本稿は聖書の引用から始めたい。マタイによる福音書、第4章1節からである。
「1 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。」
「2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。」
「3 すると試みる者が来て言った、『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパン
になるように命じてごらんなさい』。」
「4 イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る
一つ一つの言葉で生きるものである』と書いてある」
「5 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて」
「6 言った。『もしあなたが神の子であるなら、下へ飛び下りてごらんなさい
“神はあなたのために御使いたちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけ
られないように、彼らはあなたを手で支えるであろう”と書いてありますから』。」
「7 イエスは彼に言われた、『“主あるあなたの神を試みてはならない”とまた書いてある』」
「8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世の全ての国々とその
栄華とを見せて」
「9 言った、『もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたに
あげましょう』。」
「10 するとイエスは彼に言われた、『サタンよ、退け。“主なるあなたの神を拝し、
ただ神にのみ仕えよ“と書いてある』」
「11 そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使いたちがみもとに来て仕えた。」
聖書においてはイエスが経験した悪魔からの誘惑をこのように記しているが、確か仏典においても釈迦が悟りを開く直前の状態においても、悪魔の誘惑が有ったとの逸話が残っている。ところがスートラにおいても同様に、修行が進み、前稿に記したシッディ(超能力、或いは霊能)を得ることが出来た時点で、心の中に欲望の種子が未だ残っていると、悪魔の誘惑に屈して取り返しのつかないことになる可能性を示唆している。関連するスートラを『インテグラル・ヨーガ』から引用する。
「Ⅲ-51 それ【=これら全てのシッディ】に対してさえ無執着であることにより、
束縛の種子が破壊され、かくしてカイヴァリア【独存】の状態が顕現する。」
「それは、これら全てのシッディ(超自然力)は実にすばらしい、しかしそれらは我々を縛る、という意味である。それはシッディが心の所産であるからだ。欲するのは心なのだ。それは、あれもモノにしたい、これもモノにしたい。何のためにか? それを誇るためだ。それが自我(エゴ)を育てる。それが“私”と“私のもの”を大きくする。つまりそこにはまだ利己的な欲望がある。もしあなたが幽体飛行(アストラル・トラベル)や千里眼や天耳通のようなシッディを求めているならば『それはなぜか?』とわたしは聞きたい。あなたは、『ええ、それでわたしは人々を助けることができるだろうと思うのです』と答えるかも知れない。私は、それはただの言い訳だと思う。あなたはあることができることを人に示したいのだ。あなたはそれを誇りたいのである― 」
「ではシッディは悪なのか? だとすればどうしてそんなものがあるのか― ? いや、それらは悪くはないのだ。それはすばらしい。それらは善である。だがそれはどういうときだろう? それらの方があなたのところへ来るときである。あなたがそれらの後を追いかけるときは、それらは悪い。それだけの違いである。シッディに来させよ。 そして、『何かお手伝いさせていただきたいのですが・・・・』と乞わせよ。そのときそれらはすばらしい。もしもあなたがそれらを追い求めず、それらを切望しないならば、それらは“あなたのもの”ではない。彼らがあなたを、“彼らのもの”にしたい、あなたと共にいてあなたに仕えたい―そういうときにはそれらは良いのだ。―だから『聖書』の中にもそういう力のことが出てくるのである。『全てがあなたのもとに来るだろう』と。そしてそれはどういうときか? あなたが神の国を求めるときである。『汝、まず天国を捜し求めよ。そのとき、その他の全てが汝に加えられるであろう―』。 それらを一つずつ追いかける必要はない。ボスになれば何もかも手に入るのだから。小さな仕事(もの)を追いかける必要はない。それはこうした“ヴィブーティ”や“シッディ”に限ったことではなく、美や金銭や権力や科学的知識など、何でもだ。こうしたものの全てが、今や恐るべきものになりつつあり、そのために世界は恐怖におののいている。それはなぜか? 我々が先ず天国を求めないからだ。<神>とは何か? 平和であり、足るを知ることであり、エゴの無いことだ ― 。 だから、シッディが悪いのではない。それらは<神>の力、<神>の探求の副産物である。それらをあなたの後についてこさせよ― 」
