ウィーンわが夢の街

ウィーンに魅せられてはや30年、ウィーンとその周辺のこと、あれこれを気ままに綴ってまいります

オペレッタ『こうもり』 とその種本が描きだした世界

2011-02-24 10:02:39 | オペレッタ
以前『こうもり』の台本作者が二人ともプロイセン人であったことを書きました。

このオペレッタの原作はフランスの戯曲、アンリ・メイヤックとリュドヴィック・アレヴィによる《Le Réveillon》という作品でした。タイトルの意味はクリスマス・イヴや大みそかに夜を徹してなされる宴のことです。

そもそも仮装、変装してのどんちゃん騒ぎでの無礼講、そこでは時に主人と従者の立場も入れ替わり、身分社会、宗教的な戒律の枠組みは外れ、日常から脱し、ストレス発散 ―いわゆるガス抜きというやつですね― することがこうした催しの実用的な目的、真の姿であったろうことを考えれば、喜劇にとってもオペレッタにとってもクリスマス、カーニバルがお気に入りのテーマになることは容易に想像できます。

『こうもり』では、取り違えの相手が自分の妻であることに最大のシャレがきいていました。
アイゼンシュタインはアデーレを見ればお尻にタッチせずにいられない浮気者ですが、アデーレに熱を上げたりはしませんし、いくらアデーレが妻ロザリンデの衣装にめかしこんでいようと、一目で侍女と見抜いています。アイゼンシュタインの無粋はその事実を口にすることなのです。ロールプレーの世界では役者は演技が求められるのであって、自分の役回りを忘れて観察者の側に回るなど無粋のきわみです。アデーレにたしなめられ、満座の嘲笑を浴び、以後アイゼンシュタインは見事にファルケのシナリオを演じ、妻を口説きます。

他方の妻ロザリンデはどうでしょうか? 表向き留置場に向かうはずのアイゼンシュタインが夜会服に正装して我が家を出ていくにあたって、ロザリンデは

So muß ich allein bleiben
Acht Tage ohne dich?

あなたと一週間も離れて
独りでいなくちゃいけませんの?

と大げさ極まりなく悲しみの言葉を口にしますが、言葉とはまったく裏腹にステップは次第にワルツ、隠しきれない心の奥から湧き出る喜びに包まれ、結局アイゼンシュタイン、アデーレとともに3者が3様に喜びのワルツの3重唱に一体化してしまいます。

O je. O je, wie rührt mich dies (Nr.4 Terzett)

ああ、ああ、感動で胸も張り裂けそう

感動というのは、表向きは夫を思って悲嘆にくれてみせるロザリンデの夫婦愛、しかしてその実態は夫から解放される喜びです。オ~ マイ ガッ!! やはり恐ろしいですなあ、女性は。

案の定、アイゼンシュタインが出ていくや否や、ロザリンデのもとには元彼のアルフレードが入り込んできます。
オペレッタではいつの間にかという形でお芝居が進行しますが、まさかねえ、アルフレードが窓から入ってくるとも思えないし、どう考えたってロザリンデが迎え入れたとしか考えられないでしょ? それどころかアルフレードはアイゼンシュタインのガウンに身を包みます。そのためアルフレードは警察署長フランクにとり違えられて留置場につれていかれる訳です。どう考えても現実の世界なら大スキャンダルですよ。

この一代ピンチにあたって、アルフレードは有名な科白「Glücklich ist, wer vergißt, Was doch nicht zu ändern ist!」(逆らえない運命を忘れてしまえる人は幸せだ) (Nr.5 Trinklied) を唄うのです。しかも、朗々と。

『こうもり』が初演(1874年4月5日)された時代、ウィーンは前年の5月9日の世に言う「ブラック・フライデー」で株が大暴落、まさにバブル崩壊の経済恐慌に襲われました。お酒で全てを忘れてしまいたい時代だったという意味でこのアルフレードの言葉はよく引き合いにだされてきました。しかし、アルフレードの歌、出だしでは「Trinken macht die Augen hell」と唄っています。お酒を飲めば物事がよく見えてくる、という意味ですね。やはりこの一言もとても利いていると思います。

世の中どうにもならないことをうじうじうじうじいつまでも引きずる輩ばかり。そういう輩こそお酒はね、飲ませても無駄、っていうくらいなものです。
お酒で脳味噌の縛りをとって、物を冷静に洞察してみようよ、そしてその結果、どうにもならない運命が見えてきたら、それはそれで身をまかせていこうじゃありませんか。こういう人生訓なのです。

ウィーンを襲った経済恐慌、もちろんウィーンの人々すべてを打ちのめしたかと言えば、そこには快哉を叫ぶ大衆もいたのです。Bartel F. Sinhuber はその著でこの事態を次のように分析してみせたコラムニストの言葉を紹介しています。(《Alles Walzer》Europaverlag)

「証券所は積年の罪の重さに耐えきれずに崩壊した。昨日からまっとうな人間が大手を振って町を歩くことができるようになった。汗して働く人間がばかもの呼ばわりされずに済むようになった。昨日から泥棒は男爵なんかでなくて、泥棒と呼ばれるようになったわけだ。すっかり毒されてしまった空気をこんなに見事に清めてくれた嵐はかつてなかったことだ」(コラムニストFerdinand Kürnberger の言葉)

アルフレードは突然現れるわけではありません。今は人妻となったロザリンデの夫アイゼンシュタインが留置所送りで不在となる情報を手に入れたからこそ、彼女のもとを訪れ口説いているわけです。一週間の自由を手にしたロザリンデは誘惑すれば落ちると踏んでいるからです。アルフレードは「観察」者なのです。

そもそもアルフレードはロザリンデの元彼ということになっています。ロザリンデはアイゼンシュタインと結婚するためにどうやら縁をきり、姿を消したらしいと想像されます。なぜならアルフレードはようやくロザリンデの居場所を捜しあて、お芝居の幕が開くや否や舞台のそでから

Täubchen, das entflattert ist,
Stille mein Verlangen

僕の手から飛び去って行った子バトちゃん
ぼくの切ない気持を慰めておくれ

なんて、唄っているのですからね。

でも、なぜロザリンデはアルフレードと縁をきったのでしょう?
それはアルフレードには金がないからです。他方のアイゼンシュタイン、「銀行家」と紹介しているバージョンもありますが、ほとんどのバージョンでは Rentner  (年金、または金利生活者) と書かれています。どっちなんでしょう? どうでもよさそうですが、そのことで彼の想定される年齢が変わってきます。ヨハンは仕事に成功し、侍女 (アデーレ) を雇うほどの大金持ちで、現在は退職し、株取り引きでもしている初老の男と想像しています。ロザリンデの気をひいた要素としてはお金以外にありません。

他方のアルフレードは若さいっぱい、唄声を耳元に吹き込めばロザリンデの理性なんかひとっ飛びに吹き消してしまうと自信を持った色男。アルフレードのテクは交際中に体に十分しみこませてきたとばかりに窓辺でテノールでロザリンデに呼び掛けているのです。金なしのアルフレードにはアイゼンシュタインを敵に回して生活力という点で勝負したら、勝つ見込みはありません。しかし、そのアイゼンシュタインは一週間の留置所生活、俄然色男アルフレードにチャンス到来という場面ではありませんか。

なんだかなあ、オッフェンバックの『天国と地獄』の世界 ―夫に飽き飽きしていると言いながらオルフェに耳元できんきんバイオリンを弾かれると身もだえするユリディス― みたいだ。テノール、バイオリンを聴かせると女性の理性が吹っ飛んでしまうのかと、これは音楽の才能のない男としてはおちおちしてられない話ですよ。
あ~あ、せめてピアノくらい習っておけばよかったと後悔するヨハン。

しかしこれらは象徴にすぎないわけで、真に受ける必要はありません。その象徴があらわしていることは異相の世界です。日常の世界を支える価値観、現実世界で役立つ価値とは経済力です。男としての価値の優劣がそのことでのみ決められる (これこそはまさに19世紀に出てきた新しい価値観にほかありません) ことへの疑問、価値崩壊、価値逆転がこのことで起こるわけです。実際、テノールのいい声がでたところで、そのことでおなかがすくことはあっても、腹の足しにはなりません。経済活動の視点からすれば無です。―とは言え、お墓の歌かなんかで突如ひっぱりだこになってテレビに出まくっている歌い手もいますから、現代では音楽は残念ながら立派に経済活動になり果てた現実がありますけどね。
芸術が経済価値に置き換えられていくようになるのも19世紀に出てきた考え方です。

19世紀の資本主義社会において、女性は経済的に安定させてくれる相手 ―勝ち組という連中ですな― に安らぎを感じつつ、その一方で人間の生きざまの多様性が捨象されて、男たちが単一の価値スケールで測られていく新思考の中で、競争に加わるわけでない女性たちは退屈さに打ちひしがれたのです。
ちょい悪野郎でも、異相の世界を垣間見させてくれる相手の方に女性の理性は緩むわけです。オペレッタの世界ではこのちょい悪親父はたいてい男爵か伯爵と相場が決まっています。侯爵、公爵にくらべて気軽な身分だからだとヨハンは思っていますが、これはこれから研究したいテーマです。

オペレッタが好んで描いたこうした宴の世界では心の縛りを自ら解放することが眼目で、その後また登場人物たちは現実世界に後戻りするであろうことは想定済みの世界です。現実世界そのものがひっくり返されることはありません。やがて待ち受ける運命を予感していたのか、そうでないのか、とにかくあらがうこともなく世紀末にひた走っていく、これがウィーンの貴族社会の遊び心、爛熟した退廃文化をつくったのでしょうね。
もちろんシュトラウスは音楽を通して人々を躍らせてはいましたが、その目は <hell> 、しっかりその退廃の美を見届けていたのです。なぜかと言えば、運命は逆らえないからです。

そんな苦虫をかみつぶしたような顔をしていないで、さあ
みなさまも、どうぞワルツを Alles Waaaalzer!!


