ウィーンわが夢の街

ウィーンに魅せられてはや30年、ウィーンとその周辺のこと、あれこれを気ままに綴ってまいります

ご訪問ありがとうございました

2020-04-03 18:38:49 | ウィーン

ブログは現在お休み中です。


ヨハン 2020年9月23日

フォト・ギャラリー「看板」 (4) 飾り看板補遺

2012-11-23 16:49:05 | 海外
これまでご紹介したなかで漏れていたものが見つかりましたので、「飾り看板」の補足としてふたつご紹介しておきます


1993年11月21日 撮影 ・ ストラスブール
背景に木骨家屋が写っていてドイツのように見えますがフランスです。アルザス地方ストラスブール、ドイツ語ではシュトラースブルク。ほとんど文化圏としてはドイツですが、人々は現在のようにフランスに属していることにとても満足しているようです。こちらが話しかければドイツ語で答えてくれます


   
1994年2月25日 撮影 ・ プラハ


1994年2月25日 撮影 写真全景

まだ東西の壁がなくなってほどない時期です。道路に車が停まっていなければいつの時代の写真だろうかと思うほどシックな装いが保たれています。Nasenschild も芸術的ですね。
メモによればこの日 Na Porici 40 という場所にあるホテル AXA に泊まったと記されているので、多分その通りか、近くの風景だと思います。






最後は、そのものずばりをフィギュアとした立体広告をいくつか紹介します



1997年12月25日撮影 ウィーン
煙突掃除の人ですね。お店と言うか事務所と言うか、会社の名前なしのフィギュアだけです。



2011年8月4日撮影 ザルツブルク
牛はあまり関係なさそうに思いますが、サウンド・オブ・ミュージックの絵が描かれています。ザルツブルクのミラベル宮殿前の広場、ここでツアー客を集めて、映画ゆかりの場所を訪れます。ヨハンは2回もこのツアーバスに乗ってしまいました。お客さんはというと、ほとんど日本人とアメリカ人。ドイツ、オーストリアの人にとってこの映画はあまり好まれてはいません。何故って、トラップ一家がオーストリアを捨てていく話じゃないですか。




2004年8月3日撮影 スイス
これはサン・モリッツの近郊で見かけました。
さすが~! スイス!! 酪農の国♪ 乳製品のコマーシャルだろう、と思っているそこのあなた。
牛になんて書かれていますか?

Swizly

先ずは検索してみましょうよ。
こんなほんまでっかな情報が飛び込んできました。

Swizly ist der besondere Schweizer Apfelwein. Mild und spritzig im Geschmack, einzigartig sein Aroma nach Äpfeln und Holunderblüten.
Tradition seit 1895 MÖHL

スウィツリはスイスの特産リンゴワインです。マイルドな味わい、口に含めばしゃわしゃわ踊ります。他にみられないリンゴとホルンダーの香り。
1895年から伝統の製法 メール社


サイダー味ともうたっていますので、フランスのシードルの向こうをはったスイス特産の清涼飲料ということでしょうかね。
でも、なんで牛やねん!!

チョコレートのミルカも牛がシンボルマークだから、まあ、いいか
でもチョコレートは乳製品と仲間だから、やっぱりサイダーに牛はおかしいぞ
でもミルカの牛も紫だし、なんとなくスイス人の考えることはどこか独特だ


写真 Wikipedia (この写真の場所はミュンヒェンだそうです)

というわけでせっかくだから Milka のことも調べてみましょう。

Im Jahre 1901 wurde der Markenname „Milka“ registriert; die Abkürzung entstand aus der Zusammenziehung der Wörter „Milch“ und „Kakao“. Seitdem wird die Milka-Tafel in einem lilafarbenen Umschlag angeboten, versehen mit einer Kuh, der Milka-Kuh, samt Alpenpanorama. 1973 erhielt die Milka-Kuh ebenfalls eine lila Färbung.
「1901年にミルカ Milka は商標登録されました。「ミルク」と「カカオ」の合成から省略された名前です。以来ミルカ板チョコは牛 (ミルカ牛と呼ばれます) の絵と背景にアルプスのパノラマをデザインしたライラック色の包装を用いています。1973年からミルカ牛も同様にライラック色のボディとなりました。」



1993年10月11日撮影 マイセン ・ 旅館「ハチの巣」、Neugasse 9
住所はネット検索でこの旅館の名前 Zum Bienenkorb を調べて出てきたものですが、そこには写真はありませんでしたので、照合する正しいものかどうかはわかりません。
名前の上に人物画と Der dumme Junge von Missen 「マイセンの愚かな若者」と書かれていますので、そちらの方も検索してみました。

