アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第18章 真理 ⑲転変

2013-01-25 06:18:01 | 第18章 真理
前稿「時の秘密」において、『ハイデガー=存在神秘の哲学』(同書)の存在論で説く「時」、或いは「刻時性」という概念は、仏教でいう念々起滅現象と本質的に異ならないとの見解を示した。 即ち、この世界は『心』が念々起滅することで瞬間瞬間に投影されているものであり、それは大乗起信論で説く「心生滅」に対応しているものと考えて大筋間違い無いと思う。
ここで話は一旦脇道に逸れる。筆者は必ずしもサッカーは得意ではないが比較的好きなスポーツである。得意でない理由としては、走るのは比較的早いほうだったと思うが、元々余り器用な方ではないので、ボールを足で扱うことは大変難しいと思う。しかし、体育の授業などでサッカーをしていると、何となく次にどこにボールが出て来るのか予測できるので、皆がボールに集まって一生懸命取り合いをしているところから一人外れて待っていると、良くボールが来ることがある。そんな訳で、高校三年の体育の授業で、二度ゴールを決めた時のことを今でもはっきり記憶している。それが得意ではないが、サッカーが比較的好きな理由である。
ところでそのゴール体験の一度目の説明である。それは、右からのコーナーキックのボールが右ゴールポスト付近に飛んできて、そのボールに向かって走り込んだディフェンスとオフェンスが錯綜してどちらかの頭に当り、それが方向を変えてゴール正面のやや左寄り、7-8m手前で待っていた筆者に向かって飛んできた。すかさずヘッディングをしたところ、ゴールキーパーが手を大きく広げるほんの少し前に、ボールはゴールキーパーの手をすり抜けてゴールに吸い込まれて行った。二回目の状況もはっきり覚えていて詳しく説明することができるが、それ自体の説明が目的ではないので省略する。肝心なのは、その時筆者に何が起こったのか、である。その時、実は時間が止まり、その時の光景がコマ送りのように見えていたのである。
筆者の体育の授業での体験と比べては大変申し訳ないが、元巨人軍監督、川上哲治氏は現役時代に「打撃の神様」と呼ばれていたそうである。その川上氏の話として筆者が記憶しているのは、絶好調の時にはボールが止まって見えたということである。つまり、なんらかの条件下で、時間が止まって見える、或いはコマ送りのように見えることは「あり得ない話し」ではないのである。若しかしたら、読者諸賢の中でも、そのような経験を持った方がいるのではないだろうか?
更に、これに類した話しを一つ紹介しておきたい。20年以上も前の話だと思うが、筆者は「生長の家」の創始者、谷口雅春師の高弟で、悟りを開いた(無想三昧の経験を持つという意味か?)と言われていたF氏から直接、彼がその境地に入った時の話を聞かせて貰ったことがある。F氏によると、「その時、周囲の光景が呼吸と共に瞬間瞬間に花開くような感覚」を体験したそうである(正確に彼の言葉を記憶している訳ではないが、そのようなニュアンスだったと記憶している)。
これらの事例から推測したことであるが、或る条件下で我々の意識がプルシャに埋没した時(即ち無想三昧のような境地になったとき)、そのような感覚を経験できるのではないかと思う。
先に結論ありきの話になってしまったが、改めてこれらを纏めてみると、正しく古東哲明氏が同書で喩えたように、この世界は映画の如く映し出されているのであろう。そしてその光源は真我(神我)であり、そのフィルムは我々の『心』と考えて差し支えないと思う。そして心が生滅することによって、我々は時間を経験している。

愈々本題に入るが、実はこれに似た「転変」という概念がサーンキャ哲学にもあるので紹介したい。これは、これまでにも何度か引用した佐保田鶴治先生(著者)の『解説ヨーガ・スートラ』(本書)に出て来る。先ずは、ヨーガの時間論から、「刹那」と「相続」という概念について説明する(P153)。

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「刹那の時間と刹那から刹那への相続とに綜制を施すことによって、この分析から生じる
 知が現れる」 (ヨーガ・スートラ Ⅲ-52)

