アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第17章 ヨーガ・スートラ ⑰有想三昧

2012-08-10 09:30:22 | 第17章 ヨーガ・スートラ
前回は『魂の科学』から、サマーディにはトリグナに応じた三種のサマーディがあるというスワミ・ヨーゲシヴァラナンダの説を引用しつつ、その内の‘暗性のサマーディ’(スートラには記載が無い)は、ヨーガ・ニドラー(ヨーガの休息)を指すのではないかとの自説を展開した。

一方、筆者は第三段階のイニシエーションにおいて、サマーディに到る技法を三種類伝授されている。それらは、第14章⑭“初めてのサマーディ”において技法A,B,Cとして簡単に紹介しているので、詳しくはそちらを参照して頂きたいが、参考までにそれらの技法の名称を改めて紹介しておきたい。

技法A:サヴィカルパ・サマーディ(有想三昧に相当)
技法B:ジョティ・ソルバ・サマーディ
技法C:ニルヴィカルパ・サマーディ

因みに、上記の3つの技法を行う場合は事前にプラーナヤーマを十分に行う必要があり、かなりの時間を要するので、筆者は第三イニシエーションを伝授された昨年の夏以降暫くは週末にのみ練習していたが、心境が思うように深まらない為、半年程まえから毎朝練習することにした(その分アーサナの練習時間を半分に短縮した)。その結果それなりの成果があり、これら3種類の技法によってもたらされる境地が異なることを‘それなりに’識別できるようになった。ここで‘それなりに’と敢えて書いたのは、通説では本物のサマーディは数時間に亘って呼吸が停止するものだと書かれているのに対し、筆者の呼吸停止は未だケーヴァラ・クンバカの域を出ていないからである。しかし、技法Cを練習していると、体が硬直してきて息ができなくなってくる、或いは殆ど何も考えることが出来なくなってくる状態を時々自覚できるので、もしかしたら本物までもう一息の処まで行っているのかも知れない。

それでは、ヨーガ・スートラにおいては、これらのサマーディをどのように分類しているのであろうか? 実は、以前本章③‘ヨーガ・スートラの構造’で解説した通り、スートラの著者は複数居るようで、その分類の仕方も複数あるのでだが、取敢えず本ブログでは有想三昧(サムプラジュニャータ・サマーディ)と無想三昧(アサムプラジュニャータ・サマーディ)を二回に分けて説明して行きたい。

先ずは有想三昧に就いての経文を、『インテグラル・ヨーガ』から引用する。

「Ⅰ-17 サムプラジュニャータ・サマーディ【区別ある三昧】[有想三昧]には、論証性[尋]、
反射[伺]、歓喜[楽]、および純粋な我-性[我想]が伴う。」

「パタンジャリは第一部門冒頭部にヨーガ論を掲げた。そしていよいよここからは、サマーディと呼ばれるその最終的な実修、つまり三昧[定]とそのヴァリエーションについて述べることになる。パタンジャリはここに来て、徹頭徹尾科学的である。彼は、ヨーガを厳正な科学とみなし、実修の全側面とその支脈を余すところなく示す。自らの発見のあらゆる側面を知悉して解説することは、科学者の義務である。たとえば科学者が薬剤の化学式を発表するときには、その正しい使用法を述べると同時に、適切に用いられなかった場合に起こり得る反作用についても説明しておかねばならないように。」

「もしあなたは、“サマーディ”を今すぐ修めたいと思っているならば、サマーディは集中と瞑想が完成した後でなければ可能とはならないということを知っておくべきである。そのときの心は、一点集中を得て完全な制御下に置かれていなければならない。サマーディを修めるためには心の全てが用いられねばならないからだ。」