「ガチョウ番の仕事をしているある若者。選帝侯が街に入城してくる華やかな行列を見たくてたまりません。とはいえ番するガチョウを閉じ込めておくにも、つなぎとめておくにも場所がありません。やむなくガチョウたちの首を自分の腰ひもに通してぶらさげ、行進がやってくる場所へと駆けつけます。行進が通り過ぎ、見物人たちも三々五々散って行ったとき、まわりから笑い声が聞こえてきます。びっくりして見てみると腰につるしたガチョウたちはみんな息が出来ずに死んでしまっていたのです。そんなことから人々にマイセンの「愚かな若者」とあだ名されるようになりました。選帝侯の耳にこの噂が届くと、選帝侯は若者を宮殿を楽しくさせる愚者にとお城に仕えさせることにしました」


http://www.meissen-lese.de/index.php?article_id=113




1993年8月31日撮影 カッセル ・ ホテル Kurfürst Wilhelm Ⅰ、Wilhelmshöher Allee 257
ICE (ドイツの新幹線) のカッセル駅 (Kassel-Wilhelmshöhe) の駅前にあって、とても目立ちます。




これは広告なのかどうか意図はヨハンには分かりません


2012年3月18日撮影 ベルン

ベルンではいくつかこんな像があったような気がします。建物の所有者の富をシンボライズした Nasenschild の原型のようなものかもしれません

フォト・ギャラリー「飾り看板」 (3) スイス

2012-11-22 01:13:14 | スイス
スイス



2004年7月28日撮影 ・ チューリヒ ・ ホテル・ヒルシェン Hotel Hirschen、Niederdorfstrasse 13
Hirsch は牡鹿の意味です
ホテルのホームページによると建物の歴史は13世紀にまでさかのぼるそうです。
1916年にフーゴ・バル Hugo Ball と仲間たちによってここでダダイズム宣言が書かれました。
駅から近く、私たちは駅のインフォメーションで紹介されたと記憶していますが、とにかく朝食のパンがとても美味しかったことは今でも忘れられません。


2012年3月17日撮影 ・ チューリヒ ・ ホテル・シュトルヒェン Hotel Storchen Zürich、 Weinplatz 2
Storch はコウノトリの意味です
リマト河岸のホテル。ホテルのホームページによれば、歴史としては1357年の市の納税台帳に初めて名前が記録として登場しているそうです。チューリヒのホテルはどれも歴史がありますね。




2012年3月20日私たちはチューリヒからバーゼルに日帰りで行ってまいりました。


バーゼルはフランス、ドイツと接する国境の町です。町の真ん中をライン川が流れています。
スイス国鉄駅 (ここにはフランス国鉄の駅も併設されています) から町に入り、ライン川を渡ってなんとかドイツの国境まで歩いていくつもりでしたが、思ったより遠くて途中で挫折して、旧市街の方に戻ってきました。

ザンクト・アルバン地区は狭い道を挟んで雰囲気のいいお店が軒を連ねています


2012年3月20日撮影 ・ バーゼル ・ Restaurant St. Alban-Eck
レストランの名前が示すようにこの地区の入り口、角にあるお店です。ホームページを見るとどうやら野生のシカなどを食べさせるお店のようでした。
Unser Wild ist ausschliesslich aus frischer Jagd, aus der Schweiz und Österreich.
「当店ではスイス、オーストリアで狩猟されたばかりの新鮮な野獣肉のみをご提供しています」


2012年3月20日撮影 ・ バーゼル
これはレストラン St.Alban-Eck の Malzgasse 側に飾られている Nasenschild です



2012年3月20日撮影 ・ バーゼル ・ レストラン St Alban Stübli、 St. Alban-Vorstadt 74
Stübli はスイスの言葉で小部屋、小さな飲食店の意味です



2012年3月20日撮影 ザンクト・アルバン市門
この市門が歴史上の記録として登場するのは1230年だそうです。1356年にバーゼルを襲った地震で損傷しましたが、1362年に再建されました。ヨーロッパだって地震がないなんてことはないのです。



2012年3月20日撮影 バーゼル旧市街の中心、市庁舎



2012年3月20日撮影 バーゼル、郵便局内部
ジュネーブの郵便局も立派な建物でびっくりしましたが、このバーゼルの郵便局もそれだけでも見学コースに入るにふさわしい内観ですが、これが現役の郵便局なんです。



