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ウィーンわが夢の街

ウィーンに魅せられてはや30年、ウィーンとその周辺のこと、あれこれを気ままに綴ってまいります

オペレッタ『オペラ舞踏会』

2011-03-01 03:47:03 | オペレッタ
場所はパリですが、オペラ舞踏会を題材にしたオペレッタをご紹介することにします。
ウィーンの人々にとってパリが「自由」にあふれた桃源郷のように映ってあこがれの対象であったことがこのオペレッタをみるとよく分かります。


オペレッタ『オペラ舞踏会』
あらすじ1

作曲リヒャルト・ホイベルガー、台本ヴィクトール・レオン、ハインリヒ・フォン・ヴァルトベルク、初演1898年1月5日、アン・デア・ヴィーン劇場

第一幕
パリでカーニバルを過ごそうとポール・オビエと妻アンジェールはオルレアンからマルゲリト、ジョルジュ夫妻を訪ねてきている。パリにはアンジェールのおばが住んでいる。その老ボビュソン夫婦は姪と会えるのを楽しみにドメニール家を訪れてくる。ポールとジョルジュは学友、二人ともカーニバルを楽しもうと外出できる口実を考えていた。
夫の貞節を信じるアンジェールはマルゲリトに、「貞節な夫なんていやしないわよ」と笑われ、むきになる。ならば貞節度を試してみましょうとマルゲリトに提案されると行きがかり上応じざるを得なくなる。侍女オルタンスに同じ文面の手紙を2通書かせ、ポールとジョルジュをオペラ舞踏会での逢引に誘いだすことにした。目印はピンクのドミノ。しかし、こっそりオルタンスはもう一通同じ手紙をボビュソンの甥で海軍士官候補生のアンリに書く。

第二幕
オペラ舞踏会にやってくる今宵の役者たち。最初のバラ色のドミノに身を隠した女はオルタンス。待ち合わせ場所にアンリを見つけるとセパレに誘う。次にポールがマルゲリトを、そしてジョルジュがアンジェールをそれぞれお目当ての相手だと思いセパレに入る。老ボビュソンさえも厳しい妻の監視の目をすり抜けオペラ舞踏会に姿を現し、陽気な街の女フェオドーラにセパレに誘い込まれる。
アンジェールとマルゲリトは給仕長に、鈴の音を合図に邪魔に入るよう言い聞かせてあったが、給仕長が男たちをセパレの外に呼び出したことで混乱はむしろ収拾のつかないものになっていく。ここには3人同じ格好をしたピンクのドミノがきていたからだ。女の方もジョルジュ、あるいはポールがピンクのドミノを相手にセパレでいちゃつく姿を見て激怒する。夫たちはピンクのドミノ相手に奮戦し、ドミノにたばこの焼け焦げをつくってしまったり肩を裂いてしまったりする次第。

第三幕
帰宅したジョルジュは偶然オペラ舞踏会への誘いの手紙が書かれていた紙を見つけ、女たちのたくらみに気づく。ジョルジュとポールの激しい非難の応酬、ついには決闘騒ぎにまで発展する。しかし二人の妻は自分たちのドミノにたばこの焼け焦げもなければ、破れ目もないことを見せ、何事もなかったことを証明する。アンリによって第三の誘いの手紙の存在が明かされ、オルタンスがすべての仕掛け人であったことが分かる。「それで君は本当にパリジェンヌなのかい、とポールが尋ねると、オルタンスはあなたちと同じオルレアンの出よ、と答える」(この部分は永竹氏の解説に拠ります)
以上 Volker Klotz 《Operette》(PIPER)、並びに永竹由幸『オペレッタ名曲百科』音楽之友社を参照。


このオペレッタはホイベルガー唯一の成功作となった作品です。なかでもっとも有名な曲は第二幕でオルタンスが歌う二重唱のワルツ 《Komm mit mir ins Chambre séparée》 (セパレに行きましょう) で、この曲はその後もいろいろな歌手によってカヴァーされています。このオペレッタは戦前戦後と映画化されています (ただ映画では舞台はウィーンと設定されています)。作曲者のホイベルガーはアン・デア・ヴィーン劇場支配人のカルチャクが『メリー・ウィドウ』の作曲を最初依頼した人物です。

日本では1971年にユニテルが制作したヴィリー・マッテス指揮のオペレッタ映画がdreamlifeシリーズのDVD12巻の中で取り上げていますから、ご覧になった方も多いと思います。詳細は解説で志田英泉子氏が詳しく書かれていますので譲るとして、あらすじそのものに相当手が入っていますから、DVDを見ても今ご紹介した作品辞典に書かれた解説とはずいぶん違う印象を持つことだろうと思います。

*****

ユニテル制作『オペラ舞踏会』
あらすじ2

第一幕
ロンドンに住む弁護士ポール・オビエは妻アンジェールを伴ってカーニバルをパリで過ごそうと、マルゲリト、ジョルジュ夫妻を訪ねてきている。ジョルジュ・ドゥメニールはジャーナリスト、その妻マルゲリトは新聞王シザール・ボビュソンの姪。ジョルジュが「パリの舞踏会は不道徳の温床」、「セパレで何をしていることやら」と書いた記事でおじの不興を買う一方、シザールの妻パルミラに言わせれば「パリで浮気しない男なんかいない」。パルミラにたきつけられ、女たちは夫を試験してみようということになる。(筆跡をかくすため) 侍女オルタンスに同じ文面の手紙を2通書かせ、ポールとジョルジュをオペラ舞踏会で逢引しましょうと誘うことにした。目印はピンクのドミノ。しかし、こっそりオルタンスはもう一通同じ手紙をボビュソンの甥で海軍士官候補生のアンリに書く。逢引の誘いの手紙をもらうと男たちはそわそわしだし、理由をつけて出ていく。ポールが「裁判で知り合った女性」だと連れて来ていたフェオドーラが残された女たちに「あなたがたも舞踏会にでかけて、夫を誘惑して、こらしめてやれば」とけしかける。

第二幕
オペラ舞踏会にやってくる今宵の役者たち。老ボビュソンもフェオドーラをエスコートしてやってくる。アンリはオルタンスを、ジョルジュはアンジェールを、ポールはマルゲリトをそれぞれお目当ての相手だと思う。ジョルジュとポールは婦人たちをセパレ (個室)に誘うが、女たちは男の誘いが激しくなってきたところで鈴の音を合図にボーイに外に呼び出す口実で邪魔に入るように言い聞かせてあった。邪魔が入ってがっかりした男たちは、セパレの外に出たところで鉢合わせ。
しかし混乱はこれから。男たちがセパレを出ている間にアンジェールとマルゲリトが入れ替わる。
さらにその後、ジョルジュもポールもピンクのドミノに身を包んだオルタンスを今宵の相手と思いこみ、キスをせまってドミノにたばこの焼け焦げをつくってしまったり、外套を裂いてしまったりのご乱行。

第三幕
帰宅したジョルジュは偶然オペラ舞踏会への誘いの手紙が書かれていた紙を見つけ、女たちのたくらみに気づく。激しい非難の応酬。ついにはジョルジュとポールの決闘騒ぎにまで発展する。しかし二人の妻は自分たちのドミノにたばこの焼け焦げもなければ、破れ目もないことを見せ、何事もなかったことを証明する。アンリによって第三の誘いの手紙の存在が明かされ、オルタンスがすべての仕掛け人であったことが分かる。


最終的に妻たちの名誉を救う形にするためとは言え、どうもこのオペレッタは侍女オルタンスに過重な役割が負わされていて、シャレの世界からは程遠く感じられ、あまり後味の良いとは言えません。
志田英泉子氏は解説で「パリの新しいオペラ座で初舞踏会が行われたのは、1877年1月13日。」と書かれています。そして「19世紀末パリの舞踏会では、舞踏会の終りにフレンチカンカンが踊られた」と紹介されています。まさしくオペラ座の舞踏会はアヴァンチュールの場そのものだったということです。ことの真偽はヨハンにはわかりませんし、そもそもこのオペラ座がガルニエ宮*のことなのかどうかも分かりません。というか、にわかに信じがたいというのがこのDVDを見ての印象です。
*ガルニエ宮: いわゆるオスマンのパリ大改造で新しいオペラ座のコンペに応募してシャルル・ガルニエの建築プランが採択され、今日のオペラ座が建設されました。(1875年1月15日竣工)

