アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第17章 ヨーガ・スートラ ⑱無想三昧

2012-08-17 06:08:15 | 第17章 ヨーガ・スートラ
前稿の⑰有想三昧に続き、無想三昧の説明である。先ずは、『インテグラル・ヨーガ』からの引用である。

「Ⅰ-18  心の作用の完全停止が確固不抜に修められることによって、後に残るのは印象
 [サンスカーラ、行]のみとなる。これがいま一つのサマーディ、【アサムプラジュニャー
タ・サマーディ、区別なき三昧】[無想三昧]である。」

「サムプラジュニャータ・サマーディの段階ではまだ、そこに埋もれている種子が、相応の機会を得て心レベルの意識に進入し、人を現世的経験に引きずり込む可能性を持っている。従ってわれわれは、前述の四つの段階を経て、更に、我―意識がなく、過去の印象の種子も無害化される、アサムプラジュニャータ・サマーディへと進まなければならない。この状態には、意識だけがあって、他には何もない。これが達成されると、個は完全に解放され、現世に戻って翻弄を受けることは二度とない。彼は、この世にあるように見えるが、そこに巻き込まれていない。彼にとってこの世はただの影であり、彼はそこからまったく自由である。それが解脱した人である。だが彼は、この世から歩み去ったのではなく、死んだのでもない。そういう人が“ジーヴァン・ムクタ”[生前解脱者]と呼ばれる。彼は生きながらにして解き放たれているのである。」

「したがってあなたは、先ず自然(プラクリティ)を完全に理解し、それを自らの制御下に導き、その後でそれを捨てて解き放たれるのである。人はよく、そうしないと捕縛されてしまうと考えて、森や洞窟に隠遁することでこの世を捨てようとする。だがそのようにしたところで、決して自然から自由になることはできない ― 我々はどこへも逃げ隠れすることはできない、どこまで行こうと自然はついて来るのだから。それを理解し、それを正しく操作して、乗り越える意外に道はない。だからサムプラジュニャータ・サマーディ(筆者註:有想三昧)の四つのヴァリエーションがすべて修められねばならないのである。そうすれば、次のアサムプラジュニャータ・サマーディはたやすく理解される―プラクリティを理解すれば、それを払い落して自分自身を見るために内を向く事が出来るから。そして結局自分は<自己>なのだと、つまりプラクリティの中に巻き込まれているかのようにみえていた自由なプルシャなのだと、知るのである。」

「Ⅰ-19  単に物質的身体を去って天界の神格たる状態に到った者、或いは自然[自性]
 に没入した者には、再生がある。」

「サムプラジュニャータ・サマーディ(有想三昧)をいくらか修めて後死んだらどうなるのか? あなたはその恩恵の全てを失ってしまうのだろうか? 『否』とパタンジャリは言う。自然に対する或る種の支配力を得ると、解放の最高段階に達しないままに身体を去ることがあっても、あなたは引き続き自然の統御者となる方向に進み続ける。そのような人々をヴィデハと呼ぶ。」

「たとえば、まだ自然のより精微な要素に進み入ってはいないが、粗大な要素は修得しているという場合 ― 。あなたは自然の粗大な要素の支配者(マスター)となる。又、もしサアスミター・サマーディを行ずる段階で止まったとすれば、自然の非常に深いところまで到達しているので、あなたは自然の支配者となる。そういう人々はシッダ・プルシャ、つまりいろいろな現象を統率する神々 ― ヒンズーの呼称に従えば、インドラ神、ヴァルナ神、アグニ神等々 ― と呼ばれる。しかし、そのいずれになろうとも、彼らは更に学び続けて解脱するために戻ってこなければならない。彼らは、一時的に自然から離脱してはいるが、最終学位を得るために“大学に入り直さなければならない”わけだ。学位の取得に関心があるならば、たとえ一時的に大学を離れてはいても、またそこに戻ってこなければならない。プラクリティがその“大学=University(universeには天地万有の意味がある)”というわけだ。その人は、ある段階まで行って高きに住まう者となり、自然を統御する。しかし欲望と執着の種子がまだ残っている。彼は完全には解放されていない。それで残りの課業を終了して学位を得るために戻ってくる。それが、『神々でさえ人間にならねばならない』(筆者註:『』は筆者が追加。本ブログ第15章⑧神々の存在を参照)と言われる理由である。解脱する可能性があるのは人間のレベルにおいてのみなのだ。神々とは、やや進化が進んで自然を統御するようになり、そうした統御によって天界において或る種の愉楽を享受する人間のことであるにすぎない。彼らはその後、戻ってこなければならない。こうした往来は、彼らが欲望の種子を焼き尽くして、自分自身を知ることによって完全な解脱に到るまで続く。」