☆ ☆ ☆

ヨハン・シュトラウスのオペレッタ『こうもり』が直接的には1872年にパリのパレ・ロワイアルで上演され好評を博していた芝居 《Réveillon》 (イヴのどんちゃか騒ぎ)をタネ本にしていると冒頭に書きました。

この芝居も、どうやらもとをたどればドイツ人ロードリヒ・ベネディクスRoderich Benedix (1811-73) という人の戯曲 『監獄』 《Das Gefängnis》 をもとに書かれたもののようです。

*『監獄』のあらすじ (ツェントナーに拠ります)

夫の家で、という女性の望まぬ逢引を無理やり承知されたと思ったら、その間男が不在の夫と間違われて逮捕される。世間に逢引の事実がばれてはまずいので、彼氏は夫の身代りとして監獄に連れていかれる。

オペレッタ『こうもり』と筋の骨格は同じです。残念ながら、しかし、これ以上の詳細は、戯曲がいつ発表されたものなのかも含めて現在のところまでヨハンには全く知り得る手段の持ち合わせがありません。これを紹介しているヴィルヘルム・ツェントナー Wilhelm Zentner  (レクラム文庫 《Die Fledermaus》 解説) 自身も、ベネディクスから『こうもり』への影響関係を過大に考える必要はないとも書いていますので、これはこれで頭におさめて、ここでは一つ前の作品、つまり、『監獄』と『こうもり』の間ある作品ですね、『こうもり』にとって直接関係を指摘されてきている作品、メイヤック&アレヴィ台本 (アレヴィはオッフェンバックの『天国と地獄』のリブレティストの一人でした) の 《Réveillon》 について見てみることにします。
*Henri Meilhac (1831ß97)、Ludovic Halévy (1834-1908)




先ず、登場人物を『こうもり』と比べて一覧してみましょう。『こうもり』の方はカタカナ (レクラムに拠って書きます)、その後に対応する 《Réveillon》 中の人物はまずアルファベートで並べていきます。

ガブリエル・フォン・アイゼンシュタイン・・・年金 (金利) 生活者// Gabriel Gaillardin ・・・der wohlhabende Rentner (ガブリエル・ゲヤルダン・・・富裕な年金、金利生活者)

● Duparquet・・・Notar (デュパルケ・・・公証人)

プリンス・オルロフスキー// Yermontoff・・・der junge russische Prinz (イェルモントフ・・・ロシアの若きプリンス)

ロザリンデ// Fanny (ファニー)

アルフレード・・・ロザリンデに歌を教えた先生// Alfred・・・Geiger (アルフレード・・・バイオリン弾き)

フランク・・・監獄長// Tourillon・・・Gefängnisdirektor (トゥリヨン・・・監獄長)

● Metella・・・ein schönes, früheres Hirtenmädchen von Pincornet-les-boeufs. (メテッラ・・・・もとはパンコルネ・レ・ベフの羊飼いの美人娘)

*Pincornet-les-boeufs はネット検索をするとヒットします。実在の地名です。クルーズのサイトに出てくるのでフランスのセーヌか、ロワールかの河岸の村のようです (それ以上の詳細は目下つかめていません)。


ご覧のように、『こうもり』が 《Réveillon》 に依拠して書かれたオペレッタであったことは一目了然。登場人物の対照を表にできるほどです。そうなのですが、しかし、また、あえて、対応に無理がある人物については●印をつけました。二つの作品の間には大きな違いがあることもはっきりしてきます。それを見てみましょう。

『こうもり』で重要な役割を演じるDr.ファルケ、プリント、そして小間使いのアデーレが《Réveillon》 に登場する人物と比べると大きく役回りが違っています。

先ず、《Réveillon》 の設定場所と時期ですが、これはクリスマス・イヴのパリです。
この時期について、R・シュトルツ指揮の『こうもり』(DENON) で解説を書かれている保柳健氏がこのように書いています。

「アン・デア・ウィーン劇場の支配人、マックス・シュタイナーはその劇の内容どころか、題名の意味さえよく分からずにウィーンでの上演権を買ってしまった・・・「レヴェーユ」(を)“起床ラッパ“と混同したよう (です)・・・クリスマス・イヴに・・・フランス人がやるような“僧侶も尼僧とワルツを踊る“どんちゃん騒ぎ・・・などは、ウィーン人にとってはそれこそ“神への冒涜“・・・“喜劇の台本“は (お蔵入りとなりました)」
「ところが・・・知恵者はいるもので・・・“クリスマス・イヴの晩餐“を・・・移しかえれば問題はない」

ウィーンはマリーア・テレージアの時代から (表向き) 風紀には厳しい土地柄であったことも事実ですし、大司教のおひざ元、シュテファンとホーフの距離は歩いて30分もかかるかどうか。でも、オーパンバルを調べるなかで既に見てきたように、その宮中で12月のクリスマスの時期に、舞踏会を幾夜も開くのはまずいんでないですか? と再三お坊さん側からクレームが入り、やむなく宮中舞踏会の時期も場所も移したのです。

アン・デア・ヴィーンの支配人がレヴェイヨンをレヴェイユと誤解したかどうか、その真偽はヨハンには分かりませんが、オペレッタ『こうもり』では教会側からのクレームを避けたのでしょう。時期は大みそかにずらされました。

以上を踏まえて、あらすじです。

『イヴのどんちゃか騒ぎ』 あらすじ

第一幕
ガブリエル・ゲヤルダンは留置場送りの判決が下された身であったにもかかわらず、公証人デュパルケの誘いにのってイェルモントフのヴィラで開かれる夜会 (ソワレ) に出かけていく。その間自宅では妻のファニーが最初激しく抵抗したのにもかかわらず、結局バイオリン弾きのアルフレードにあがりこまれ、ふたりでいるところに夫を連行しにきた監獄長トゥリヨンに逮捕連行される。

第二幕
ゲヤルダンとトゥリヨンは名前を偽ってイェルモントフの夜会に出席している。この宴の席でゲヤルダンは美人メテッラの魅力のとりこになってしまう。

第三幕
ゲヤルダンが留置所に出頭してきてびっくり仰天。なぜなら彼が留置されるべき檻にはすでにアルフレードが入っているからだった。そこでゲヤルダンは自宅でなにがあったか知るために弁護士に扮装してさぐろうとするものの、要領を得られない。
最後にデュパルケが登場してすべては自分がプリンス・イェルモントフを楽しませるためにしかけた一場のファルス (笑劇) だと種明かしをする。

このツェントナー解説による最後、ラストの場面からすると、アルフレードも、メテッラも仕込まれた役者 (トラップ) だったのかもしれません。

そう考えると、この作品はそれなりに喜劇として後味の良い完成された作品とも思えます。

『こうもり』はこれに比べると少し手が入りすぎている気がします。ロザリンデ、アデーレがともに夜会に出席するのもなんとなく不自然です。しかし、まあ、そうした構成ですばらしいシュトラウスの名曲がたくさん生まれたことを考えれば、よしとしますか。

ちなみにフロッシュはオリジナル『こうもり』の台本ではセリフは与えられていなかったそうです。実際の公演のなかで、今日のギャグが生まれていったようです。(アーノンクール指揮『こうもり』TELDEC、解説マンフレート・ヴァーグナーに拠る)


ヨハン (この記事は2011/02/20と2011/02/23をまとめたものです)

ウィーンのファッシング ―オーパンバルの歴史

2011-02-24 10:00:38 | ウィーン
◎ ファッシングと舞踏会

ウィーンではカーニバルのことをファッシングと呼びます。

この言葉 Vaschang/ Vaschanc はすでに13世紀に使われ始めました。語源は Fastenschank という言葉で、当時まだ厳格に守られていた断食期間を前にしての最後のお酒の販売 (Ausschank) を表しています。

このファッシングの期間がウィーンではまた舞踏会のハイ・シーズンでもあります。
毎年この舞踏会シーズンにウィーンを訪れる人々の数は4,700人ほど、その半数は外国からのお客さんです。オーストリアの観光産業にとって舞踏会が持つ広告効果は欠くことのできない経済要因の一つになっているのです。