DVDで見る限り、登場人物の男3人が、それぞれにピンクのドミノに身を包んだ手紙の女性と12時に時計の下で待ち合わせるシーン、どう見てもあの絢爛豪華なパリ・オペラ座とは似ても似つかぬ貧弱なセットです。そんなことでヨハンのイメージはかきたてられません。
でも、これは映画化された1971年当時のドイツの趣向にあわせたが故かもしれませんから、ただちに作品そのものの出来栄えのせいにはできないかもしれません。


******

このオペレッタは戦前映画化されていますので、最後にその映画でどのように扱われたか、見てみることにします。劇映画ではセットが使われたのか、オペラ劇場そのものが舞台として使われたのか白黒でもあり、これまたヨハンには分かりませんが、リアルな感じにあふれ、豪華な雰囲気は出ています。ただ仄聞するところではウィーンのオペラ舞踏会では、舞台も客席と一体化して大ホールに変化するようですが、映画では、舞台はそのまま存在し、そこで歌い手が「セパレにいきましょう」を唄ったりしています。

映画『オペラ舞踏会』1939年、監督ゲザ・フォン・ボルヴァリ

映画での設定舞台はウィーンです。登場人物の役回りにもずいぶんオペレッタ、ユニテル制作オペレッタ映画、そしてこの劇映画の3つで異なります。
最初にそれぞれの登場人物を
◎オペレッタ (あらすじ1)
●ユニテル制作オペレッタ映画 (あらすじ2)
☆劇映画 (あらすじ3)
と整理しておくことにします。

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ボビュソン (◎年金生活●パリの新聞王、 名はシザールだが、老夫婦の愛犬の名もシザールである // ☆ Eduard von Lamberg

●パルミラ、その妻 ◎その妻、夫を尻に敷くくそまじめな老婦人 //☆ Hermine・・その妻

◎● アンリ (夫妻の甥、海軍士官候補生、オルタンスと恋仲) // ☆ 登場せず

◎● フェオドーラ (街の女・・永竹氏の解説では踊子) // ☆ 登場せず

◎ ジョルジュ・ドゥメニール (●パリのジャーナリスト) // ☆ Georg Dannhauser (Paul Hörbiger) ・・ビール工場経営者

☆ Mizzi ・・バレーの踊子 (◎●には登場せず)

マルゲリト (◎その妻、●ボビュソンの姪) // ☆ Elisabeth・・その妻

☆Philipp (Theo Lingen) ・・執事 (◎●には登場せず)

◎● オルタンス (侍女) // ☆Hanni Bretschneider ・・侍女

☆ Will Stelzer・・人気作曲家 (Helene がPaulと結婚する前、彼はHeleneを恋していた)   (◎●には登場せず)

ポール・オビエ (◎ジョルジュの学友、オルレアンに住む// ●ロンドンの弁護士) // ☆Paul Hollinger・・ザンクト・ペルテンに住む

アンジェール (●その妻、◎ボビュソンの姪) // ☆Helene・・その妻

◎●フィリップ (給仕長) // ☆Anton (Hans Moser) ・・・給仕長

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エリーザベトは夫の浮気を疑っている。ザンクト・ペルテンから訪ねてきているヘレーネを説き伏せふたりの夫の浮気心を「偽招待状」で試験することにする。
他方、「偽招待状」の工作などなくても、どのみちゲオルクはミッツィとオペラ舞踏会に行くつもりだった。友人パウルもアヴァンチュールが嫌いな質ではないので、この機会にゲオルクは以前バウルから受けたいたずらに仕返しをしてやろうという腹積もり。ゲオルクは以前パウルにサーカスの女芸人を仲介され恥をかかされたことがあったのだった。今度は腹いせに彼の方が女中のハニを使ってその役をさせるつもりだった。
ヘレーネは昔作曲家シュテルツァーを愛していた。エリーザベトはバウルを愛していたが、結局はゲオルクと結婚した。ハニはバウルにひそかに夢中だったが、シュテルツァーのことも好きだった。
ダンハウザー家の執事フィリップはハニと婚約しており、主人のゲオルクにたくらみのあることを警告しようとする。
誘惑と入り組んだ取り違えの仮面舞踏会がスタートする。変装した妻たちはそれぞれ相手の夫から口説かれるが、給仕長アントンに危険を回避してくれるように頼んであった。ここに同じく変装した侍女が現れ混乱に輪がかかる。
いつもなら毅然と事を取り仕切るアントンにももう混乱をストップさせることはできない。
宴が終わってその翌日。前夜のことではみんながただ「いたずらの被害者」になったにすぎないことが明らかになる。
翌年のオペラ舞踏会は取り違えのない、仲を戻した夫婦で参加することになる。
すべての真相が晴れ、夫婦の間に平和が戻る。


オペレッタの給仕長の名がフィリップなのに、劇映画ではゲオルクの執事が登場しフィリップを名乗っていたり、ボビュソンの姪がオペレッタではアンジェール、ユニテル制作オペレッタ映画ではマルゲリトになっていたりで、それぞれの作品を把握するのに苦労します。
取り違え物語も使い古されたテーマとなると、どんどん手が込んで、このオペレッタでは4組のペアが入り乱れるため、余計内容をのみこむことに困難が伴います。一つのバージョンだけでオペレッタの内容を語ることがいかに危険かわかります。
ちなみに劇映画では、給仕長アントン役をハンス・モーザー、そして執事フィリップをテオ・リンゲンが演じ、喜劇のゴールデン・コンビが出演しているので、物語の運びの重要な部分をこの二人の名優が負っています。その分オペレッタの色彩は薄く、「セパレに行きましょう」も作曲家シュテルツァーが僕のつくった曲だよ、とハニに弾き語りをするシーンとして出てきます。


ヨハン (2011/03/01)

オペレッタ『こうもり』 とその種本が描きだした世界

2011-02-24 10:02:39 | オペレッタ
以前『こうもり』の台本作者が二人ともプロイセン人であったことを書きました。

このオペレッタの原作はフランスの戯曲、アンリ・メイヤックとリュドヴィック・アレヴィによる《Le Réveillon》という作品でした。タイトルの意味はクリスマス・イヴや大みそかに夜を徹してなされる宴のことです。

そもそも仮装、変装してのどんちゃん騒ぎでの無礼講、そこでは時に主人と従者の立場も入れ替わり、身分社会、宗教的な戒律の枠組みは外れ、日常から脱し、ストレス発散 ―いわゆるガス抜きというやつですね― することがこうした催しの実用的な目的、真の姿であったろうことを考えれば、喜劇にとってもオペレッタにとってもクリスマス、カーニバルがお気に入りのテーマになることは容易に想像できます。

『こうもり』では、取り違えの相手が自分の妻であることに最大のシャレがきいていました。
アイゼンシュタインはアデーレを見ればお尻にタッチせずにいられない浮気者ですが、アデーレに熱を上げたりはしませんし、いくらアデーレが妻ロザリンデの衣装にめかしこんでいようと、一目で侍女と見抜いています。アイゼンシュタインの無粋はその事実を口にすることなのです。ロールプレーの世界では役者は演技が求められるのであって、自分の役回りを忘れて観察者の側に回るなど無粋のきわみです。アデーレにたしなめられ、満座の嘲笑を浴び、以後アイゼンシュタインは見事にファルケのシナリオを演じ、妻を口説きます。

他方の妻ロザリンデはどうでしょうか? 表向き留置場に向かうはずのアイゼンシュタインが夜会服に正装して我が家を出ていくにあたって、ロザリンデは

So muß ich allein bleiben
Acht Tage ohne dich?

あなたと一週間も離れて
独りでいなくちゃいけませんの?