ヨーガの時間論によれば、我々が考えている通例の時間は観念的なものに過ぎない。しかし、刹那という時間単位だけは実体性をもっている。刹那というのは時間を極限にまで細分した、いわば時間の原子のようなものである。その長さは、一つの動きつつある極微(元素細分の極限)が前の場所を去ってすぐ次の場所に達するのに要する時間に相当する、と説明される。一つの刹那は次の刹那へと、水の流れのように、切れ目なくつらなって行くのが相続である(筆者註:この部分は、刻時性の概念とは多少異なっている)。相続は刹那と刹那の連続ということである。刹那と相続が相依って、時間が成り立つ。刹那は転変(パリナーマ)を内在因とする。つまり、刹那のあるところには必ず、三徳(グナ)の転変がある。だから、一つの刹那ごとに全世界(真我以外の)が転変しているわけである。未来、現在、過去の刹那を通じて、転変が内在し、三時の刹那の相続するところへ、我々の覚(認識器官)によって、一定の長さの時間の観念が賦与せられる。これが、一分間とか一日とかいう通例の時間の長さの観念である。このヨーガ的時間論が、アビダルマ仏教(筆者註:部派仏教、所謂小乗仏教)の、刹那滅恒随転の思想に非常に近いものであることは、誰しも気付くところであろうが、ウッズ氏(J.H.Woods)の意見によれば、この時間論は仏教と勝論派(バーイシェーシカ)の時間論の中間に位置し、ジャイナ教の時間論に近い、ということである。・・・
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以上の通り、ヨーガの時間論はチッタの転変と深く関わっている訳であるから、全く同じではないにせよ、念々起滅や心生滅といった概念との類似性は認められると言って良いと思う。次に、このチッタの転変に就いて説明したくだりを本書から紹介する(P250)。

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・・・それでは、現実の心理的諸現象である五つの心理作用の本体(根基)とされるチッタ(心)はどのような仕方で展開するのか? 展開を意味する語はサンスクリットではパリナーマという。この語は仏教で転変と訳しているので、ここでも転変という語を使うことにしよう。さて転変と言う語は「形を変える」「その現れ方を変える」という意味であって、今まで存在しなかった新しいものが創造されることを意味してはいない。もとからあったものが、新たに顕われ出るということである。転変とは、サーンキャ哲学の因中有果論(結果は全て質料因の中に潜在していたという理論)の線で理解される限りにおいて、我々の展開という語と同義である。この立場からいえば、無から有は生ぜず、生ずるものはすでに存在していたものであって、転変とは要するに可能態から現実態に移ることを云うのである。
さてチッタの転変のメカニズムはどうかというと、その基盤になっているのは世界の根源たるプラクリティ(自性)を構成する三つのグナ(徳)である。かの三つのグナの相互間のダイナミックな関わり方の変化に応じて転変するというのがその実体である。グナは今日のことばでいえばエネルギーであってダイナミックな性格をもっているから、三つのグナ相互間の関わり方も、その間の力関係の変化に応じて各瞬間ごとに休みなくダイナミックに変化してゆく。従って転変は刹那ごとに休みなく行われているのである。だから、現実経験の内容はたえず変化してゆく不安的極まる状態にある。ある状態が一時的に安定しているように見えたとしても、それは刹那ごとの転変が同一の様相を呈しているに過ぎないのである。
サーンキャ・ヨーガの哲学における転変の一般的なメカニズムを理解するには、三様の転変ということを知らなければならない。この場合、転変の基礎となる実体のことを有法すなわち「法(ダルマ)の所有者」という。法の主体の意味である。法の所依または依体のことだといってもよい。この実体が現象態として顕現するのに三様の転変が必要である。三様の転変というのは法(ダルマ)、時間的位相、様態の三つである。物心両面にわたる一切の事象はこの三様の転変によって始めて出現することができる。この三転変の意味内容を判り易い比喩を以って説明しよう。
譬えを陶器に借りよう。材料の粘土は有法すなわち実体である。有法としての粘土そのものは如何なる形にも現れない。粘土が一つの土団子の形で陶工によって取り上げられたとすれば、土団子は既に一定の形をなしているから、有法そのものではないのである。さて陶工がこの土団子をロクロにかけて一個の壺の形に仕上げたとすれば、それは粘土の顕われ方が土団子から壺へ変ったということである。これが粘土の法転変といわれるものである。しかし実をいうと、土団子も壺も法転変だけでは現象しないのである。粘土が我々の経験のなかで土団子や壺として姿を顕すには、未来、現在、過去の三つの時間関係の中で、未来の位置を捨てて現在の位置を取り上げなければならない。これが時間的位相の転変とよばれるものである。ところが現実に泥団子や壺が顕現するにはもう一つの条件がある。それは現在時の位相を保ち、現に壺の形をなしている陶器も刻々に古びてゆき、形を変えつつあるということである。これが様態の転変である。サーンキャ・ヨーガの哲学からいえば、プルシャ(真我)以外の存在はすべて三グナから成り立っているから、一刹那といえども転変から離れられないのである。ところで、上記の三様の転変は別々に行われるのではなくて、同時に相関連して行われるから、実際は一つの現象についてはただ一つの転変があるだけである。そして我々が実際に経験するのは様態としての事象に他ならない。転変とは要するに有法のなかの潜在性が現在性に転ずることである。・・・