ちなみにウィーンでは年間400以上の舞踏会が開かれています。参加者の人数を合算すれば年30万人以上の人が舞踏会に参加している計算です。


◎ ウィーンの舞踏会

それにしてもなぜ舞踏会をパルと呼ぶのか不思議ですが、簡単に言ってしまえば、フランス語のバレエと同じ語源からきたものです。

ドイツ語圏では舞踏会は先ずは Dantz と呼ばれていました。しかし17世紀にフランス語の bal ―ラテン語の ballare (踊る) からフランス語 baller が生まれ、そこから bal (舞踏会)、ballet (バレエ) が造られました ― が入ってきて、18世紀には一般にあらたまった舞踏会をパル (Ball) と呼ぶようになったのです。

ウィーン舞踏会公式暦を見ると、さまざまな舞踏会が行われていることが分かります。《フロリッツドルフ水難救助隊舞踏会》なんていうのもありますが、そんなので驚いてはいけません、《ホームレス舞踏会》、《難民舞踏会》っていうのもあるのですから。

舞踏会が始まる時間は夜、通常20時くらいです。ガーデンパーティで軽い飲み物から始まってパルに移っていくようなケースだと17時とか18時に始まることもあります。しかし開始時間は季節がいつかにもよって変わります。


◎ オーパンバル

ウィーンのファッシングで現在も大きな社交イベントのひとつに数えられるのがウィーン国立歌劇場で開催されるオーパンパル (Opernball オペラ舞踏会) です。入場者が12,000人ほどを数えるくらい、国の内外から芸術家、企業家、政治家を一堂に集めてのオーストリア最大の行事と呼んでよいものです。

オーパンパルの伝統は1814/15年のウィーン会議の時代にさかのぼります。この政治的な出来ごとに合わせホーフオーパー (宮廷歌劇場) の芸術家たちがダンスの会を催したのです。初めて今日の場所でオーパンパルが開催されたのは1877年12月11日の夕べでした。
帝政が終焉した後も、この伝統は直ぐに復活されました。1921年1月21日には第一共和政下での最初のオペラ舞踏会 (Opernredoute) が開かれています。

オーパンパルの名で開かれた最初の舞踏会は慈善を目的に開催されました。
以来オーパンパルは(ほぼ)毎年ファッシング期間中の最後の木曜日にウィーン国立歌劇場で開催されてきました。例外は第二次大戦時のような戦時下でした。しかし1939年には開戦が差し迫るなか、ドイツ帝国政府の命令によって挙行されています。

1956年2月9日に第二次大戦後初めて再会されます。その後のことで言えば湾岸危機を理由に1991年にも中止されました。大勢の国の内外からの来賓客をお招き出来る保障がなかったためでした。

ウィーン国立歌劇場はこの舞踏会の日地下室から天井裏まで至るところが開放され、すべての人が通り、また踊ることができます。
また毎年カジノ・オーストリアがオーパンパルのために館内に運だめしのためのカジノコーナーを開設しています。
レストラン、シャンペンバー、牡蠣バーのほか、ホイリガーも開設されます。ケータリングのサービスのほとんどを受け負っているのはウィーンの宮廷御用達菓子店カフェ・ゲルストナー (K.u.K. Hofzuckerbäckerei Café Gerstner )です。

2005年に初めてオーパンパルでの禁煙が宣言されましたが、この頃にはまだ喫煙者のために2つサロンが用意されたりしていました。2008/2009年のシーズンから全面禁煙となり、喫煙者用に小さなバーがいくつか設置されました。

2007年には初めて盲導犬がオーパンパルに入ることが許可されるようになりました。

☆ ☆ ☆

オーパンパル (オペラ舞踏会) のオープニングには180組ほどのデビュタントたち (das Jungdamen- und Herrenkomitee) が参加します。彼らにとってこの日が社交会デビューとなり、大人社会に仲間入りが許されるという次第です。したがってここで大切なことはダンスの上手い下手ではなくて、社交の場にふさわしいマナーを身につけていることです。

ファンファーレとともに連邦大統領がロージェに到着します。連邦国歌、第九合唱 (Freude, schöner Götterfunken) の演奏後、カール・ミヒャエル・ツィーラー作曲の扇のポロネーズが演奏される中デビュタントたちがホールに入場してきます。

注) 2006年に山本大輔氏が自ら取材され紹介している「デビュタント」たちの記事 (ウィーン発BOE、VOL.20ウィーンの舞踏会) では入場の曲としてショパンの軍隊ポロネーズが演奏されたと紹介されています。必ずしもデビュタント入場の曲は毎年同じと決まっているわけではないようです。

2008年のオペラ舞踏会の模様を ORF がライブ中継したものが YouTubeに 画像 up されていましたのでご紹介しておきます。

http://www.youtube.com/watch?v=ZFSAdRM-yh4&feature=fvst

デビュタントの入場シーンです。アナウンサーが音楽は Fächerpolonäse と紹介していますね。

検索画面にはこの曲 Fächerpolonäse そのものも up されていましたので、あわせてご紹介しておきます。

http://www.youtube.com/watch?v=PQ_l5OVdHH4&feature=related


デビュタント全員によるダンスが終わると開会宣言。それを受けてデビュタントたちが最初のワルツを踊ります。最後にデビュタントを指導したダンス学校の先生が「皆様ワルツをどうぞ」 ― 伝統的にヨハン・シュトラウスに倣い <Alles Walzer> と声がかけられます ― の呼びかけにより、舞踏会がスタートします。(一部山本大輔氏からの引用)

真夜中0時に真夜中のカドリユが始まり、朝3時には次のカドリユが始まります。

舞踏会の終了時刻は朝五時きっかりです。きっかりという言葉はPunkt 5です。オペレッタ 《こうもり》 では6時の鐘がなるとアイゼンシュタインが大慌てしましたね。

舞踏会の終了にあたってはオーケストラが次の三曲を演奏するのが伝統です。

ワルツ 《美しき青きドナウ》、《ラデツキー行進曲》、そしてフェルディナント・ランムントの『百万長者になった農夫』(1826年初演) という作品に出てくる 《かわいい兄弟》 ( „Brüderlein fein“ )です。

*この曲は歌詞からして《蛍の光》のようにお別れの曲として選ばれているようですね。

Brüderlein fein, Brüderlein fein, zärtlich muß geschieden sein,
Brüderlein fein, Brüderlein fein, s' muß geschieden sein.
Denk manchmal an mich zurück, schimpf nicht auf der Jugend Glück.
Brüderlein fein, Brüderlein fein, schlag zum Abschied ein.

かわいい兄弟よ、静かにお別れしよう
かわいい兄弟よ、お別れは避けがたい
ときに私のことを思い出してくれ、青春の運に悪態をついてはならぬ
かわいい兄弟よ、さあ旅立って行け

☆  ☆  ☆

オーパンパルは国立歌劇場で開催されるとしても通常のオペラ公演のように一般の私たちにとって、チケットを購入すれば誰でも入場が許されているというものでありません。

ウィーンのオーパンパルには複雑な招待システムがあるようです。

1Aランクの人々、ここには名士がランクされます。V.I.P.ですね。この方々は舞踏会を輝かしいものにする招待客です。

Aランクの人々。やはり招待で舞踏会に花を添えていただく存在です。

一般の名士には慇懃な招待状の形でチケットに値が付けられたものが送られます。

これ以外の人々にはパルが支援するチャリティに寄付をするという形でチケットを手に入れる方法が残されています。

年間を通して寄付を幾度か重ねることで、ひょっとして一つ上のランクの形式招待状 (チケットを購入する招待状) を送られるようになる可能性があります。その場合でもチケットは2枚が限度と厳しく定められています。

いずれにせよこうした場合コネが最大のポイントらしいようです。催しのスポンサーにはチケットの割り当てがあり、彼らはまた独自の選択基準によってビジネス・パートナーなどにチケットを譲っています。

書面による招待状は遅くとも2、3週間前には送られ、舞踏会の趣旨のほか、服装についての注意が書かれています。

☆  ☆ ☆

最後に Brüderlein fein も検索してみましたのでご紹介しておきます。

最初の動画はウィーン少年合唱団です。来日公演の画像でしょうか?

http://www.youtube.com/watch?v=H3cUz7WzBBg&NR=1

タイトル字幕は「かわいい兄弟」ヨーゼフ・ドレヒスラーとなっています。たぶん NHK の中継を録画したものと思われます。

しかし、別のところでも書きましたが、NHK には相当優秀なスタッフと潤沢な予算があるはずなのに、どうしてドイツ語の発音をチェックしないのでしょうかね? 本当に不思議です。

