本稿の題名である修習と離欲は、ヨーガを実践する上で非常に重要な修行者の態度或いは心構えである。今回も『インテグラル・ヨーガ』(以下、同書)から引用していく。
「12 これらの心の作用(筆者註:6節に示されている正知、誤解、錯覚、睡眠、記憶など)は、修習(アヴィアーサ)と離欲(ヴァイラーギャ)によって止滅される。」
「積極面としては修習を行う。そしてもう一方で、そうした作用(ヴリッティ)の原因から自分自身を引き離す。彼(筆者註:パタンジャリ)は、想念の制御に向けて積極・消極両面からのアプローチを指示し、以下に続くスートラで、それを詳しく説明する。」
「13 これら二者のうち、心に不動の状態をもたらそうとする努力が修習(アヴィアーサ)である。」
「ここでいう修習とは、一日や二日ではない持続的なもののことである。また、やるのは一日に何分かで、後の時間は心のやりたい放題というのではなく、あなたは常時それに携わっていなければならない。それは、全ての思い、全ての言葉、全ての行為をことごとく吟味する永遠の監視者となる、という意味である。パタンジャリは三つの条件をつける―」
「14 修習は、長い間、休みなく、大いなる真剣をもって励まれるならば、堅固な基礎を持つものとなる。」
「修習の第一の条件は、それが長い期間行われなければならないということである。ところが、残念ながら、我々はすぐに結果が見たい。私が、『マントラを唱えなさい。そうすればあなたは、より安らかになって、自分の中の美しいものに気付くでしょう』といういと、家に帰って三日ほどそれをしてから、私を呼んでこう言う。『私は三日間それをやってみましたが、何も起こりませんでした。このマントラは私には合わないんじゃないですか? 何か他のを教えてください―』。 そのとおりだろう? だからパタンジャリは“長い間”と言っている。“これこれの期間”とは言っていない。」
「次に“休みなく”である。『私はもう十年ほどヨーガをやっていますが、一向に変わりません』。『いつもやっていますか?』 『ええ、やったりやらなかったりですが・・・』。修習は持続的でなければならない。」
「そして最後の条件は、“大いなる真剣をもって” ―。 それは、注意力の全てと心の全てを注いで、必ず成功して見せるという固い信念をもって、という意味である。世俗の事柄や、人間を獲得しようとする時でさえ、人は夜も昼もそれに励む。眠るのを忘れ、食べることも忘れて、精魂を傾ける。世俗的な事柄を達成しようとするときにさえこの条件が必要なら、ヨーガの成功にはいったいどれほどのものが必要だろう? そうだ、今日播いた種がどれぐらい根を張ったか知りたくて、翌日にはそれを掘り返してみるといいうような、子供じみた真似はやめよう。我々にはこれらの三つの資質、すなわち忍耐と献身と信念が必要である。」
ここで著者はヒンズーの聖典に出てくる小話を紹介している。全文を引用すると長くなるので、簡単に要約する。
或る日ナーラダと呼ばれる天界の大仙人(マハリシ)が、地上に降りてきて森を通りかかると、長い間瞑想していた為に全身が蟻塚で覆われてしまったヨギに出会った。そのヨギはナーラダに尋ねた。「あと何回生まれ変わって瞑想を続けなければならないか、主から聞き出してきては頂けないでしょうか?」 ナーラダは「いいとも」と答え、暫く先へ行くと、今度は別の男に出会った。こちらは嬉々として跳んだり跳ねたりしながら、「ハレ・クリシュナ・・・」などと歌っていたが、ナーラダを見つけると次のように尋ねた。「あとどれくらいの間、私がここでこうやっていなければならないか、天界に戻って調べて来て貰えませんか?」ナーラダは「いいとも」と答えた。
