アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第15章 心と意識 ⑪沈黙の教え

2011-12-13 20:05:44 | 第15章 心と意識
「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉は日常会話では殆ど使われることがなく、筆者の記憶では中学校の漢字の書き取り帳に出て来て、読み方が変わっているので、意味は良く判らないながら、丸暗記した記憶がある。今改めてこの言葉を辞書で調べると、「禅宗の根本的立場を示す語であり、悟りの内容は文字や言説で伝えられるものではないということ。仏の教えは師の心から弟子の心へ直接伝えられるものであるという以心伝心の境地を表したもの」と書いてある。この辺りの事情は、本ブログ第14章⑦空海の風景、及び⑧最澄と空海を読んで頂いても、或る程度お判り頂けるものと思う。

ところで、ラマナ・マハルシ(以下、同師)の『あるがままに』(デーヴィッド・ゴッドマン編、以下同書)を読むと、グルによる「沈黙の教え」というテーマが大きく取り上げられ(ラマナ・マハルシは沈黙によって弟子を教え導いていたと言われている)ているが、これも言わば、不立文字という意味に近い概念だと思われる。つまり、同師やラーマ・クリシュナのような天才は別格として、あのパラマハンサ・ヨガナンダですら、シュリ・ユクテスワによって導かれたのであり、まして常人が悟りを開く為の修行を志す場合には、やはりどの宗教に於いても、その教えの精髄を学ぼうとするとき、書物や単なる言葉ではなく、グルの指導や臨在が非常に重要な意味を持つということを改めて考えさせられたからである。以下、同書第9章から関連する部分を引用していく。

「シュリー・ラマナは誰の質問にも喜んで言葉を用いた教えを与えたが、かれの‘沈黙の教え’がより直接的で、より強力であることをたびたび指摘してきた。この‘沈黙の教え’は、彼の臨在から放たれる霊的な力から成り立っている。この力が非常に強力であるため、彼はそれを彼の教えの最も直接的で最も本質的な相を成していると見なした。そのため、心をコントロールするための言葉による指導を与える代わりに、彼は努力なしに自然に放たれる沈黙の力によって、周囲にいる者たちすべてのこころを自動的に静めたのだった。この力に波長を合わせた人たちは皆、内なる平和と至福の状態を体験したとして伝えている。また、ある熟達した帰依者たちには、真我の直接体験さえもたらしたと言われている。」

「インドでは、この教えの方法は古くから伝わる伝統的なものだ。その最も高名な代表的人物はダクシナームールティである。彼はシヴァ神の化身であり、四人の学識高い賢者に対して、沈黙の力を通して真我の体験を与えたのだった。シュリー・ラマナは多大な賞賛と共にダクシナームールティについてたびたび語っており、この章の多くの会話の中でも彼の名前はしばしば現れてくる。」

「グルから放たれるこの沈黙の力は、真我あるいはグルの姿に注意を集中させている人ならだれでも受けとることができ、距離がその効果を妨げることはない。このように注意を払うことはサットサンと呼ばれ、逐語的には‘真理との交わり’を意味している。シュリー・ラマナはこの修練の実践を心から奨励しており、これが真我の直接的体験をもたらす最も効果的な方法であると頻繁に語ってきた。伝統的には、それは真我を実現した人の身体的な臨在のもとに在ることを意味している。しかし、シュリー・ラマナはそれをより広く定義し、サットサンの最も重要な要素はグルとの精神的なつながりであり、師の臨在の中だけではなく、いつであれ、どこであれ、師を想うときにサットサンは起こっていると説いた。」

