ここでいきなりⅡ章28節に跳ぶが、これは本章③「ヨーガ・スートラの構造」で説明した、まさに「違和感のある区切り」の個所である。即ち、Ⅱ章前半でクリヤー・ヨーガをその最終段階まで論じた後、パタンジャリはⅡ章途中の28節以降でヨーガの区分を改めてその基礎から論じており、同節で先ず
「ヨーガの諸支分を修練していくことによって次第に不純が消え、そこに明敏なる識別へと導く智が明け初める」
と述べたあと、29節でヨーガの八支分(アシュターンガ・ヨーガ)を述べ始めている。それらを箇条書きにすると、
1.ヤマ 【禁戒】
2.ニヤマ 【勧戒】
3.アーサナ 【座法】
4.プラーナヤーマ 【調気】
5.プラティアハーラ 【制感】
6.ダーラナー 【集中】 (筆者註:凝念とも云う)
7.ディヤーナ 【瞑想】
8.サマーディ 【三昧】
先ずはその第一に挙げられた禁戒であるが、これはヨーガの修行者のみならず、あらゆる宗教或いは人間社会において共通する道徳的、或いは倫理的な基盤と言える。しかし、真剣且つ完全に実行しようとすると極めて難しい。以下、『インテグラル・ヨーガ』(同書)から引用していく。
「30 ヤマ [禁戒] は、非暴力(アヒンサー)、正直(サティヤ)、不盗(アスティヤ)、禁欲(ブラフマチャリヤ)、不貪(アパリグラハ)よりなる。」
「さてヤマ [禁戒] すなわちアシュターンガ・ヨーガ(八支分のヨーガ)の最初の一支である。ここで忘れてはならないのは、これらの八支はいずれも同等に大切だということである。」
「“アヒンサー”は“苦痛を引き起こさないこと”である。註釈家の中にはこれを“不殺生”と訳す人もいるが、そうではない。“ヒンサー”は“苦痛を引き起こすこと”、したがってアヒンサーは苦痛を引き起こさないことだ―。苦痛を引き起こすことは殺すことよりも悪い場合がある。又、ことばや思いによっても、苦痛は引き起こすことができる。」
「“サティヤ”は“正直”、嘘を言わないことである。“アスティヤ”は“盗まないこと”を意味する。これらは大変初歩的(エレメンタリ)なことのように見えるが、実は巨大(エレファントリ)なことである。それらは、つまらないこととして軽視するべきではない。それらを完全にすることは並大抵ではない―。“ブラフマチャリヤ”は“禁欲”あるいは独身生活を守ることである。そしてヤマの最後には、“アパリグラハ”が来る。これには二通りの解釈の仕方がある。一つは、“物を貪らない、貪欲でない、適切に使うことのできる範囲を超えた蓄積をしないこと”である。もう一つの解釈は、“贈与を受けないこと”である―。これらの五つの原則がヤマ即ち禁戒を構成しているが、詳しいことは第35から39までのスートラで論じよう。」
ということなので、ここでは途中の第31から34までを端折り、第35節に跳ぶ。
「35 非暴力(アヒンサー)に徹した者のそばでは、すべての敵対が止む。」
「この第35スートラから始めて、パタンジャリは十の徳性の全てを一つずつ挙げていく。アヒンサーの戒行に徹すると、その人は調和的なヴァイブレーションを放射するので、その人のそばではすべての敵対が止む。たとえば二人の人間が互いに敵意を持ち合っていても、その人のそばにいると彼らは一時的にそれを忘れる。それがアヒンサーの功徳である。それが、一定期間続けて、思いと言葉と行為(意・口・身)において実行されると、人格全体がそのヴァイブレーションを発するのである。野生の動物でさえ、アヒンサーに徹した者のそばでは、その残忍性を忘れる。古いヒンズーの神話の中にそういう話があり、アヒンサーを守っている聖者や聖賢たちの住む森の中では、動物たちは空腹のときしか獲物を殺さなかった。それ以外の時は、牛と虎が仲良く並んで水を飲んでいた―。ブッダはそれを行い、高めた。彼は赴くところどこにでも平和と調和と友愛をもたらした。・・・」
「36 正直(サティヤ)に徹した者には、行為とその結果がつき従う。」