それから何年か経った或る日、ナーラダが同じ道を歩いていると、一人目の男に出会い、以前の返事への回答を求められた。ナーラダが、「主に聞いてみたが、お前はあと四回の生まれ変わりが必要とのことだった―」と答えると、「えっ、あと四回も! これだけ待ったのにまだ足りないのですか」と言って泣きじゃくり始めた。 その後ナーラダがもう一人の男のところへ行くと、いまだに歌ったり踊ったりしていたが、ナーラダを見ると以前の質問の回答を求めた。「そこに木があるだろう。シヴァ神は、おまえはあの木の葉と同じ回数だけ生まれ変わらねばならないと言っておられた―」とナーラダが答えると、「おお、それだけでいいんですか? じゃあ少なくとも限りがあるわけだ。さあこれでどこで終わるかが判ったぞ。よかった、それなら直ぐにやってしまえる。神様、有難う御座いました! あなたは、この森にあるすべての木の葉の数だけ、とはおっしゃらなかった。」 その時天から美しい駕籠が降りてきて、その御者が言った― 「どうぞお乗りください。シヴァ神がこの乗物をあなたの為に遣わされました。」 「でも、私は何度も生まれ変わらねばならないと、たった今ナーラダ様がおっしゃったばかりですが・・・」 「その通りです。しかしあなたは、もうとっくにそのつもりになり、喜んでそれをしようとしておられました。ですからあなたはもう待つ必要はありません。さあ参りましょう。」 「では、あの人はどうなるのですか?」 「彼はたった四回の生まれ変わりに対してさえ、心の準備が出来ておりません。彼にはあのようにさせておきましょう― 」
著者は、上記の小話に就いて次のように語る。
「これはただのお話ではない。そこに託された真理は、良く判るだろう。もしあなたがそれほどまでの忍耐を持ち合わせているならば、心はより安定しており、あなたの為すことは、より完全であるだろう。心が定まらず、成果を得ることだけに汲々としているならば、すでにそのことによってあなたの心は乱れており、そのような心によって為された事柄には、いかなる尊さもない。したがって、どれほど長い間修習するかということだけが問題なのではなく、どのような堅忍、どれほどの熱意、そしていかにすぐれた内実を持っているかということが問題なのだ。」
◇
「15 見たり聞いたりした対象への切望から自由である人の、克己の意識が離欲(ヴァイラーギャ)[無執着]である。」
以下15節の説明であるが、全文を引用するとかなり長くなるので、適宜抜粋する。
「通常心は、何かを見聞きすることに依って執着を生む。心が外に向かって動き、その欲望を満たすものを集めるのは、主に目と耳を通じてである。あなたは、心が何かを見、あるいは聞いて、それに引き寄せられる前に、その対象が自分にとって良いものであるかどうかを見究める識別の力を持つべきである。・・・あることを持続的にやりたいときは、心が他の欲望によってそらされないようにしなければならない。修練というものに、そうした平静、すなわち離欲が常に伴っていなければならないのは、そのためだ。この離欲が欠けていたら、どんな修練だろうと、絶対に成功しない。」
「心に執着がないとき、初めて瞑想は可能となる。実を言えば、もし心が全ての利己的な欲望から完全に自由であるならば、瞑想をする必要もないのだ。もしそうならば、その人はいつも安らいだ状態にあるわけで、そわそわすることもないし、落ち込んだりすることもない。だから修習と離欲の両方が必要なのであって、中でも特に離欲が大切なのだ― 」
「そういうと直ぐに、『もし執着がなくなったら、刺激が何もなくなってしまい、退屈ではないか?』と言う人が出てくる。そうではない。離欲というのは、“私的な欲望がない”という意味なのだ。若し本当に貪欲でありたいならば、他人に奉仕することに貪欲であれ。・・・だからときどき私は『無私な人間が一番利己的だ』と言うのである。それは何故だろう? その人は自分の平安と幸福を失いたくないと思っているからだ。」
「<神>についてさえ、私的な欲望や執着を持つなかれ。・・・ヴェーダーンタの聖典は言っている。『解脱に対してさえ、執着するなかれ』 解脱を渇望することによってさえ、あなたは自分を縛ることになる(筆者註:先ほどの小話で出て来た、4回生まれ変わると告げられた男もこれに相当する)。欲望は悉くあなたを縛り、不安定を引き起こす。解脱を得るためには、あなたは完全に無欲にならなければならない― 。」