「心がそれほどまでに清らかで静穏となったとき ― そのときこそあなたはそれらを、あなたの自我のためにではなく、良い目的の為にうまく扱うことができるようになる。そのときあなたは、『私にはこれができる、あれができる』と言って自分の太鼓を打ち鳴らさなくなるだろう。シッディはそんなことの為にあるのではない。だからパタンジャリは、科学者として、事実は事実として学ぶ者の前に示さなければならないから、これらのことをはっきりと説明しているのである。だがそれは、そういうシッディを獲得せよと奨励しているのではない。それがパタンジャリのいいところだ。彼は何も隠さない。そして『これらは全て間違いなく起こり得る。しかしそれらを追い求めるな。でないとあなたはそれらによって傷つくかもしれない。それらにあなたの後を追わせよ』と言うのである」
ここでは明確に‘魔境’と言ったことに言及していないが、続いて次のスートラである。
「Ⅲ-52 ヨギは天人からの称賛といえどもこれを受容するべきではなく、慢心の笑み
さえ浮かべるべきではない。再び望ましくないものに捕捉される恐れがあるからである。」
残念ながら、このスートラに対する説明は、『インテグラル・ヨーガ』において省略されているので、佐保田鶴治先生の、『解説 ヨーガ・スートラ』(以下、同書)から、Ⅲ-51への解説と併せ紹介しておきたい。因みに、後者においては、節の番号が何故か一つずつずれているのでご注意願いたい。
「Ⅲ-50 このような優れた霊能に対してさえも喜びの心を抱かなくなった時に、全ての
悪の根が絶たれて、真我独存の状態が実現するのである。」
「前記の離憂自在力(筆者註:Ⅲ-50節に説明されている全ての世界の支配者たる力と、一切の事象を知る力で、まさにキリストが悪魔から持ちかけられた最高の霊能)に対してすら、それを喜び、それに執着する心を抱くならば、真我の独存という目的を完遂することはできない。何故かといえば、弁別智といえども、やはり、サットヴァの徳の一現象態に過ぎないからである。それをさえも捨て去る時に、かえって、自性転変の目的が完了し、根本自性への還元運動が起こり、真我は究極的に三徳(筆者註:トリグナのこと)から離れる。つまり、最後の勝負を決するのは智ではなくて離欲である(Ⅰ-51参照)。離欲がなければ、いかなる自在力も解脱の妨害になる(Ⅲ-37参照)ばかりである。ここで悪と言うのは、煩悩のことである。Ⅳ-29にはこの至上離欲によって法雲三昧(筆者註:無想三昧の最高の境地)が生ずるとある。」
「Ⅲ-51 たとえ高位の神霊からの誘いをうけても、愛着と誇りとを抱かないことが
大切である。さもないと、再び不吉なことが起こるから。」
「高位の神霊は人間が解脱を得ることに嫉妬を抱くといわれる。それで、天女の美しさや、不老長寿の神丹などでヨギを誘惑する。この誘惑に負けて、それらに愛着や誇りを感ずると、元の状態へ堕落してしまうのである。仏陀が悟りを開く前に魔王の誘惑や脅迫を受けた話は有名である。註釈家によると、この神々の誘惑を受けるのは、ヨギの四階級の中、下から第二の階級の地位にあるヨギだと言う。」
更に、同書の279頁には次のようにも書かれている。
「以上のような超自然的な心霊能力が真剣なヨーガ修行者に約束されているが、しかし、これらの心霊能力は必ずしもヨーガの究極目的たる解脱に結び付くものではない。これらの超能力のすばらしさに眩惑されて、それらの力の行使に有頂天になると、折角の三昧は挫折してしまうことになる。だから、スートラⅢ-37にはこれらの超能力は雑念に捉われている人間にとっては素晴らしい霊力であるが、三昧の境地に達したヨーガ行者にとっては修行の障害になると説かれている。仏教でこういう超自然的な現象を魔事とか魔境とかいうのと同じ趣向である。解脱を開く最後の鍵は何といっても離欲の法なのである(スートラⅠ-15、Ⅲ-50、Ⅲ-51)。」