2012年3月20日撮影 ・ バーゼル
あきらかに手袋屋さんの Nasenschild です。場所は今となっては分かりませんが、市庁舎の近くだったように思われます。
お店の壁に書かれた文字は Handschuh で手袋の意味。お店の名前ではありません



2004年はチューリヒから鉄道でスイス国境に近いオーストリアのブレゲンツという町に行きました。ここはボーデン湖をはさんで対岸がドイツ、リンダウという町です。


2004年7月30日撮影 ・ ドルンビルン
この日私たちはブレゲンツからバスでドルンビルンを訪れました。ポストバスが狭い田舎道を走って行くとき、カーブで先が見通せない箇所に来ると、昔ながらのメロディーホーン (メロディーを持つ警笛) を鳴らすのにはなんかほっとする懐かしさを感じました。今では大みそかに国道を若者がゴッド・オブ・ファーザーのメロディーをまき散らして爆走するあの種の警笛です。小田急のロマンスカーももともとメロディーホーンを使っていましたが、最近は一部のロマンスカーだけになってしまいました。
写真の Nasenschild はほとんど記憶にありませんので、書かれた文字で推測するしかありませんが、どうやら Alte Post と書かれているらしいので、それで検索した結果、Marktstraße 16 にある Weinstube (創業1869年) と思われます。照合できるような写真が見つかりませんでしたので、間違っているかもしれません。


2004年7月30日撮影 ・ ドルンビルン




2004年は、私たちがスイスにいる間にウィーンの友人 O さんが仕事場から休暇を貰って8日の夜行に乗り、9日の朝ブレゲンツに着くので、駅近くで待ち合わせしようと提案されました。O さんは当時ウィーン交響楽団 Wiener Symphoniker ( ブレゲンツ音楽祭はこのオーケストラが演奏しています ) で事務の仕事をしていたので、舞台を一緒に見学しようと言われるので心が動き、彼女がやってくるまで、スイス各地を旅行しながら、予定の日に再びブレゲンツに戻ることにしました。

しばらくスイスを旅行して、ローザンヌの友人ご夫妻を訪問して、まさにぐるっとスイスを一周する形でまたチューリヒに戻り、私たちは8月9日ザンクト・ガレンに移動しました。


2004年8月9日撮影 ・ ザンクト・ガレン、 Marktgasse/Turmgasse 1
スイス各地に展開するグループ企業のブティックのようです



2004年8月9日撮影 ・ ブレゲンツ ・ Gaststätte zum Goldenen Hirschen
この日ウィーンから来る友人と会うため待ち合わせのブレゲンツを再び訪れました。検索でもブレゲンツにこの名のホテルがありましたが、ホームページの画像は写真に記録されている建物と外観がずいぶん違っているので、確証が得られたわけではありません。ホテルの名前は「黄金の牡鹿」という意味で Nasenschild も金色の鹿です。



2004年8月9日撮影 ブレゲンツ、湖上音楽祭の会場



8月10日帰国の日。ザンクト・ガレンのホテルで荷物を預かってもらい、私たちはチューリヒの空港に向かうまでのしばらくの時間的余裕を利用してアペンツェルに行ってみました。


2004年8月10日撮影 ・ アペンツェル ・ インフォメーション、Hauptgasse 4
私たちが資料をいただくためにインフォメーションを訪れると、なかに馬鹿でかいセント・バーナード犬がいました。スイスは彼らの地元です。でも体はでかいけど、ハイジの中に出てくるヨーゼフ君のようにおとなしい犬でした。


2004年8月10日撮影 ・ アペンツェル ・ ホテル・クローネ Hotel Krone、 Hauptgasse 17
Krone は王冠の意味です。





ロマンモティエ

2009年ヨハンはフランス語を勉強するために5月1日から6月27日までスイスのローザンヌに滞在しましたが、フランス語圏ではほとんど Nasenschild を見かけることがなかったのか、写真もありません。
ただ5月9日にローザンヌ在住の A さんご夫妻にロマンモティエに連れていってもらったときだけは Nasenschild の写真が3枚残っていました。


2009年5月9日撮影 ・ ロマンモティエ ・ 食料品・シェ・シルヴィ



2009年5月9日撮影 ・ ロマンモティエ
名前は確認できませんでしたが、カフェ・レストランの Nasenschild です



2009年5月9日撮影 ・ ロマンモティエ


ここの教会の起源は5世紀にまでさかのぼるとかで、スイスでももっとも古い教会のひとつです。
ちょうどこの日は結婚式が行われていました。
  
2009年5月9日撮影 ・ ロマンモティエ




ローザンヌで知り合ったスイス人からグリュイエールはとてもきれいな町だから是非訪れなさいと言われていたので、チーズで有名な町でもあるし、フォンデューを食べに出かけてみました。