以上述べたような転変の理論はチッタ(心の実体)から雑多の心理現象が展開するメカニズムにも当てはまるのである。前にあげた五つの「チッタの作用」は因中有果論的な発想の下では、それまで潜在していたものが機会を得て顕在的になったと考えられなければならない。心理作用は意識の表面に瞬間ごとに現れては消えて行く現象の連続なのである。従って一々の作用にはそれぞれ有法(実体)たる潜在的原因があるわけであるが、それは直ちにチッタそのものではない。一々の作用の潜在的原因は行(サンスカーラ)とか薫習(ヴァーサナ:習気とも訳されている)とかよばれるものである(筆者註:第15章④心の構造を参照)。チッタはこれら無数の行や薫習の依りどころとなるものである。単に場所的な意味で依りどころなのではなくて、行や薫習が作用として発現するにはチッタが自己展開(転変)して、それらの作用の内在因として働くことが必要なのである。行等はチッタが自己展開する場合の助因に過ぎないのである。だからチッタについては転変ということがいえるが、行や薫習については転変とは言えないのである。・・・チッタは自性と作用の中間に介在して、作用のような刹那滅(瞬間的)の存在ではなくて、解脱に達するまで普遍に永続する存在であるから、チッタと行等との関係も主因(形相因を含んだ質料因)と助因の関係とみることができるのである。
それではチッタが転変(自己展開)して心理作用を発現するにはどんな手続きを経るのか? この問題に答えるには、チッタと作用と行の三者の間の関係を明らかにしなければならない。作用の根源であるチッタが転変して作用を発現する場合に助因の役目をするのが行と薫習であることはすでに述べた。ではその助因としての働きはどんなものかといえば、チッタが転変して行を発現する仕方を規定し、特殊化する役割をするのである。先に説明したように、ヨーガ・スートラの考え方に従えば、一般にある質料因、従って内在因である実体が特定の結果を発現する場合の関係は法(現象)と有法(実体)の関係としてとらえられている。この二つのことばは論理学上では主辞と賓辞、存在論上では実体と属性の関係を表しているが、ヨーガ・スートラでは因中有果論の立場から、実体と実体が現象した形とを意味している。実体が特定の形に限定されて現象した形が法なのである。法と有法との関係は相対的である。それで、バーシャ註は、行をチッタの法と規定し、次いで雑念や死滅などの作用を行の法と規定している。従って、作用はチッタからいえば法の法つまり孫分の法ということになる。このチッタ→行または薫習→作用という転変は瞬間ごとに行われ、それと同時に時間的位相の転変と様態の転変の二つの転変が行われている。
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ここで著者は、「一々の作用にはそれぞれ有法(実体)たる潜在的原因があるわけであるが、それは直ちにチッタそのものではない。一々の作用の潜在的原因は行(サンスカーラ)とか薫習(ヴァーサナ:習気とも訳されている)とかよばれるものである」と書いている。これが何を意味しているのかを、もう少し深く考えてみたい。第15章④心の構造でも触れたが、著者は本書において、サンスカーラを構成している三つの主たる要因は、業(カルマ)、煩悩(クレーシャ)と薫習(ヴァーサナ)であると言う。その部分を再度引用する。

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ヨーガ哲学の考え方によると、行(筆者註:サンスカーラ、‘ぎょう’と読む)はチッタ(心)の大地に眠っている種子である。種子というのは今日のことばでいえば、潜在的可能性であって、時期が来ればチッタの力を借りて隠れた状態から顕わな状態に転換するのである。この種子すなわち潜在的可能性は無始の過去生からの堆積であって、無限に多くあるが、大別して三種とすることができる。業(カルマ)と煩悩(クレーシャ)と薫習(ヴァーサナ)である。つまり行はこれらの三種から成っていて、これら無眼に続いた過去生の遺産がチッタをがんじがらめにしているから、そのままでは輪廻転生のくさりはいつまでも断ち切れないのである。輪廻のくさりを断ち切るには、これらの行の力を弱め、そしてそれから発現する結果を抑止するところのヨーガの修行が大切である。
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つまり、我々が見ている世界は、心が念々起滅して投影している世界である。そして、その現象は、心が転変することによって生じている訳であるが、それはサンスカーラ(行)の影響に基づいて示現している世界であり、それが我々の人生(運命)ということになる。以前筆者は、本ブログ第15章⑩運命で、芥川龍之介の「運命は性格の中にある」という言葉を引用したが、サンスカーラ(業や煩悩なども含めた心の潜在的傾向)を「性格」という一つの言葉に置き換えると、まさに芥川の言葉は、正鵠を射ていたことになる。ということで、本稿は転変という概念の説明のつもりが、我々の運命論で締め括ることになった。

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