禁戒に続き、勧戒(ニヤマ)である。早速『インテグラル・ヨーガ』(同書)から引用する。
「次の支分“ニヤマ[勧戒]”は、遵守すべき事柄である。ヤマの五項目は、ニヤマの五項目とともに、キリスト教やユダヤ教の十戒、そして仏教の十戒を想い起させる。事実、こうした道徳的・倫理的規範なくして、宗教はない。霊的生活はすべて、これらのものを礎とするべきである。それらは、それなしには決して永続的なものを打ち立てることのできない礎石なのである。」
「32 ニヤマ[勧戒]は、清浄(シャウチャー)・知足(サントーシャ)・苦行(タパス)【苦痛を受容し、それを引き起こさないこと】・読誦(スヴァディアーヤ)【霊的書物の研究】・自在神への祈念(イシュヴァラ・プラニダーナ)【自己放棄】より成る。」
「40 浄化によって自分自身の身体への厭わしさ、他人の身体に触れることへの厭わしさが生ずる。」
「“シャウチャー”すなわち清浄の戒が守られると、自分自身の身体さえ不浄だと感じるようになる。それは絶えまなく分泌物を出し、一瞬一瞬不浄なものを排出している。息が炭酸ガスを運び出す。皮膚からは汗が出る。よくよく考えて見ると我々の住処(すみか)は実に汚いようである。どんなに香水をふりかけても、それは汚れを覆い隠しているだけのことだ。汗の嫌な臭いがするからデオドラント剤を吹き付ける。肌が汚いからそれを隠すために白粉をつける。だがいくら隠そうとしても、それらは再び顕れる。それが本当に判った時、我々はもう身体に興味を持たなくなる。だがそれは無視ではなく、もうそれに憧れなくなるということだ。そして今まで身体のために使われていた時間が他の目的のために、つまりジャパや瞑想や霊的な書物を読むために使われるようになる。」
「自分の身体が汚穢のかたまりだと思っているときに、どうして他の身体に魅かれたりなどするだろう? それへの魅力もだんだん薄れ、それによって我々は間違いなく多くのトラブルを回避することになる。 ― 身体よりも深いもののためにより多くの時間を使うようになると、最後には霊的なものへと進んで、自分は全く身体ではなく、真の<自己>であると悟り、われわれはもう二つの身体を結び付けることに興味を持たなくなる。・・・」
「人々は、“タントラ・ヨーガ”を何か性的な結合と関係があるもののように誤解している。チベットのタントラ体系が言っているのは、シヴァとシャクティ ― シヴァは男性原理でシャクティは女性原理 ― のことである。そしてそれは物質的な形態のことではなく、各個人の中にある陽の力と陰の力を指しているのである。ハタ・ヨギはそれを“太陽と月”と表現する。“ハ”が太陽で“タ”が月である。内なる太陽があなたの太陽神経叢の中にあり、月が脊椎の付け根にある。“結合する”ためには、その二つが出会わねばならないのだ。これは“プラーナとアパーナの結合”として知られるもので、『バガヴァッド・ギーター』は、“プラーナ・アパーナ・サマーユクタと言っている。・・・」
「41 さらにサットヴァの浄化、心の愉悦、一点集中、自己実現への適合性を得る。」
「まず身体について了解する、すると心も浄化される。心が純粋だといつも楽しい。(心の)集中は、そうしようと思わなくともおのずから来る。あちこち走り回るので何度も引き戻してやらねばならないのは、不純な心だけである。また、感覚もすべて制御され、“アートマー・ダルシャナ・ヨーギャトヴァーニ”すなわち自己実現への適合性・アートマンのヴィジョンがもたらされる ― 。 これらがニヤマの一つ目の“清浄戒”を守ることによって得られる効益である。ただ、思いと言葉と行為において純粋であれ。なんて簡単なことだろう! ところが我々は簡単なことはやりたくない。ちっとも自慢にならないからだ。小川を跳び越えて何が自慢だ? われわれは大河を跳び越えるような難事がやってのけたい。自我(エゴ)はどんなことでもおいそれとは受け入れない。だがただの一日でいい、この清浄戒を実行に移してみよう。そうすればその良さが本当によくわかる。・・・」
「42 知足(サントーシャ)によって、無常の喜びが得られる。」