以下、関連する質問と同師の回答を引用していく。

質問者  なぜバガヴァーン(筆者註:シュリー・ラマナ即ち、同師のこと)は広く人々に真理を説いてまわらないのでしょうか?
マハルシ なぜ私がそうしてはいないと思うのかね? 真理を説くことは、教壇に上がって人々に向かい、熱弁をふることだろうか? 真理をとくこととは、ただ知識を伝授することである。本当の意味においてそれがなされるのは、ただ沈黙によってだけである。一時間もの説教を聞いたあとで、人生を変える程の感銘も受けずに立ち去って行く人のことを考えてみなさい。その人と、賢者の神聖な臨在のなかに坐り、人生に対する見地が完全に変わってしまった人とを比べてみるがいい。何の効果もなく、大声で説教するのと、沈黙の中に坐り、内なる力を送るのとどちらが優れているだろうか?いったいどのようにし て話す言葉が起こるのだろうか? まず、そこには抽象的知識がある。そこから自我が現れ、その自我から想念が起こる。そしてその想念が話す言葉として現れるのである。つまり、言葉は本来の源泉のひ孫にあたる。言葉がいくらかの効果を生み出せるとすれば、沈黙から真理を説くことがどれだけ強力であるか、自分で判断してみるがいい。

質問者  バガヴァーンはディークシャー(イニシエーション)を授けるのでしょうか?
マハルシ マウナ(沈黙)は最高の、そして最強のディークシャーである。これはダクシナームールティによって実践されてきた。触れること、見ることなどによるイニシエーションは順位の低いものである。沈黙による伝授は全ての者のハート(筆者註:この場合のハートは真我を指しているものではない)を変えてしまう。・・・

ここで同師は大変重要な点に触れて居る。つまり、グルとは肉体として現れているその人を指すのではなく、神或いは真我と同義だとしている。

質問者  恩寵はグルからの贈り物ではないでしょうか?
マハルシ 神、恩寵、グルは皆同義語である(第14章⑥恩寵としての神を参照)。それらは内在する、永遠なるものである。真我は既に我々の内側に存在しているのではないだろうか? それはグルの眼差しによって与えられるようなものだろうか? もしグル自身がそう考えて居たとしたら、彼はグルと呼ばれるに値しない。・・・グルの臨在の内に在るときに個人という実体を探しだそうとすると、どこにも見出せない。グルとはそのような存在である。ダクシナームールティとはそのような存在である。彼は何をしたのだろうか? 弟子たちが現れた時、彼は沈黙を守って居た。彼は沈黙の内にとどまり、弟子の疑いは一掃された。それはつまり、彼らが個人としてのアイデンティティを失ったからである。これこそがジニャーナであり、通常それ(筆者註:ヴェーダに記載された数々のイニシエーションを指す)にまつわる冗漫な儀式のことを言うのではない。沈黙は最も強い影響力をもっている。いかに聖典が広大で力強いものであっても、その効力は無に等しい。グルは静寂の内にあり、周囲のすべてを平和で包み込む。彼の沈黙はすべての聖典をひとつにしたものよりも更に広大で力強い。・・・

質問者  この沈黙の力はどのように作用するのでしょうか?
マハルシ 言語は人の想いを他の人に伝達するための媒体にすぎない。それは想念が現れたあとにのみ呼び起こされる。「私」という想念(本章②参照)が立ち現れた後に、他の想念は続く。それゆえ、「私」という想念が全ての会話の根源と言えよう。思考の無い状態にとどまるとき、人は沈黙という普通の言語によって他者を理解するのである。沈黙は絶えず語っている。沈黙は話すことによって妨げられてきた絶え間ない言葉の流れである。私が今こうして話しているこれらの言葉が、その沈黙の言語を妨げている。

質問者  バガヴァーンは「ジニャーニの影響は沈黙の内に帰依者の心のなかに忍び込む」と言われました。また、「マハートマ(偉大な魂)と接触をもつことは、本来の自己を実現するために有効な方法である」とも言われました。
マハルシ そうだ。何か矛盾があるだろうか? ジニャーニ、偉大な魂、マハートマ -あなたは彼らを区別するだろうか?
質問者  いいえ。
マハルシ 彼らと接触をもつことは良いことである。かれらは沈黙を通して働くだろう。話すことによって彼らの力は減少してしまう。それゆえ、心のつながりが最も良いものである。