「殆どの人は、何もかも捨てて無私・無欲になると、何の楽しみのなくなってしまうのではないかと考えている。それは違う。あなたは最も幸せな人となる。奉仕すればするほど、あなたはより大きな幸せを味わう。そういう人が人生の秘密を知っているのだ。何もかも失うこと、全てを与えることには、大きな喜びがある。物を持っていても、永久に幸せであることはできない。持てば持つほど不幸になる。億万長者や地位の高い人達、首相とか大統領とかいうのを、あなたは知っているだろう。彼らは幸せだろうか? 否、地位が高ければ高いほど、煩わしさも大きい。聖者や世捨て人だけがいつも幸せなのだ、失うものが何もないから。何も持たないからこそ<自己>を持つ。それが秘訣なのだ。だから、“ヴァイラーギャを持て、平静を持て、無執着を持て”と言うのだ。世俗的な事柄を捨てることによって、あなたは最も貴重で聖なる富、自らの平安を持つ。」
「もし我々の心から利己性がなくなり、全ての人々の人生に犠牲的献身が備わったならば、他ならぬこの世が天国となり、平安と至福の住処となる。この生にあっては、すべてのものが与えている。犠牲的献身は生の掟なのだ。だから我々は、その生を人類の為に捧げ与えた人々をほめ讃え、あこがれるのである。なぜ我々はイエス・キリストと十字架を崇拝するのか? “犠牲的献身”がその十字架の意味だからだ。・・・」
「そうは言っても、もちろん迷いは残るだろう。『犠牲的献身の人生を送るべきだというならば、私はどうやって食べていけばいいのだ? どうやって衣服を得、住む処を得たらいいのだ―?』 それらのものは他者に奉仕するために自分自身の備えとして持てば良いのである。あなたには、また明日の朝また元気で他者への奉仕に出かけられるように、ゆっくり休むためのベッドが要る。他者に奉仕する為の十分なエネルギーを得るためには、食べねばならない。そのように、何をするときでも、『私は他者に奉仕するために自分自身を整えているのだ』という思いでもってやる。瞑想をするときでも、それは自分だけの平安のためではない、安らかな心で外に出て、十分奉仕できるようにするのだ。他でもないそのことを念じながら、瞑想をする。そうだ、そのときにはヨーガの瞑想さえもが無私の行為となる。そしてそれが、“神に対してさえ執着するなかれ”の意味なのだ―。このヴァイラーギャ即ち無執着だけが、あなたの全人生を喜びに満ちたものへと変える。」
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「12 これらの心の作用(筆者註:6節に示されている正知、誤解、錯覚、睡眠、記憶など)は、修習(アヴィアーサ)と離欲(ヴァイラーギャ)によって止滅される。」
「積極面としては修習を行う。そしてもう一方で、そうした作用(ヴリッティ)の原因から自分自身を引き離す。彼(筆者註:パタンジャリ)は、想念の制御に向けて積極・消極両面からのアプローチを指示し、以下に続くスートラで、それを詳しく説明する。」
「13 これら二者のうち、心に不動の状態をもたらそうとする努力が修習(アヴィアーサ)である。」
「ここでいう修習とは、一日や二日ではない持続的なもののことである。また、やるのは一日に何分かで、後の時間は心のやりたい放題というのではなく、あなたは常時それに携わっていなければならない。それは、全ての思い、全ての言葉、全ての行為をことごとく吟味する永遠の監視者となる、という意味である。パタンジャリは三つの条件をつける―」
「14 修習は、長い間、休みなく、大いなる真剣をもって励まれるならば、堅固な基礎を持つものとなる。」
「修習の第一の条件は、それが長い期間行われなければならないということである。ところが、残念ながら、我々はすぐに結果が見たい。私が、『マントラを唱えなさい。そうすればあなたは、より安らかになって、自分の中の美しいものに気付くでしょう』といういと、家に帰って三日ほどそれをしてから、私を呼んでこう言う。『私は三日間それをやってみましたが、何も起こりませんでした。このマントラは私には合わないんじゃないですか? 何か他のを教えてください―』。 そのとおりだろう? だからパタンジャリは“長い間”と言っている。“これこれの期間”とは言っていない。」
「次に“休みなく”である。『私はもう十年ほどヨーガをやっていますが、一向に変わりません』。『いつもやっていますか?』 『ええ、やったりやらなかったりですが・・・』。修習は持続的でなければならない。」
