ウィーンわが夢の街

ウィーンに魅せられてはや30年、ウィーンとその周辺のこと、あれこれを気ままに綴ってまいります

皇帝が愛し、皇帝を愛したビーダーマイヤーの町 ― バート・イシュル (下)

2012-10-29 00:04:20 | バート・イシュル

Trinkhalle ( 画像の背後左端に見えるのが郵便局 ) 2009年7月30日撮影

トリンク・ハレ ( 飲泉場 ) が建つ場所はアウベク広場 Auböckplatz です。ギリシャ神殿風の柱に飾られた建物は最初からのデザインで、建築後20年経って大幅な改修をする際にもこのデザインは維持されました。
1829年、ウィーンの建築家レスル Franz Xaver Lössl によって建てられ、1831年開業されました。
 (注) すでにこれ以前の1823年に塩泉療法医師ゲルツ Josef Goerz によってイシュル最初の Badestube ( 温泉浴のためのキャビン ) がつくられています。

こちらの画像の Trinkhalle の方は、皇室の侍医で、イシュルを温浴治療の町として確立させ、名を知らしめたヴィーラー博士 Dr. Franz Wirer 注) の主導により建てられたもので、ヴィーラー温泉場 Wirerbad ( あるいは Solbad 塩温泉場 ) と呼ばれました。温泉浴と同時に Molke ( 乳しょう ) を飲む療法も行われました。
 注) 前回の記事に出てきた Hoftheater もヴィーラーの主導で建てられました。バートが肉体を、劇場は心を癒す、というコンセプトからです。

これらを調べていて、以前このブログでドイツ、アウグスブルクのゲッギンゲン・クアハウス Kurhaus Göggingen (1886年完成) で書いたことを思い出しました。こちらの方は Milchkur ( 牛乳を飲むことによる肉体療養 ) と施設に併設された劇場で精神を解放する心の療養が一体となっていました 詳しくは→ 「『ヴィクトーリアと軽騎兵』 ― オペレッタに登場した日本人モガ」をお読みください。

ヴィーラーはフランツ・ヨーゼフⅠ世の侍医もつとめ、イシュルの名を避暑と湯治の場として確立させました。
ゾフィーが子宝に恵まれるように医師のすすめでイシュルで温泉治療をしたのは1829年で、その甲斐あってフランツ・ヨーゼフを無事出産したのが翌年の1830年。まさにイシュルの温泉治療の歴史と名声はフランツ・ヨーゼフの誕生とともに始まり、確立されていくことが分かります。

ところで、チェコのカールスバート、マリーエンバート ( ドイツ語読みで書いていることをお許しください ) も、バート・ガスタインもそうでしたが、ヨーロッパの温泉の主流は飲泉治療です。19世紀のヨーロッパでバート ( 温浴 ) が主流とならなかった理由は、やはり疫病感染、具体的にはよく知られるように梅毒の感染をおそれたからなんでしょうね。

このヴィーラー・バートには建物の南翼部に温浴キャビンが設置されていましたが、19世紀の50年代に治療目的としての建物の役割は閉じられて、翼部も取り壊されたようです。

第二次大戦後には建物全体が取り壊される話となりましたが、歴史的建造物を保存する運動がおこって、2005年施設は、旧駅舎の土地と交換する形でオーバーエーステライヒ州からバート・イシュルの所有となりました。

2007年からトリンク・ハレの改修が始まり、現在は中に入ると、ちょっとしたコンサートとか講演会ができるホールがあって、ホールと反対側のフロアーでは、ヨハンが訪れたときはオペレッタの資料展を行っていました。
飲泉場というより、現在は文化施設のような役割を果たしているようです ( というわけで今でもこの建物が飲泉場 Trinkhalle と呼ばれているのは歴史的理由からで、実際には温泉関連のものはここにはありません )。
参考にした記事では、しかし Trinkbrunnen はやがて再建の予定だそうです。



どうしても気になるのでカイザーテルメについて再度検索をかけました。

現在分かり得る範囲で補足しますと、ヴィーラーがイシュルにやってきたのは1821年。そこで医師ゲルツの塩泉治療の効能を知りました。ゲルツがその治療法を始めたのは1807年からで、塩生産場で働いている労働者の病気治療だったようです。1822年にそとから治療目的で訪れたゲストの数は40人ほどでした。翌年には効能を伝え聞いたためかゲストの数は倍増したと言いますから80名ほどになったということですね。そして1823年のイシュル最初の Heilbad の創設につながります。これはプライベートなものではなくて、はじめて Solebad (塩泉浴) 専用の施設がつくられたという意味です。Salinenkassier ( 塩生産であがる収益を管理会計する人ということでしょうか ) をしていたテンツル Michael Tänzl がトラウン河畔の自宅につくったもので、テンツル・バート ( Tänzlbad ) と呼ばれました。