こうした田舎町には Nasenschild がありますね。
さきほどのロマンモティエのホテルの Nasenschild が何を表しているのか、今一つピンときませんが、下の写真を参考にするとやはりベッドなんでしょうか。


2009年6月20日撮影 ・ グリュィエール



2009年6月20日撮影 ・ グリュィエール
グリュイエールは町の名前が「鶴」を意味していることからも鶴が町のシンボルになっています。


2009年6月20日撮影 ・ グリュィエール


ヨハン 2012/11/21

フォト・ギャラリー「飾り看板」 (2) ドイツ

2012-11-13 16:11:21 | ドイツ
ロスチャイルドのこと

突然テーマと関係のないお話をするようですが、みなさんは世界の大富豪ロスチャイルド一族の名前はきっと耳にしたことがあるはずだろうと思います。ドイツのフランクフルト(a/M)出身のユダヤ人ということも御存じの方は多いかもしれません。

フランクフルトには昔ユダヤ人のゲットーがありました。一族の祖先をたどっていくと遅くとも16世紀の半ば頃には当時のフランクフルトのユダヤ人ゲットーに住んでいたようです。

でもロスチャイルドという名前の由来については案外知られていないかもしれませんね。

当時ユダヤ人たちが住んでいた通りには今日のような番地がついておらず、建物はそれぞれさまざまな色の看板 (Schild) 、シンボルマークで互いに区別、識別されていたようです。ロスチャイルド家のご先祖様が住んでいた建物はそのシンボルマークで「赤い楯の建物」( das Haus zum Rothen Schild ) と呼ばれていました。何代にもわたって一族はその建物を住まいとしていたので、名前も Rothschild と名乗るようになったということです。これは一族が1664年に引っ越しをして das Haus zur Hinterpfann ( 辞書には載っていない単語なので想像を交えて直訳すれば、「奥の瓦の建物」 ) に住むようになっても変えませんでした。(Wikipedia)

というわけで、Rothschild はもちろん意味上、roth ( ドイツ語の現代表記では rot ) と Schild が合成されてできた言葉ですから、ロート・シルトと発音されます。これが英語発音ではなぜ「ロス・チャイルド」になってしまうのか不思議で首をかしげてしまうことです。ロス・シャイルドだったら理解可能ですけどね。

Schild は、貴族の楯の文様、職人、商売人たちの看板のみならず、誰もが文字を読める時代ではなかった頃、また、自分たちとは言葉が異なる外国人にも理解が出来るようにと工夫されたものです。現代でも交通標識に使われたり、案内所を示すのに大きな「i」の文字をつかったり、禁煙マークなどの形で Schild は生きています。絵、図柄というのは文字以上にインターナショナルな言語手段と言えるわけです。


ドイツ

ヨハンとロザーリウムは1983年にウィーンで一年過ごす機会が与えられました。当時まだ飛行機はアンカレジを経由して北極回りで、先ずはヨーロッパの玄関口のひとつだったドイツのフランクフルトに3月9日到着しました。せっかくの機会でしたから、私たちはそこから先鉄道でヴュルツブルク、ニュルンベルク、パッサウとドイツの町を見学しながらオーストリアに入り、3月14日にウィーン西駅へとまいりました。


1983年3月10日撮影 リューデスハイム ・ Drosselgasse
フランクフルトには2泊いたしましたので、到着の翌10日、日帰りでリューデスハイムを訪れました。
「つぐみ横町」と訳されるこのリューデスハイムの Drosselgasse は先の大戦で空爆され壊滅的な被害を被りました。現在の町並みは戦後に再建されたものですが、今も中世の面影をしのぶことができます。




1983年3月11日撮影 ヴュルツブルク ・ Weinstube Bürgerspital

ヨハンは飲んべいではありませんが、訪れるドイツの町はどうしてもビール、ワインの町がメインになります。
しかし、この Nasenschild に書かれている文字は Bürgerspital、訳せば「市民のための病院」という意味ですから、ビールやワインには関係ない、と思われるかもしれません。ところがそうではないのです。
Wikipedia の記事を読むと
1316年ヴュルツブルクの都市貴族ヨハン・フォン・シュテーレン Johann von Steren がこの土地に病人のための新しい施設 Spital (介護院) を作ったのが起源です、16世紀からは施設は Bürgerspital zum Heiligen Geist 「聖霊市民病院」と名乗るようになります。慈善事業と言ってもよいこうした施設の一番の問題は経営資金です。そこで施設の維持のためにさらなるブルジョア市民たちの寄付によりワイン畑が購入されました。市民病院ワイン酒場 (直訳するとどうも変な言葉になって申し訳ありません、中身はきわめてまじめ、ヒューマニスティクです) としての起源は1873年にまでさかのぼります。市門の前で市民病院のぶどう畑からつくられたワインが特別のお祭りの日に売られたのです。