作曲家 Joseph Drechsler (1782-1852) も今は検索で簡単に調べることが可能です。発音はもちろんヨーゼフ・ドレクスラー です。

次にご紹介する画像はお芝居の舞台で歌われているシーンです。字幕が残念ながら中国語です

http://www.youtube.com/watch?v=y2UCFdQm5hg



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現在のウィーン・オペラ舞踏会は見てきましたように、連邦大統領はじめ、すべての政府関係者が出席し、国内外の賓客を招き、正装の上勲章を身につけ集まる催しであることからして、政治的な意味を持つ国家イベントであることは明らかです。このことはそもそものオペラ舞踏会の成り立ちからしてはっきりしていました。
オーパンバルのもとになったホーフパル(宮廷舞踏会) が開催されていた時期は12月でした。しかし教会側からAdvent (待降節) の精神世界に思いをすべき大切な時期に宮廷が舞踏会 (それもこの時期一度だけではありませんでした) を開いてどんちゃん騒ぎ (という言葉で教会が非難したかは別ですが) をしているのはいかがなものか、とクレームが激しくなってきたのです。

そこでホーフパルは表向き断念され、リング* に8年前に新しく建設された今日の歌劇場**に場所を移し、Opernsoirée (オペラ座の夜会) という形で公式の舞踏会を再会した (1877年12月11日) のが今日のオーパンバルの起源です。

ライプチヒ挿絵新聞は翌1878年1月18日の記事でオーパンバルがオーパンソワレと姿を変えはしているものの実態は元通り。しかし教会は主張が聞き入れられたことに満足し、他方舞踏会なくしては生きられないウィーンの血 (Wiener Blut) も満足するというまことにウィーンらしい解決法、と紹介しています。(Bartel F. Sinhuber 《Alles Walzer》, Europaverlag) 

そして翌年にはカーニバルの時期にあわせ3月2日に歌劇場で最初の《Redoute》 ***(舞踏会)が開催され、今日のオーパンバルの形がきまったのです。

(*リング: 1858年にウィーンの都市改造が始まり、街をとり囲んで来た城壁が壊され、リング通りが造られていきました)

(**ウィーン国立歌劇場: 1869年5月25日がこけらおとしでした、ちなみにこの歌劇場はもちろん当時は宮廷歌劇場と呼ばれていました。第一次大戦後の共和制下では単にオペラ劇場と呼ばれ、国立歌劇場 (Staatsoper) はそれまで通称として使われていましたが、正式呼称となるのは1938年のナチスに併合された時代です)

(***Redouteという言葉はもともと城塞の四角い堡のことでしたが、それが舞踏会場に使われ、舞踏会そのものにも使われるようになりました)


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カーニバルについて調べ始めると、その宗教的な意義に踏み込んでいかざるを得ませんでした。しかし面白いことに、さらに歴史をたどると今度はまたカーニバルには、なんとかその宗教的な意味を薄めてというか、むしろ排除して世俗化していこうというエネルギーが実は昔からあったことも分かってきます。
ヘルマン・シュライバーの『ヴェネチア人』にはこの街の文化そのものであったカーニバルについて、このように記述されています。

「十月の最初の日曜日に、ヴェネチアでは毎年カーニバルが始まった。クリスマスでちょっと、四旬節でもう少し長く中断されたが、御昇天の大祝日のあとでなお二週間のカーニバルがつづき、それから貴族たちは田舎へ出かけた。こういうわけで、つまるところヴェネチアにいればいつでもカーニバルであって、ほかのところではカーニバルの数週間のあいだだけ忘れられるきびしい習俗を回復するのに、この短い中断期間では足りなかった。
人生のこういうすごしかたは十八世紀とともに始まった」(『ヴェネチア人』ヘルマン・シュライバー著、関楠生訳、河出書房新社)

ドイツ、ライン河畔の内陸部にみられる宗教と強く結びついた催しであり続けるカーニバルと、海洋都市ヴェネチアとではカーニバルもまったく別の色彩を帯びて見えるのです。

世界に開かれた都市国家ヴェネチアが貿易で栄えるためには、もちろん宗教によって交易相手が排除されるなどということはあってはならないことです。この街では寛容が支配したのです。
楽しいことは一日でも多い方がいい。それは宗教的には堕落の非難を浴びることかもしれませんが、それは経済活動を活発にするための潤滑剤でした。シュライバーによって記述されるこの十八世紀ヴェネチア型の開かれた文化は、やがて十九世紀フランスへと伝播していきます。それがパリの万博であり、オペラ舞踏会の世界でした。オペラ舞踏会からすっかり宗教色は抜け落ちてしまうのです。

しかしそのことに話を進める前にヴェネチアから生まれた世界的な二人の人物を思い出しておくことにしましょう。

一人はもちろん『東方見聞録』のマルコ・ポーロ (1254-1324)です。

そしてもう一人はジャコモ・カサノヴァ (1725-1798)。17世紀スペインの伝説上の人物ドン・ファンにひけをとることのないプレイ・ボーイの代名詞のようなこの人物こそはまさに18世紀ヴェネチア型の代表人物でした。

「自由思想家の原型として、カザノヴァは自由な物の考えかたをする同時代人の見識ある人々にとって、決してネガティヴな人間ではなく、ある発展の最終生産物であった。十六世紀には、ルネサンスの「全能人」が他の男たちを圧倒した。十七世紀には、廷臣が最も輝かしい光を放ち、十八世紀には、宮廷と社会の退廃が、独立のアウトサイダーを、半ばは嘲笑し半ばは感嘆しながらみずからの没落を映し出す像として析出し、それを山師、賭博師、いかさま師というさまざまのかたちで刻印したのであった。
この種の男たちが、周囲や家族や仕事への配慮にしばられた定住の市民よりも女にもてたことは、ディドロの診断を俟たずとも明らかであろう。」

「アヴァンチュールの世紀があるとすればそれは十八世紀であり、アヴァンチュールの町があるとすればそれはヴェネチアである。つまりヴェネチア人カザノヴァには、同じような心を持つ同国人、同時代人がいたのである。しかもその数はたいそう多くて、まるまる一世紀が過ぎてみないと、ジャコモ・カザノヴァがそれらのだれよりもすぐれていた―(略)―ことがはっきりとわからないほどであった」(『ヴェネチア人』ヘルマン・シュライバー著)

このカサノヴァの回想録、まるでレポレロが披露する主人ドン・ジョヴァンニのカタログのような書物、それは1820年にライプチヒのブロックハウスから出版されました。


ジャコモ・カサノヴァ


前回ライプチヒ挿絵新聞の1878年1月18日の記事について触れました。そこにWiener Blut (ウィーンの血*) という言葉が使われていることがヨハンにはまたまたとても気になり始めました。もちろんヨハン・シュトラウスの死後完成され、上演されたオペレッタのことでないのは間違いありません。しかし、新聞が独自にこの言葉を初めて使っているとは到底考え難いことです。
調べてみるとこのワルツWiener Blut (op.354) は1873年に、オーストリア大公女ギーゼラとバイエルン王子レーオポルトの婚礼祝賀舞踏会のために作曲されたものでした。新聞の記事が書かれる5年前です。これはウィーンのことをあらわすのに最適な言葉になると広がった当時ホットな言葉だったのでしょうね。

(*Wiener Blutはウィーン気質という訳がすっかり定着しています。あまりいちゃもんばかりつけているとクレームおじさんになりそうなのですが、この訳語もヨハンは気にいらない訳語です。どうしても職人気質のようにあとから身に付けた性格という感じに受け取られるからです。これは、どうしても生まれつき体の中を流れる「血」でなくてはいけないのです。江戸っ子だって、たしか3代続かないと江戸っ子って呼ばれないのではなかったんじゃないでしょうか? そんな訳でヨハンはウィーン気質という言い方は採用しません)

オペレッタ『ウィーンの血』の方はヨハン・シュトラウスの死後、アードルフ・ミュラーによって完成され、1899年にカール劇場で上演されました (台本ヴィクトール・レオン&レオ・シュタイン)。

このオペレッタ、バルドゥインの妻ガブリエーレはその登場の歌《Grüß dich, Gott, du liebes Nesterl》でこのように歌っています。

Die Bibliothek! Mancher Roman,
Den man wohl liest,
Doch nicht erleben kann!
Homer, Wieland, Klopstock, Euch hielt ich mir
Als Aufputz hier!
Was seh ich da?
Da schau, ei, ei,
Casanova? Das ist mir neu!