「正直の確立によってヨギは、彼自身と他者のために、事を為さずして事の成果に到る力を得る。言い換えるなら、物事がおのずから彼のもとへ来る―。 自然はすべて、正直な人間を愛する。正直な人間は物事の後を追う必要がない、なぜならそれらの方が彼の後を追うからだ。そしてある人が常に正直であるならば、つまりその口から一言の嘘も発されないならば、彼の言うことのすべてが現実となる時が来る。たとえ彼がふと口をすべらせた一言でも、それは現実となるだろう― それはサティヤの実行によってその言葉が純正で非常に強い力を持つようになるので、正直が彼を遵守するからである。・・・」
「正直が確立すると、恐れのない状態がやって来る。その人は誰を怖れる必要もなく、常に開かれた生活を送ることができる。嘘のないとき、その生活の全体が、開かれた書物となる。しかしそれは、絶対的に正直な心を持ってはじめた可能な事である。心が静かで澄んでいるとき、真の<自己>が損なわれることなく映りでて、我々は真理をありのままの姿で悟る― 」
「絶対的な正直というのは、方便としての嘘も言わないということである。正直であることによって問題が生じたり、誰かに困難や不都合が生じるならば、我々は沈黙を守るべきである。嘘をついて『私は知らない』といういのではなく、はっきり『私は知っているが言いたくない』と言えばよい。それは罪人をかばえという意味ではなく、自分自身も嘘をつくべきではないが、他人にも嘘をつかせるべきではないからである。・・・」
「37 不盗(アステヤ)に徹した者のところには、あらゆる富が集まる。」
「もしも世界一の富豪になりたかったら、これが非常に簡単な方法だ。株の売り買いに頭を突っ込む必要もないし、働きに行く必要もない。ただ不盗を実行せよ。我々は全て盗人である。知っていながら、或いは知らないうちに、我々は自然から盗んでいる。一瞬一瞬、一息ごとに、我々は自然からかすめ盗っている。―誰の空気を我々は吸っているのか? 自然のである。だからといって息をするのをやめて死ねと言っているのではない。そのかわり、一息一息を敬虔に受け取り、それを他者に奉仕するために使うのだ。そうすれば我々は盗んでいるのでなないことになる。・・・」
「もし我々が持てる物だけで満足し、盗みや貪欲とはまったく無縁で、静かな心を保ち続けているならば、すべての富が我々のもとへ来る。もし我々がそれらの後を追わなかったら、やがてはそれらが我々の後を追う。我々が貪欲でないことを自然が知れば、彼女は、我々が彼女をけっして独り占めしようとしているのではないと知って、我々を信頼する。」
「38 禁欲(ブラフマチャリヤ)に徹する者は、精力を得る」
「禁欲つまり独身生活を確立することで、我々はエネルギーを保存する。“ヴィーリャ”はエネルギーという意味で、“ラーバ”は利益である(筆者註:それぞれはサンスクリット語による本節末尾文字を仮名表記したもの)。ヴィーリャの損失がないと、生命エネルギーが増す。これを蓄えることで何が得られるかは、知っておく価値がある。我々はたびたび『愛し、与える』と称してこのエネルギーを浪費し、心的・肉体的に涸渇する。心的・肉体的に強くないと、我々は真の霊的富を得ることができない。」
「精液は我々の生命である。それは正しく保存されると多大なエネルギーをもたらす。それは身体に吸収されるとプラーナに変わる。女性においても、保存された性エネルギーはプラーナに変わる。真に人々を助け、良い人間関係を作ることを可能にしてくれるのは、この生命力である。多量のプラーナがなかったら、我々は誰にも何も与えることができない― 強いバッテリーは力を与えることができ、弱いバッテリーにはそれができないように。ブラフマチャリヤを守る中で、我々はこのエネルギーを確立する。・・・」
「禁欲を守ることによって我々は肉体的なエネルギーだけでなく、心的・道徳的な、そして最終的には霊的なエネルギーを保存することになる。保存された性エネルギーは“オージャス”と呼ばれる精妙なエネルギーに変わる。これは人格的な磁気のようなものである。それが人格全体を調整し、神経を鍛え、頭脳の力を増して、心を穏やかにする。・・・」