私たちにとってまだドイツに行くなんてことは夢だった時代、ドイツから帰ってきた人たちがお土産にしたのがこの形のフランケン・ワイン。日本では当時なかなかお目にかかることのないしろもので、形も独特で、みなさん自慢そうに持ち帰りました。御相伴にあづかる身としては、ありがたく「これがフランケン・ワインか」と先ず称賛の意を表すことが礼儀でした。
そんなことで、ヨハンはフランクフルトの次にこのワインの産地であるヴュルツブルクを目指したのではなかったかと記憶しています。リーメンシュナイダーの彫刻は二の次だった?




1984年にふたりが日本に戻ってから5年、1989年にベルリンの壁が破れたというニュースは私たちにとってはそれまでまるで予想もしていなかった大ニュースでした。
なんとか都合をつけ、ウィーン時代にお世話になった方々を再訪することを兼ね、1990年私たちはウィーンからベルリンへと旅をしました。

それまで東西を分断していた壁も、検問所も当時はまだ生々しく残っていました。もちろん壁は穴が開き (そのころは壁の破片を持ち帰る人のためにハンマーを貸す商売をしている人がたくさんいました)、かつての検問所は嘘のようにがら~んとしていました。
ベルリンから国境のなくなったポツダムに直通のバスが出ていて、無人となってがら~んとした検問所を通りぬけ、私たちはポツダムの町を初めて訪れました。

  
1990年8月17/18日撮影

ウィーン滞在から10年後、1993年に再び一年研究休暇をいただくことが出来たので、今度はヨハンの希望を優先して私たちは東西が再統一したドイツの首都ベルリンに行くことに決めました。


1993年4月24日撮影 ポツダム
今となってはこの写真を撮影した確かな場所を思い出すことも出来ませんでしたが、幸いこの日はチェチーリエンホーフを訪れたと記録されていることと、写真の Markt Klause という文字から検索した結果をあわせて考えると、ポツダム旧市街の Brandenburger Straße 35 だったようです。正面に見えている教会は Peter-und-Paul-Kirche です。


みなさんは「ワルプルギスの夜」についてきっと耳にしたことがあると思います。
4月30日の夜から5月1日の明け方にかけて魔女たちがブロッケン山に集まりどんちゃん騒ぎをする夜です。春の到来を祝う行事がハルツ地方の魔女伝説と結びついてできたものです。
ハルツはベルリンからも近く、ヨハンたちも何かの情報で、ターレの山の上で西側からの参加者を交えて東西交流の魔女祭りがおこなわれると知り、ベルリンから汽車に乗って日本人として初参加してまいりました 

1993年4月30日撮影 ターレのワルプルギスの夜


1993年5月1日撮影 ターレのホテル「ロストラッペ」


1993年5月1日撮影 Hexentanzplatz 「魔女が踊る集会場所」


1993年5月1日撮影 ロストラッペ Roßtrappe は「馬の蹄のあと」という意味です。不思議な形ですね。誰かが彫ったものでもないようですし。

下記のサイトを開くとこの Rosstrappe に関する説話が紹介されています
http://de.wikipedia.org/wiki/Rosstrappe

ちなみに今ネットでターレを検索するとあれからずいぶんモダンな列車、最新鋭のロープウェイもでき、人気の観光スポットによみがえっているようです。魔女たちが一生懸命踊った成果なのかもしれません。





1993年7月3日撮影 バンベルク ・ Waltemate Galerie

私たちが訪れた頃のバンベルクは静かな、美しい街でした。宿泊したホテルのレストランで初めて Kartoffelpuffer (ジャガイモをすりつぶしてフライにしたもの) をいただきましたが、その衝撃的なほどの美味しさは今でも忘れられません。
でもその後ニュースでバンベルクでもネオ・ナチの若者が外国人を襲撃した事件がおこったことを知り、以来バンベルクは縁遠い町になってしまいました。




