その苦しむ原因は何であるのかという集諦も含めてまずは考えていきます。 一切皆苦においては、苦しみの原因は、妄想の集まりである煩悩にあり、その妄想の代表格として、ほしいという「渇愛」、しがみつこうとする「執着」があると述べさせて頂きました。ここでは、さらに煩悩・苦しみの原因の根本である「無明《むみょう》」について扱いたいと思います。 無明とは、字の通り、明るさが無いということですが、つまりは、真理という明るさ、智慧という明るさから遠ざかってしまっていて、暗い闇の中をさ迷い続けている、真理について盲目的になっているということであります。この場合の真理とは、四法印・四聖諦のことであり、智慧についてはまた後の章で詳しく述べることにします。 無明は、無知とも表されることがあり、煩悩の三毒としてよく挙げられる貪瞋痴《とんじんち》の痴、つまり愚かさのことを言う場合もあります。 また、十二縁起(因縁)の第一番目に煩悩を総称する形で挙げられており、煩悩の一切のことを示す場合もあります。十二縁起につきましては、また後の章で扱います。 一切皆苦の章の中にありました四苦八苦も、その根本の原因は無明にあり、その無明をいかに打ち破って克服するかは、四法印・四聖諦の理解の進み具合次第に係るわけであります。  もう少し簡単に述べてみますと、この世では何も満足できない、その不満が苦しみになるのですが、ではなぜ不満になるのかが分からない愚かなことを無明だと言うわけであります。例えば、変化していくものを変化しないものとして捉えようとしたり(筆者註:所謂“所行無常”)、固定した実体としての我はないのに(筆者註:諸法無我)、我があるのだとして捉えようとしたりすることに、満足できなくなる、不満の原因があることを諸行無常、諸法無我の真理を自覚することによって、愚かで無駄な思考・妄想・行動を止めることが大切になるというわけであります。仏教の真理を自覚して、無明の闇に打ち克っていかなければならないのであります。 このように、集諦においては、苦しみの原因は、ただ煩悩と表す場合や、渇愛・執着と表す場合もありますし、煩悩を喚起させて、苦をもたらす根元として無明と言う場合もあります(筆者註:本章⑪無明を参照)。または、同じく煩悩の根元として、貪欲《とんよく》(むさぼり)・瞋恚《しんい》(激しい怒り)・愚痴《ぐち》(おろかさ)の三毒を言う場合もありますし、十二縁起では、無明を苦しみの根元として、次に渇愛によって苦しみがどんどん広がって、執着によって更に苦しみが大きくなっていくとしている場合もあります。 次に、滅諦・道諦でありますが、滅諦は、涅槃寂静と内容はほぼ同じで、苦しみの原因である煩悩(ここではただ煩悩としておきます)を完全に滅すれば、苦しみも生じることなく当然に滅することができて、涅槃へと至るという真理のことであります。  そして、道諦において、苦しみを無くすために、涅槃に至るために、ではどのようにして煩悩を滅していけばよいのかという実践行動について、お釈迦様は八正道(筆者註:八段階のヨーガ即ちアシュターンガ・ヨーガに比せられる仏教の修行法)を説かれたのであります。」

ということで、“一切皆苦”ということは釈迦の四聖諦の第一に挙げられている悟りの内容であり、ヨーガの専売特許ではないのであるが、真理は普遍的なものであるから、ヨーガ・スートラに同じことが出てきても何ら不思議はない。この部分をパタンジャリがどのように示し、スワミ・サッチダーナンダ師がどのように解説しているのか、以下、『インテグラル・ヨーガ』から引用する。

「Ⅱ-15  得たものを失うことへの恐怖と懸念、結果として心の中に残り新たな切望をひき起こす印象、心を支配する三グナの絶えざる相克 ― これらに鑑みるとき、識別ある者にとっては実にあらゆるものが苦である。」

「ここでパタンジャリは、非常に重要なスートラ、霊的領域における偉大な真理を示す。少なくともこれを毎日、わずかな時間でもいいから観想すれば、我々の人生は全く変わる。霊的識別の徒にとってはすべての経験が苦に満ちている。この世の体験のすべて、世界を通じて、自然や物質を通じて外界から来る体験のすべては、結局のところ苦である。その中のどれ一つとして我々に永続的な幸福を与えてはくれない(本章⑧プラクリティの役割を参照)。それらは一時の喜びは与えてくれるだろう。だが最後は、いつも苦に終わる。たった今享受しているこの喜びも、それを失うことの恐れゆえに、通常は苦である。たとえばあなたが非常に沢山の人々から賞賛をうける高い地位にあるとしよう。誰もがあなたのことを『立派な人だ』と言う。するとあなたはそういう地位をだんだん愛するようになる。『誰からも賞賛され、たくさんの信者に囲まれて、国中にたくさんの弟子を持つ・・・・・いいじゃないか、これは実にいいものだ。』ところがそれと同時に恐れが忍び込んでくる。『私がこの地位を失ってしまったら・・・・・弟子が一人二人と去って行ってしまったら、私はどうなるのだろう?』だったらそんな地位のどこがいいのだろう?」

