アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第17章 ヨーガ・スートラ ⑯サマーディの階梯

2012-08-03 06:37:52 | 第17章 ヨーガ・スートラ
実はこれまで2-3カ月の間、このサマーディをどう説明すべきか色々と思いを巡らせてきた。若しかしたら、6月末から参加するケベック(アシュラム)でのヨーガ・インストラクターの養成コースに参加すれば、そこでクンダリニ覚醒或いはサマーディのより深い境地など、新たな体験が出来るかも知れないなどと内心密かに期待していたのであるが、ギーターに書いてある通り、何事に対しても期待を持って臨んではいけないということを、身をもって体験することになってしまった。

ところで、『“サマーディ”を知る者は“サマーディ”を語らず、“サマーディ” を語る者は“サマーディ”を知らず』という言葉がある。“サマーディ”というのは、己の知性までもが真我*に埋没してしまう至高体験(*普通ヨーガでは‘根本自性’への埋没と言われる)であり、その段階で心は止滅し、知性も事実上働いていないのであるから、その状態を言葉で表現出来ないのはその通りなのであろう。しかし、そう言い切ってしまったらこの先話は進まない。そこで筆者が思い着いたのは、言葉でその体験を説明することはできないが、映画の場面であれば“それ”を指し示すことが出来るかも知れない、ということである。

『2001年宇宙の旅』はスタンリー・キューブリック監督の名作であり、映画ファンならずとも、一度でも見たことがある人であれば一際強く印象に残っているものと思う。或る意味では問題作と言っても良いかもしれない。とにかく究めて難解な作品であり、筆者は40年程前、高校生の時にこの作品を鑑賞した記憶があるが、その時は何を言わんとしているのか全く判らなかったし、正直なところ、今だにあのモノリスが何を意味しているのかを自信を持って答えることは出来ない。然しその後二度ほど鑑賞し、最近になって、あの映画の主題は、人類の進化と輪廻転生のことなのであろうと気付いた。 その理由の一つ(あくまでもヒントであるが)は、バックに流れている音楽、『ツァラトゥストラはかく語りき』である。これは哲学者ニーチェの主著であり、その説いているところは永劫回帰と超人思想である(最も永劫回帰は輪廻転生と同じ意味ではないというのが通説のようであるが、全く同じ概念ではなかったとしても、当時輪廻転生が全面的に否定されていた欧州キリスト教社会において、文献学者でもあるニーチェが輪廻転生にヒントを得て考え出した概念に間違いは無いと思う。又ニーチェの言う“超人”は修行の後覚醒を経てシッディを獲得した者、即ち“シッダ”と略同様と考えて良いと思う)。そしてもう一つのヒントは、最後にボーマン船長が木星に辿り着き、そこで時間を超越して輪廻を体験している場面である。
ところで、それがサマーディとどのように関係しているのかという事であるが、その木星に辿り着く直前にボーマン船長は、眼の前から広がって来る光の中に溶け込んで行くような体験をし、その顔も眼を見開いて何か未知のものを体験しているような表情になっている。その場面を読者諸賢は記憶しているだろうか? 若し筆者がこれまで体験した中で、最も深いサマーディの境地に入って行く時の状況を説明せよと言われたら、そのシーンのボーマン船長のような状態になっている可能性が高いと答えるのが一番判り易いと思う。但し、サマーディにも本稿の主題にある通り、様々な段階があるようなので、筆者がこれまでに体験した最高の境地と、スタンリー・キューブリック監督が示そうとした、ボーマン船長があのスクリーンの中で体験している状態が同じものであるという保証はどこにもない。

閑話休題、本稿のタイトル「サマーディの階梯」であるが、一口にサマーディといってもそれには幾つかの段階がある。例えば、『魂の科学』において、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダは次のように説いて、サマーディをおおまかに三つの段階に分けている。

「ところで、三昧の境地は一体何段階に分かれているのか、ということについては多くの聖者達の間でも意見の分かれるところですが、ヨーガの権威ある経典であるパタンジャリ著述のヨーガ・スートラによれば、三昧境は六種類に分類できるとされています。 ヨーガ派やサーンキャ学派によれば、無相の根本自性とは善性、動性、暗性といった三種の徳性の調和がとれた状態にある根本自性である、と言われていますが、この世のあらゆる事物は、この無相の根本自性が転変することで生じてくるのです。この事からして、この世のあらゆる事物は、全てその内部に三種の徳性を具えていると言えるわけです。従って、あらゆる客体に関する知識もやはり、三種の徳性(グナ)の影響下におかれ、心素(筆者註:チッタのこと)や理智もそれら徳性の影響下にあって、事物が生じる原因とか結果とかを明らかにしてゆきます。しかし、こうした徳性の影響下にある心素や理智であっては、真我や生命原理を明らかにすることはできかねます。心素や理智の内部で、どの徳性が優位に立っているかによって、三昧もその徳性の影響を受けてきます。ですから、三種の徳性に影響されて、三昧も以下の如くに三種に分類されます。」

以上のように述べて、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダは、三昧を暗性優位、動性優位、善性優位の三種に分けて解説している。夫々の詳しい説明は省くが、注目すべきは、暗性優位の三昧に就いてのコメントである。