蔵書、たくさんの本
読むことはあっても
経験することはない話
ホメロス、ヴィーラント、クロップシュトック、
部屋を飾るにはぴったし
これは何かしら
おや、おや
カサノヴァ? 見たことがない本だわ


気にもとめることなく聞き過ごしてしまいそうですが、ヨハンはずっとこの部分引っかかっていました。ガブリエーレが覚えのない書物のタイトルに目をとめるところです。堅物のロイス-シュライツ-グライツの公使ツェードラウ伯爵の夫バルドゥインが蔵書に買い求めた以外にあり得ないことです。このオペレッタの時代設定はウィーン会議の頃とされています。カサノヴァの『回想録』が出版されるよりも少し時代を早く設定してしまったことは、台本作家のご愛嬌ということにしておきましょう。


ヨハン (この記事は2011/02/13と2011/02/19に投稿したものをまとめたものです)


カーニバル

2011-02-13 18:20:16 | ウィーン
ちょうど今くらいの厳寒の時期、ヨーロッパの各地ではカーニバルのシーズンを迎えます。

カーニバルは日本語では「謝肉祭」という言葉が一般的だったような気がしますが、最近では東京浅草のカーニバルなども認知度を増し、そこに宗教色を含めない形でカーニバルと呼んでいるようです。

ドイツ語圏では地域により、Karneval, Fastnacht、Faschingと呼ばれます。

Fastnachtは文字通り「断食を前にした晩」という意味です。

ドイツ語圏の南の地域、特にミュンヒェン、またオーストリアでは Fasching という言葉が使われますがこれについては後で書きます。

北のドイツではもっぱら Karneval が使われます。「カーニバル」という言葉が初めてみられるのは17世紀末になってからで、ラインラント地方では1728年になって初出の例が確認されます。

語源は必ずしも明確ではありません。

19世紀半ばから20世紀初めまでは1855年のカール・ジムロック (Karl Simrock) による説明 ― ラテン語のcarrus navalis (ドイツ語でSchiffskarren) に由来する。これは車輪のついた船という意味で、毎年船の航行が再開されるにあたって行列をしたときに街を練り歩いた山車のこと ― が学術書でも使われてきました。ここからNarrenschiff  (愚者の船) の伝統が造られていったようだと説明されていました。現在ではこの説明は否定されています。キリスト教以前の古代ローマ時代の文献にも中世の文献にもcarrus navalis という言葉の使用例が実証されておらず、Simrockがつくった言葉だろうとされたからです。

今日最も受け入れられている語源としては、中世の carne levare から由来するという説明で、その意味は Fleisch wegnehmen (肉を断つ)、Fastenzeit (断食期間) ということです。Carne vale、が Fleisch, lebe wohl (肉とお別れ) を表すという説明はシャレからきたものです。

期間は地域により異なるようですが、多くは1週間です。しかし最終日はつねに火曜日(灰の水曜日の前日)です。一部の地域では、この火曜日をマルディグラ(肥沃な火曜日)と呼んでいます。パンケーキを食べる習慣は、四旬節に入る前に卵を残さないようにしているのです。

カーニバル期間のクライマックスはパラの月曜日です。ライン地方ではバラの月曜の行列が行われます。行列は「カメレ」という叫び声をあげる人々に向けてお菓子を投げます。

バラの月曜日に先だって、カーネーションの土曜日、チューリップの日曜日があり、断食前の火曜日 (マルディグラ) へと続きます。この火曜日はスミレの火曜日とも呼ばれます。

バラの月曜日の行列は、もともと花のバラ (Rosen) に関係しているのではなくて、rasen (荒れ狂う) という動詞からきたものでした。またバラの日曜日である断食期第4の日曜日からこの名が由来するという説もあるようです。

☆ ☆ ☆

カーニバルの時期は復活祭から逆算して出てくる日程です。

復活祭の日曜日の46日前は灰の水曜日 (Aschermittwoch) と呼ばれます。2011年で言えば復活祭が4月24日なので、その46日前の3月9日が灰の水曜日です。

四旬節の初日を灰の水曜日と呼ぶのは、その祝別に前年の椰子の枝を燃やした灰が使われる習慣からきたものです。

ガリアでは、重い罪を犯した人々が、聖書の楽園追放に倣って、贖罪に先だって教会から追放され、贖罪の衣に身を包み灰を振りかけられましたが、その習慣は10世紀初めころにはなくなり、代わって罪びとたちとの連帯から人々が身に灰を振りかけさせたことから、一般にこの習慣が引き継がれていったようです。
*前年の椰子の枝を燃やした灰を使うように定められたのは12世紀です。
この祝別では「汝が塵であり、塵に帰るものであることに思いをせよ」 „Memento homo, quia pulvis es, et in pulverem reverteris“ と祈りの言葉が述べられます。

灰の水曜日に始まる断食は肉を絶ち、精神生活と神に思いを馳せる意義を持つものです。
ドイツでは灰の水曜日は祝日ではないのですが、雇用主は雇用者が教会に行き祝別を受けることが出来るよう配慮しているようです。またカトリック地方の学校では生徒がミサに出席できるよう授業が休みとされます。

四旬節とは10×4で40日間のことです。なぜそれが46日になるかと言うと、その間の日曜日がカウントされないからです。ラテン語で Quadragesima クワドラゲシマと呼ばれる復活祭に至る期間であるこの四旬節は、「大斎節」と呼ばれたり、またプロテスタントの教派によっては「受難節」と呼ばれるように、キリストの受難に倣い、信者が節制の精神で自らを振り返る期間、とされています。日曜日はキリストの復活を祝う喜びの日なのでその日数に加えられないのです。
注) 復活祭前の6度の日曜日が断食から外されたのは1091年のベネヴェントの宗教会議においてでした。

初代キリスト教会では40時間断食をしたようです。それが、やがてキリスト教が普及していくにともない一般の信者にも復活祭前に節制を求めるようになり、期間も長くなり今日の四旬節になりました。
注) 600年に大聖グレゴリウスによって復活祭前の40日間の断食が定められました。

どこからこの数字が出てくるのかというと、モーセが民を率いて40年荒野を彷徨った、あるいはイエスが40日間荒野で過ごし、断食したという話からきているようです。

四旬節中に食事の節制を行う慣習には実践的な意味もあったようでよ。というのも、昔は秋に収穫されたものが春を迎える頃には少なくなってくるので、この時期食事を質素なものにして乗り切らなければならなかったからです。

そして、その言わば耐乏生活が始まる灰の水曜日を前に、人々はカーニバルをしたのです。どんちゃん騒ぎをして、さあ、四旬節を迎えよう、という感じですかね。


☆ ☆ ☆

カーニバルの想い出

カーニバルと復活祭の関係はクリスチャンの方にはいまさら説明も不要なことでしょうが、日本ではクリスマス同様、カーニバルも宗教行事ではなくて、ただのどんちゃん騒ぎとしか受け止められていません。
またそれは日本に限ったことではなく、カーニバルが世界に広まるにつれ、仮面をつけたり、仮装したりのどんちゃん騒ぎとしてのカーニバルは世界各地で見られます。

わたしたちもクリスマスと同じように、ヨーロッパでこの冬の時期を過ごす機会に恵まれたときにはカーニバルに出くわしましたし、意識してそのお祭り騒ぎを見に出かけたこともありました。


◎ 1984年ウィーン

ウィーン滞在も年が改まり1984年を迎え、残りわずかとなってきたころ街ではカーニバルのパレードが行われました。

わたしたちが過ごした頃のウィーン、普段は本当に人が少なくて、落ち着いているというか、寂しい感じの街でした。
しかし、この日ばかりはリンクもご覧のようにパレードで華やかに彩られました。

なにせ昔の写真のため、ネガも既に相当劣化してしまいました。


リンクでのパレード (1984年撮影)


国会議事堂前 (1984年撮影)

1983年/84年の滞在期間、ヨハンは夏学期、冬学期とウィーン大学の語学教室に通いました。最初の頃は授業が終わってクラス仲間とカフェにいっても、話に加わることもできずに、聞いているばかりでした。

冬のクラスでは、ふたりのクラスメートと最初から友達になることができ、ようやくいろんな話に花を咲かせることができました。

一人はポーランドからきていた女性のBさん。今、彼女はオーストリア国籍を取り、自然史博物館で働いています。

もう一人はエジプトからきていたS君。彼は一緒にカフェに行くと、ヨハンがしゃべらざるを得ないように、いろいろ質問をしかけてくれました。ありがたきものは友かな。S君はエジプトに戻って観光案内の仕事をするのだと言っていました。

1984年ヨハンはいったん帰国後、ウィーンに残してきたロザーリウムを迎えるために、その夏ウィーンを再訪しました。ポーランド女性のBさんが声をかけてくれてS君も交えて再会を果たしました。が、それがS君と会った最後になりました。その後Bさんとも音信不通状態に陥ってしまったのです。

でも、こんなことってありますね。2005年の夏、ウィーンを訪れたわたしたちがリンクで路面電車に乗り込み、ホテルに戻ろうとしたとき、私たちのそばに近よってきて、声をかける女性がいました。Bさんでした。もうそのとき彼女は自然史博物館で働いていたので、その路線を利用していたのです。でも、S君のことは彼女ももはや音信不通とのことでした。

Sは今、デモに参加しているんだろうか? エジプトのニュースを聴くとわたしは彼のことを思い出します。


◎ 1994年ヴェネチア

私たちは1993年再び1年を外国で暮らす機会に恵まれ、このときは壁が崩壊して間もないベルリンに行きました。

住まいとなった市営住宅は旧西ベルリンのヴェディングという地区でしたが、歩いて1分もかからない場所に壁があったところで、どちらかと言えば東ベルリンに住んだようなものでした。