「39 不貪(アパリグラハ)が揺るぎないものとなったとき、自らの生の原因と様態が余すところなく照らしだされる。」
「“アパリグラハ”は、貪欲と秘蔵 ―それは盗みの一種である― を慎むこと、或いは贈与を受けないことである。人はよく、ただ将来の(相手の)義務を見越して贈り物をする。或る日誰かが贈り物を持ってやって来る、すると翌日電話がかかってきて、『あなたに贈り物をしたでしょう? そこで一つお願いがあるのですが・・・』。するとこちらはそうしなければならない義務を感じてしまう。税金逃れをしようとする仕事上の贈与は受け取らない。それは本当の贈り物ではないから。それはただ何かをお返しに受け取るために贈られただけなのだ。贈り物というのは、名声は金銭や宣伝のためではなく、ただ与えるためにのみあたえられるもののことである。」
参考までに『解説 ヨーガ・スートラ』は、39節を以下のように訳し、解説している。
「二・三九 不貪の戒行において不動心を得たならば、自分の転生のありさまを三世にわたって洩れなく知ることができる」
「仏教で阿羅漢の徳といわれる三明(さんみょう)、六通の中の三明(宿命通、天眼通、漏尽通)はここに説くところのシッディ(霊能)と似ている(三・一八参照)。 人は一般に自分の身体と欲望を満たす対象とに対する貪愛の情のために縛られて、常に心を外向きにはたらかせているから、真実智が顕れてこないのである。からだその他に対する貪愛の心がなくなって、無関心(筆者註:無執着或いは離欲)の心境つまりストア派のいうアパティアの境地に達した時に初めて正智を得ることができる。」
これらの禁戒はいずれも単純で初歩的なことのようであるが、この浮世を渡る上で、これらを守り通すことは殆どの人にとっては並大抵の決意では出来ないことだと思う。著者によればこの禁戒を確り守るだけでも人は超常的な能力(シッディ)を獲得することができるようである。
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「ヨーガの諸支分を修練していくことによって次第に不純が消え、そこに明敏なる識別へと導く智が明け初める」
と述べたあと、29節でヨーガの八支分(アシュターンガ・ヨーガ)を述べ始めている。それらを箇条書きにすると、
1.ヤマ 【禁戒】
2.ニヤマ 【勧戒】
3.アーサナ 【座法】
4.プラーナヤーマ 【調気】
5.プラティアハーラ 【制感】
6.ダーラナー 【集中】 (筆者註:凝念とも云う)
7.ディヤーナ 【瞑想】
8.サマーディ 【三昧】
先ずはその第一に挙げられた禁戒であるが、これはヨーガの修行者のみならず、あらゆる宗教或いは人間社会において共通する道徳的、或いは倫理的な基盤と言える。しかし、真剣且つ完全に実行しようとすると極めて難しい。以下、『インテグラル・ヨーガ』(同書)から引用していく。
「30 ヤマ [禁戒] は、非暴力(アヒンサー)、正直(サティヤ)、不盗(アスティヤ)、禁欲(ブラフマチャリヤ)、不貪(アパリグラハ)よりなる。」
「さてヤマ [禁戒] すなわちアシュターンガ・ヨーガ(八支分のヨーガ)の最初の一支である。ここで忘れてはならないのは、これらの八支はいずれも同等に大切だということである。」
「“アヒンサー”は“苦痛を引き起こさないこと”である。註釈家の中にはこれを“不殺生”と訳す人もいるが、そうではない。“ヒンサー”は“苦痛を引き起こすこと”、したがってアヒンサーは苦痛を引き起こさないことだ―。苦痛を引き起こすことは殺すことよりも悪い場合がある。又、ことばや思いによっても、苦痛は引き起こすことができる。」