と大げさ極まりなく悲しみの言葉を口にしますが、言葉とはまったく裏腹にステップは次第にワルツ、隠しきれない心の奥から湧き出る喜びに包まれ、結局アイゼンシュタイン、アデーレとともに3者が3様に喜びのワルツの3重唱に一体化してしまいます。

O je. O je, wie rührt mich dies (Nr.4 Terzett)

ああ、ああ、感動で胸も張り裂けそう

感動というのは、表向きは夫を思って悲嘆にくれてみせるロザリンデの夫婦愛、しかしてその実態は夫から解放される喜びです。オ~ マイ ガッ!! やはり恐ろしいですなあ、女性は。

案の定、アイゼンシュタインが出ていくや否や、ロザリンデのもとには元彼のアルフレードが入り込んできます。
オペレッタではいつの間にかという形でお芝居が進行しますが、まさかねえ、アルフレードが窓から入ってくるとも思えないし、どう考えたってロザリンデが迎え入れたとしか考えられないでしょ? それどころかアルフレードはアイゼンシュタインのガウンに身を包みます。そのためアルフレードは警察署長フランクにとり違えられて留置場につれていかれる訳です。どう考えても現実の世界なら大スキャンダルですよ。

この一代ピンチにあたって、アルフレードは有名な科白「Glücklich ist, wer vergißt, Was doch nicht zu ändern ist!」(逆らえない運命を忘れてしまえる人は幸せだ) (Nr.5 Trinklied) を唄うのです。しかも、朗々と。

『こうもり』が初演(1874年4月5日)された時代、ウィーンは前年の5月9日の世に言う「ブラック・フライデー」で株が大暴落、まさにバブル崩壊の経済恐慌に襲われました。お酒で全てを忘れてしまいたい時代だったという意味でこのアルフレードの言葉はよく引き合いにだされてきました。しかし、アルフレードの歌、出だしでは「Trinken macht die Augen hell」と唄っています。お酒を飲めば物事がよく見えてくる、という意味ですね。やはりこの一言もとても利いていると思います。

世の中どうにもならないことをうじうじうじうじいつまでも引きずる輩ばかり。そういう輩こそお酒はね、飲ませても無駄、っていうくらいなものです。
お酒で脳味噌の縛りをとって、物を冷静に洞察してみようよ、そしてその結果、どうにもならない運命が見えてきたら、それはそれで身をまかせていこうじゃありませんか。こういう人生訓なのです。

ウィーンを襲った経済恐慌、もちろんウィーンの人々すべてを打ちのめしたかと言えば、そこには快哉を叫ぶ大衆もいたのです。Bartel F. Sinhuber はその著でこの事態を次のように分析してみせたコラムニストの言葉を紹介しています。(《Alles Walzer》Europaverlag)

「証券所は積年の罪の重さに耐えきれずに崩壊した。昨日からまっとうな人間が大手を振って町を歩くことができるようになった。汗して働く人間がばかもの呼ばわりされずに済むようになった。昨日から泥棒は男爵なんかでなくて、泥棒と呼ばれるようになったわけだ。すっかり毒されてしまった空気をこんなに見事に清めてくれた嵐はかつてなかったことだ」(コラムニストFerdinand Kürnberger の言葉)

アルフレードは突然現れるわけではありません。今は人妻となったロザリンデの夫アイゼンシュタインが留置所送りで不在となる情報を手に入れたからこそ、彼女のもとを訪れ口説いているわけです。一週間の自由を手にしたロザリンデは誘惑すれば落ちると踏んでいるからです。アルフレードは「観察」者なのです。

そもそもアルフレードはロザリンデの元彼ということになっています。ロザリンデはアイゼンシュタインと結婚するためにどうやら縁をきり、姿を消したらしいと想像されます。なぜならアルフレードはようやくロザリンデの居場所を捜しあて、お芝居の幕が開くや否や舞台のそでから

Täubchen, das entflattert ist,
Stille mein Verlangen

僕の手から飛び去って行った子バトちゃん
ぼくの切ない気持を慰めておくれ

なんて、唄っているのですからね。

でも、なぜロザリンデはアルフレードと縁をきったのでしょう?
それはアルフレードには金がないからです。他方のアイゼンシュタイン、「銀行家」と紹介しているバージョンもありますが、ほとんどのバージョンでは Rentner  (年金、または金利生活者) と書かれています。どっちなんでしょう? どうでもよさそうですが、そのことで彼の想定される年齢が変わってきます。ヨハンは仕事に成功し、侍女 (アデーレ) を雇うほどの大金持ちで、現在は退職し、株取り引きでもしている初老の男と想像しています。ロザリンデの気をひいた要素としてはお金以外にありません。

他方のアルフレードは若さいっぱい、唄声を耳元に吹き込めばロザリンデの理性なんかひとっ飛びに吹き消してしまうと自信を持った色男。アルフレードのテクは交際中に体に十分しみこませてきたとばかりに窓辺でテノールでロザリンデに呼び掛けているのです。金なしのアルフレードにはアイゼンシュタインを敵に回して生活力という点で勝負したら、勝つ見込みはありません。しかし、そのアイゼンシュタインは一週間の留置所生活、俄然色男アルフレードにチャンス到来という場面ではありませんか。

なんだかなあ、オッフェンバックの『天国と地獄』の世界 ―夫に飽き飽きしていると言いながらオルフェに耳元できんきんバイオリンを弾かれると身もだえするユリディス― みたいだ。テノール、バイオリンを聴かせると女性の理性が吹っ飛んでしまうのかと、これは音楽の才能のない男としてはおちおちしてられない話ですよ。
あ~あ、せめてピアノくらい習っておけばよかったと後悔するヨハン。

しかしこれらは象徴にすぎないわけで、真に受ける必要はありません。その象徴があらわしていることは異相の世界です。日常の世界を支える価値観、現実世界で役立つ価値とは経済力です。男としての価値の優劣がそのことでのみ決められる (これこそはまさに19世紀に出てきた新しい価値観にほかありません) ことへの疑問、価値崩壊、価値逆転がこのことで起こるわけです。実際、テノールのいい声がでたところで、そのことでおなかがすくことはあっても、腹の足しにはなりません。経済活動の視点からすれば無です。―とは言え、お墓の歌かなんかで突如ひっぱりだこになってテレビに出まくっている歌い手もいますから、現代では音楽は残念ながら立派に経済活動になり果てた現実がありますけどね。
芸術が経済価値に置き換えられていくようになるのも19世紀に出てきた考え方です。

19世紀の資本主義社会において、女性は経済的に安定させてくれる相手 ―勝ち組という連中ですな― に安らぎを感じつつ、その一方で人間の生きざまの多様性が捨象されて、男たちが単一の価値スケールで測られていく新思考の中で、競争に加わるわけでない女性たちは退屈さに打ちひしがれたのです。
ちょい悪野郎でも、異相の世界を垣間見させてくれる相手の方に女性の理性は緩むわけです。オペレッタの世界ではこのちょい悪親父はたいてい男爵か伯爵と相場が決まっています。侯爵、公爵にくらべて気軽な身分だからだとヨハンは思っていますが、これはこれから研究したいテーマです。

オペレッタが好んで描いたこうした宴の世界では心の縛りを自ら解放することが眼目で、その後また登場人物たちは現実世界に後戻りするであろうことは想定済みの世界です。現実世界そのものがひっくり返されることはありません。やがて待ち受ける運命を予感していたのか、そうでないのか、とにかくあらがうこともなく世紀末にひた走っていく、これがウィーンの貴族社会の遊び心、爛熟した退廃文化をつくったのでしょうね。
もちろんシュトラウスは音楽を通して人々を躍らせてはいましたが、その目は <hell> 、しっかりその退廃の美を見届けていたのです。なぜかと言えば、運命は逆らえないからです。

そんな苦虫をかみつぶしたような顔をしていないで、さあ
みなさまも、どうぞワルツを Alles Waaaalzer!!