「“知足(足るを知ること)の結果として、人は無常の喜びを得る。ここで我々は知足と満足の違いを理解しておかねばならない。知足とは、幸福を求めて外界に赴くことなく、ただあるがままであることである。もし何かが来るなら来るがままにさせる、来なければ来ないでそれも良し ― 。知足とは好悪の無いことである。」
「43 苦行(タパス)によって、身体と感覚の不浄が消え、超自然力が得られる。」
「“タパス”の直接的な意味は、第二部門(筆者註:第Ⅱ章のこと)のスートラ1で見たように、“焼くこと”である。我々は断食という肉体のタパスによって、余分な脂肪とともに、身体に蓄積された毒を焼く。心のタパスによって、全ての古い印象を焼く。ことばのタパス即ち沈黙を守ることによって、話す事を抑制する ― 。“焼く”ときには何らかの熱と痛みがある。つまり我々は苦しみを味わう。したがってタパスは苦痛を受け入れることでもある。ある人が苦しんでいるならば彼は幸いである、何故なら彼はその苦痛によって不純を浄化しているのだから。心を清浄で堅固にするためには、我々は苦しみを、痛みを、貧困を受け入れねばならない。そして苦しみを受け入れると同時に他者に幸いをもたらすならば、その利はいっそう大である。だから他者の苦痛を受け入れよ。我々は苦痛を受け入れても何も失わない。苦痛が大きければ大きいほど、我々の得るものは大きい。そして何の苦痛もなかったら、得るものも何もない。我々はそれから逃げるべきではない ― 。」
「心もやはり、(筆者註:洗濯もののように)洗われて、絞られて、放りあげられて、乾かされて、アイロンを当てられねばならない。誰かが我々を苦しめても、それは我々を憎んでいるからではなく、我々自身の浄化を助けてくれているのだと考えよ。そのようにとらえることができれば、我々は真のヨギである。・・・もし美辞を喜び、侮言に腹立つならば、それは未だ我々の心が強くないからだ。侮蔑の一言が我々の弱さを教えてくれる。私の師は、『適応し、調整し、受け入れよ。侮辱に絶えよ。中傷に耐えよ。それが最も高いサーダナ(修行)である』と言われた。どこかに引っ込んでマントラを唱えるのは簡単なサーダナだ。それだったら誰にでもできる。しかし、侮辱されても静穏な心を保つならば、それは数珠を何千回繰ってマントラを唱えることおりもすぐれている。それがタパーシャである。・・・」
「44 霊的な書物を研究する(スヴァディアーヤ)ことによって、自らの望む神霊との霊交が得られる」
「再び“スヴァディアーヤ”すなわち“霊的な研究”で、それは聖典の研究のことだが、各自が個人的に手ほどきを受けたサーダナ ― それがどんなものであっても ― を行っていくこともそうである。規則的にやることが研究である。それによって我々は、“イーシュタ・デーヴァター・サンプラヨーガ” ― <主>のヴィジョンすなわち“ダルシャン(恩寵) ― を得る。というのは、夫々のマントラに夫々の神霊があるからだ。別の言葉で云えば、夫々の名には夫々の形があるということだ。だから、ある一つの名に専念していると、最後にはおのずから形が現れる。それは人間の形をとって現れるかもしれないし、音や光であるかもしれない。」
「45 神にすべてを任せることによって、サマーディは達成される。」
「“イシュヴァラ・プラニダーナ”は、献身の生活、全てを<主>或いは人類に捧げる生活である。― なぜ私はそこに人類を付け加えたのか? 『神に何かを献げたい』と言うとき、その<神>はどこにおわすのか、そしてそれは誰なのか? <神>は我々が何かを献げるのをどこに坐って待っておられるのか ― 。 <神>は世界を<御自身>より作られた。世界そのものが<神>なのだ。この外界の全てが<神>なのだ。だから我々がこの人生を人類の為に献げるとき、それは取りも直さず<神>に献げていることになる。我々のするどんなことでも、我々の態度一つでたやすく<神>への礼拝へと変わる。だから、『最大限世界に奉仕するのだ』という思いをもってするならば、それはどんなことだっていい ― 我々はテーブルにだって椅子にだって、その他身の周りの何にだって奉仕することができる。椅子をこっちの隅から向こうの隅まで無慈悲に引っ張って行かなかったら、それは椅子への奉仕である。それらは、ひきずったら悲鳴をあげる。どんな物でも、ぞんざいに扱えば苦痛を覚える。何にでも優しく、ヨーガのタッチで触れよう。スプーンでもフォークでもお皿でも ― 。・・・私の師、スワミ・シヴァーナンダジは、『あらふる働きを、正しい態度という魔法の杖で、ヨーガへと変えよ』と言われた。」