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「1 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。」
「2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。」
「3 すると試みる者が来て言った、『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパン
になるように命じてごらんなさい』。」
「4 イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る
一つ一つの言葉で生きるものである』と書いてある」
「5 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて」
「6 言った。『もしあなたが神の子であるなら、下へ飛び下りてごらんなさい
“神はあなたのために御使いたちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけ
られないように、彼らはあなたを手で支えるであろう”と書いてありますから』。」
「7 イエスは彼に言われた、『“主あるあなたの神を試みてはならない”とまた書いてある』」
「8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世の全ての国々とその
栄華とを見せて」
「9 言った、『もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたに
あげましょう』。」
「10 するとイエスは彼に言われた、『サタンよ、退け。“主なるあなたの神を拝し、
ただ神にのみ仕えよ“と書いてある』」
「11 そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使いたちがみもとに来て仕えた。」
聖書においてはイエスが経験した悪魔からの誘惑をこのように記しているが、確か仏典においても釈迦が悟りを開く直前の状態においても、悪魔の誘惑が有ったとの逸話が残っている。ところがスートラにおいても同様に、修行が進み、前稿に記したシッディ(超能力、或いは霊能)を得ることが出来た時点で、心の中に欲望の種子が未だ残っていると、悪魔の誘惑に屈して取り返しのつかないことになる可能性を示唆している。関連するスートラを『インテグラル・ヨーガ』から引用する。
「Ⅲ-51 それ【=これら全てのシッディ】に対してさえ無執着であることにより、
束縛の種子が破壊され、かくしてカイヴァリア【独存】の状態が顕現する。」
「それは、これら全てのシッディ(超自然力)は実にすばらしい、しかしそれらは我々を縛る、という意味である。それはシッディが心の所産であるからだ。欲するのは心なのだ。それは、あれもモノにしたい、これもモノにしたい。何のためにか? それを誇るためだ。それが自我(エゴ)を育てる。それが“私”と“私のもの”を大きくする。つまりそこにはまだ利己的な欲望がある。もしあなたが幽体飛行(アストラル・トラベル)や千里眼や天耳通のようなシッディを求めているならば『それはなぜか?』とわたしは聞きたい。あなたは、『ええ、それでわたしは人々を助けることができるだろうと思うのです』と答えるかも知れない。私は、それはただの言い訳だと思う。あなたはあることができることを人に示したいのだ。あなたはそれを誇りたいのである― 」
「ではシッディは悪なのか? だとすればどうしてそんなものがあるのか― ? いや、それらは悪くはないのだ。それはすばらしい。それらは善である。だがそれはどういうときだろう? それらの方があなたのところへ来るときである。あなたがそれらの後を追いかけるときは、それらは悪い。それだけの違いである。シッディに来させよ。 そして、『何かお手伝いさせていただきたいのですが・・・・』と乞わせよ。そのときそれらはすばらしい。もしもあなたがそれらを追い求めず、それらを切望しないならば、それらは“あなたのもの”ではない。彼らがあなたを、“彼らのもの”にしたい、あなたと共にいてあなたに仕えたい―そういうときにはそれらは良いのだ。―だから『聖書』の中にもそういう力のことが出てくるのである。『全てがあなたのもとに来るだろう』と。そしてそれはどういうときか? あなたが神の国を求めるときである。『汝、まず天国を捜し求めよ。そのとき、その他の全てが汝に加えられるであろう―』。 それらを一つずつ追いかける必要はない。ボスになれば何もかも手に入るのだから。小さな仕事(もの)を追いかける必要はない。それはこうした“ヴィブーティ”や“シッディ”に限ったことではなく、美や金銭や権力や科学的知識など、何でもだ。こうしたものの全てが、今や恐るべきものになりつつあり、そのために世界は恐怖におののいている。それはなぜか? 我々が先ず天国を求めないからだ。<神>とは何か? 平和であり、足るを知ることであり、エゴの無いことだ ― 。 だから、シッディが悪いのではない。それらは<神>の力、<神>の探求の副産物である。それらをあなたの後についてこさせよ― 」