ほかに公共のテルメ創設に関する記事は見当たらないので、カイザー・テルメはこのイシュルの地でのテルメの歴史そのものが180年前にさかのぼる、と言っているのではないかと思います。ちなみに現在カイザー・テルメはザルツカマーグート・テルメと名前を変えています。


バーデン(bW)にアドリア海の砂を持ち込んで市営の温泉プールが出来たのは帝国崩壊後の1926年でした ( → このブログの「バーデンへ行こう」をお読みください )。 温泉プールは市民の時代になってからの文化です。19世紀はあくまで医師の処方にもとづく治療として温泉浴が利用されました。




アウベックガッセに隣接する他方の通りは Pfarrgasse プファルガッセです。
そろそろ散歩に疲れたころかも知れませんね。
しばらく行けば、右手にカフェ・ツァウナーがありますから、一休みしましょう。

ウィーンでワインの小売とお菓子を売る仕事をしていたツァウナー Johann Zauner をイシュルでケーキ屋 (Konditorei) をするよう呼び寄せたのはヴィーラー博士でした。そして Maxquellgasse (トラウン川の対岸にあります) にあったヴィーラーの Keller (地階) でツァウナーがケーキ屋を始めたのが1821年。1832年に Pfarrgasse に本店を出しました。
父の死後店を継いだ息子 Karl はイシュルの大火で店を消失しましたが、4年後の1869年に同じ Pfargasse に現在の店を再建しました。シシーはイシュルを訪れるときは必ずツァウナーの店に立ち寄りました。

エスプラナーデの店は1927年、それまでカフェ・ヴァルターとしてあったものを 初代の孫 Viktor が Café Esplanade Zauner として開店させました。
エスプラナーデの店には音楽家や作家もたくさん訪れましたが、なかでもレハールはカジノ (ここはダンスホールが併設されたカジノでした) の負けや、ケーキの代金を Liedl (小さな曲) をその場でつくって支払い代わりとしたこともあったようです。

1958年ブリュセルの世界博でツァウナーの Ischler Törtchen は金メダルを得ています。このケーキは翌年コンサート・ワルツに作曲されました (作曲 Eugen Brixel)。

初代からすると何代目になるのでしょうか、養子となる方ですが 1948年生まれの Josef さんは、日本のケーキ専門学校で教えることもあり、1988年から客員教授をしているようですよ。



          
   Pfarrgasse のカフェ・ツァウナー本店 (資料写真)

ロゴには1832年の開業と記されています。日本で言うと天保3年だそうです ( だそうてす、って。なんてったって生まれていなので分かりません。 ) 鼠小僧が処刑された年だそうです。そうかあ、ツァウナーのおいしいケーキを食べることも出来ずに死んじゃったんだ。



(資料写真) ツァウナーの名物 Zauner Stollen ツァウナー・シュトレン
シュトレンも最近にわかに日本のクリスマス・シーズンになると店頭にならぶようになりました。でも、最初にシュトーレンなんて間抜けな発音した奴は一体誰なんですかね。音としてドイツ人が聞くと「何か盗まれた」と言う意味に捉えられますよ。あなたは「クーロワッサン」と発音しても笑いませんか?




さて、歴史散歩を再開しましょう。
ツァウナーの店を出たら右手、クアパルク Kurpark に向かって歩くと、建物の並びが途切れたところで、左手にようやくトラウン川を渡るエリーザベト橋が見えてきます。右手に目を向ければ、一角が広場になっています。シュレップファー広場 Schröpferplatz と呼ばれ、端っこにやけに大きな、立派な噴水が建っているので目を惹かれます。



Schröpferplatz 2009年7月29日撮影
プファルガッセ Pfarrgasse が終わるところがシュレップファー広場で、その角に大きな噴水が建っています。



Der Franz-Carl-Brunnen 1997年8月14日撮影

この噴水は1881年につくられたもので、フランツ・ヨーゼフの父の名をつけ、フランツ・カール・ブルネンと呼ばれます。ただフランツ・カールと直接結び付く要素があるわけではなく、柱の中ほどをぐるりと取り囲んでいる像は、それぞれイシュルの産業を支えた鉱夫、狩人、猟師をかたどっています。