☆ ☆ ☆

ヨハン・シュトラウスのオペレッタ『こうもり』が直接的には1872年にパリのパレ・ロワイアルで上演され好評を博していた芝居 《Réveillon》 (イヴのどんちゃか騒ぎ)をタネ本にしていると冒頭に書きました。

この芝居も、どうやらもとをたどればドイツ人ロードリヒ・ベネディクスRoderich Benedix (1811-73) という人の戯曲 『監獄』 《Das Gefängnis》 をもとに書かれたもののようです。

*『監獄』のあらすじ (ツェントナーに拠ります)

夫の家で、という女性の望まぬ逢引を無理やり承知されたと思ったら、その間男が不在の夫と間違われて逮捕される。世間に逢引の事実がばれてはまずいので、彼氏は夫の身代りとして監獄に連れていかれる。

オペレッタ『こうもり』と筋の骨格は同じです。残念ながら、しかし、これ以上の詳細は、戯曲がいつ発表されたものなのかも含めて現在のところまでヨハンには全く知り得る手段の持ち合わせがありません。これを紹介しているヴィルヘルム・ツェントナー Wilhelm Zentner  (レクラム文庫 《Die Fledermaus》 解説) 自身も、ベネディクスから『こうもり』への影響関係を過大に考える必要はないとも書いていますので、これはこれで頭におさめて、ここでは一つ前の作品、つまり、『監獄』と『こうもり』の間ある作品ですね、『こうもり』にとって直接関係を指摘されてきている作品、メイヤック&アレヴィ台本 (アレヴィはオッフェンバックの『天国と地獄』のリブレティストの一人でした) の 《Réveillon》 について見てみることにします。
*Henri Meilhac (1831ß97)、Ludovic Halévy (1834-1908)




先ず、登場人物を『こうもり』と比べて一覧してみましょう。『こうもり』の方はカタカナ (レクラムに拠って書きます)、その後に対応する 《Réveillon》 中の人物はまずアルファベートで並べていきます。

ガブリエル・フォン・アイゼンシュタイン・・・年金 (金利) 生活者// Gabriel Gaillardin ・・・der wohlhabende Rentner (ガブリエル・ゲヤルダン・・・富裕な年金、金利生活者)

● Duparquet・・・Notar (デュパルケ・・・公証人)

プリンス・オルロフスキー// Yermontoff・・・der junge russische Prinz (イェルモントフ・・・ロシアの若きプリンス)

ロザリンデ// Fanny (ファニー)

アルフレード・・・ロザリンデに歌を教えた先生// Alfred・・・Geiger (アルフレード・・・バイオリン弾き)

フランク・・・監獄長// Tourillon・・・Gefängnisdirektor (トゥリヨン・・・監獄長)

● Metella・・・ein schönes, früheres Hirtenmädchen von Pincornet-les-boeufs. (メテッラ・・・・もとはパンコルネ・レ・ベフの羊飼いの美人娘)

*Pincornet-les-boeufs はネット検索をするとヒットします。実在の地名です。クルーズのサイトに出てくるのでフランスのセーヌか、ロワールかの河岸の村のようです (それ以上の詳細は目下つかめていません)。


ご覧のように、『こうもり』が 《Réveillon》 に依拠して書かれたオペレッタであったことは一目了然。登場人物の対照を表にできるほどです。そうなのですが、しかし、また、あえて、対応に無理がある人物については●印をつけました。二つの作品の間には大きな違いがあることもはっきりしてきます。それを見てみましょう。

『こうもり』で重要な役割を演じるDr.ファルケ、プリント、そして小間使いのアデーレが《Réveillon》 に登場する人物と比べると大きく役回りが違っています。

先ず、《Réveillon》 の設定場所と時期ですが、これはクリスマス・イヴのパリです。
この時期について、R・シュトルツ指揮の『こうもり』(DENON) で解説を書かれている保柳健氏がこのように書いています。

「アン・デア・ウィーン劇場の支配人、マックス・シュタイナーはその劇の内容どころか、題名の意味さえよく分からずにウィーンでの上演権を買ってしまった・・・「レヴェーユ」(を)“起床ラッパ“と混同したよう (です)・・・クリスマス・イヴに・・・フランス人がやるような“僧侶も尼僧とワルツを踊る“どんちゃん騒ぎ・・・などは、ウィーン人にとってはそれこそ“神への冒涜“・・・“喜劇の台本“は (お蔵入りとなりました)」
「ところが・・・知恵者はいるもので・・・“クリスマス・イヴの晩餐“を・・・移しかえれば問題はない」

ウィーンはマリーア・テレージアの時代から (表向き) 風紀には厳しい土地柄であったことも事実ですし、大司教のおひざ元、シュテファンとホーフの距離は歩いて30分もかかるかどうか。でも、オーパンバルを調べるなかで既に見てきたように、その宮中で12月のクリスマスの時期に、舞踏会を幾夜も開くのはまずいんでないですか? と再三お坊さん側からクレームが入り、やむなく宮中舞踏会の時期も場所も移したのです。

アン・デア・ヴィーンの支配人がレヴェイヨンをレヴェイユと誤解したかどうか、その真偽はヨハンには分かりませんが、オペレッタ『こうもり』では教会側からのクレームを避けたのでしょう。時期は大みそかにずらされました。

以上を踏まえて、あらすじです。

『イヴのどんちゃか騒ぎ』 あらすじ

第一幕
ガブリエル・ゲヤルダンは留置場送りの判決が下された身であったにもかかわらず、公証人デュパルケの誘いにのってイェルモントフのヴィラで開かれる夜会 (ソワレ) に出かけていく。その間自宅では妻のファニーが最初激しく抵抗したのにもかかわらず、結局バイオリン弾きのアルフレードにあがりこまれ、ふたりでいるところに夫を連行しにきた監獄長トゥリヨンに逮捕連行される。

第二幕
ゲヤルダンとトゥリヨンは名前を偽ってイェルモントフの夜会に出席している。この宴の席でゲヤルダンは美人メテッラの魅力のとりこになってしまう。

第三幕
ゲヤルダンが留置所に出頭してきてびっくり仰天。なぜなら彼が留置されるべき檻にはすでにアルフレードが入っているからだった。そこでゲヤルダンは自宅でなにがあったか知るために弁護士に扮装してさぐろうとするものの、要領を得られない。
最後にデュパルケが登場してすべては自分がプリンス・イェルモントフを楽しませるためにしかけた一場のファルス (笑劇) だと種明かしをする。

このツェントナー解説による最後、ラストの場面からすると、アルフレードも、メテッラも仕込まれた役者 (トラップ) だったのかもしれません。

そう考えると、この作品はそれなりに喜劇として後味の良い完成された作品とも思えます。

『こうもり』はこれに比べると少し手が入りすぎている気がします。ロザリンデ、アデーレがともに夜会に出席するのもなんとなく不自然です。しかし、まあ、そうした構成ですばらしいシュトラウスの名曲がたくさん生まれたことを考えれば、よしとしますか。

ちなみにフロッシュはオリジナル『こうもり』の台本ではセリフは与えられていなかったそうです。実際の公演のなかで、今日のギャグが生まれていったようです。(アーノンクール指揮『こうもり』TELDEC、解説マンフレート・ヴァーグナーに拠る)


ヨハン (この記事は2011/02/20と2011/02/23をまとめたものです)

スイス、アルト劇場のオペレッタ公演

2011-02-13 18:09:37 | オペレッタ
2009年4月私はウィーンに到着して翌日早々にチューリヒに向けて移動しました。出発前に旅行の計画を練っている時、インターネットでチューリヒ近郊のアルトという村で4月3日、4日にオッフェンバックの『パリの生活』が上演されるという情報を目にしたからです (4月4日の公演がシーズン最終日でした)。

なにしろこのオペレッタはわたしが一番好きな演目の一つで、CDは何回聞いたか分からないくらい気にいっていました。リヨン歌劇場のDVDも見ていますが、なにしろ一種類の映像だけではなかなか、コンセプトが見えてきません。ぜひともライブで見てみたくて、あらゆることに優先して、4月の計画をたてたわけです。

アルトといってもぴんとはこない人でも、ベルン、ルツェルン方面からの鉄道とルガーノ、アルデルマット方面からの鉄道がアルト・ゴルダウという駅で合流してチューリヒに向かっていくスイスの南北、東西の重要な路線が交差する場所で、スイスをぐるっと旅行されたことがある人ならば、その駅を通っているかもしれません。駅周辺がゴルダウという地名で、坂を下るようにツーク湖畔に降りて行くとアルトです。


アルト劇場 (2009年4月3日撮影)


アルトから眺めたツーク湖畔 (2009年4月3日撮影)

ここで、新年1月から復活祭 (Ostern) の時期までオペレッタを毎年1演目、ほぼ連日上演しているのです。千秋楽はそのシーズンの復活祭次第のようです。2009年は復活祭が4月にずれ込んでいたのが、4月1日にしか国内を離れられないという制約があった私にとっては本当に幸いしました。