「心がそれほどまでに清らかで静穏となったとき ― そのときこそあなたはそれらを、あなたの自我のためにではなく、良い目的の為にうまく扱うことができるようになる。そのときあなたは、『私にはこれができる、あれができる』と言って自分の太鼓を打ち鳴らさなくなるだろう。シッディはそんなことの為にあるのではない。だからパタンジャリは、科学者として、事実は事実として学ぶ者の前に示さなければならないから、これらのことをはっきりと説明しているのである。だがそれは、そういうシッディを獲得せよと奨励しているのではない。それがパタンジャリのいいところだ。彼は何も隠さない。そして『これらは全て間違いなく起こり得る。しかしそれらを追い求めるな。でないとあなたはそれらによって傷つくかもしれない。それらにあなたの後を追わせよ』と言うのである」
ここでは明確に‘魔境’と言ったことに言及していないが、続いて次のスートラである。
「Ⅲ-52 ヨギは天人からの称賛といえどもこれを受容するべきではなく、慢心の笑み
さえ浮かべるべきではない。再び望ましくないものに捕捉される恐れがあるからである。」
残念ながら、このスートラに対する説明は、『インテグラル・ヨーガ』において省略されているので、佐保田鶴治先生の、『解説 ヨーガ・スートラ』(以下、同書)から、Ⅲ-51への解説と併せ紹介しておきたい。因みに、後者においては、節の番号が何故か一つずつずれているのでご注意願いたい。
「Ⅲ-50 このような優れた霊能に対してさえも喜びの心を抱かなくなった時に、全ての
悪の根が絶たれて、真我独存の状態が実現するのである。」
「前記の離憂自在力(筆者註:Ⅲ-50節に説明されている全ての世界の支配者たる力と、一切の事象を知る力で、まさにキリストが悪魔から持ちかけられた最高の霊能)に対してすら、それを喜び、それに執着する心を抱くならば、真我の独存という目的を完遂することはできない。何故かといえば、弁別智といえども、やはり、サットヴァの徳の一現象態に過ぎないからである。それをさえも捨て去る時に、かえって、自性転変の目的が完了し、根本自性への還元運動が起こり、真我は究極的に三徳(筆者註:トリグナのこと)から離れる。つまり、最後の勝負を決するのは智ではなくて離欲である(Ⅰ-51参照)。離欲がなければ、いかなる自在力も解脱の妨害になる(Ⅲ-37参照)ばかりである。ここで悪と言うのは、煩悩のことである。Ⅳ-29にはこの至上離欲によって法雲三昧(筆者註:無想三昧の最高の境地)が生ずるとある。」
「Ⅲ-51 たとえ高位の神霊からの誘いをうけても、愛着と誇りとを抱かないことが
大切である。さもないと、再び不吉なことが起こるから。」
「高位の神霊は人間が解脱を得ることに嫉妬を抱くといわれる。それで、天女の美しさや、不老長寿の神丹などでヨギを誘惑する。この誘惑に負けて、それらに愛着や誇りを感ずると、元の状態へ堕落してしまうのである。仏陀が悟りを開く前に魔王の誘惑や脅迫を受けた話は有名である。註釈家によると、この神々の誘惑を受けるのは、ヨギの四階級の中、下から第二の階級の地位にあるヨギだと言う。」
更に、同書の279頁には次のようにも書かれている。
「以上のような超自然的な心霊能力が真剣なヨーガ修行者に約束されているが、しかし、これらの心霊能力は必ずしもヨーガの究極目的たる解脱に結び付くものではない。これらの超能力のすばらしさに眩惑されて、それらの力の行使に有頂天になると、折角の三昧は挫折してしまうことになる。だから、スートラⅢ-37にはこれらの超能力は雑念に捉われている人間にとっては素晴らしい霊力であるが、三昧の境地に達したヨーガ行者にとっては修行の障害になると説かれている。仏教でこういう超自然的な現象を魔事とか魔境とかいうのと同じ趣向である。解脱を開く最後の鍵は何といっても離欲の法なのである(スートラⅠ-15、Ⅲ-50、Ⅲ-51)。」
このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。