「あるいは投機家。よく見かける、新聞を手にしたら真っ先に株式相場の欄を見るという人たち。彼らは、自分の持ち株の相場が前日よりたったの1パーセント上がっただけで狂喜する。ただし翌日の新聞を見るまでだが。夕方になると彼らの緊張は高まり、その夜は一晩中、不安の中で朝の新聞を待っている・・・・・。 そんなことで本当にお金を楽しんでいることになるのだろうか? ならない。それは彼らがそれ(お金)を所有したいと思っているからだ。いわゆる“楽しみ”というものはすべて、それらを失うことへの恐れも同時に持ち込んでくる。『ひょっとしたら私は、地位を、お金を、或いは美貌を失いはしないだろうか・・・・・。』だから自分の眼や鼻、果ては指やつま先にまで保険をかける。彼らは物に触れることにさえ神経質になって、いつも緊張している。美しい顔を持つのはいいことだ ― そう、“何だって”持ったらいいのだ。ただし、それらのものをして懸念や恐れを持ち込ませないかぎりにおいてだ。」もしそれらが来るなら来させ、それらがあることを楽しめばいい。だがそれらが出て行くときは、その出立を楽しもう。それらが来るときはひとりで来たのだ、だから今度もひとりで行かせよう、外から来た物と一緒に自分の心まで運び去られることなく・・・・・。過去の愉楽は苦である。なぜなら、それらが心の中に残していった印象から、またもや切望が生まれるからだ。『私は依然すばらしい車を持っていた。いつになったらまたああいう車が持てるんだろう?』そういう車を持っている人を見るたびに、惨めな気持ちにさせられる。昔の羽振りの良かった頃のことを全部思い出して― 。」

「本当はこの世に“悪いもの”など何もないのである。だが三つのグナがいつまでたっても我々の心を弄び続ける。今楽しんでいたものが、次の瞬間にはもう嫌になる(筆者註:ここで言う三つのグナは、外界から来る体験や対象物ではなく、我々の心自体がプラクリティ即ち三つのグナによって構成されているから、絶えず変化していることを説明している)。気分のいいときは子供たちがそばへ来たら遊んでやる。ところが機嫌が悪い時は『あっちへ行け、邪魔をするな』だ。だから真の愉楽とは、世界のすべてから完全に自分自身を引き離すことから来る、つまり超えていることの内にある。つまり、それ(世界)の修得者(マスター)としてそれを利用することから来るのだ。われわれが誇ることのできるものはそこにしかない。」

「『すべては苦に満ちているから、それから遁走せよ』と言っているのではない。そうはいかない。どこまで行っても世界はついて来る。世界を理解しないままにそれから逃げ出そうとしても、それは決して成功しない(筆者註:これまで述べてきたように、世界が自分の心を映し出したものであれば当然のことである。本ブログ第6章④投影された世界第15章①心と世界を参照)。家庭生活を営む事ができなかったり、家族とうまくやっていけず、『私はもう嫌になりました。出家します。もう何も要りません。霊的な世界に入って、瞑想をし、ヨーガの修行をします』と言う人がよくいる。彼らは家族との生活から逃げ出そうとしているのだ。しかしそういう彼らも、アシュラムに来たとたんに、全く新しい家、全く新しい家族と顔を突き合わせることになる。彼らは少なくとももとの家では家の人たちをよく知っていた。そしてそこには、彼らに対する何らかの思いやりもあっただろう。ところがアシュラムではみんな初めて見る顔ばかりで、はじめはなかなか親しくなれない。当の彼らもそれぞれに自分自身の問題を抱えている。そんなふうに、自分のよく知っている家族に対してさえ自分自身をうまく適合させられないときに、どうして知らない人々の集団への適合が期待できるだろう? 『未知の困難より既知の困難』である― 」

「われわれはどこにいても物事を適切に扱っていけるようにならねばならない。いつも点々と環境を変えてばかりいるわけにはいかないのだから。そして、一旦家族という一つの小さな集団でどのように身を処していったらいいのかがわかったら、もっと大きな集団でもどうしたらいいのかがわかる。家庭生活は社会生活のためのトレーニングの場である。親しい人の鋭い言葉が受け止められなくて、どうして見ず知らずの人からのその種の言葉が受け止められよう? 世界は、執着してしまうことなくそれを使うことを学ぶ、トレーニングの場である。そうすると、この『識別する者にとって、全ては苦』というのが、『識別する者にとっては全てが楽』になる。そういう理解の力を備えた人は、何でも幸福に変えてしまう魔法の杖を持っている。苦と楽は、他ならぬあなた自身のアプローチの結果である。同じ世界が天国にもなるし地獄にもなるのだ。」

「 ― とは言いつつも、最初に始めるときは『一切は苦だ。私を執着から離れさせてください。私がそれに巻き込まれないようにしてください。私が世界に対して利己的な動機で近づかないようにしてください』と感じつつ始めるのである。そしてそれがいったん達成されると、あなたはまったく別の見方をするようになる。世界を今までとは全く違った目的の為に使い始め、あなたは幸福を味わうようになる ― 。泳ぎを覚えるまでは水のある場所が恐ろしく見える。『もし溺れたらどうしよう・・・・?』しかしいったん泳ぎ方を覚えてしまうと、あなたは水が大好きになる。世界とはそのようなものである。あなたはこの“サンサーラ” [輪廻]の大海で泳げるようにならねばならない。泳ぎの達人(マスター)になるために。」

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