昨年、2010年は1月16日から3月27日までの公演日程で、演目はヨハン・シュトラウス (息子)の『ベニスの一夜』でした。

ここもインターネットでチケットの支払いができなくて、メールでやりとりして、当日窓口で支払いとともにチケットを頂くという形にしていただきました。

館内に昔の公演ポスターが飾ってあり、どうやら1935年からずっとこの時期にオペレッタを上演してきているようです。
1935年頃と言うと、もちろんナチス・ドイツではすっかりユダヤ人の活動が禁止されてしまっていた時期ですからね、そういう人たちの活躍の場をスイスの小さな村が意気に感じて提供したのが始まりだったのかもしれません。


館内に掲げられた昔の公演ポスター (2009年4月3日撮影)

当日は劇場監督 (Beat Diener さん) に日本からチケットを予約して見にくる客がいると知らせがいったらしく、わざわざ監督からロビーで出迎えを受け、幕間の休憩には、ビールまでごちそうになってしまいました。
いろいろ劇場のことをお話いただきましたが、なにより私が感心させられたことは、この劇場の最大の特徴として、ほとんどアマチュアの人たちによって (多少プロにも手伝ってもらっているけれど、大半の歌手は普段別に職業を持っているそうです) 運営されていることと、今まで一度も国から補助金を貰ったことはない、つまり、すべて自己資金 (地元企業からのカンパと会員からの会費、そしてチケット収入) でやっている、ということです。

ウィーンのフォルクスオーパーが長年の補助金経営体質から脱することができず、今回このあとで、本当に初来日(1979年)当時の輝きを失い、無残なまでにレベルを落としてしまっている様を目の当たりにすることになっただけに、アルトのやり方はひとつの見識だと思います。オペラにせよ、オペレッタにせよ、音楽であり、かつ、お芝居ですから、アンサンブル命ですからね、遠のいた客足を戻すために、多少名の売れた歌手を出演させたり、演出にこってみたりしたところで、チームとしてのアンサンブルがその場限りのものであれば、逆効果なだけです。アルトのオペレッタはもちろんアマチュアですから、プロの劇場と比較してはプロに失礼かもしれませんが、すくなくとも一つの作品をみんなで造り上げようという情熱と歌うこと、お芝居することに対する愛は、まぎれもなくあります。そして、監督は演出に奇をてらうことを嫌い、出来る限りいつも初演当時の演出を再現しようとしているとも言っていました。

この公演、わたしは2日連続でチューリヒからでかけました。2日目には監督から劇場記録用に撮影された公演DVDをプレゼントしていただくやら、地元の新聞記者に連絡がいったらしく、インタビューもされました。また、4月4日がシーズンの千秋楽で、監督の舞台挨拶があり、そこで、「日本から遠路この公演を見に来たお客さんがいます」と私のことを紹介されてしまったので、舞台がはねた後、タクシーを待つ間帰路に着くお客さんたちが「日本のプロフェッサーだ」(これは監督がそう紹介したためです) と口ぐちに行って通り過ぎていくのが分かりました。気恥ずかしい思いでしたが、この夜ひょっとしたらアルトで一番有名な日本人になってしまいました。

その後、シーズンが近づくと監督から公演プログラムが郵送されてきます。昨年の演目が『ベニスの一夜』であることは、監督の舞台挨拶でも触れておられましたので、知っていましたが、今年の演目は、先ごろ届いた2011年の公演プログラムでレオ・ファルの『陽気な農夫』であることが分かりました。

見る機会の少ないオペレッタ、貴重な公演と思われますので、ご紹介する次第です。

1月22日、26日、28日、29日、30日
2月2日、4日、5日、6日、9日、11日、12日、13日、16日、18日、19日、20日、23日、25日、26日、27日、
3月2日、4日、5日、11日、12日、17日、18日、19日、26日

ご覧のように主として水曜日、金曜日、土曜日、日曜日の公演で土曜は19時30分開演、他は20時開演となっていますが、そうでない開演時間の日もありますので、詳しくは劇場のHPで確認してください。

連絡先とURL
Tel: 041 855 34 20
www.theaterarth.ch

私は2009年の4月は仕事を抱えて日本を出発せざるを得ない羽目に陥ったこともあり、ずっとチューリヒのホテルに滞在したまま、2日とも列車でアルトを往復しました。
勿論事前に時刻表で十分公演後戻ってこられることは確認してあったのですが、鉄道駅とツーク湖畔のアルトの村までは、距離があります。最初の日はチケットを受け取り、支払いをしなくちゃいけないと思っていましたので、ずいぶん早めに出かけました。駅周辺には、しかし、インフォメーションらしきものはありません。少し歩いたところにようやくインフォメーションを見つけ、なんとか劇場のある方角だけを聞いて、ハイキング気分で、湖畔に向かって歩きました。一時間くらいはかかったでしょうか。

問題は帰りです。
劇場窓口でチケットを受け取る際、おねえさんに帰りの交通手段について尋ねると、バスに乗れば十分最終に間に合うという話でした。

しかし不安そうにしていたら、なんならタクシーを予約してあげようかと言ってくれたので、結局タクシーを手配してもらいました。翌日のタクシーはその日迎えに来てくれたタクシーの運転手に「翌日もこのくらいの時間にまた迎えに来てください」と頼みました。

一日目は早めに出かけたので、チケットを手に入れてから開演までずいぶん時間を持て余すような次第で、ツーク湖畔を散歩しました。
アルトには湖畔のリゾート地らしくホテルがいくつもあります。チューリヒでホテルを手配してもらって出かければ、帰りの電車の心配は無用になります。ただ、わたしの感じとしては、公演期間中はどこのホテルも予約でいっぱいかもしれません。チューリヒから往復することを考えれば、ルツェルンにホテルをとって往復しても同じことですから、ご参考にしてください。

わたしはタクシーで駅まで戻りましたから、ひょっとして思っていたより早い時間にチューリヒに戻ることが可能かと思いましたが、電車の方がその時間は少なくて、結局ずいぶん駅で待ち、二日とも最終にのってチューリヒに戻り、ホテルには午前様でした。


☆ ☆ ☆

オペレッタ『陽気な農夫』について、YouTubeで画像検索していて、ヨハンはブルネンの記事でバート・イシュルをご紹介した際に「昨2009年伺ったところでは、どうやら2010年はこの慣行が初めて破られ、レハールの作品は取り上げられないそうです」と書いたこと、そして2010年の公演プログラムの一つがレオ・ファルの『陽気な農夫』だったことを思い出しました。 YouTube に地元放送局STVによるこのオペレッタの演出家 Dolores Schmidinger へのインタビューが公演カットとともにupされていました。URLを張りますので興味のある方はご覧ください。

http://www.youtube.com/watch?v=I7tC5AuW5zY

インタビューの背景はバート・イシュルのコングレスハウスです。


バート・イシュル、レハール・フェスティバルの会場となるコングレスハウス(2009年撮影)

YouTube画像を検索していてアルト劇場の公演コマーシャルも見つけました。

http://www.youtube.com/watch?v=PNm7I3mQcWc

最後に、このオペレッタで歌われる『訊かないで』(第二幕)をフリッツ・ヴンダーリヒが歌っていますので、それもご紹介します。

http://www.youtube.com/watch?v=TPakWatrfdw


◎ オペレッタ『陽気な農夫』 あらすじ

台本ヴィクトール・レオン、作曲レオ・ファル (初演1907年7月27日マンハイム)
レオ・ファルはこの作品をアン・デア・ヴィーン劇場で上演する予定でしたが、劇場監督のカルチャクに断られ、マンハイムでの初演となりました。ローベルト・シュトルツが初演を指揮しました。

プロローグ「村の広場」

やもめのマテーウスは貧しい農夫だがいつも陽気。 彼には妻が死の床で将来牧師にしてくれるようにと頼んでいった息子シュテファンがいる。息子は高校を優秀な成績で終えウィーンで神学を学ぶために、父と妹アナミルルに別れを告げる。

第一幕 「村の広場」

あれから11年。今日息子が戻ってくることを知りマテーウスは嬉しさで興奮している。アナミルルも学業を終えた兄を誇りに思っている。自分までもが何か特別に思われ、子供のころからの友ヴィンツェンツにもそっけなくしている。村は教会の開基祭りのさなか、明日応召するヴィンツェンツはお別れにアナミルルと踊りたいと思っているのだが、肘鉄をくらってしまう。
シュテファンが姿を見せる。彼は神学をやめて医学の道に進んだのだと分かる。田舎の村人たちに対して見せる不遜な態度。すっかり変わってしまった息子。故郷を恥じるかのそうした息子の態度に父も胸を痛める。
シュテファンにはベルリンの枢密顧問官の娘という許嫁がいて、数日後に式を控え今日にもベルリンに旅立つ心づもり。しかし父も妹もその式には招かない。マテーウスは悲しみと怒りに襲われる。