南北にはしるこの大きな通りはヴィーラー通りといいます。西側に広がるのがクア・パルクです。中に入って北側に進むと、写真の大きな胸像が目に飛び込んできます。
バート・イシュルにとっては皇帝以上に町づくりの恩人として、彼は今もこうして町を見守っているのです。


Kurpark にたつ Wirer の像 (資料写真)

もうどこからでも、下の写真の建物が見えているはずです。


2009年8月30日撮影

これは1875年5月30日に建てられた Kurhaus を前身とします。その頃にはイシュルも観光客が多く訪れるようになって、その人たちのニーズをみたすに十分な大きさの建物が必要となっていたのです。
1965年2月の大火で大半が損傷しましたが、町は直ちに修復を決め、焼け残った部分を活かしながら再建しました。
やがて1977年に大規模な改修が決まり、ようやく1999年7月11日レハールの《パガニーニ》の上演で新装なった現在のコングスハウスのこけらおとしがおこなわれました。
私たちは新装前に二度クアハウスで夏のオペレッタを聴きましたが、そのときの印象は、客席の床が通常そうであるように後ろに向かって傾斜しておらず、前の人の陰になってずいぶんと舞台が見づらかったことと、何にもまして空調がよくなかったせいか、ひどく汗をかきながら聴いた記憶です。
現在は客席はとてもひろびろとして快適になりました。
パウゼになれば、クア・パルクにでて涼しい風に吹かれながら、舞台の余韻にひたることができます。

このクア・パルクのどこかにレハールの胸像が建っていますから、それを眺めつつ私たちはまたヴィーラー通りまで出て、今度は右手に向かって目の前のエリーザベト橋を渡って、トラウン川の対岸に出ることにしましょう。



Kurpark にあるレハールの像 2009年7月29日撮影


エリーザベト橋を渡って川岸の道を左手に進むと、直ぐの場所にレハール・ヴィラがあります。


トラウン河畔にたつレハール・ヴィラ (画像左側の建物) 2009年7月30日撮影

レハールは1912年にこのヴィラをサブラン公爵夫人 Herzogin von Sabran より譲り受けて以来、ほとんどの夏をここで過ごしました。遺言により死後は博物館として一般に公開しています。


次はもう一度橋のたもとに戻り、左に折れ、バス通りでもあるグラーツァー通り Grazer Straße を道なりに、坂道を上がっていくと、やがてバート・イシュルの市営墓地が右手に見えてきますから、多くの芸術家が眠るこのお墓を訪ねることにしましょう。


    
1997年8月14日撮影
左から、レハール Franz Lehár ( 1870年4月30日 - 1948年10月24日 )
タウバー Richard Tauber ( 1891年5月16日 - 1948年1月8日 )
O・シュトラウス Oscar Straus ( 1870年3月6日 - 1954年1月11日 )
の墓 


再びエリーザベト橋をエスプラナーデに向かってわたって行くとき、正面の建物(写真↓)にそれまでは気がつきませんが、壁面上部に Residenz Elisabeth の文字が読めます。



かつてのホテル・エリーザベト 資料写真

このホテルはイシュルきってのノーブルな高級ホテルでした。
創業の年が具体的にいつだったかは、調べがついていませんが、バート・イシュルを訪れた方は写真の左端に半円形のガラス張りのカフェが出来ていて、Cafe Sissy と名乗っているので、記憶に残っていることかと思います。そのカフェのホームページの説明によると150年の歴史があると書かれていますので、ホテルが出来たのは1860年代のことと思われます。英国王エドワード七世、ビスマルクなども宿泊したと書かれています。現在は2004年にカフェが開業したほかは、かつてのホテルは Wohnungsresidenz ( 高級マンションという意味でしょうか ) となっています。カフェ、レストランのホームページには写真がいくつか公開されていて、内装は一見の価値があるようです。( ヨハンたちが最初にバート・イシュルを訪れていた頃には建物はカフェのホームページの説明をそのまま引用すれば、まさに Dornröschen (眠り姫) 状態にあったため、その後カフェが開店したのを知っても、いつも混んでいる様子で、立ち寄らずじまいです。)
なぜ再建がなかなかかなわないのかについては、記述を見つけることができます。
バート・イシュルの多くの建物が大戦中 Lazarett 野戦病院として使われざるを得ず、戦争が終結を見ても、中はとてももとの建物の機能を復活できるような状態ではなく、資金の問題から放置されざるを得なかったようです。