「我々の多くは“インスタント・サマーディ”に関心がある。そうなのだ、クンダリニを覚醒させてそれをサハスラーラに導くまでもなく、我々は今ここでそれを得ることができるのだ、もしも自分自身を献げきることができたなら ― 。・・・本当のサマーディとは、全てを献げて、あらゆる執着から完全に自由であるときにのみ可能な、心の静けさのことだ ― 。人は、もし平安に関心があるのなら、欲望や所有物を持っていていいだろうか? それらは決して共存できない。・・・無欲な心だけが、全てから完全に自由な心だけが、完全に赤裸の心だけが、平安を持つ事ができる。ギーターは、『あらゆるものを献げることによってのみ、汝には終わりなき平安がある』と言っている ― 。何もかも、世界に献げるか、同胞社会に献げるか、<神>に献げるか、である。」
「以上の徳目(禁戒と勧戒の十項目)のうちの一つを実行すると、残りの全ても自然に行われることになる。一つが完成されると、集中と瞑想、さらにはサマーディさえもがもたらされる。その美質が一つ獲得され性格化されるだけでも、心は清浄で静穏となる。だからそのときには、瞑想をする必要は無く、我々はいつも自然に瞑想しているのである。」
尚、“イシュヴァラ・プラニダーナ”はⅠ章23節でも取り上げられており、この解釈に就いては諸説がある(特に佐保田鶴治先生がユニークな解釈をしている)ので、回を改めて別途説明することにしたい。
このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
「次の支分“ニヤマ[勧戒]”は、遵守すべき事柄である。ヤマの五項目は、ニヤマの五項目とともに、キリスト教やユダヤ教の十戒、そして仏教の十戒を想い起させる。事実、こうした道徳的・倫理的規範なくして、宗教はない。霊的生活はすべて、これらのものを礎とするべきである。それらは、それなしには決して永続的なものを打ち立てることのできない礎石なのである。」
「32 ニヤマ[勧戒]は、清浄(シャウチャー)・知足(サントーシャ)・苦行(タパス)【苦痛を受容し、それを引き起こさないこと】・読誦(スヴァディアーヤ)【霊的書物の研究】・自在神への祈念(イシュヴァラ・プラニダーナ)【自己放棄】より成る。」
「40 浄化によって自分自身の身体への厭わしさ、他人の身体に触れることへの厭わしさが生ずる。」
「“シャウチャー”すなわち清浄の戒が守られると、自分自身の身体さえ不浄だと感じるようになる。それは絶えまなく分泌物を出し、一瞬一瞬不浄なものを排出している。息が炭酸ガスを運び出す。皮膚からは汗が出る。よくよく考えて見ると我々の住処(すみか)は実に汚いようである。どんなに香水をふりかけても、それは汚れを覆い隠しているだけのことだ。汗の嫌な臭いがするからデオドラント剤を吹き付ける。肌が汚いからそれを隠すために白粉をつける。だがいくら隠そうとしても、それらは再び顕れる。それが本当に判った時、我々はもう身体に興味を持たなくなる。だがそれは無視ではなく、もうそれに憧れなくなるということだ。そして今まで身体のために使われていた時間が他の目的のために、つまりジャパや瞑想や霊的な書物を読むために使われるようになる。」
「自分の身体が汚穢のかたまりだと思っているときに、どうして他の身体に魅かれたりなどするだろう? それへの魅力もだんだん薄れ、それによって我々は間違いなく多くのトラブルを回避することになる。 ― 身体よりも深いもののためにより多くの時間を使うようになると、最後には霊的なものへと進んで、自分は全く身体ではなく、真の<自己>であると悟り、われわれはもう二つの身体を結び付けることに興味を持たなくなる。・・・」