1993年7月3日撮影 バンベルク ・ Hotel-Gasthof Wilde Rose、 Keßlerstraße 7





1993年7月24日撮影 ライプツィヒ ・ カフェ・フュルスト、Barfußgäßchen 2-8

ライプチヒにはドイツ語の講習会にも2度参加したことがあり、知人も出来ましたので、かなり当時の町は歩いて探索しました。
当時講習会の期間中宿泊した大学の学生寮は、お風呂にお湯をためようとすると、湯船が濃い茶色に染まるほど水が汚染されていました。大学はじめ町のあちらこちらにまだ東独時代の名残がたくさん残っていて( 東独時代この町には秘密警察シュタージの本部がありました)、ドイツの出版文化を支え、東側の商業の中心であったライプチヒの古き良き時代に思いを馳せれば、ドレーデンとならんで二つの町はドイツにおける京都、大阪のような存在でしたが、この町がよみがえるのはいつのことだろうかと危惧されるほどすさんでいました。
でも以前このブログに書きましたように、2009年にライプチヒを再訪してみると、町が大変身をして昔の輝きをようやく取り戻しつつあることを肌で感じてきました。




カッセル在住のNさんご家族には訪れるたびに車であちらこちらと連れていっていただくことができました。
どうやってNさん家族と知り合ったか、というとウィーンのカフェ、デーメルでたまたま席が隣同士で会話したことがきっかけです。そのときいたT君はまだほんの子供さんでしたが、今はお子さんもいる立派なパパになっています。


1993年8月28日撮影 ハン・ミュンデン ・ ビストロカフェ Sieburg
この日はハン・ミュンデン Hann. Münden に連れて行っていただきました。木骨造りの家がたくさん残る可愛らしい町でした。

以下はウィキペディア日本語版によるこの町の説明です
「ハン・ミュンデンでヴェラ川とフルダ川とが合流してヴェーザー川となる。3つの川にちなんで、この街は「ドライ・フリュッセ・シュタット(3つの川の都市)」とも呼ばれる。この街は放浪の医師で、ハン・ミュンデンの病院にいるときになくなったドクター・アイゼンバルトの墓がある街として特に有名である。この街に関してしばしば引用されるアレクサンダー・フォン・フンボルトの名言、ミュンデンは「世界で最も美しい5つの街の1つ」という言葉は、しかしどこにも記述されていない。」(ドイツ語Wikipedia には „eine der sieben schönstgelegenen Städte der Welt“ と説明されていますので一応書き添えておきます )
とても美しい町ですが、ときどき川が洪水をおこすようで、Nさんは「ほらこんな高さまで浸水したんだよ」と建物に記された洪水痕の記録を教えてくださいました。ちなみにミュンデンという名前は「川が流れ込む場所」という意味を持ちます。



1993年8月28日撮影 ハン・ミュンデン ・ 家庭用品 Neufang



1993年8月28日撮影 ハン・ミュンデン ・ 薬局 Doktor Eisenbart、 Lange Str. 18




私たちがベルリンにいた同じ年1993年には南ドイツのフライブルクにI先生ご夫妻がやはり研究休暇で滞在されていました。「遊びに来い、遊びに来い」と何度もお誘いを受けましたが、なかなかベルリンからフライブルクは遠くて果たせずにいました。でも余り寒くならないうちにと11月私たちは列車を乗り継いで7時間かけてようやくI先生を訪問することが出来ました。



1993年11月18日撮影 フライブルク(i/B) ・ ドイツ最古の料理旅館《赤熊亭》
熊の下に Ältester Gasthof Deutschlands の文字


Badische Zeitung 「バーデン新聞」は2011年1月12日の記事で次のように伝えています。

Gasthaus "Zum Roten Bären" wird 700
Im Gasthaus zum Roten Bären – einer echten Freiburger Institution – wird in diesem Jahr 700 Jahre Gasthaus-Tradition gefeiert.
「料理旅館《赤熊亭》が700歳になる。
フライブルク生粋の料理旅館《赤熊亭》が今年創業700年を祝う


Badische Zeitung の写真

ただ Wikipedia で調べてみると、このドイツ最古というのは自称で、ほかにも die Herberge zum Löwen in Seelbach 「ゼールバハの宿屋獅子亭」と  Zum Riesen im unterfränkischen Miltenberg 「ウンターフランケンのミルテンベルクにある巨人亭」 もそれぞれに最古の料理旅館と自称しているようです。

気になるのは赤熊亭と言うものの、ゴールデン・ベアーが飾られていることです。





1993年11月18日撮影 Cormar

このI先生は無類のワイン好きです。車でこの日は国境を越えフランス側に入り、ワイン村に試飲しに行こうと誘われました。
ん? い・ん・し・ゅ・う・ん・て・ん? ヨハンはもう昔のことなので忘れました。I先生ではなくて奥様がハンドルを握っていたものと思います。