「そして最後の条件は、“大いなる真剣をもって” ―。 それは、注意力の全てと心の全てを注いで、必ず成功して見せるという固い信念をもって、という意味である。世俗の事柄や、人間を獲得しようとする時でさえ、人は夜も昼もそれに励む。眠るのを忘れ、食べることも忘れて、精魂を傾ける。世俗的な事柄を達成しようとするときにさえこの条件が必要なら、ヨーガの成功にはいったいどれほどのものが必要だろう? そうだ、今日播いた種がどれぐらい根を張ったか知りたくて、翌日にはそれを掘り返してみるといいうような、子供じみた真似はやめよう。我々にはこれらの三つの資質、すなわち忍耐と献身と信念が必要である。」
ここで著者はヒンズーの聖典に出てくる小話を紹介している。全文を引用すると長くなるので、簡単に要約する。
或る日ナーラダと呼ばれる天界の大仙人(マハリシ)が、地上に降りてきて森を通りかかると、長い間瞑想していた為に全身が蟻塚で覆われてしまったヨギに出会った。そのヨギはナーラダに尋ねた。「あと何回生まれ変わって瞑想を続けなければならないか、主から聞き出してきては頂けないでしょうか?」 ナーラダは「いいとも」と答え、暫く先へ行くと、今度は別の男に出会った。こちらは嬉々として跳んだり跳ねたりしながら、「ハレ・クリシュナ・・・」などと歌っていたが、ナーラダを見つけると次のように尋ねた。「あとどれくらいの間、私がここでこうやっていなければならないか、天界に戻って調べて来て貰えませんか?」ナーラダは「いいとも」と答えた。
それから何年か経った或る日、ナーラダが同じ道を歩いていると、一人目の男に出会い、以前の返事への回答を求められた。ナーラダが、「主に聞いてみたが、お前はあと四回の生まれ変わりが必要とのことだった―」と答えると、「えっ、あと四回も! これだけ待ったのにまだ足りないのですか」と言って泣きじゃくり始めた。 その後ナーラダがもう一人の男のところへ行くと、いまだに歌ったり踊ったりしていたが、ナーラダを見ると以前の質問の回答を求めた。「そこに木があるだろう。シヴァ神は、おまえはあの木の葉と同じ回数だけ生まれ変わらねばならないと言っておられた―」とナーラダが答えると、「おお、それだけでいいんですか? じゃあ少なくとも限りがあるわけだ。さあこれでどこで終わるかが判ったぞ。よかった、それなら直ぐにやってしまえる。神様、有難う御座いました! あなたは、この森にあるすべての木の葉の数だけ、とはおっしゃらなかった。」 その時天から美しい駕籠が降りてきて、その御者が言った― 「どうぞお乗りください。シヴァ神がこの乗物をあなたの為に遣わされました。」 「でも、私は何度も生まれ変わらねばならないと、たった今ナーラダ様がおっしゃったばかりですが・・・」 「その通りです。しかしあなたは、もうとっくにそのつもりになり、喜んでそれをしようとしておられました。ですからあなたはもう待つ必要はありません。さあ参りましょう。」 「では、あの人はどうなるのですか?」 「彼はたった四回の生まれ変わりに対してさえ、心の準備が出来ておりません。彼にはあのようにさせておきましょう― 」
著者は、上記の小話に就いて次のように語る。
「これはただのお話ではない。そこに託された真理は、良く判るだろう。もしあなたがそれほどまでの忍耐を持ち合わせているならば、心はより安定しており、あなたの為すことは、より完全であるだろう。心が定まらず、成果を得ることだけに汲々としているならば、すでにそのことによってあなたの心は乱れており、そのような心によって為された事柄には、いかなる尊さもない。したがって、どれほど長い間修習するかということだけが問題なのではなく、どのような堅忍、どれほどの熱意、そしていかにすぐれた内実を持っているかということが問題なのだ。」
◇
「15 見たり聞いたりした対象への切望から自由である人の、克己の意識が離欲(ヴァイラーギャ)[無執着]である。」
以下15節の説明であるが、全文を引用するとかなり長くなるので、適宜抜粋する。