「“サティヤ”は“正直”、嘘を言わないことである。“アスティヤ”は“盗まないこと”を意味する。これらは大変初歩的(エレメンタリ)なことのように見えるが、実は巨大(エレファントリ)なことである。それらは、つまらないこととして軽視するべきではない。それらを完全にすることは並大抵ではない―。“ブラフマチャリヤ”は“禁欲”あるいは独身生活を守ることである。そしてヤマの最後には、“アパリグラハ”が来る。これには二通りの解釈の仕方がある。一つは、“物を貪らない、貪欲でない、適切に使うことのできる範囲を超えた蓄積をしないこと”である。もう一つの解釈は、“贈与を受けないこと”である―。これらの五つの原則がヤマ即ち禁戒を構成しているが、詳しいことは第35から39までのスートラで論じよう。」
ということなので、ここでは途中の第31から34までを端折り、第35節に跳ぶ。
「35 非暴力(アヒンサー)に徹した者のそばでは、すべての敵対が止む。」
「この第35スートラから始めて、パタンジャリは十の徳性の全てを一つずつ挙げていく。アヒンサーの戒行に徹すると、その人は調和的なヴァイブレーションを放射するので、その人のそばではすべての敵対が止む。たとえば二人の人間が互いに敵意を持ち合っていても、その人のそばにいると彼らは一時的にそれを忘れる。それがアヒンサーの功徳である。それが、一定期間続けて、思いと言葉と行為(意・口・身)において実行されると、人格全体がそのヴァイブレーションを発するのである。野生の動物でさえ、アヒンサーに徹した者のそばでは、その残忍性を忘れる。古いヒンズーの神話の中にそういう話があり、アヒンサーを守っている聖者や聖賢たちの住む森の中では、動物たちは空腹のときしか獲物を殺さなかった。それ以外の時は、牛と虎が仲良く並んで水を飲んでいた―。ブッダはそれを行い、高めた。彼は赴くところどこにでも平和と調和と友愛をもたらした。・・・」
「36 正直(サティヤ)に徹した者には、行為とその結果がつき従う。」
「正直の確立によってヨギは、彼自身と他者のために、事を為さずして事の成果に到る力を得る。言い換えるなら、物事がおのずから彼のもとへ来る―。 自然はすべて、正直な人間を愛する。正直な人間は物事の後を追う必要がない、なぜならそれらの方が彼の後を追うからだ。そしてある人が常に正直であるならば、つまりその口から一言の嘘も発されないならば、彼の言うことのすべてが現実となる時が来る。たとえ彼がふと口をすべらせた一言でも、それは現実となるだろう― それはサティヤの実行によってその言葉が純正で非常に強い力を持つようになるので、正直が彼を遵守するからである。・・・」
「正直が確立すると、恐れのない状態がやって来る。その人は誰を怖れる必要もなく、常に開かれた生活を送ることができる。嘘のないとき、その生活の全体が、開かれた書物となる。しかしそれは、絶対的に正直な心を持ってはじめた可能な事である。心が静かで澄んでいるとき、真の<自己>が損なわれることなく映りでて、我々は真理をありのままの姿で悟る― 」
「絶対的な正直というのは、方便としての嘘も言わないということである。正直であることによって問題が生じたり、誰かに困難や不都合が生じるならば、我々は沈黙を守るべきである。嘘をついて『私は知らない』といういのではなく、はっきり『私は知っているが言いたくない』と言えばよい。それは罪人をかばえという意味ではなく、自分自身も嘘をつくべきではないが、他人にも嘘をつかせるべきではないからである。・・・」
「37 不盗(アステヤ)に徹した者のところには、あらゆる富が集まる。」
「もしも世界一の富豪になりたかったら、これが非常に簡単な方法だ。株の売り買いに頭を突っ込む必要もないし、働きに行く必要もない。ただ不盗を実行せよ。我々は全て盗人である。知っていながら、或いは知らないうちに、我々は自然から盗んでいる。一瞬一瞬、一息ごとに、我々は自然からかすめ盗っている。―誰の空気を我々は吸っているのか? 自然のである。だからといって息をするのをやめて死ねと言っているのではない。そのかわり、一息一息を敬虔に受け取り、それを他者に奉仕するために使うのだ。そうすれば我々は盗んでいるのでなないことになる。・・・」