ちなみに写真に見えている建物前のトラウン河岸に、夏のシーズンこの建物に入っている中華レストランがテラスを出します。今年メニューに海鮮いため(海老入り)というのがあって、頼んでみると、鉄板でまだぷちぷち音をたてている海鮮炒めが道路を渡って運ばれてきたので、まわりのお客さんも興味を惹かれたのでしょうね、ウェイトレスのお姉さん(多分経営者の奥さんかと思われます)は、その後もぷちぷち音を立てながら鉄板を運んでいました。海老もしっかりたっぷり入っていました。




エスプラナーデ Esplanade

エリーザベト橋を渡って左がエスプラナーデです。



1840年に描かれたエスプラナーデ 資料写真


   
1997年8月14日撮影 エリーザベト橋から眺めたエスプラナーデ

この散歩道は1830年につくられました。ゾフィーがフランツ・ヨーゼフを無事出産した年です。
その後1869年に拡張整備されました。途中にそのことを記したペナント碑があり、おそらくそれ以来ゾフィーのエスプラナーデと呼ばれるようになったものと思われます。

ずっと歩いていくと途中から森の中の小道に入り、左手にトラウン川のせせらぎを聞きながらなおどんどん歩いていくと、カトリンのロープウェイ乗り場までほとんど迷うことなく通じています。

カトリンの話は次回として、まずはかつての Seeauerhaus、現在市の博物館となっている建物について見てみることにしましょう。

ここはかつて塩を船で運ぶ運送業者 Seeauer ゼーアウアー の館で、川岸に船着き場がありました。
町が湯治場となり、1834年に大公フランツ・ヨーゼフとゾフィーがこの建物の二階を定宿とするようになりました。1853年にはここで皇帝フランツ・ヨーゼフはシシーと婚約しました。

大公夫妻が亡くなった後1878年には建物は Hotel Austria となりました。ホテルとしては1982年まで営業していました。その年市が州の資金援助を受け建物を買い取り、1989年3月11日博物館として開館しました。
わたしたちが訪れたときはまだ民族博物館といった趣でした。ヨハンはバート・イシュルでつくられる帽子を記念に買いました。今はどうやらシシーを中心とした展示などをおこなっているようです。

鉄道が出来る前はトラウン川は塩の運搬だけではなく、おおくの客が船でラウフェン方面に出かけたりするのにも利用しました。


ここからカフェ・エスプラナーデ・ツァウナーはもう直ぐちかくです。

   
     
カフェ・エスプラナーデ・ツァウナー 2009年7月29日撮影


         
         2001年8月1日撮影
パビリオンの前では夏のシーズンこのようにオープン・コンサートもあって観光客を楽しませてくれます


 
2011年8月8日撮影

この年はわたしたちとしてはめずらしく店内に入り食事をしました
店内はとても混んでいて、ドイツ人のご婦人と娘さんが席を探していたので、あい席しました。なにを召しあがられるのかな、と思っていたら、ケーキでした(写真のとは違います、これはヨハンが注文したものです)。そして、頬をすこし染めながら、いつもバート・イシュルにくると必ずこのケーキを食べるのです、とおっしゃいました。「それが楽しみで毎年きているのよ」
   



2011年8月8日撮影
私たちが初めてこのエスプラナーデのツァウナーを訪れたのは1990年、St.ヴォルフガングからオペレッタを聴くために日帰りで初めてバート・イシュルを訪れたときです。会場のクアハウスに近いので、立ち寄ることになったと思います。そのときメニューに Nockerl があったので、デザートは迷わずそれを注文しました。1983年ウィーンに一年いたとき、わたしたちはよく昔の映画を見にフォルクス・テアーター脇のベラーリアというリバイバル映画を専門に上映している映画館に通い、いろいろ昔の映画スターをスクリーンを通して知りました。ザルツカマーグートのことを知ったのも映画を通して。そして当時まだ存命だったペーター・アレクサンダーが映画の中で歌う「ザルツブルガー・ノッケルル」の歌。「どんな食べ物なんだろう」と以来ずーっと脳裏を離れずにいました。

運ばれてきたノッケルルにロザーリウムとわたしは本当にのっけぞりました。あははは。寒いだじゃれだ。

残念ながら写真は撮ってありません。

卵のスフレで、見た目はジャンボですが、口にするとふわふわふわ~と解けていきます。いろいろなジャムと一緒に食べた記憶です。

この写真は、ケーキ (ツァウナーも多くのオーストリアのケーキ屋さんのように、ショーケースで選んで番号札をもらって席で待つというスタイルです) を探しにいったロザーリウムが、戻ってくると、「ノッケルル、見本が飾ってあるよ」というので、ヨハンも「それっ」とばかりに見に行って撮影したのです。サンプルはつくりものなので、なんかパンのように見えているかもしれませんね。当時私たちが目にした実物はもっと見た目もふわあ、とした感じでした。




