今日は、協ちゃんこと北村協一先生とのお別れ会。
少し風が強いけれど、よく晴れた穏やかな日差しの中、
四ツ谷の聖イグナチオ教会には、大学時代に協ちゃんの音楽に触れた
諸先輩方(OB,OG)が大勢集まりました。
私が聖堂に入ると、もう既に席はほとんど埋めつくされており、
座れず、立ったままの方もたくさんおられました。
いったい、どれだけの方がいたのだろう
お別れ会は、ヨゼフ・ピタウ大司教の司式で進み、最後に献花。
中央の祭壇には、颯爽と指揮する在りし日の先生の写真が飾ってあった。
新月会 宮内義彦氏の悼辞、ご遺族(お兄さま)のご挨拶にもあった通り、
先生は亡くなる2週間前、母校である関西学院大学グリークラブの
定期演奏会を、車椅子のまま指揮をなさったそうです。
その「雨」(八木重吉作詞、多田武彦作曲)の終曲
『雨が上がるように 静かに死んでいこう』
という、フレーズの通り、先生は静かに私達の前から消えてしまいました。
協ちゃんがいなかったら、大学時代はもっと味気ない時間だったでしょう。
それは、私の在籍した4年間と、関学(関西学院)グリークラブの黄金期が
ほぼ重なるから。東西4連にて関学を振り、東京6連では慶応ワグネルを。
そして我々の団を始め、上智、東工大を指揮する先生を追いかけていました。
協ちゃんがいなかったら、ブル(畑中良輔)先生との関わりも無かっただろう。
合唱、音楽についてだけでなく、団の運営などにも、ご指導いただいたこと、
本当に感謝しております。
協ちゃんの颯爽としたタクトをび見ることは、もう出来ません。
けれど、あなた音楽を通じて、多くの人間の心に生き続けることでしょう。
私も今は活動を休止していますが、また再び歌を始めます。
最後に。
あらためて、北村協一先生のご冥福をお祈り申し上げます。
少し風が強いけれど、よく晴れた穏やかな日差しの中、
四ツ谷の聖イグナチオ教会には、大学時代に協ちゃんの音楽に触れた
諸先輩方(OB,OG)が大勢集まりました。
私が聖堂に入ると、もう既に席はほとんど埋めつくされており、
座れず、立ったままの方もたくさんおられました。
いったい、どれだけの方がいたのだろう
お別れ会は、ヨゼフ・ピタウ大司教の司式で進み、最後に献花。
中央の祭壇には、颯爽と指揮する在りし日の先生の写真が飾ってあった。
新月会 宮内義彦氏の悼辞、ご遺族(お兄さま)のご挨拶にもあった通り、
先生は亡くなる2週間前、母校である関西学院大学グリークラブの
定期演奏会を、車椅子のまま指揮をなさったそうです。
その「雨」(八木重吉作詞、多田武彦作曲)の終曲
『雨が上がるように 静かに死んでいこう』
という、フレーズの通り、先生は静かに私達の前から消えてしまいました。
協ちゃんがいなかったら、大学時代はもっと味気ない時間だったでしょう。
それは、私の在籍した4年間と、関学(関西学院)グリークラブの黄金期が
ほぼ重なるから。東西4連にて関学を振り、東京6連では慶応ワグネルを。
そして我々の団を始め、上智、東工大を指揮する先生を追いかけていました。
協ちゃんがいなかったら、ブル(畑中良輔)先生との関わりも無かっただろう。
合唱、音楽についてだけでなく、団の運営などにも、ご指導いただいたこと、
本当に感謝しております。
協ちゃんの颯爽としたタクトをび見ることは、もう出来ません。
けれど、あなた音楽を通じて、多くの人間の心に生き続けることでしょう。
私も今は活動を休止していますが、また再び歌を始めます。
最後に。
あらためて、北村協一先生のご冥福をお祈り申し上げます。