「もし我々が持てる物だけで満足し、盗みや貪欲とはまったく無縁で、静かな心を保ち続けているならば、すべての富が我々のもとへ来る。もし我々がそれらの後を追わなかったら、やがてはそれらが我々の後を追う。我々が貪欲でないことを自然が知れば、彼女は、我々が彼女をけっして独り占めしようとしているのではないと知って、我々を信頼する。」
「38 禁欲(ブラフマチャリヤ)に徹する者は、精力を得る」
「禁欲つまり独身生活を確立することで、我々はエネルギーを保存する。“ヴィーリャ”はエネルギーという意味で、“ラーバ”は利益である(筆者註:それぞれはサンスクリット語による本節末尾文字を仮名表記したもの)。ヴィーリャの損失がないと、生命エネルギーが増す。これを蓄えることで何が得られるかは、知っておく価値がある。我々はたびたび『愛し、与える』と称してこのエネルギーを浪費し、心的・肉体的に涸渇する。心的・肉体的に強くないと、我々は真の霊的富を得ることができない。」
「精液は我々の生命である。それは正しく保存されると多大なエネルギーをもたらす。それは身体に吸収されるとプラーナに変わる。女性においても、保存された性エネルギーはプラーナに変わる。真に人々を助け、良い人間関係を作ることを可能にしてくれるのは、この生命力である。多量のプラーナがなかったら、我々は誰にも何も与えることができない― 強いバッテリーは力を与えることができ、弱いバッテリーにはそれができないように。ブラフマチャリヤを守る中で、我々はこのエネルギーを確立する。・・・」
「禁欲を守ることによって我々は肉体的なエネルギーだけでなく、心的・道徳的な、そして最終的には霊的なエネルギーを保存することになる。保存された性エネルギーは“オージャス”と呼ばれる精妙なエネルギーに変わる。これは人格的な磁気のようなものである。それが人格全体を調整し、神経を鍛え、頭脳の力を増して、心を穏やかにする。・・・」
「39 不貪(アパリグラハ)が揺るぎないものとなったとき、自らの生の原因と様態が余すところなく照らしだされる。」
「“アパリグラハ”は、貪欲と秘蔵 ―それは盗みの一種である― を慎むこと、或いは贈与を受けないことである。人はよく、ただ将来の(相手の)義務を見越して贈り物をする。或る日誰かが贈り物を持ってやって来る、すると翌日電話がかかってきて、『あなたに贈り物をしたでしょう? そこで一つお願いがあるのですが・・・』。するとこちらはそうしなければならない義務を感じてしまう。税金逃れをしようとする仕事上の贈与は受け取らない。それは本当の贈り物ではないから。それはただ何かをお返しに受け取るために贈られただけなのだ。贈り物というのは、名声は金銭や宣伝のためではなく、ただ与えるためにのみあたえられるもののことである。」
参考までに『解説 ヨーガ・スートラ』は、39節を以下のように訳し、解説している。
「二・三九 不貪の戒行において不動心を得たならば、自分の転生のありさまを三世にわたって洩れなく知ることができる」
「仏教で阿羅漢の徳といわれる三明(さんみょう)、六通の中の三明(宿命通、天眼通、漏尽通)はここに説くところのシッディ(霊能)と似ている(三・一八参照)。 人は一般に自分の身体と欲望を満たす対象とに対する貪愛の情のために縛られて、常に心を外向きにはたらかせているから、真実智が顕れてこないのである。からだその他に対する貪愛の心がなくなって、無関心(筆者註:無執着或いは離欲)の心境つまりストア派のいうアパティアの境地に達した時に初めて正智を得ることができる。」
これらの禁戒はいずれも単純で初歩的なことのようであるが、この浮世を渡る上で、これらを守り通すことは殆どの人にとっては並大抵の決意では出来ないことだと思う。著者によればこの禁戒を確り守るだけでも人は超常的な能力(シッディ)を獲得することができるようである。
このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。