「通常心は、何かを見聞きすることに依って執着を生む。心が外に向かって動き、その欲望を満たすものを集めるのは、主に目と耳を通じてである。あなたは、心が何かを見、あるいは聞いて、それに引き寄せられる前に、その対象が自分にとって良いものであるかどうかを見究める識別の力を持つべきである。・・・あることを持続的にやりたいときは、心が他の欲望によってそらされないようにしなければならない。修練というものに、そうした平静、すなわち離欲が常に伴っていなければならないのは、そのためだ。この離欲が欠けていたら、どんな修練だろうと、絶対に成功しない。」
「心に執着がないとき、初めて瞑想は可能となる。実を言えば、もし心が全ての利己的な欲望から完全に自由であるならば、瞑想をする必要もないのだ。もしそうならば、その人はいつも安らいだ状態にあるわけで、そわそわすることもないし、落ち込んだりすることもない。だから修習と離欲の両方が必要なのであって、中でも特に離欲が大切なのだ― 」
「そういうと直ぐに、『もし執着がなくなったら、刺激が何もなくなってしまい、退屈ではないか?』と言う人が出てくる。そうではない。離欲というのは、“私的な欲望がない”という意味なのだ。若し本当に貪欲でありたいならば、他人に奉仕することに貪欲であれ。・・・だからときどき私は『無私な人間が一番利己的だ』と言うのである。それは何故だろう? その人は自分の平安と幸福を失いたくないと思っているからだ。」
「<神>についてさえ、私的な欲望や執着を持つなかれ。・・・ヴェーダーンタの聖典は言っている。『解脱に対してさえ、執着するなかれ』 解脱を渇望することによってさえ、あなたは自分を縛ることになる(筆者註:先ほどの小話で出て来た、4回生まれ変わると告げられた男もこれに相当する)。欲望は悉くあなたを縛り、不安定を引き起こす。解脱を得るためには、あなたは完全に無欲にならなければならない― 。」
「殆どの人は、何もかも捨てて無私・無欲になると、何の楽しみのなくなってしまうのではないかと考えている。それは違う。あなたは最も幸せな人となる。奉仕すればするほど、あなたはより大きな幸せを味わう。そういう人が人生の秘密を知っているのだ。何もかも失うこと、全てを与えることには、大きな喜びがある。物を持っていても、永久に幸せであることはできない。持てば持つほど不幸になる。億万長者や地位の高い人達、首相とか大統領とかいうのを、あなたは知っているだろう。彼らは幸せだろうか? 否、地位が高ければ高いほど、煩わしさも大きい。聖者や世捨て人だけがいつも幸せなのだ、失うものが何もないから。何も持たないからこそ<自己>を持つ。それが秘訣なのだ。だから、“ヴァイラーギャを持て、平静を持て、無執着を持て”と言うのだ。世俗的な事柄を捨てることによって、あなたは最も貴重で聖なる富、自らの平安を持つ。」
「もし我々の心から利己性がなくなり、全ての人々の人生に犠牲的献身が備わったならば、他ならぬこの世が天国となり、平安と至福の住処となる。この生にあっては、すべてのものが与えている。犠牲的献身は生の掟なのだ。だから我々は、その生を人類の為に捧げ与えた人々をほめ讃え、あこがれるのである。なぜ我々はイエス・キリストと十字架を崇拝するのか? “犠牲的献身”がその十字架の意味だからだ。・・・」
「そうは言っても、もちろん迷いは残るだろう。『犠牲的献身の人生を送るべきだというならば、私はどうやって食べていけばいいのだ? どうやって衣服を得、住む処を得たらいいのだ―?』 それらのものは他者に奉仕するために自分自身の備えとして持てば良いのである。あなたには、また明日の朝また元気で他者への奉仕に出かけられるように、ゆっくり休むためのベッドが要る。他者に奉仕する為の十分なエネルギーを得るためには、食べねばならない。そのように、何をするときでも、『私は他者に奉仕するために自分自身を整えているのだ』という思いでもってやる。瞑想をするときでも、それは自分だけの平安のためではない、安らかな心で外に出て、十分奉仕できるようにするのだ。他でもないそのことを念じながら、瞑想をする。そうだ、そのときにはヨーガの瞑想さえもが無私の行為となる。そしてそれが、“神に対してさえ執着するなかれ”の意味なのだ―。このヴァイラーギャ即ち無執着だけが、あなたの全人生を喜びに満ちたものへと変える。」
このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。