第二幕 「ウィーン、とあるヴィラのエレガントなサロン」

1年後。ウィーンでのシュテファンの医師としての評判は良く、彼は大学教授になっている。しかし、妻フリーデリケさえも彼が農夫の子であることを知らない。
今日はベルリンから枢密顧問官フォン・グルモウが妻ヴィクトーリアと息子で軽騎兵のホルストを伴い訪れている。
まったく具合が悪いことにマテーウス、アナミルルがシュテファンの名付け親リントオーベラー、そしてその息子のヴィンツェンツを伴い不意を襲うようにこの同じ日訪ねてきたのだった。
村でいつもしているようにマテーウスは飾りリボン のついた帽子(Zipfelmütze) をかぶり、アコーディオンを持参している。
ベルリンから来た上流階級の親戚たちにはシュテファンの出自を知り、びっくりしてしまう。フリーデリケに離婚まで勧める始末。しかし、それは誤算だった。フリーデリケは村人たちにこの上なく愛想よく接するのだった。フリーデリケによって夫シュテファンも、ベルリンの親戚たちでさえも心を開くのに時間はかからなかった。マテーウスはようやく再び我が息子を誇りに思うことができた。アナミルルとヴィンツェンツも結ばれ幸せになる。(Wikipediaから)

* 永竹由幸さんの「オペレッタ名曲百科」(音楽之友社)には詳しいあらすじ、解説があります。ウィキペディアとずいぶん異なるところもあるのですが、オペレッタはとくに演出によってずいぶん変わりますので、アルト劇場ではどのような形になっているか、ヨハンには全くわかりません。おおよその参考にしてください。


☆ ☆ ☆

最初にアルト劇場のオペレッタ公演の日程が復活祭と関係があるように書きました。そう思った理由は2009年の4月はまさに訪れる街がどこも復活祭の飾りつけ (たまご) でいっぱいだったからです。


チューリヒ、街のショーウィンドウに飾られた復活祭のうさぎのチョコレート (2009年4月6日撮影)

調べてみると2009年の復活祭は4月12日でした。


ひさしぶりに訪れたライプチヒはすっかり駅もきれになり、復活祭の卵、うさぎが構内あちらこちらを飾っていました (2009年4月10日撮影)

復活祭はドイツ語では Ostern と言います。とてもこの言葉が記憶に残ったのは、1983年わたしたちがウィーンを訪れた時、3月の末でしたが、大学はすぐに Osterferien になってしまったのです。クリスチャンではないわたしたちなので、これは日本で言う春休みか、と受け止め、初めてのヨーロッパの冬でもあり、余りの寒さに耐えられなくてイタリアに旅行に出かけたわけです (ブルネンの記事、イタリアで書きました)。

1993年にベルリンに出かけた時は、4月でもまだデパートなどには復活祭の飾りつけ、卵 (Osterei) がいっぱい売られていました。

注) 復活祭は「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」と定められているので、年によって日付が変わります。最も早い年で3月22日、最も遅い年だと4月25日の日曜日となります。春分を過ぎた満月の後の最初に来る日曜日が復活祭と定められたのは325年のニケアの宗教会議においてでした。

春休みのようなものだと言っても、『復活祭』はこのように移動祝日なので、結構4月にずれこむことは1993年の経験で知っていました。オペレッタが普段やらない劇場でこの時期催されるのは復活祭という特別な華やいだ日にちなんでのことだろうと理解したわけです。(フランス人の先生からはフランスではクリスマスの頃がオペレッタのシーズンですよ、とも聞きました)


このブログを書き始めた最初のころの記事で、カーレンベルクからクロスターノイブルクへハイキングし、クロスター・レストランで旬のアスパラ料理を食べたことを書きましたが、レストランにはこのようにOsterei が飾ってありました。いまさらになってその日が実際いつだったか、これも気になりましたので調べてみました。4月22日でした。飾り付けは復活祭が過ぎてもまだ、案外遅い時期まで残しているようです。

で、ご紹介したアルト劇場の2011年の公演です。千秋楽が3月26日の土曜日と書きました。ああ、今年の復活祭は3月末なんだ、とヨハンは単純に思っていたのです。

しかしにわかに気になり始めたので、復活祭について調べてみました。

なんと、まあ、今年 (2011年) は4月24日です。
さてはわたしがアルト劇場の公演日程を間違えてお知らせしてしまったのかしらと不安になったので、もう一度送られてきたパンフレット、ならびに劇場のHPでも確かめてみました。

やはり3月26日が千秋楽です。公演日程は復活祭に関係なく決められているのか、今年は復活祭が4月末に来るので、それだと余りにシーズンとして長期になりますから、3月末で公演を終了しているのか、分かりません。出演者がご紹介しましたようにプロばかりではなくて、普段別の仕事を持っているアマチュアの音楽家たちですからね、一月スタートを守ると、ある程度の期間の公演で千秋楽という形になるのかも知れません。


ヨハン (2011/02/13)


「チャールダッシュを踊る侯爵夫人」

2011-01-09 04:03:02 | オペレッタ
今日はカールマーンの代表作、1915年に発表されたオペレッタ《Die Csárdásfürstin》です。

1985年ウィーンのフォルクスオーパー来日公演が日本での初演でした。それ以前の我が国では、公演記録はもとより、作品解説にも登場していなかったところを見ると (わたしが調べてわかる範囲です)、それ以前にこの作品に触れることが出来た可能性としては、海外で見るか、輸入版レコードを手に入れたか、のどちらかしかなかったことになります。
つまり、この作品に対して通常使われている日本語タイトル『チャールダッシュの女王』は、来日公演から始まったということになります。しかし、作曲者の名前がカールマンと誤表記されていることと併せ、この日本語タイトルも意味をなさない間違いタイトルです。

ところで、ウィーン・オペレッタとひと括りに言いますが、面白いことに実際にはウィーンではない場所が舞台となることが多いのに対して、この作品の舞台はハンガリーのブダペスト、そしてウィーンです。時代は第一次大戦がはじまる直前ということになっています。オーストリア・ハンガリーはまだ二重帝国の時代ですから、そこでの女王と言えば、エリーザベト、いわゆるシシーしかいません。彼女はもちろんオーストリアにおいては皇妃でしたが、ハンガリー王妃でもあったのです。しかし、シシーは1898年9月10日にジュネーブで暗殺されてしまいました。

この作品は1935年に映画化されています。英語圏でなんというタイトルで放映されたかを知ると、なんとなく日本でのこうしたタイトル誤訳のルーツが分かる気がします。この作品は英語圏では《The Gipsy Princess》というタイトルがつけられたのです。直ぐにぴんと来ませんか?そうです、ヨハン・シュトラウス(息子)の『ジプシー男爵』が観客の間に広く認知受容されていることに便乗した意図的誤訳だったのです。

しかし、まず〈ジプシー〉という言葉ですが、これは今日正しくはロマ、あるいはシンティと呼ばれる民族を以前誤解と差別から蔑称して使った言葉で、現在ドイツ語のジプシーにあたる言葉 Zigeuner はもう使われなくなりました。とは言えシュトラウスの『ジプシー男爵』は、内容に即してつけられているもので問題はないという判断なんでしょう、今でも勿論《Der Zigeunerbaron》として上演されます。

カールマーンのこの作品はどうでしょうか?