「人々は、“タントラ・ヨーガ”を何か性的な結合と関係があるもののように誤解している。チベットのタントラ体系が言っているのは、シヴァとシャクティ ― シヴァは男性原理でシャクティは女性原理 ― のことである。そしてそれは物質的な形態のことではなく、各個人の中にある陽の力と陰の力を指しているのである。ハタ・ヨギはそれを“太陽と月”と表現する。“ハ”が太陽で“タ”が月である。内なる太陽があなたの太陽神経叢の中にあり、月が脊椎の付け根にある。“結合する”ためには、その二つが出会わねばならないのだ。これは“プラーナとアパーナの結合”として知られるもので、『バガヴァッド・ギーター』は、“プラーナ・アパーナ・サマーユクタと言っている。・・・」
「41 さらにサットヴァの浄化、心の愉悦、一点集中、自己実現への適合性を得る。」
「まず身体について了解する、すると心も浄化される。心が純粋だといつも楽しい。(心の)集中は、そうしようと思わなくともおのずから来る。あちこち走り回るので何度も引き戻してやらねばならないのは、不純な心だけである。また、感覚もすべて制御され、“アートマー・ダルシャナ・ヨーギャトヴァーニ”すなわち自己実現への適合性・アートマンのヴィジョンがもたらされる ― 。 これらがニヤマの一つ目の“清浄戒”を守ることによって得られる効益である。ただ、思いと言葉と行為において純粋であれ。なんて簡単なことだろう! ところが我々は簡単なことはやりたくない。ちっとも自慢にならないからだ。小川を跳び越えて何が自慢だ? われわれは大河を跳び越えるような難事がやってのけたい。自我(エゴ)はどんなことでもおいそれとは受け入れない。だがただの一日でいい、この清浄戒を実行に移してみよう。そうすればその良さが本当によくわかる。・・・」
「42 知足(サントーシャ)によって、無常の喜びが得られる。」
「“知足(足るを知ること)の結果として、人は無常の喜びを得る。ここで我々は知足と満足の違いを理解しておかねばならない。知足とは、幸福を求めて外界に赴くことなく、ただあるがままであることである。もし何かが来るなら来るがままにさせる、来なければ来ないでそれも良し ― 。知足とは好悪の無いことである。」
「43 苦行(タパス)によって、身体と感覚の不浄が消え、超自然力が得られる。」
「“タパス”の直接的な意味は、第二部門(筆者註:第Ⅱ章のこと)のスートラ1で見たように、“焼くこと”である。我々は断食という肉体のタパスによって、余分な脂肪とともに、身体に蓄積された毒を焼く。心のタパスによって、全ての古い印象を焼く。ことばのタパス即ち沈黙を守ることによって、話す事を抑制する ― 。“焼く”ときには何らかの熱と痛みがある。つまり我々は苦しみを味わう。したがってタパスは苦痛を受け入れることでもある。ある人が苦しんでいるならば彼は幸いである、何故なら彼はその苦痛によって不純を浄化しているのだから。心を清浄で堅固にするためには、我々は苦しみを、痛みを、貧困を受け入れねばならない。そして苦しみを受け入れると同時に他者に幸いをもたらすならば、その利はいっそう大である。だから他者の苦痛を受け入れよ。我々は苦痛を受け入れても何も失わない。苦痛が大きければ大きいほど、我々の得るものは大きい。そして何の苦痛もなかったら、得るものも何もない。我々はそれから逃げるべきではない ― 。」
「心もやはり、(筆者註:洗濯もののように)洗われて、絞られて、放りあげられて、乾かされて、アイロンを当てられねばならない。誰かが我々を苦しめても、それは我々を憎んでいるからではなく、我々自身の浄化を助けてくれているのだと考えよ。そのようにとらえることができれば、我々は真のヨギである。・・・もし美辞を喜び、侮言に腹立つならば、それは未だ我々の心が強くないからだ。侮蔑の一言が我々の弱さを教えてくれる。私の師は、『適応し、調整し、受け入れよ。侮辱に絶えよ。中傷に耐えよ。それが最も高いサーダナ(修行)である』と言われた。どこかに引っ込んでマントラを唱えるのは簡単なサーダナだ。それだったら誰にでもできる。しかし、侮辱されても静穏な心を保つならば、それは数珠を何千回繰ってマントラを唱えることおりもすぐれている。それがタパーシャである。・・・」