「これと次のスートラでパタンジャリは、二種類のサマーディすなわち、サムプラジュニャータ・サマーディ[有想三昧]とアサムプラジュニャータ・サマーディ[無想三昧]について述べている。パタンジャリはこのサムプラジュニャータ・サマーディを四つに分けているが、それを理解するためにはまず、彼の云う<自然>すなわち<プラクリティ>[自性]の構成を知っておかねばならない。彼によれば、<プラクリティ>もまた、四つに分けられる。それらは、(1)ごく粗大なものである物質、(2)タンマートラと呼ばれ、究極的には可視的具体物として現れる精微な要素、(3)心(チッタ)、そして、(4)自我つまり個別性、である。従ってサマーディは、先ず(1)粗大な対象について修められ(サヴィタルカ・サマーディ)[有尋三昧]、次いで(2)精微な要素に就いて(サヴィチャーラ・サマーディ)[有伺三昧]、次に(3)それ自身の喜び以外を対象としない心、換言すれば、サットヴァ(明澄)的な心について(サアーナンダ・サマーディ)[有楽三昧]、そして最後に(4)“私”という意識のみについて(サアスミター・サマーディ)[有我想三昧]修められる。このように段階的に進むのは、最初からいきなり精微なものを観想することはできないからだ。つまりはじめは、心の焦点を何か具体的なものの上に定める訓練からとりかからねばならないわけだ。」

「心の焦点が具体的な対象の上に定まったとき、それはサヴィタルカ・サマーディ[有尋三昧]と呼ばれる。この時点ですでに心は十分な制御下に置かれているということを覚えておこう。焦点のはっきりと合った心がある対象を観想すると、それは瞬間的に対象の内奥を貫き、その理解は微細な分子の一つ一つにまで至る。焦点の定まった心には力があり、そのような力に満ちた心がある対象に集中すると、対象についての全知識がその心に啓かれる。このような事実を見るとき、物質を探って原子力を発見した科学者はサヴィタルカ・サマーディを行じていたのだということが良く判る。彼は実利的であり、知ることを欲した。そして心の全てをそれの上に集中した。ゆえにこそ、物質のかくも微細な粒子までもが、彼の前にその姿を現したのだ。 そうした知識の獲得には、原子に対する支配力の獲得も含まれる。サヴィタルカ・サマーディとはそういうものである。従って、この三昧から得られる利益は、三昧対象に内在する秘密と力の理解である。・・・このサマーディが正しい倫理的背景を持たぬままに修されるならば、危険な結果が生まれるだろう。しかしパタンジャリは科学者としてどうしてもそれを説明しておかねばならなかったのだ。」

「次はタンマートラ[唯]、即ち精微な要素の観想である。ここでは、見られるべき具体的な対象がない。例えば、白とか赤、或いは愛とか美などのような抽象的なものの観想である。“赤さ”とか“愛”などは、抽象であるがゆえに、普通の人間にとっては具体的な対象物の助けがないと理解できない。だが、具象の観想と理解が十分に行われたならば、その心は具象なくして抽象を理解する能力を得る。従ってあなたは、時間・空間をも超越する。これがサヴィチャーラつまり“反射を伴う”サマーディ[有伺三昧]である。更に識別や反射のない、より精妙な段階へと進む。ここでは知性は使われず、あなたはただ、静かな心そのものを観想する。サアーナンダ・サマーディ[有楽三昧]すなわち、“至福のサマーディ”と呼ばれるその中で、あなたは喜びを得る。そこには喜びがあるだけで、論証性[尋]も反射[伺]もない。」

「そして第四のサマーディには、そのアーナンダ[歓喜]さえもなく、ただ個の意識があるだけである。あなたは“私―であること”を観想する。あなたはそこにいるだけで、それ以外の何ものも意識しない。それはサアスミター・サマーディ[有我想三昧]と呼ばれ、“我―性”を伴っている。それがいったいどのようなものなのかを心に思い描くのは不可能なことだが、少なくとも理論的な理解だけは試みておこう。サアスミター・サマーディでは、心の中にまだサンスカーラ[行]が種子の形で残っている。そこでは“私”が意識されているだけとはいえ、心の中には依然としてサンスカーラが埋もれている。」