東ベルリンの中心地であったフリードリヒ街に出るにも徒歩で済む場所。S バーンのフリードリヒ街の目の前にあったメトロポール劇場でオペレッタを観劇したあとは歩いてアパートに帰ることも可能でした。

冬になり、年が明けて滞在期間も残りわずかとなった頃、2月にヴェネチアで催されるカーニバルを見物するためのバスツアーがベルリンから出ることを知り、普段ツアーで旅行はしない私たちですが、この同じ時期ミュンヒェンに滞在していた友K君夫妻と連絡をとり、ヴェネチアで落ち合う約束をして、バスツアーに参加することにしました。

2月12日夜8時半ベルリンを発ちました。バスですから、ブレンナーは鉄道のようにトンネルをくぐっていくわけではなく、まさにアウトバーンを峠越えです。でも、夜中でしたから残念ながら視界はききませんでした。それに真冬ですから本当に寒くて、ブレンナーに近づくに従って窓も凍りついていきました。

私たちがこのバスツアーをする気になったのは、宿泊ホテルがヴェネチアのリド (以前夏にこの島で海水浴をしたことがあり、なつかしく思いました) にあるということと、ちょうどそのときにはライプチヒで知り合ったイタリア人がヴェネチアの人だったので、手紙で何月何日に行くこと、私たちの宿泊ホテルはリドにあることなどを知らせ、その人との再会も楽しみでした。

ブレンナーを越えればイタリアです。たぶん東独時代には西側世界に個人的な楽しみで旅行するなんてことは夢のまた夢だったであろう満席のツアー客を乗せたバスはいよいよ夜が白み、朝を迎えるころヴェネチアに近づきました。

しかし、どんどんバスはあらぬ方に走っていきます。あれ、ヴェネチアから遠ざかっていく、とヨハンは窓外に確認できる標識に書かれた地名を見て思ったものでした。

リドという地名がもう一つあることには全くそのときまで知りませんでした。

しかし、このもうひとつのリド、豪華なホテルが立ち並ぶリゾート地です。それは嬉しい気持ちにさせてくれたのですが、近づくにつれ、がっかりです。こんなシーズンは訪れる人もいないのでしょうね。ホテルはどこも休眠状態でした。わずかにベルリンのツアー会社が押さえたホテルがなんとか営業していたような感じ、私たちを迎えてくれました。

ここに二晩泊まることになったのですが、暖房が利かず、ツアー客は「コートを着たまま寝たんだ」と不満爆発でした。二晩とも部屋には暖房が入ることはありませんでした。

その代わり、このリドからはヴァポレットに乗り込み、われわれは海からカーニバル真っ最中のヴェネチアに入ったのです。


途中の停泊所からこのように仮面と衣装に身を飾ったカーニバルモードフル回転のお客さんたちが乗り込んできて、ヴァポレットの中が既にカーニバル状態でした (1994年2月13日撮影)

リドに2泊しましたから、寒い一晩を過ごした翌日、わたしたちは、K君夫妻と、さらにイタリア人の知人のカップルとも無事サン・マルコで再会することができました。


このサン・マルコには写真のように顔にペインティングをしてくれる人たちがたくさんいました (1994年2月13日撮影)

ヨハンもロザーリウムもこの写真の人のように、翌14日サン・マルコを訪れたときには、ペインティングをしてもらい、少し、カーニバル気分に浸りました。

しかし、この時は本当に寒くて、さすがにイタリアでも冬は寒いんだと実感させられました。外にしばらくいるだけで手がじーんとしてきます。ベルリンだってこんな寒い思いはしなかったのに。

記憶に残るカーニバルでした。


2泊目を過ごし、バスツアーがベルリンに戻る日、わたしたちは、帰りのバスを放棄して、ここから鉄道でウィーンに向かうことにしたのです。駅に向かう途中のスナップ写真。これはヨハンのお気に入りの写真です。(1994年2月15日撮影)


◎ 2009年ローザンヌ


(2009年5月3日撮影)


*スイス、レマン湖畔のこの街、発音は「ロザン」です。
どうして日本語では「ローザンヌ」と長読みするかと言えば、au が長い「オー」と意識されてるんでしょうね。
二か月住み、毎日地下鉄に乗ってこの駅名を聴きましたから、「ローザンヌ」と書くのはなんだか別の街のように感じられて、気持ち悪いのですが ― たとえば、そうですね、「横浜」を「よーこはま」って読んだら、気持ち悪いのと同じです ― でも、「ロザン」じゃなあ、誰も理解してくれないから、「ローザンヌ」とします。
でも「カフェ・オー・レ」と言う人は、幸い最近は少なくなりました。

前書きが長くなりました。
2009年わたしは半年海外に出て勉強することを許されました。
ローザンヌには1982年以来の知人Aさん夫妻が暮らしています。遊びに行くたびに、「今度長期に研究休暇がもらえるのはいつか?」と聞かれます。

真っ先にローザンヌの知人が頭に浮かびました。「よし、この機会に今まで何度もチャレンジしては仕事のため断念して、常に中途半端で元の木阿弥になってきたフランス語、この際現地の学校に通ってみよう」と思い、それについては、パリとか、ドイツに近いストラスブールとか、考えるなか、友達が「来い」と返事をくれたら、ローザンヌにいこう、と決めたのです。

友達A夫妻は、夏は海外に旅行してしまいます。そんなことで、インターネットで検索したフランス語学校の春のコースを選び、4月上旬はヨハンとしてもどうしても日程を曲げるわけにはいかないほど、今まで書いてきましたように、スイス、ドイツの劇場を駆け回って、珍しいオペレッタを観劇し、いったん日本から遅れてくるロザーリウムを迎えにウィーンに戻り、4月末までウィーンで過ごして、5月1日の飛行機でウィーンからジュネーブに移動することにしました。

しかし、自分の都合だけで日程をあれこれ考え、よく出来た、と自画自賛していても、大変な落とし穴があることに、移動日が間近に迫ってきたときに、気づかせられました。

5月1日の移動日。

そうです。日本ではもう「メーデー」なんて死語同然ですが、オーストリアは今でも労働者の権利は尊重されています。メーデーの日は公共交通機関に相当な影響がでることが分かったんです。

ヨハンたちはウィーンの路面電車が大好き、移動日は低床のこの路面電車を使って空港バスが出るバス停まで行くことにしていたのですが、ひょっとしたら路面電車そのものが動かないかもしれないと不安になってきたものです。

まあ、タクシーを使えばそんなことは悩む問題ではないのですが、ねっからの貧乏性で、どうしてもタクシーは贅沢という観念から逃れられないヨハンたちなのです。

しかし、なんとか路面電車は当日も動いてくれました。

そして5月1日無事オーストリアからスイスに移動。

ロザーリウムが再び日本に一時帰国する5月10日までの間わたしたちはA夫妻のマンションに泊めていただき、その間、学校の場所を確認したり、ロザーリウムが帰国した後はわたしは郊外のエパランジュのB&Bに泊まることにしていましたから、そこにも連れて行ってもらい、オーナーに挨拶。1日、2日、3日とあわただしく過ぎました。そしてエバランジュから地下鉄!!! (アルプスの国スイスで唯一ローザンヌには地下鉄が走っております。しかも、現在2路線!!! Aさんは、これを言いながら、頬をほんのり染めました^^) でローザンヌの街に戻ってきたときに、今回のタイトルのカーニバルです。
*ちなみにローザンヌの地下鉄、すべて無人運転です。スイスの実力をなめるなよ。誰もなめてはいないか。


(2009年5月3日撮影)

Aさんは、「全く宗教とは関係ないお祭り、街おこし」と冷ややかでしたが、お祭り好きのわたしたちは、街でAさんたちといったんバイバイして、このお祭りを見学いたしました。

出店もいっぱいでて、目の前でラクレットを作ってくれるお店には食いしん坊のわたしたちも誘惑にあらがうことはできませんでした


(2009年5月3日撮影)

帰途みつけた母子連れ


私たちのお気に入りの一枚です (2009年5月3日ロザーリウム撮影)


ちなみに、ローザンヌには靴屋さんが多いです。それはなぜか、この写真でお分かりでしょう?
坂ばっかりの街ローザンヌではこのお嬢ちゃんが使っている片足でこぐスケーターおおはやりです。そりぁあ、その分キックする方の靴の底が早く減りますよ

☆ ☆ ☆

ところで私たちが1983年/84年、ウィーンで一年過ごしたとき、実は11月に住んでいた地元のカーニバルに少しばかり参加した記憶があります。カーニバルの意味合いも分からず、仮装して大騒ぎをする日と記憶しただけでした。

考えてみると年が明けて1月(だったと思いますが、写真に日付もないので今は不明です)にまたカーニバルのパレードをリンクに見に行ってるわけですから、なぜカーニバルが2回あるのか、その時に追及しておくべきでした。