そして、ここで同師は、沈黙の教えは必ずしも誰もが享受できるものでは無いと言う。以下のコメントは、以前引用した「弟子の準備が整うとグルが現れる」という言葉とも関連している。

質問者  誰もがこの沈黙から恩恵を受けるのでしょうか?
マハルシ 沈黙は真の教えである。それは完全な教えである。それは最も熟達した探求者にのみ相応しい。他の者にとって、それから完全なインスピレーションを引き出すことは不可能だ。それゆえ、彼らは真理を説明する為の言葉を必要とするのである。だが、真理は言葉を超えている。それは説明を許さない。言葉に出来ることは、ただそれを指し示すだけである(筆者註:これこそ不立文字ということであろう)。

質問者  マハートマが帰依者を見るだけで十分であり、偶像崇拝や巡礼などにそれほどの効果は無いと言われています。私がここに来て三カ月経ちましたが、マハルシによって見られたことで自分がどのような恩恵を受けたのかわかりません。
マハルシ グルの眼差しには浄化作用がある。その浄化を目で見ることはできない。石炭を発火させるには長い時間が必要であり、木炭であれば短い時間ですむ。火薬であれば発火は瞬時に起こるだろう。マハートマのもとを訪れる人の段階もそれと同じである。智慧の炎はすべての活動を燃やし尽くす。賢者との交際(サットサン)、あるいは彼らとの精神的接触によって、智慧は培われるのである。

質問者  弟子が何の努力もしないのに、グルの沈黙が実現をもたらすこともできるのでしょうか?
マハルシ 偉大な師の臨在のなかで、ヴァーサナー(本章②心の構造を参照、薫習のこと)は活動をやめ、心は静まり、サマーディが起こる。こうして弟子は、師の臨在のなかで真の智慧と正しい体験を得るのである。その中に揺るぎなく留まるには、更にいっそうの努力が必要となる。最終的に、弟子はそれが彼の真の本性であることを悟り、生きながらにして解脱を得るだろう。

質問者  グルの近くに在ることは助けとなるのでしょうか?
マハルシ あなたは身体的な近さを意味しているのだろうか? それが何の役に立つというのだろう? ただ心だけが重要なのだ。心がグルとの繋がりを持たなければならないのである。サットサンが心をハートの中への沈みゆくように助けるだろう。グルとの交際は精神的と身体的なものの両方である。はっきりと目に見えるグルが探求者の心を内側へと押し入れる。グルはまたハートの中にも存在し、彼の内面に向かう心をハートの中へと引き入れるのである。

質問者  私が知りたいことは、サットサンが本当に必要なことなのか、そして私がここに来ることが私の助けとなるのかどうかということだけです。
マハルシ まずサットサンとは何なのか、ということを明らかにしなければならない。それはサット或いは真理との交わりを意味する。真理を実現した人もまた真理であると見なされている。そのような真理との交わり、或いは真理を知る人との交際は絶対的に必要である。この三界のなかで、サットサンのように誕生と師という輪廻の大海を渡り、我々を安全に運んでくれる船は他にない、とシャンカラ(第13章⑤シャンカラの不二一元論を参照)は言っている。

同書からの引用は以上であるが、佐保田鶴治先生の『解説ヨーガ・スートラ』にも、生きた(肉体を持った)グルに出会うことはインドにおいてすら極めて難しいと書かれている。又、マーシャル・ゴーヴィンダン師もSRFを辞してヨーギー・ラマイヤに師事することを決めた時、「ブラザー・モクシャナンダ(彼はヨガナンダの死後数カ月後にSRFに来た人である)は私宛の返事の中で、生けるグルの存在が如何に貴重であるかについて述べていた。」と書いている(第14章⑪参照)。
因みに、ババジのクリヤー・ヨーガ(第12章⑦参照)に於けるグルは、ババジ御自身(第12章⑤参照)であると言われている。ヨガナンダやゴーヴィンダン師のように、いつかババジ直接の御指導を受けること、それが筆者の夢である。

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