2009年4月12日撮影 アウグスブルク ・ Ratskeller
アウグスブルクにはオペレッタを聴きに行きました。まだ春先の4月上旬、夕方になると夏とは違いすでに真っ暗です。この看板の下のドアを開けて店内に入ると確かに階段を下りて文字通り地下にレストランがありますが、その店内から外を眺めると、向かいに小公園、その先が車の走る通りです。斜面を利用して建てられているので、そんなことになっているのでした。



2009年4月14日撮影 アウグスブルク
この画像は今ではまったく記憶にありません。背景の色の関係で Nasenschild もくっきり見えません。
目を凝らしてなんとか文字を推測して、検索をかけてみた結果 Zum Vinzenzmurr というお店だと分かりました。
チェーンストアのようです。食肉店か、レストランと思われます。
ただ、検索して出てきた記事は、ミュンヒェンのお店に引き続き、アウグスブルクの Vinzenzmurr も衛生管理に問題があることが発覚、という内容のものでした。お~マイ ガッツ!

2012/11/13 ヨハン

フォト・ギャラリー「飾り看板」 (1) オーストリア・ハンガリー

2012-11-09 00:28:32 | オーストリア

1980年9月2日撮影 ザルツブルク Getreidegasse

ザルツブルクの観光ポスターにはこの旧市街の「ゲトライデガッセ」が定番として顔を出しますね。
軒を並べた昔からのお店を飾っている古い看板。はではでしいネオンの広告や、他と不調和なまでにアッピールするばかでかい、またどぎつい原色を使うことをもいとわない安っぽい日本の看板を見なれた私たちには、どことなくほっとする心地よさがあります。
それに一見しただけでもその細工の贅に作った職人たち、またそれを作らせたお店のプライドがおのずと伝わってきます。

ヨハンは町で素敵なこうした飾り看板を見かけたときには出来る限り写真に収めてコレクションとしてきました。

でも、こうした飾り看板について、その由来を知ろうと思ったときに、はたと気がついたのが、そもそもヨハンはここで勝手に「飾り看板」と呼びましたが、一体ドイツ語では何と呼ばれているのだろうか、という疑問です。

きっと決まった言葉があるはずです。

でも、ガイドブックを見ても、そんなことには無頓着なのかあっさり「看板」としか書いてありません。

そんなことで、見当をつけて、ドイツ語からいろいろ検索をかけてみました。

ようやくヒットしたのが Zunftzeichen という言葉です。

Die mittelalterlichen Zünfte symbolisierten ihr Berufs- und Gemeinschaftsverständnis in Form von Zunftzeichen. Diese Zeichen sind teilweise von einem Wappenschild umgeben.
「中世のツンフト(同業組合、ギルド)はそれぞれ自分たちの職業をシンボル化したマークを持っていた。こうしたシンボルマークは楯枠に周りをかたどられていた。」(Wikipedia)

たとえば、パン職人のツンフトのシンボルマークは中央にブレーツェル、両脇に獅子が刀を持ち交差させています



これがお店の飾り看板となったものが次の画像です



ブレーツェルだけをシンボルマークとしてお店の看板としたサンプルもあります



Zunftzeichen はギルドとしての結束を象徴したものであろうし、そのシンボルマークがお店の軒先を飾った看板は、何よりも文字によらず、絵柄として遠くからでも人々に存在を知らしめたわけです。

で、その軒先を飾ったこの看板はドイツ語で何と言うんでしょう?

それは Nasenschild と呼ばれます。「鼻のように突き出した看板」という意味です。

小学館の独和大辞典では、Schild の項目において、Wirtschaftsschild としてこの Nasenschild が掲載されています。

突き出した看板という意味では Nasenschild は交通標識にも、表札にも使われます。



オーストリア


2009年7月26日撮影 ザルツブルク Getreidegasse



2011年8月5日撮影 ザルツブルク ・ レストラン Zum Mohren
このレストランのホームページにはモーツァルトもシューベルトも通った、と書かれています。また13世紀当時の市壁のオリジナルが店内に残されているとのことです。名前になぜ Mohr 「ムーア人」が付けられているのかの理由については分かりません。




2011年8月5日撮影 ザルツブルク ・ Judengasse のホテル Altstadt Salzburg。 
かつてここはシナゴーグでした。先端のつり下がった飾りの部分には Höllbräu の文字。

「18世紀にはこのヘルプロイ ( Höllbräu 直訳すれば「地獄の醸造所」 ) はザルツブルクで自家製のビールを販売する典型的な蔵元ホテルでした」 (Wikipedia)





2011年8月6日撮影 ヴェルフェン ・ 中心広場にあるホテル オプアウアー Obauer
ペンションの下に Fleischhauerei の文字。精肉、小売業を兼ねているようです。ホームページでは取り扱うお肉についてバイオ飼育の国産肉とアピールしてあります。こんなホテルに泊まればそれは美味しい食事を提供してもらえることは間違いないし!