11月のカーニバルは写真も撮らなかったのか、思い起こすすべとしては記憶だけです。その記憶が、これまた妙なこととのつながりを見せるのです。
11月11日はヨハンとロザーリウムの結婚記念日なのです。

式にご出席いただいたドイツ暮らしの長かったT先生からは、この日が近づくと何度か、「そういえば君の結婚式はカーニバルと同じ日だったね」と言われたものです。本人たちより、列席していただいた方に覚えてもらうに都合のよい日となったようでした。

そこでなぜカーニバルが年に2回もやってくるのかも調べました。

謝肉祭(カーニバル)期間はドイツ語圏においては伝統的に1月6日の公現祭 (Dreikönigstag、三王ご公現の祝日) から始まるとされています。

しかし、19世紀から多くの地域で加えて11月11日11時11分をもっていくつかの催事が執り行われるようになりました。とりわけプリンスのカップルがお披露目されたのもその一つです。

とは言っても、11月12日から1月5日までの期間はライン流域のもろもろの地域においても、依然としてカーニバル期間から外れていたことは、クリスマス前が断食期間 ―354年にキリスト誕生のお祝いが確定された直後から、それに先だって40日間の断食期間が置かれました― で、11月は哀悼月、したがって待降節には沈思的な性格が与えられていたことから明らかです。

ですからカーニバルの開始時期が前送りされ、11月11日をシーズンの幕開けと説明してしまうと、誤解を招いてしまいます。

むしろ成立の経緯から言えば、11月11日はむしろ「プチ」カーニバルをあらわすもので、1823年ケルンの「祝祭規定委員会」により法的に規定が出来たカーニバルの行列の準備の開始日にこのずらずらと1が並ぶ馬鹿げた日付を選んだということらしいようです。

☆ ☆ ☆

カーニバルについて調べ始めたら、正直知らないことだらけで、ヨハンにはいい勉強になりましたが、無知ゆえの誤りを犯していることが大いに考えられます。


これを書いていた2月6日、ヨハンの誕生日にウィーンのOさんからお祝いの電話をもらいましたので、カーニバルをはじめ、いくつか最近これらの記事を書いていて疑問に思っていたことを尋ねてみました。

11月11日にプチ・カーニバルをすることは、Oさんも知っていました。ウィーンではどこでもそうなのか、との問いについては明確な答えはありませんでしたが、私たちが当時住んだ14区で経験した、という話には、ありうるとの答えでした。ドイツのライン地方だけの風習ではないことは確かのようです。


ヨハン (2011/02/13)


スイス、アルト劇場のオペレッタ公演

2011-02-13 18:09:37 | オペレッタ
2009年4月私はウィーンに到着して翌日早々にチューリヒに向けて移動しました。出発前に旅行の計画を練っている時、インターネットでチューリヒ近郊のアルトという村で4月3日、4日にオッフェンバックの『パリの生活』が上演されるという情報を目にしたからです (4月4日の公演がシーズン最終日でした)。

なにしろこのオペレッタはわたしが一番好きな演目の一つで、CDは何回聞いたか分からないくらい気にいっていました。リヨン歌劇場のDVDも見ていますが、なにしろ一種類の映像だけではなかなか、コンセプトが見えてきません。ぜひともライブで見てみたくて、あらゆることに優先して、4月の計画をたてたわけです。

アルトといってもぴんとはこない人でも、ベルン、ルツェルン方面からの鉄道とルガーノ、アルデルマット方面からの鉄道がアルト・ゴルダウという駅で合流してチューリヒに向かっていくスイスの南北、東西の重要な路線が交差する場所で、スイスをぐるっと旅行されたことがある人ならば、その駅を通っているかもしれません。駅周辺がゴルダウという地名で、坂を下るようにツーク湖畔に降りて行くとアルトです。


アルト劇場 (2009年4月3日撮影)


アルトから眺めたツーク湖畔 (2009年4月3日撮影)

ここで、新年1月から復活祭 (Ostern) の時期までオペレッタを毎年1演目、ほぼ連日上演しているのです。千秋楽はそのシーズンの復活祭次第のようです。2009年は復活祭が4月にずれ込んでいたのが、4月1日にしか国内を離れられないという制約があった私にとっては本当に幸いしました。

昨年、2010年は1月16日から3月27日までの公演日程で、演目はヨハン・シュトラウス (息子)の『ベニスの一夜』でした。

ここもインターネットでチケットの支払いができなくて、メールでやりとりして、当日窓口で支払いとともにチケットを頂くという形にしていただきました。

館内に昔の公演ポスターが飾ってあり、どうやら1935年からずっとこの時期にオペレッタを上演してきているようです。
1935年頃と言うと、もちろんナチス・ドイツではすっかりユダヤ人の活動が禁止されてしまっていた時期ですからね、そういう人たちの活躍の場をスイスの小さな村が意気に感じて提供したのが始まりだったのかもしれません。


館内に掲げられた昔の公演ポスター (2009年4月3日撮影)

当日は劇場監督 (Beat Diener さん) に日本からチケットを予約して見にくる客がいると知らせがいったらしく、わざわざ監督からロビーで出迎えを受け、幕間の休憩には、ビールまでごちそうになってしまいました。
いろいろ劇場のことをお話いただきましたが、なにより私が感心させられたことは、この劇場の最大の特徴として、ほとんどアマチュアの人たちによって (多少プロにも手伝ってもらっているけれど、大半の歌手は普段別に職業を持っているそうです) 運営されていることと、今まで一度も国から補助金を貰ったことはない、つまり、すべて自己資金 (地元企業からのカンパと会員からの会費、そしてチケット収入) でやっている、ということです。

ウィーンのフォルクスオーパーが長年の補助金経営体質から脱することができず、今回このあとで、本当に初来日(1979年)当時の輝きを失い、無残なまでにレベルを落としてしまっている様を目の当たりにすることになっただけに、アルトのやり方はひとつの見識だと思います。オペラにせよ、オペレッタにせよ、音楽であり、かつ、お芝居ですから、アンサンブル命ですからね、遠のいた客足を戻すために、多少名の売れた歌手を出演させたり、演出にこってみたりしたところで、チームとしてのアンサンブルがその場限りのものであれば、逆効果なだけです。アルトのオペレッタはもちろんアマチュアですから、プロの劇場と比較してはプロに失礼かもしれませんが、すくなくとも一つの作品をみんなで造り上げようという情熱と歌うこと、お芝居することに対する愛は、まぎれもなくあります。そして、監督は演出に奇をてらうことを嫌い、出来る限りいつも初演当時の演出を再現しようとしているとも言っていました。

この公演、わたしは2日連続でチューリヒからでかけました。2日目には監督から劇場記録用に撮影された公演DVDをプレゼントしていただくやら、地元の新聞記者に連絡がいったらしく、インタビューもされました。また、4月4日がシーズンの千秋楽で、監督の舞台挨拶があり、そこで、「日本から遠路この公演を見に来たお客さんがいます」と私のことを紹介されてしまったので、舞台がはねた後、タクシーを待つ間帰路に着くお客さんたちが「日本のプロフェッサーだ」(これは監督がそう紹介したためです) と口ぐちに行って通り過ぎていくのが分かりました。気恥ずかしい思いでしたが、この夜ひょっとしたらアルトで一番有名な日本人になってしまいました。

その後、シーズンが近づくと監督から公演プログラムが郵送されてきます。昨年の演目が『ベニスの一夜』であることは、監督の舞台挨拶でも触れておられましたので、知っていましたが、今年の演目は、先ごろ届いた2011年の公演プログラムでレオ・ファルの『陽気な農夫』であることが分かりました。

見る機会の少ないオペレッタ、貴重な公演と思われますので、ご紹介する次第です。

1月22日、26日、28日、29日、30日
2月2日、4日、5日、6日、9日、11日、12日、13日、16日、18日、19日、20日、23日、25日、26日、27日、
3月2日、4日、5日、11日、12日、17日、18日、19日、26日

ご覧のように主として水曜日、金曜日、土曜日、日曜日の公演で土曜は19時30分開演、他は20時開演となっていますが、そうでない開演時間の日もありますので、詳しくは劇場のHPで確認してください。

連絡先とURL
Tel: 041 855 34 20
www.theaterarth.ch

私は2009年の4月は仕事を抱えて日本を出発せざるを得ない羽目に陥ったこともあり、ずっとチューリヒのホテルに滞在したまま、2日とも列車でアルトを往復しました。
勿論事前に時刻表で十分公演後戻ってこられることは確認してあったのですが、鉄道駅とツーク湖畔のアルトの村までは、距離があります。最初の日はチケットを受け取り、支払いをしなくちゃいけないと思っていましたので、ずいぶん早めに出かけました。駅周辺には、しかし、インフォメーションらしきものはありません。少し歩いたところにようやくインフォメーションを見つけ、なんとか劇場のある方角だけを聞いて、ハイキング気分で、湖畔に向かって歩きました。一時間くらいはかかったでしょうか。