「Ⅰ-20  その他の者[ヨギたち]は、堅信、努力、念想、三昧、叡智をとおして、
このアサムプラジュニャータ・サマーディを得ることができる。」

「これらは、第Ⅱ章でパタンジャリがヨーガの修練法を更に進めて論ずるときに出てくるもののうちのいくつかである。簡単に言うと、信念或いは少なくとも勇気が無ければならない。二度と世俗の轍に落ち込まないように、自分の犯した全ての過ちと、学びとった教訓をいつも忘れないようにしなければならない、ということだ。そしてもちろんそこには、彼が終始言い続けているように、サマーディと、最終的には“悟り”、つまり実在(<自己>)と非実在(プラクリティ)についての識別がなければならない。」

「Ⅰ-21  強い熱情をもって修練する者には、これ【アサムプラジュニャータ・サマーディ】
 は非常にすみやかに来る。」

「Ⅰ-22  成功のために要する時間はさらにまた、その修練が緩和であるか、中位で
あるか、非常に熱烈であるかによって、異なる。」

「Ⅰ-23  神【イシュヴァラ】への完全な帰依によっても【サマーディは達成される】。」

「成功を得る為にはもう一つ道がある。それはイシュヴァラ・プラニナーダ、即ち“神への献身”である。パタンジャリの云う<イシュヴァラ>とは、至上意識 ― 個別神ではない至上の魂 ― の意味である。・・・」

尚、イシュヴァラ・プラニナーダに就いては、既に本章⑩で説明済みなので、そちらも参考に願いたい。

つまり、有想三昧と無想三昧の間には、どうやらとてつもない隔たりがあるようである。天上の神々ですら、この隔たりを跳び越える為には地上に再生しなければならないというスワミ・サッチダーナンダの主張がそれを裏付けている。そして、その際ポイントになるのが (1)欲望の種子を焼き尽くすことであり、無想三昧をもたらすものが、(2)三昧の境地で叡智を得ること、(3)強い情熱を持ってサーダナを行じること、そして(4)神への献身などであると言う。

ところが、 (1)の“欲望の種子”とはサンスカーラに残っている残存印象であり、これは我々がいくら有想三昧を行じても消すことはできない、というのが前稿⑰の結論であったし、Ⅰ-18でもサンスカーラ(この中には、カルマや煩悩が含まれる)は未だ残っていると明言している。と言うことは、先ずは無想三昧に到達することができなければ、(1)の“欲望の種子”を焼き尽くすことは出来ないのであるから、これは解脱する為の前提条件であっても、無想三昧に到る前提条件ではないということになる。

換言すると、どうやら無想三昧に到ることに依る以外、解脱(高次のアセンション或いは真我実現)への道は無いということをヨーガ・スートラは言っているのであるが、その為には、上記の(2)、(3)、(4)に依って、無想三昧に到る努力をし、そこで初めて(1)の“欲望の種子”を焼き尽くすという手順になる。ところがここで、筆者の頭に浮かんだ一つの重要な疑問がある。それでは、クンダリニ昇華はどこで起きるのだろうかという点である。つまり、それは無想三昧の手前で起きるのか、無想三昧の後に起きるのか、という疑問なのであるが、不思議なことにヨーガ・スートラに於いてクンダリニ昇華はどこでも論じられていないようである。

実は、この問題は一年程前、筆者が未だサマーディに様々な階梯があることを知らない時期に、本ブログ第14章⑭‘初めてのサマーディ’で論じている点でもある。その部分を以下に再掲する。

◇◇◇
ところで、自己実現に到る道程としてサマーディが先か或いはクンダリニ覚醒が先か、筆者は明確な解を持ち合せていなかったが、いずれもそれ無しに自己実現(大悟解脱)はあり得ないと断言できるほど重要なマイルストーンである。ところが『ババジと18人のシッダ』(以下、同書)を読み返していたところ、“クンダリニの覚醒と修行の諸段階”という、この点に関連する記載があったので引用しておきたい(一部は既に以前引用済みで重複も有るかも知れない)。

「クンダリニを覚醒させる前の段階において、イダーとピンガラーの両ナーディ(筆者註:背骨の両脇を垂直に通っている気脈)の浄化と、チャクラやスシュムナー(背骨に沿って流れる気脈)の覚醒を実現するためには、様々な技法を段階的に実践することが極めて重要である。これを怠ると、困難な問題や否定的な影響が生じるからである。もしクンダリニが覚醒する以前にチャクラが開いていないと、エネルギーの流れがいずれかのチャクラにおいて滞ってしまい、そのチャクラに結び付く行動様式が増幅されることになる(12章⑥参照)。・・・こうした事態は、結果的に数多くの性的・神経症的な問題を生む。同様に重要なことは、チャクラを徐々に目覚めさせることである。チャクラが余りに急速に覚醒すると、人は激情、恐怖、不安、貪欲、憂鬱、過去世の記憶などに圧倒されてしまうであろう。この為に、クンダリニ・ヨーガの実践の第一段階においてすべきことは、アーサナ、バンダ、ムドラー、そして後にプラーナヤーマの実践によってナーディを浄化することである。またヨーガの実践者は菜食をして、いかなる刺激物(筆者註:酒、タバコなどを指すと思われる)の摂取も避け、イダー、ピンガラーの両ナーディを交互に通過するプラーナの流れに不均衡を生じさせる過食、不規則な食事、否定的な態度を避けるべきである。」