1997年8月13日撮影 St.ヴォルフガング ・ Gasthof Zimmerbräu

16世紀半ばに Bierstube として記録に名を見せ、1573年頃から醸造マイスター Aegidius Zimmermann によってこの建物は„Zimmermanns Bräu“ としてビール醸造の店として経営され、やがて1895年にはホテルに改装されました。

Zimmermann 醸造所、画像左が聖ヴォルフガング巡礼教会 (ホテルのホームページ資料写真)



2009年7月31日撮影 St.ヴォルフガング
左はホテル、牡鹿がシンボライズされているので Hotel zum weissen Hirschen だったのかも知れません (検索して確かめてみましたが、ホームページの写真とドンピシャとはいかなかったので、断定はできません)、右はベイカリーですね



2009年8月20日撮影 St.ヴォルフガング ・ ホテル白馬亭
この湖にむかって突き出た白馬のシンボルマーク、誇らしげに見えるのは気のせいでしょうか。
白馬亭についてはこのブログの記事「ザンクト・ヴォルフガング ― 幸せが出迎えてくれるホテル「白馬亭」」をご参照ください。白馬亭がホテルとして登場するのは1878年です。





2011年8月7日撮影 バート・イシュル ・ 薬局 Esplanade Apotheke、 Esplanade 18
薬局のシンボルマークにも鹿が登場しますが、鹿の角が薬として重宝されることと関係あるんでしょうね






2011年8月17日撮影 ウィーン ・ 錠前屋 Klaus Schuldes、 Günthergasse 1
ホームページを見ると、創業1928年、現在の経営者は3代目。



2011年8月16日撮影 ウィーン ・ ベイカリー Wenninger、 Rauhensteingasse 4
「 n 」 が一つの Weninger  ヴェーニンガーというベイカリーが Wels にありますが、それとは関係ないお店のようです



2011年8月16日撮影 ウィーン ・ 貴金属、インテリア Franek、Ballgasse 4



2011年8月16日撮影 ウィーン ・ レストラン Kuckuck、 Himmelpfortgasse 15

このお店が入っている建物は Palfin 伯爵の名をとり、1700年に「パルフィン館」と名づけられましたが、綴りの「f」と「t」を間違えたため das "Paltische Haus" となりました。天井は16世紀、ファサードは17世紀後半のバロック様式で、美しい破風と、またルネサンス様式の美しい門構えをもち、文化史の観点からウィーンの興味深い世俗建築物です。このあたりは古代ローマ人が居住したこともあり、地下からは大理石の頭像、トルソーなどの遺跡が出てきました、これらは現在ウィーン市歴史博物館に展示されています。



2011年8月16日撮影 ウィーン ・ 服飾、装飾品 JEM、 Himmelpfortgasse 11







2002年8月19日撮影 プフベルク ・ Sebastianhütte

シュネーベルク山麓のセバスチャンの滝近くに1829年 Jägersberger によってここに最初の小屋が建てられました。


現在の Wasserfallwirt (Sebastianhütte)





2005年8月5日撮影 クレムス ・ Hotel Alte Post、Obere Landstraße 32



2007年7月28日撮影
これはどこにでもある国産たばこの販売店のしるしです




1994年2月18日撮影 インスブルック ・ ホテル・レストラン Happ、 Herzog-Friedrich-Straße 14
ホームページには1484年にこの建物の最初の記録が出てくると書いてあります
Weinhaus と書いた文字も見えるので、ワイン酒場も兼ねているのでしょうか、シンボルマークもぶどうです




ハンガリー



2002年3月9日撮影 ブダペスト ・ Café Pierrot Restaurant、 Fortuna utca 14.
このお店、初めて入った時には料理がとても美味しくて、再び訪れましたが、そのときは残念ながらさほど感激することはありませんでした。検索してみると2004年に大規模な改装がされたようなので、もうこの看板はなくなっているかも知れません。
王宮側、ブダのマーチャーシュ教会近くにありました


ヨハン 2012/11/8