「サムプラジュニャータ・サマーディは、内に向かうプロセス、つまり、展開(進化)ではなく回帰である。始原において、世界即ち<プラクリティ>は、非顕現すなわちアヴィアクタであった。それが顕現を開始すると、先ず自我が現れて、個別性と心が現れる。次いであなたは、心からタンマートラに入り、それから粗大なものへと赴く ― 。 それが自然(プラクリティ)の進化展開である。ヨーガの瞑想の中で我々は、その逆の回帰を経験する。― それは、“創造と破壊”と呼んでもいいだろう。だが実際にあなたの中で何かが創造されたり破壊されたりするわけではない。『バガヴァッド・ギーター』が、“非顕現のものが顕現としての現れを見せる、そして非顕現に帰る”と言っているように・・・・・。我々が外界に見るのは顕現したものであり、中間的な存在である。それが、我々が創造物と呼ぶところのものである。だから、ヨーガでは何にせよ“<神>が創造した”とは言わないのである。ヨーガは、“<神>とはただ純粋な意識である”と言う。そしてそこにはまた<プラクリティ>というものもあり、その本質は展開し、後に溶解するものであると言う ― 」

「未顕現の状態の<プラクリティ>は、ちょうど火と熱のように不可分のものであり力である。火がなかったら熱はなく、熱がなかったら火はない。自然が非顕現の状態にあるときは、その力は潜勢的・静的である。ちょうど、発電機が回っていなければ電気が生じていないように。だが、モーターが回転し始めるやいなや、それは電気を発生する ― 」

「この力すなわち“プラーナ”は、“グナ”と呼ばれる三つの性質から成っている。それらは、“サットヴァ”と“ラジャス”と“タマス”、即ち“清澄”と“活動”と“惰性”である。これらの三性が均衡を保っているときには、事は生じない。ところがグナに少しの乱れ(不均衡)があると、その乱れが運動を生み、それがあらゆる種類の形態を生む。全宇宙はそのようにして現れる・・・・・  空、大地、火、大気、その他全ての元素がそのようにして作られる。非顕現の<一者>が<それ自身>を徐々に展開させ、その極みに我々は、具体としての形態を見るのだ・・・・(註:<プラクリティ>の展開に就いては、本章②ヨーガとサーンキャ哲学を参照されたい。) 我々は今、サットヴァとラジャスとタマスがフルにスイングしている具体の世界にいる。我々はいつだって、たった今眼前にみえているものから手掛けていくしかない(既知から未知への遡行するのだ)。我々は既に知ってしまったことに対して眼を覆うことは出来ないし、逆に知らないものをふんだくって自分のものにすることもできない。だから心が集中して静かになったとき、その心に、観想の対象として、まず具体的なものが与えられるのである。そして、心がそれを理解し終えたら、次に精微なものへと進み、遂には始原に辿り着くまで、より精微なものへと深めて行く ― 。
<プラクリティ>を十分に理解しなかったら、我々はそれから脱することは出来ない。我々はそれを無視したり、棚上げにしておくことはできない。だから、まず第一にこの四つのサムプラジュニャータ・サマーディが、それも一つずつ修習されねばならないのである。」

「とはいえサムプラジュニャータ・サマーディにはやはり危険がある。それはどうしても修習されねばならないのだが、危険もさけて通れない。だからそれを修習する人は、純粋と無私によって自分自身の準備を整えねばならない。でないとその人は、新たに見出された力の危険をまとうことになるだろう。たとえば病人や障害のある人を癒したイエス・キリストの場合はどうだったか考えてみよう。彼はその力を他者の福利の為に使った。だが彼自身が十字架にかけられたときには、自らを救うためにはその力を決して使わなかった。このことは、そうした神秘的な力が利己的な目的の為に使われるべきではないことを示している。」