「暗性優位の三昧境では、心素は生命のないもののように空虚なものになってしまいます。ですからこの境地にある時、私達の意識は二時間から十二時間も虚ろなままでいることもありますし、修行を積むことでどんな長い時間でも、そうした状態でいることもできるようになります。この状態は、言わば深く寝入ってしまったようなものだと言うことが出来ると思います。暗性優位の眠りに就いている時のように、この境地においては、重要な智識とか役に立つような経験をするとかいうことが全くありません。・・・ところが行者の多くは、この境地を無種子三昧とか無分別三昧と呼んでいますが、それは誤りです。そして、人によっては、どんな種類の三昧境でもそれが三昧境である限り、善性優位の三昧という最高の境地であると誤って信じていますが、事実は決してそうではありません。・・・導師につかずに自分ひとりで修行を続け、心素の働きを抑制しようとしている者は、殆どの場合、この暗性優位の空虚な三昧境に入ってゆきます。・・・実に三十年もの間、私はこの空虚三昧にしか入ることができませんでしたが、この三昧の境地では、解脱が実現される何の兆しをも見出せなかったのです。その後、先にも述べたように、私はアムリッツァーからヒマラヤ山中のガンゴトリへと向かったのでした。その途上、私は神の恵みにより聖師に会遇し、真智を授かることができたのでした。智慧と分別とが得られる三昧によってでなければ、解脱を目指す探求心は満足させられないのです。」

つまり、ここでのポイントは、(1) 導師につかず、一人で修行を続けていると暗性優位の三昧(空虚三昧)に陥り易いことと、(2) 暗性優位の三昧をいくら長い間続けても、更にその上の境地を目指さない限り解脱には到らないということであり、逆の言い方をすれば、真剣に悟りの境地を目指す者は‘正師’に就いて修行を積むことが重要であることを説いたものとも受け取れよう。

因みに、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダは暗性優位に続く、動性優位の三昧の手始めに有分別三昧(サヴィカルパ、有想三昧)を上げているので、ここからヨーガ・スートラの記述(後述予定)と一致することになる。又、筆者が第三段階のイニシエーションで伝授された、サマーディに到る為の三つの技法の中の最初のものは、やはりこのサヴィカルパに対応している(少なくもそのように名付けられている)ので、どうやら筆者がそこで経験している(少なくも筆者はそのつもりでいる)境地は、暗性優位の三昧ではなく、その先にある動性優位のサヴィカルパであるようだ。 

それでは、ヨーガ・スートラにすら記載の無い、暗性優位の三昧とは一体どのようなものなのだろうか、との疑問が湧いてくるものと思う。これはあくまでも筆者の推測であるが、それはヨーガ・ニドラー(ヨーガの休息)のことを指すのではないかと思う。ババジのクリヤー・ヨーガにおいて、この技法は第二段階のイニシエーションで伝授されるものであり、以前本ブログにて解説済みであるが、一部修正の上以下に再掲する。

ヨーガの休息に関してであるが、これは『ババジと18人のシッダ』において、ヨーガ・ニドラーとして次のように説明されている。

「“ヨーガの休息”と訳される“ヨーガ・ニドラー”の実践は、通常の睡眠を不要にする。ヨーガの教えによると意識には次の4つの状態がある。

1.肉体意識:日常的な活動に従事しているときの意識
2.夢の意識:アストラル体での体験や、目が覚めた状態でメンタルな活動に従事して
  いるときの意識。
3.夢を見ない熟睡時の意識。
4.純粋意識:“トゥーリヤ”と呼ばれる、先の3つの意識を超えた第4の意識。
  他の意識の源であり、永遠にして歪みのない無限の意識。

ヨーガ・ニドラーの実践によって、この第4の意識状態に至ることができる。ヨーガ・ニドラーを実践するためには、瞑想の実践を充実させることが必要である。また、深い休息の状態に至るためには、全ての欲望、感情、思考を分析・解明する必要がある。肉体が眠る一方で意識が完全に目覚めている“ヨーガの休息”は、一般的な睡眠とは異なる。これによって得られる休息の質は瞑想によって得られる状態にも勝るものである。潜在意識も休息を必要とするが、潜在意識を含む意識の全体に休息を与えることができるのは、瞑想とこのヨーガ・ニドラーである。睡眠においては自覚の状態が失われてしまう。また瞑想は熟睡時の意識状態の維持を目的として行われるものではない。この意味において、“ヨーガの休息”は瞑想時の意識状態とも異なっている。ヨーガ・ニドラーの実践を通して、ヨーガの実践者は4つの意識状態の違いを学ぶことができる。ヨーガ・ニドラーの実践方法は、前述の“スピリチュアル・リトリート”(筆者註:第二段階のイニシエーションのこと)において示される。」

尚、このヨーガ・ニドラーの意識状態である「第四の意識」に就いては、本ブログの第15章⑥においても説明しているので参照されたい。

今回はこれまでとし、次稿は愈々スートラの中でも最も難解と思われるサヴィカルパ・サマーディ(有想三昧)及びその上位にあるサマーディの解説に挑みたい。

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