ジルヴァは自らジーベンビュルゲンの出身と歌っています: Nr.1 《Heia, heia, in den Bergen ist mein Heimatland》。
ジーベンビュルゲンは19世紀末ハンガリーに帰属していましたが、第一次大戦の敗北後、ルーマニア領となりました。ヴァリエテでチャールダッシュを歌い踊っているからと言う理由で、ひとまとめにジプシーと括る無神経さはびっくりするほどです。

次にPrincessの方です。これを日本語でも、チャールダッシュ・プリンセスとしていたらまだ救いがあったと言えます。なぜならプリンセスは貴族の称号ではないからです。わたしもドイツ人の知り合いが、お孫さんを「わたしのプリンセス」と言うのを何度も耳にしました。
しかし、そのプリンセスの訳から決して「女王」にはなりません。しかも「の」が間にありますから、またそのことによっても全く意味が異なってしまいます。直ぐに連想されるのは「お菓子のホームラン王」という言い方です。ジルヴァがチャールダッシュを踊らせたら女王だ、なんて箇所はこの作品には出てきません。

唯一この呼称は、ジルヴァが、エドヴィン侯爵によって強引にアメリカ行きを思いとどまらせるために、公証人までたてて、婚約証書にサインさせられたことからくるのです。

Fürst が侯爵で、その奥さんとなる女性だからFürstin、「侯爵夫人」なわけです。

しかしエドヴィンには幼いころから両親が結婚相手と決めたシュタージという女性 (彼女はコンテスと呼ばれていますから、伯爵の娘です) がいましたから、ヴァリエテの歌い手に熱をあげるエドヴィンに先手をきって、軍に召集令状を出させ、エドヴィンをウィーンに呼び戻すと同時に、シュタージとの結婚話を公にして、甘い夢を抱いたジルヴァに裏切られたと思わせ、結局、傷心の形で、ジルヴァのアメリカ行きが決行されるのです。

前回の『メリー・ウィドウ』と同じように、身分の違いによって男女の仲が割かれるというテーマは、すでに相当に使い古されたテーマで、この作品についても初演当初からそういった批判は浴びせられたようです。

オットー・シュナイデライトという研究家が解説で、次のように書いていますので、紹介しておきます。
「18、19世紀のオーストリア、ドイツでは180人に近い侯爵、600人の伯爵、そして3000人の男爵が女優、女性歌手、女性ダンサーと結婚している。これらのケースの多くは、きっとジルヴァとエドヴィンの間に繰り広げられた恋愛と同じように陳腐で、もっと面倒な人間関係に翻弄されたことと思われる。」

女性が玉の輿に乗るというお話は、メルヒェンなんかですらなくて、ありふれた話だったということです。

ところでこのオペレッタは、批評家からは高く評価されなかったにもかかわらず、観客には大いに受けました。世界各地で公演され、カールマーンはレハールとともに銀の時代のオペレッタを代表する作曲家になりました。

また日本でもフォルクスオーパーの来日公演で大いに観客を沸かせ、すっかり我が国のオペレッタ・ファンの間に定着したウィーン・オペレッタの代表的な作品となっています。

その魅力はどこにあるのでしょうか?

もちろんここでの音楽がどれをとっても弾むような楽しさに満ちたもの、あるいはエドヴィンとシュタージの有名な、ほのぼのとするつばめの二重唱(Nr.8Schwalbenduett) などなど、魅力あふれた作品になっているからであることは言うまでもないわけですが、作品の筋立ては、どうでしょう?

だまされ、からかわれたと思ったジルヴァは傷心のままアメリカに旅立ちましたが、第二幕でウィーンに戻ってきます(2か月後)。エドウィンとシュタージの結婚が発表される日です。

エドウィンはアメリカに何度も手紙を書いたのに、ジルヴァから返事が来ることもなく、両親から言われるままに、シュタージとの結婚に踏み切ろうかというまさにそのときなのです。しかし歌姫ジルヴァが侯爵の家に出入りを許されるはずはなく、彼女はエドウィンの友ボーニと前日結婚し、伯爵夫人として現れます。

トリックとしては、これで一夜限りの (もちろん何もその間に起こるわけではありませんよ、ボーニは根っから友思いのいいやつですから) ボーニとジルヴァの婚姻関係が破棄されれば、今や伯爵夫人を自称することになったジルヴァがエドヴィンと結婚することに支障はもうないという寸法です。

しかし、エドヴィンの両親が身分違いの結婚に反対したのはともかく、当のエドヴィンまでもが、このトリックに引っ掛かって、伯爵夫人となったジルヴァに愛を告白するなんていうことは、まったく女心のわからんやつです。だから、ジルヴァは2か月前に無理やりエドヴィンによってサインさせられた婚約証書を彼の目の前で破いて見せるのです。

気持ちがすきっとしますね。

ジルヴァはテーマソング(Nr.1) でなんて歌っているのでしょうか?
「ジーベンビュルゲンの女が惚れてこころをささげた相手には、浮気や戯れなんて許しません。わたしのものである限りわたしはあなたにとって天国、でも戯れの愛をくれる男には地獄になるのです」

過激です。

結局エドヴィンも芝居を打って、絶望から自殺するぞとみせかけ、ようやく二人は仲直りするのです。

第三幕で、エドヴィンの母親までも、もとはヴァリエテの歌姫だったことが明かされてしまい、両親としてはもはやエドヴィンの結婚に反対もできなくなります。

この第三幕は余分なような気もしますが、しかし、時代背景を考えたときには、やはり意味があったものと思われます。

オーストリア・ハンガリー二重帝国は、すぐこの物語の後、第一次大戦の敗北により瓦解します。そして1918年オーストリアは貴族制を廃止したのです。

永続的な価値と思われたものが、あっさり崩壊していくとき、 人のこころを支えるものは、やはり愛であり、信ずる心です。それは人生の遊び人を演じるボーニがエドヴィンに対して持ち続けた友情という形でも示されるのです。

陳腐な結論ですが、オペレッタは人の心の大切なものを面白おかしく、またときには、きどった装いもみせながら、守っているかのようです。


ヨハン (2011/01/09)



『メリー・ウィドウ』

2011-01-07 18:18:25 | オペレッタ
『メリー・ウィドウ』は『こうもり』とともに上演回数が多く、世界中で親しまれてきたウィーン・オペレッタの代表的作品です。

アン・デア・ヴィーン劇場支配人のカルチャクはこの作品の作曲を最初ホイベルガーに依頼しましたが、計画はとん挫。予定した初演までもう時間がない。劇場はここ数年の不入り状態で金もない。ないないづくしで失うものもない、と踏んだのか、それまでさして実績もなかったレハールに大急ぎで作曲をやらせてみることにしたものでした。

作品が出来上がっていく過程についてはいろいろなところで詳しく語られてきました。

最初に作曲されたのが、第二幕Nr.8の二重唱《Heia, Mädel, ausgeschaut》、いわゆるお馬鹿な騎兵さん、の歌でした。レハールは出来上がったばかりの曲を受話器を通して自らピアノを弾いて聴かせたと言います。カルチャクのところに現われたときにも、まだすっかり全体が完成していたわけではありませんでした。しかも、カルチャクに、「これはオペレッタじゃない。ヴォードヴィル音楽だ」って酷評されてしまいました。

台本のことで言えば、ポンテヴェドロがモンテネグロをあてこすったものだということは当時のウィーンの人には直ぐに分かったようです。また登場人物のそれぞれ、ダニロ、ツェータ、ニエグシュ、どれもモンテネグロに実在した人物名であり、それぞれの人物について、どういう人たちであったのかの解説も詳しく読むことができます。

ただ、わたしは、そうしたモンテネグロの歴史とこの作品の関係にさして意味を見出しません。むしろ、注目したいのは、この作品で造り出された人物たち、つまり、歴史上の人物と関係のない人たちです。

それは女性です。主人公のハナであり、ヴァランシエンヌです。

オペレッタは科白の部分を外して歌われる箇所だけ追って行っても筋がはっきりしません。その意味で、1966年に録音されたローベルト・シュトルツ指揮、ベルリン交響楽団の演奏によるCD (DENON) が一番気に入っていると同時に、筋を理解するうえでも示唆的です。

このCDではハナについて、ツェータがこのように紹介しています
「彼女の父親は借金まみれの小作人だった。しかし大金持ちの銀行家と結婚し、しかも夫が結婚して一週間後に死んでしまって、今や莫大な財産を相続した未亡人」

一方当のハナは登場の歌で、こう歌います。
「わたしはまだご当地の風習というものに不慣れなものですから、みなさまがちやほやされても、どうお応えしていいものやら、わからない田舎者ですのよ」

そして、ダニロですが、同じくツェータにパリ勤務になってどれくらいになるか、と尋ねられて、「4か月です」と答えています。

こんなに詳しく科白で時間的経過が語られているのは、わたしが知る限りこのシュトルツ指揮のバージョンだけですが、ほかのバージョンにしても、ハナがパリにきたばかりであること、その直前に夫が死んでいること、そして、さらにその少し前には、ダニロと恋仲だったけれども、ダニロのおじに身分が違う ― ダニロは伯爵、つまり貴族です ― と結婚を反対されたために、銀行家と結婚したのだという点ではどれも同じです。