「瞑想を実践することは、この段階にあるヨーガの実践者が、自身の否定的な傾向を取り除いて、穏やかな気付きを得ることを助ける。ババジのクリヤー・ヨーガにおける第一番目の瞑想法(筆者註:第一イニシエーションで伝授される)は、旧来の性癖や否定的な態度の根源である“チッタム”即ち潜在意識の浄化に焦点を当てている。更にプラーナの流れを上位のチャクラに上昇させるためには、他者への無私の奉仕、聖者の生活や霊的・形而上学的な事柄を題材とする書物の研究、更には、献身的な活動を初めとする諸活動に携わることも大切である。」

「準備の第二段階に於いてはチャクラの覚醒を行う。・・・チャクラを覚醒させる方法は数多くある。最も望ましいのはチャクラを徐々に覚醒させる方法である。こうした方法に、アーサナ、ムドラー、バンダ、ビージャ・マントラがある。チャクラに焦点を当てた瞑想法にも大きな効果がある。・・・」

「準備の第三段階では、スシュムナー・ナーディを覚醒させる。イダー、ピンガラーの両ナーディのエネルギーを均衡させると、第三のナーディであるスシュムナーの覚醒は自動的に起きる。しかし通常これは一時的で散発的な覚醒となる為に、この状態を定着させる為には、イダーとピンガラーの両ナーディのエネルギー・バランスを保つ為に、呼吸法や瞑想法などからなる特定の技法を実践することが重要になる。・・・イダーとピンガラーの均衡が持続しているときにのみ、クンダリニは爆発的な勢いで目覚めて、スシュムナー経由でサハスラーラ・チャクラへと到るのである。」

「チャクラが覚醒すると心地よい体験や、時には創造を超えるような体験が次々と起こる。多くの場合、これらは非常に美しく至福にみちた体験となる。このような体験はいつでも起こり得る。チャクラの覚醒に伴って、性器、肛門、臍、心臓、額等のチャクラに対応する肉体の部分に熱や冷たさを感じることもある。こうした体験が起きたならば、それは“タパス”、すなわち長期にわたって集中的にヨーガを実践することが、その人にとって望ましいことを教えている。ヨーガを集中的に実践する場所は、ヨギ、聖者、賢人またはシッダによるヨーガの修行によって浄化された所で無ければならない。」

「・・・クンダリニの覚醒にはいくつかの段階がある。初期の段階においては、一般的に眉間のセンター、即ちアジュニャー・チャクラに大いなる光を見るようになる。これは長い時間をかけて徐々に起こる。心は以前よりも静まって食欲が減退する。イダーとピンガラーの両ナーディの均衡がとれて、何日間も持続して両鼻孔から同時に呼吸をするようになる。そしてついにクンダリニが上昇すると、それは電気ショックのような爆発的な勢いで脊柱の基底部から頭頂部のサハスラーラ・チャクラにまで上昇する。・・・」

「一旦クンダリニ体験が安定してくると、ヨーガではサマーディ(三昧)、仏教ではニルヴァーナ(涅槃)と呼ばれる普遍的な愛のビジョン、強烈な至福感、そして自己実現を体験する。この状態においては、呼吸や心拍が数時間からときには数日間も停止することがある。この状態にある人は死んでいるように見えるが、もし瞼を開けてみれば、その人の眼がプラーナのエネルギーによってダイヤモンドのような輝きを放っていることが判るだろう。サマーディの状態にある人は、ことの次第を知らずに埋葬や火葬を望む家族や公的機関から守られる必要がある。もしサマーディに入ってから21日以内に意識が現実に戻らない場合には、肉体に意識を戻すことを本人に優しく促すべきである。・・・」
◇◇◇

引用は以上である。既に気付いた方も居るかと思うが、ここでゴヴィンダン師(『ババジと18人のシッダ』の著者)が論じているサマーディは有想三昧ではなく、明らかに無想三昧のことを指しているものと思う。というのも、このサマーディを体験している行者は、数時間から数日間というもの、呼吸、場合に依っては心臓すら止まり、殆ど仮死状態になっていることを示しているからである。しかも、行者は自己実現を体験すると書いてある。ということは、結論として無想三昧に到る為には、(イ)先ず有想三昧を究めること、(ロ)次にチャクラを開くこと、(ハ)スシュムナーを開くこと、そして(ニ)クンダリニ昇華という過程を経るということになりそうである。筆者の場合、これらの内、(イ) 、(ロ)、 (ハ)を達成する為の数々の技法は既に第三段階のイニシエーション迄で伝授されているので、後は自身の努力に加えて、グルであるババジの恩寵により、(ニ)を達成出来るかどうかが、無想三昧到達への最後の鍵になりそうだ。

蛇足ながら、本章⑯‘サマーディの階梯’において引用したヨーゲシヴァラナンダ師の言う“善性優位のサマーディ”とは、この無想三昧に相当するものと筆者は考えている。

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