今回この記事を書くにあたってグーグルの地図でバート・イシュルを子細に眺めているうちに、テンツルガッセ Tänzlgasse という名前の通りが、このツァウナーのすぐ近くにあることが分かりました。イシュルで最初にトラウン河畔の自宅に Solebad をつくったあのテンツルです。どうやらこのあたりだったようです。(ウィーンだとすべての記念的建造物には赤白の旗がなびいて、その下に説明が書かれたプレート板が飾られているので、すぐにそこが歴史的な建築物だと分かるのですが、バート・イシュルについてそういうものがないので、なかなか苦戦します)


川の方に目を向けるとこの近くに再び川をわたる橋がかかっています。
バート・イシュルの散歩の締めくくりに、その橋を向こう岸にわたって、目の前に見えているジリウスコーゲル山頂まで歩いて上ってみることにしましょう。



ジリウスコーゲル Siriuskogel



資料写真

この山、山頂の標高599m、町からですとおよそ130メートルくらいの高さの山です。
山頂に見えている塔 Aussichtsturm は1885年に出来ているので、そんなに古いものではありません。
インゲンハイムはフランツ・ヨーゼフとシシーの婚約が決まった日のことを次のように記しています。

「午餐(ディナー)はハルシュタットでとる手はずになっていた。そこへ向かう途中、シシーはちょっと寒けがした。フランツ・ヨーゼフは、そのいたいけな体を暖かい軍用コートに包みこんだ。こうして彼はフィアンセにぴったり寄り添うこととなり、前日の雨に洗われてすがすがしくなった風景を一つ一つ彼女に示していた。
 バート・イシュルに戻ってきたのは、晩ももう遅いころだった。そこでシシーは思いがけずすばらしいものを見る。二人の婚約を祝して、この小さな町に数千のローソクが灯されていたのだ。シリウスの丘では、たくさんの小型ランプで"花嫁の花冠"が夜空に描き出されており、花冠の内側にはFJとEのイニシャルが輝いていた。通りという通りで、住民がカップルの帰りをしんぼう強く待っていた。このときばかりはシシーも、人々が皇帝に示す忠誠に心打たれる想いだった。」
(マリールイーゼ・フォン・インゲンハイム「皇妃エリザベート」、集英社文庫)

山頂に至るルートはいくつもありますが、ここから川の対岸に出ていく道が多分一番分かりやすいのではないかと思います。ジリウスコーゲルの標識に従って歩いていきます。
途中からは息が切れる急坂ですが、そんなに高い山ではないので、ゆっくりゆっくり登って行きましょう。


    
Einsiedlerstein (左は資料写真、右は今年8月14日にヨハンが撮影したものです)

ちょうど道半ばのところでしょうか、森の中にこのような岩が姿を見せます。
Einsiedlerstein と呼ばれていると説明があるので(左の写真)、ヨハンはてっきりこんな森の中で大昔に身を隠していた世捨て人がいたのか、と思ってしまいました。

どうやらそれは全くの誤解で、世の中から見捨てられたのはこの岩そのもののようです。

見捨てられたという表現も変か。これは大昔に氷河がここに残していった岩だそうです。



    
ジリウスコーゲル山頂 2012年8月14日撮影

写真はありませんが、展望塔は登ることができます。
レストランがありますから、テラスでビールでも傾けながら、バート・イシュルを上から見てみるのはいかがでしょうか。
右側の写真の右手前に見えているのが  Jainzenberg、カイザーヴィラはその麓にあります。

画質が落ちますが、写真を拡大してみます


旧ホテル・エリーザベトの左端にカフェ・シシー、フランツ・カール・ブルネンも確認できますね。そして教区教会 Pfarrkirche





おまけです


2011年8月9日撮影

バート・イシュルにはたくさんのヴィラが今も残っています。
大半はコングレスハウスより西側にあります。私たちが泊まったホテル Stadt Salzburg からオペレッタ会場のコングレスハウスに出るにも、いろいろな道があり、ネストロイのヴィラも歩いている途中で見つけました。それらは今も個人の所有で公開されているわけではありません。一日ゆっくりと町はずれに向かって散歩してみると多少昔の面影に触れることが出来ると思います。

そしてこのようなばかでかいシシーの像を置いているヴィラにも出くわしました。

持ち主はどのような人なんでしょうかね



2009年7月30日撮影
町はずれに足をのばせば、こうしたオーストリアらしいのどかな景色が広がります

( この記事は2012/10/10 と 2012/10/13をまとめたものです) ヨハン


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