このことから何が分かるかと言えば、ダニロは、愛するハナが人の妻になったショックから逃げるようにパリ勤務を志願したこと。
しかしそのハナは、夫が死んで、独身になり、なおかつ、今や前夫の莫大な財産を手にし、迷わず直ちにパリに乗り込んできたということです。

インターネットの国際版の乗り換え案内で調べてみると、交通の発達した現在でも、モンテネグロからパリまで来るのに、特急を乗り継いで17時間かかります。1905年当時であれば、2日かがりであったに違いないと思われます。喪に服する時間も惜しむかのように、ハナは故郷を出てまっしぐらにパリにやってきたのです。モンテネグロ (ポンテヴェドロ) はグーグルの地図で確かめると分かりますが、たしかに山岳地方です。花の都パリの作法が、田舎から出てきたばかりのハナに分かるはずがありません。

ところが、そのハナが第二幕で自宅にポンテヴェドロの人々、そしてパリの色男たちを招待し、さらに第三幕では、自宅をマキシムに設定してグリゼットたちにお客を接待させるのです。

なんという女性でしょう。ハナは自ら礼儀作法も知らない田舎者だといいながら、実際にはすべてがわかっているのです。

それはなぜかと言えば、ダニロを愛しているからなのです。女性は愛する男のことは手に取るように分かるからなのです。だからレハールは真っ先に、「あんたってわたしの気持もわからない野暮な騎兵さん」を作曲したのです。


ところで、日本でもこの作品のタイトルは『メリー・ウィドウ』で通っていますが、原題のDie lustige Witwe は、滑稽な未亡人、って意味になります。傍目から見て、仕草とか滑稽な人、っていうことです。豹柄のシャツ着た大阪のおばちゃん?

どこかの解説で、彼女のことをlebenslustigと書いてあるのを知り、目からうろこが落ちました。lebenslustigとは、まさに生きる意欲のことをあらわすもので、傍目の印象ではありません。ハナは自分が財産持ちの未亡人になった今、逆にダニロの方が自分に好き、と告白出来なくなってしまったことは分かっているのです。

勿論ハナの本心だってそこは同じです。大金持ちの自分だから、今度は愛してくれる、そうでしょう? なんて、夢にも思わないし、ダニロがそんな男であってほしくはないし、そんな男だったらもともと惚れたりはしなかったでしょう。そんなことを百も承知の上で、いたぶって、からかって、ダニロの方から「愛している」って言わせようとしているのです。それは、伯父に反対されたくらいで決断もできなかったダニロに対するちょっとした復讐なのです。

女は愛した男だから、このように手玉にとるのです。

これは甘ったるいメロディーに満ちた男女の他愛のない恋愛を描いた現実逃避のオペレッタなのではなく、実際には男にとって、とても恐ろしい話なのです。このことが分からない男はやがてぬれ落ち葉となって捨てられるだけです。

大成功を収めたウィーン・フォルクスオーパーの日本初公演 (1979年) でこの作品は熱狂的に受け入れられ、一気に日本にウィーン・オペレッタのファンが増えました。ただ本当に残念なことに、その後ひのまどか氏が綴ったため息は今に至るも解消されずじまいです。

「ところで、日本でも最近内外のオペレッタ公演が増えてきたが、こと客席に関する限り成熟した大人のムードとはほど遠い。これはつまり、亭主が自分の女房と遊ばないからだと、私は踏んでいる。そんな暇はない、チケットが高いから、などというのは不誠実な言い訳で、本音を明かせば妻にサービスする気がないのだ。妻の方も、そんな夫と観ても面白くもないから友達どうしで行くことになり、舞台上の色恋はうらやましいが、他人事。」音楽之友社刊『新編世界大音楽全集』の月報45 (「オペレッタは、大人の教材」1993年)

熟年離婚なんて言葉は、ちゃんとひのまどか氏の言うことに亭主が耳を傾けていれば予見できたはずです。女房なんか何もわかっとらん、と仕事三昧の生活をしてきた亭主、実は何もわかっとらんのは亭主のほうなのです。


ところでこのオペレッタ『メリー・ウィドウ』にはもう一人重要な役割をになう女性が出てきます。ヴァランシエンヌです。

シュトルツのCDでは、ツェータと結婚したばかりのパリ娘。18歳のまだまったくのおぼこ (unschuldig) と紹介されます。今や人妻とは言え、この若くてぴちぴちした可愛いヴァランシエンヌにカミィユがいれあげます。まあ、そんなことは彼の勝手でしょうが、聞き捨てならないのは二人が歌う二重唱《So kommen Sie!》Nr.2です。

この二重唱、よく聞けば、ヴァランシエンヌから二人の関係にピリオドを打ちましょうという内容です。

ん?

え?

なに?

ピリオドを打ちましょう? 

っていうことはなにか、二人の間に物語があったということではありませんか?

通常、手をきりましょうという話を持ちかけるときに、そもそも「わたしは貞淑な人の妻」なんてフレーズが出てくるものでしょうか? 「夫にばれるとまずいから、ここらで手を切って」って言うのではありませんか? 

この二重唱、美しくて、切ない愛のメロディーに乗せて歌われる、とてもロマンチックなシーンですが、よく耳を澄ませてどうぞCDで聞き直してみてください。わたしの空耳かもしれませんが、ヴァランシエンヌが「わたしは貞淑な人の妻」(Ich bin eine anständige Frau) と言うたびに、バイオリンがLüge! Lüge! (嘘ですよ、嘘ですよ) と伴奏しています。

第一幕のフィナーレはDamenwahl  (女性の方からダンスのお相手を選ぶ) です。ハナにパリ男が自分を選んでくださいと群がってきます。ハナの頭にあるのはもちろんダニロに嫉妬の地獄を味あわせようという一点です。誰にしようか迷った、迷ったと、ちくちく、彼をいたぶるシーンですが、ここでもヴァランシエンヌが、口をすべらせています。

夫ツェータが故国の財産を守ろうと、ハナとパリ男の結婚をなんとしても阻止したがっているのを知っていながら、ヴァランシエンヌはハナにカミィユを推薦します。
なぜかと言うと「カミィユはポルカが上手い。わたしが経験済みだから知ってます。マズルカも上手、わたしが経験済みだから知っているのです。ワルツも上手ですよ、わたしが経験済みだから知っているのです」と。

やれやれ、とんだあばずれじゃありませんか。

決定的なのは、もちろん第三幕です。ヴァランシエンヌはとうとう第三幕では、なんの不思議もなく、グリゼットの大姉御として登場するのみならず、カンカンを踊ります。

さきほども書きましたが、ヴァランシエンヌはツェータの新妻です。パリ駐在公使のこのツェータはオペレッタの幕が開くや、そうそうに愛国心たっぷりに故国の君主の誕生日を祝っています。そしてハナの相続した財産が、ハナがパリ男と再婚でもして国外流失すれば国が破産すると、ダニロを呼びつけて、ハナとの結婚を強要するところからこのオペレッタは始まります。

Landesvater per procura (全権委任された国主の代理、といった意味です) と自認するこのツェータの新妻がパリ娘であることは、ダニロとハナの愛を際立たせるためのカリカチュアにもなっているのです。

レハールのこのオペレッタはダンス・オペレッタとも言われています。全編にリズム曲がちりばめられていることによります。そして、要所要所に、たとえば先のカミィユとヴァランシエンヌの二重唱、またハナとダニロの二重唱Nr.15《Lippen schweigen》、いわゆるメリー・ウィドウ・ワルツですね、こうしたロマンチックなメロディーが組み込まれています。

それこそがレハールが仕掛けたこの作品の最大の新しさだったのです。近松の歌舞伎の手法と似ているかもしれません。男女の心のどろどろした葛藤を、背景のさわやかで、楽しい祭囃子が聞こえるなかですすめていく手法です。

わたしは、今はやりの言い方をするとこのオペレッタ、草食男子と肉食女子の物語のようにも思われます。ううむ、げに女性は恐ろしき生き物かな。



ヨハン (2011/01/07)