問題は帰りです。
劇場窓口でチケットを受け取る際、おねえさんに帰りの交通手段について尋ねると、バスに乗れば十分最終に間に合うという話でした。

しかし不安そうにしていたら、なんならタクシーを予約してあげようかと言ってくれたので、結局タクシーを手配してもらいました。翌日のタクシーはその日迎えに来てくれたタクシーの運転手に「翌日もこのくらいの時間にまた迎えに来てください」と頼みました。

一日目は早めに出かけたので、チケットを手に入れてから開演までずいぶん時間を持て余すような次第で、ツーク湖畔を散歩しました。
アルトには湖畔のリゾート地らしくホテルがいくつもあります。チューリヒでホテルを手配してもらって出かければ、帰りの電車の心配は無用になります。ただ、わたしの感じとしては、公演期間中はどこのホテルも予約でいっぱいかもしれません。チューリヒから往復することを考えれば、ルツェルンにホテルをとって往復しても同じことですから、ご参考にしてください。

わたしはタクシーで駅まで戻りましたから、ひょっとして思っていたより早い時間にチューリヒに戻ることが可能かと思いましたが、電車の方がその時間は少なくて、結局ずいぶん駅で待ち、二日とも最終にのってチューリヒに戻り、ホテルには午前様でした。


☆ ☆ ☆

オペレッタ『陽気な農夫』について、YouTubeで画像検索していて、ヨハンはブルネンの記事でバート・イシュルをご紹介した際に「昨2009年伺ったところでは、どうやら2010年はこの慣行が初めて破られ、レハールの作品は取り上げられないそうです」と書いたこと、そして2010年の公演プログラムの一つがレオ・ファルの『陽気な農夫』だったことを思い出しました。 YouTube に地元放送局STVによるこのオペレッタの演出家 Dolores Schmidinger へのインタビューが公演カットとともにupされていました。URLを張りますので興味のある方はご覧ください。

http://www.youtube.com/watch?v=I7tC5AuW5zY

インタビューの背景はバート・イシュルのコングレスハウスです。


バート・イシュル、レハール・フェスティバルの会場となるコングレスハウス(2009年撮影)

YouTube画像を検索していてアルト劇場の公演コマーシャルも見つけました。

http://www.youtube.com/watch?v=PNm7I3mQcWc

最後に、このオペレッタで歌われる『訊かないで』(第二幕)をフリッツ・ヴンダーリヒが歌っていますので、それもご紹介します。

http://www.youtube.com/watch?v=TPakWatrfdw


◎ オペレッタ『陽気な農夫』 あらすじ

台本ヴィクトール・レオン、作曲レオ・ファル (初演1907年7月27日マンハイム)
レオ・ファルはこの作品をアン・デア・ヴィーン劇場で上演する予定でしたが、劇場監督のカルチャクに断られ、マンハイムでの初演となりました。ローベルト・シュトルツが初演を指揮しました。

プロローグ「村の広場」

やもめのマテーウスは貧しい農夫だがいつも陽気。 彼には妻が死の床で将来牧師にしてくれるようにと頼んでいった息子シュテファンがいる。息子は高校を優秀な成績で終えウィーンで神学を学ぶために、父と妹アナミルルに別れを告げる。

第一幕 「村の広場」

あれから11年。今日息子が戻ってくることを知りマテーウスは嬉しさで興奮している。アナミルルも学業を終えた兄を誇りに思っている。自分までもが何か特別に思われ、子供のころからの友ヴィンツェンツにもそっけなくしている。村は教会の開基祭りのさなか、明日応召するヴィンツェンツはお別れにアナミルルと踊りたいと思っているのだが、肘鉄をくらってしまう。
シュテファンが姿を見せる。彼は神学をやめて医学の道に進んだのだと分かる。田舎の村人たちに対して見せる不遜な態度。すっかり変わってしまった息子。故郷を恥じるかのそうした息子の態度に父も胸を痛める。
シュテファンにはベルリンの枢密顧問官の娘という許嫁がいて、数日後に式を控え今日にもベルリンに旅立つ心づもり。しかし父も妹もその式には招かない。マテーウスは悲しみと怒りに襲われる。

第二幕 「ウィーン、とあるヴィラのエレガントなサロン」

1年後。ウィーンでのシュテファンの医師としての評判は良く、彼は大学教授になっている。しかし、妻フリーデリケさえも彼が農夫の子であることを知らない。
今日はベルリンから枢密顧問官フォン・グルモウが妻ヴィクトーリアと息子で軽騎兵のホルストを伴い訪れている。
まったく具合が悪いことにマテーウス、アナミルルがシュテファンの名付け親リントオーベラー、そしてその息子のヴィンツェンツを伴い不意を襲うようにこの同じ日訪ねてきたのだった。
村でいつもしているようにマテーウスは飾りリボン のついた帽子(Zipfelmütze) をかぶり、アコーディオンを持参している。
ベルリンから来た上流階級の親戚たちにはシュテファンの出自を知り、びっくりしてしまう。フリーデリケに離婚まで勧める始末。しかし、それは誤算だった。フリーデリケは村人たちにこの上なく愛想よく接するのだった。フリーデリケによって夫シュテファンも、ベルリンの親戚たちでさえも心を開くのに時間はかからなかった。マテーウスはようやく再び我が息子を誇りに思うことができた。アナミルルとヴィンツェンツも結ばれ幸せになる。(Wikipediaから)

* 永竹由幸さんの「オペレッタ名曲百科」(音楽之友社)には詳しいあらすじ、解説があります。ウィキペディアとずいぶん異なるところもあるのですが、オペレッタはとくに演出によってずいぶん変わりますので、アルト劇場ではどのような形になっているか、ヨハンには全くわかりません。おおよその参考にしてください。


☆ ☆ ☆

最初にアルト劇場のオペレッタ公演の日程が復活祭と関係があるように書きました。そう思った理由は2009年の4月はまさに訪れる街がどこも復活祭の飾りつけ (たまご) でいっぱいだったからです。


チューリヒ、街のショーウィンドウに飾られた復活祭のうさぎのチョコレート (2009年4月6日撮影)

調べてみると2009年の復活祭は4月12日でした。


ひさしぶりに訪れたライプチヒはすっかり駅もきれになり、復活祭の卵、うさぎが構内あちらこちらを飾っていました (2009年4月10日撮影)

復活祭はドイツ語では Ostern と言います。とてもこの言葉が記憶に残ったのは、1983年わたしたちがウィーンを訪れた時、3月の末でしたが、大学はすぐに Osterferien になってしまったのです。クリスチャンではないわたしたちなので、これは日本で言う春休みか、と受け止め、初めてのヨーロッパの冬でもあり、余りの寒さに耐えられなくてイタリアに旅行に出かけたわけです (ブルネンの記事、イタリアで書きました)。

1993年にベルリンに出かけた時は、4月でもまだデパートなどには復活祭の飾りつけ、卵 (Osterei) がいっぱい売られていました。

注) 復活祭は「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」と定められているので、年によって日付が変わります。最も早い年で3月22日、最も遅い年だと4月25日の日曜日となります。春分を過ぎた満月の後の最初に来る日曜日が復活祭と定められたのは325年のニケアの宗教会議においてでした。

春休みのようなものだと言っても、『復活祭』はこのように移動祝日なので、結構4月にずれこむことは1993年の経験で知っていました。オペレッタが普段やらない劇場でこの時期催されるのは復活祭という特別な華やいだ日にちなんでのことだろうと理解したわけです。(フランス人の先生からはフランスではクリスマスの頃がオペレッタのシーズンですよ、とも聞きました)


このブログを書き始めた最初のころの記事で、カーレンベルクからクロスターノイブルクへハイキングし、クロスター・レストランで旬のアスパラ料理を食べたことを書きましたが、レストランにはこのようにOsterei が飾ってありました。いまさらになってその日が実際いつだったか、これも気になりましたので調べてみました。4月22日でした。飾り付けは復活祭が過ぎてもまだ、案外遅い時期まで残しているようです。

で、ご紹介したアルト劇場の2011年の公演です。千秋楽が3月26日の土曜日と書きました。ああ、今年の復活祭は3月末なんだ、とヨハンは単純に思っていたのです。

しかしにわかに気になり始めたので、復活祭について調べてみました。

なんと、まあ、今年 (2011年) は4月24日です。
さてはわたしがアルト劇場の公演日程を間違えてお知らせしてしまったのかしらと不安になったので、もう一度送られてきたパンフレット、ならびに劇場のHPでも確かめてみました。

やはり3月26日が千秋楽です。公演日程は復活祭に関係なく決められているのか、今年は復活祭が4月末に来るので、それだと余りにシーズンとして長期になりますから、3月末で公演を終了しているのか、分かりません。出演者がご紹介しましたようにプロばかりではなくて、普段別の仕事を持っているアマチュアの音楽家たちですからね、一月スタートを守ると、ある程度の期間の公演で千秋楽という形になるのかも知れません。


ヨハン (2011/02/13)