以上が本スートラに関する『インテグラル・ヨーガ』の解説であるが、非常に重要な経文なので、念のため佐保田鶴治先生の『解説ヨーガ・スートラ』の説明も引用したい。

「Ⅰ-17 三昧のうちで、尋、伺、楽、我想などの意識を伴っているものは有想と呼ばれる。」

「ここでは三昧も、ヨーガも止滅(ニローダ)も同じ意味に使われている。有想三昧は有想ヨーガと呼んでも良いのである。三昧は有想(サムプラジュニャータ)のものと無想(アサムプラジュニャータ)のものとに分けられる。有想の三昧は更に有尋、有伺、有楽、有我想と分けられる。経文Ⅰ-42以下では有想三昧を有種子三昧と名付け、これを有尋、無尋、有伺、無伺の四種に分けている。」

「この経文の四種の三昧は、精神の統一化が深まってゆく段階を示しているものであるが、第一段階たる有想三昧には、尋から我想までの四つの心理過程の全部が伴っているが、段階を登るに従って一つずつ減り、第四段階の有我想三昧に到ると我想だけが残っている。」

「尋とか伺とかいう訳語は仏教の用語を借用したのである。その中で尋は心の粗大な働き、伺は心の微細な働きとされているが、その間の区別を明確に決めることは難しい。インドの学者の中には、心の働く対象の方から区別して五大(五つの物質元素)と十根(五つの知覚器官と五つの運動器官)を対象とするのは尋で、五唯(物質元素の原因となる超感覚的、素粒子的な元素)と三内官(覚、慢、意という三つの心理器官)を対象にするのが伺であると説く人がいる。ヨーロッパの一学者は、尋をば推理したり論証したりする心理にあて、伺を直感の心理にあてている。仏教では尋と伺の代わりに覚と観という訳語を使うこともある。尋はあれこれかと尋ね求める心、伺は見当がついた所でこまかく伺察することであるとも説明される。そういう心理状態が消えて後の心地よい平和な心境が楽である。この楽の境地もなくなって、最後に我想だけが残る。我想は経文Ⅱ-6に純粋観照者たる真我と、認識の道具たる心理器官とが同一のものであるかのように思うことであると定義されている。しかし、今の場合は、少し違った意味で用いられている。ここでは、全ての雑念は消え去り、安楽の情緒も消えたが、尚、自分というものがある、という純粋な存在観念だけが意識面に照り映えている状態だと解するのが適当なようである。」

「このように、有想三昧には、瞑想の深まるに連れて色々な段階の心理状態があらわれるが、この一つ一つの状態を浄化して、次第に上の段階へと進んでゆくのが三昧の行であって、それらの一つに捉われるようなことがあってはならないのである。最後の段階の我想は非常に微妙な心理で、人間心理の最も奥深い底にかくれているが、定心が深まり、心が澄みきってくるにつれて、意識の表面へくっきりと浮かび上がってくる。これをも乗り越えた時に初めて解脱は得られるのである。全て、三昧の中途の段階で、安心したり、喜んだり、得意になったり、それに愛着を持ったりすることはおそるべき堕落の原因である。仏教ではこれを魔境と呼んでいる。これに就いては後に詳しく述べる機会があるだろう。」

以上を綜合すると、先ず有想三昧には四つの段階があり、粗大な対象物への観想から徐々に精妙なもの、延いては「我想」という境地まで進んで行く必要があるが、それでも未だ心の奥底に残っているサンスカーラ(行、即ちカルマや煩悩)を除いて(或いはヨーガでは‘焼き尽くす’という表現が良く用いられる)解脱に到ることは出来ない。しかも、この境地で慢心することは固く戒められているので、修行者はここに安住することなく、無私の態度を養いつつ更にその先の無想三昧の境地を目指して修行を続けなければならない。恐らく、筆者自身は未だこの辺りでうろうろしている段階なのであろう。引き続き修行を続け、更に心境が深まったことが自覚できたのなら、再度その時点でこのブログに発表したいものである。 

因みにこの有想三昧は、前回引用した『魂の科学』の著者、ヨーゲシヴァラナンダの云う“動性のサマーディ”に対応しているものと筆者は考える。心が未だ完全に動きを止めていないからである。

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