「44 霊的な書物を研究する(スヴァディアーヤ)ことによって、自らの望む神霊との霊交が得られる」
「再び“スヴァディアーヤ”すなわち“霊的な研究”で、それは聖典の研究のことだが、各自が個人的に手ほどきを受けたサーダナ ― それがどんなものであっても ― を行っていくこともそうである。規則的にやることが研究である。それによって我々は、“イーシュタ・デーヴァター・サンプラヨーガ” ― <主>のヴィジョンすなわち“ダルシャン(恩寵) ― を得る。というのは、夫々のマントラに夫々の神霊があるからだ。別の言葉で云えば、夫々の名には夫々の形があるということだ。だから、ある一つの名に専念していると、最後にはおのずから形が現れる。それは人間の形をとって現れるかもしれないし、音や光であるかもしれない。」
「45 神にすべてを任せることによって、サマーディは達成される。」
「“イシュヴァラ・プラニダーナ”は、献身の生活、全てを<主>或いは人類に捧げる生活である。― なぜ私はそこに人類を付け加えたのか? 『神に何かを献げたい』と言うとき、その<神>はどこにおわすのか、そしてそれは誰なのか? <神>は我々が何かを献げるのをどこに坐って待っておられるのか ― 。 <神>は世界を<御自身>より作られた。世界そのものが<神>なのだ。この外界の全てが<神>なのだ。だから我々がこの人生を人類の為に献げるとき、それは取りも直さず<神>に献げていることになる。我々のするどんなことでも、我々の態度一つでたやすく<神>への礼拝へと変わる。だから、『最大限世界に奉仕するのだ』という思いをもってするならば、それはどんなことだっていい ― 我々はテーブルにだって椅子にだって、その他身の周りの何にだって奉仕することができる。椅子をこっちの隅から向こうの隅まで無慈悲に引っ張って行かなかったら、それは椅子への奉仕である。それらは、ひきずったら悲鳴をあげる。どんな物でも、ぞんざいに扱えば苦痛を覚える。何にでも優しく、ヨーガのタッチで触れよう。スプーンでもフォークでもお皿でも ― 。・・・私の師、スワミ・シヴァーナンダジは、『あらふる働きを、正しい態度という魔法の杖で、ヨーガへと変えよ』と言われた。」
「我々の多くは“インスタント・サマーディ”に関心がある。そうなのだ、クンダリニを覚醒させてそれをサハスラーラに導くまでもなく、我々は今ここでそれを得ることができるのだ、もしも自分自身を献げきることができたなら ― 。・・・本当のサマーディとは、全てを献げて、あらゆる執着から完全に自由であるときにのみ可能な、心の静けさのことだ ― 。人は、もし平安に関心があるのなら、欲望や所有物を持っていていいだろうか? それらは決して共存できない。・・・無欲な心だけが、全てから完全に自由な心だけが、完全に赤裸の心だけが、平安を持つ事ができる。ギーターは、『あらゆるものを献げることによってのみ、汝には終わりなき平安がある』と言っている ― 。何もかも、世界に献げるか、同胞社会に献げるか、<神>に献げるか、である。」
「以上の徳目(禁戒と勧戒の十項目)のうちの一つを実行すると、残りの全ても自然に行われることになる。一つが完成されると、集中と瞑想、さらにはサマーディさえもがもたらされる。その美質が一つ獲得され性格化されるだけでも、心は清浄で静穏となる。だからそのときには、瞑想をする必要は無く、我々はいつも自然に瞑想しているのである。」
尚、“イシュヴァラ・プラニダーナ”はⅠ章23節でも取り上げられており、この解釈に就いては諸説がある(特に佐保田鶴治先生がユニークな解釈をしている)ので、回を改めて別途説明することにしたい。
このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。