ウィーンわが夢の街

ウィーンに魅せられてはや30年、ウィーンとその周辺のこと、あれこれを気ままに綴ってまいります

ゼメリングのハイキングコース (3)  世界文化遺産ゼメリング鉄道沿線ハイキングルート

2010-03-30 03:46:07 | ウィーン
ゼメリング鉄道建設年譜

1842年5月5日 ウィーン-グログニッツ間開通
1844年10月21日 ミュルツツーシュラーク-グラーツ間開通
(* 1844年から1854年までの10年間、グログニッツとミュルツツーシュラーク間については旅客も貨物も馬車でゼメリング越えをした。)
1849年3月1日 皇帝フランツ・ヨーゼフ1世により、ゼメリング鉄道の建設許可が下される
1853年10月22日 ラヴァント号によるゼメリング鉄道全線走行
1854年5月16日 皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇妃エリーザベト、ゼメリング鉄道に乗車
1854年7月17日 皇帝令によりゼメリング鉄道営業開始
1857年8月18日 ウィーン-トリエスト間で全線直通の旅客運行開始

1869年7月22日 ゼメリング駅にゼメリング鉄道建設者カール・リッター・フォン・ゲーガの記念碑を建設

1998年12月2日 ユネスコ総会でゼメリング鉄道と周辺の文化風景が世界遺産に選ばれる (鉄道として世界初の世界文化遺産)


ウィーンとグログニッツが鉄道で結ばれた1842年、青年技師カール・ゲーガによってミュルツツーシュラーク、グラーツ間の鉄道建設が開始されました。この頃は、しかし、間を阻むゼメリングに鉄道を通すなどということはまだまったく誰も想像できないことでした。
ところがわずか6年後の1848年、ウィーンを革命騒ぎが襲っている年に、ゲーガはゼメリングに鉄道を通すプランの責任者に任ぜられます。彼にはアメリカでの鉄道視察による技術の蓄積、豊富な経験があったからです。それにしてもクリアしなければならない課題はいくつもありました。急峻な山にどのように鉄路を敷いていくことが可能か、その問題はしかし当時の機関車の性能、つまり登攀力とかカーブの内径をいかに短くして走れるか、等々の向上とも関係していました。鉄道技術はこの頃ようやく揺籃期だったのです。
ゲーガは立ち向かわなければならない困難な課題に野心を燃え上がらせ、何週間もゼメリング一帯の地形調査に費やし、岩壁や峡谷のひとつひとつを頭に叩き込んでいきました。帝都を襲った革命騒ぎは彼のプロジェクトを進める上で、むしろ追い風になりました。失業者が街にあふれかえり、巨大かつ困難な事業に必要な労働力を集めることに苦労せずに済んだのだからです。
ニーダーエスタライヒ側の複雑な地形に鉄路を敷くために、総数で16本の単層、複層のヴィアドゥクト、15か所のトンネルが造られることになりました。ダイナマイトがまだ発明されていない時代ですから、トンネル工事は難事業でした。そして、ゼメリング峠の下を抜けるメイン・トンネル (Haupttunnel) の工事は、多数の地下水脈とも格闘しなければなりませんでした。切断された水脈から噴出してくる大量の水は、冬には凍結して一層工夫たちを苦しめたのです。ヴァインツェッテルヴァントにテラッセを敷いて線路を通す計画も、岩盤の崩落によって多くの工夫の命を奪い、結局、計画は変更され、岩壁をほって片側開放の半トンネルの形になりました。さらに、コレラの流行です。狭い飯場ではあっという間に大量の感染者を出してしまったからです。
建設開始から1年半後、山を駆け上がるだけの力をもった機関車を探し出すために、国際的な公開コンペが挙行されました。テスト区間として選ばれたのは勾配25プロミレのパイエルバハ-キューブ間でした。このテストで4つの蒸気機関車が合格しました。
のべ17,000人の労働力を投入して続けられた工事はわずか6年という建設工期の後、1854年5月15日、貨物列車が全線運行し、7月17日、ついに旅客走行も営業を開始することとなったのです。

ゲーガの事業が今日なお高い評価を得ているのは、そこに示された優れた技術力はもちろんですが、それ以上に、自然と鉄道とが類を見ない調和を成し遂げているという点にあるのです。
1849年9月1日ゲーガは皇帝から鉄冠賞を賜り、貴族になり、以降カール・リッター・フォン・ゲーガと呼ばれます。ちなみに、前回の記事の旧20シリング札、表にはゲーガの肖像が描かれていました。



ゲーガ

ゼメリング鉄道と言うのは、南部鉄道線のうち、グログニッツとゼメリング、さらにメイン・トンネルを含めたミュルツツーシュラークに至る区間のことを示しています。
この沿線は世界文化遺産に選ばれたのを契機に、ニーダーエスタライヒ側にハイキングコースが整備され、わたしたちがゼメリングにのめりこんだ2000年前後の数年は、地図と標識を手掛かりに、よく沿線を歩きました。
これから当時のパンフレットに描かれた地図をもとに、沿線ハイキングルートをご紹介していきましょう。

ゼメリング鉄道沿線ハイキングルート( Bahnwanderweg )

◎ Variante 1-1 (ルート1-1、ゼメリング駅からブライテンシュタイン駅まで、9.5km)

地図① Semmering駅 → Wolfsbergkogel駅 → Kartnerkogelトンネル(203m)、Kartnerkogelヴィアドゥクト(3本アーチ、全長44m、高さ11m)、Wolfsbergkogelトンネル(440m)、Weberkogelトンネル (407m)、Fleischmannブリッケ、Kalte Rinneヴィアドゥクト、Polleroswandトンネル (337m)、Krauselklauseヴィアドゥクト (全長100m、高さ28m、上階6本アーチ、下階3本アーチ)、Krauselトンネル (全長14m、オーストリアで二番目に短いトンネル) → Breitenstein駅



* 地図の赤い線がハイキングルートで、青い破線が鉄道路線です。ABC・・で示されているのはレストランなどの休憩ポイントです。

ハイキングの出発点はゼメリング駅ですが、最初にメイン・トンネルについて触れておきますと、これは別名シャイテルトンネル (峠のトンネルという意味です) とも呼ばれ、全長1,434m (戦後1952年にもう一つ横に新トンネルが建設され、そちらは全長1,512mです)、トンネル内の中間点が標高898mで、ゼメリング鉄道の最高位点です。ゼメリング側から見て中間点から300mほど先が州境です。



難工事となったメイン・トンネル


ゼメリング駅からメイン・トンネルを見る (2005年撮影)

ゼメリング駅構内の碑


ゲーガの碑 (2006年撮影)



世界文化遺産の碑 (2006年撮影)



ゼメリング鉄道開通50周年祝典 (1904年)

2004年は150周年が祝われました。50年サイクルの祝賀行事ということを考えると、次は2054年になりますから、2004年は是非この目で祝賀行事を見てみたかったのが正直な気持ちですが、ヨハンも仕事がありますからね、断念せざるを得ませんでした。

さて、ゼメリング駅には駅舎内にインフォメーションがあり、資料の展示のほか、各種資料の販売もしています (以前は構内に展示された客車両内に資料が展示されていました)。
また、駅舎から出たところに、沿線ハイキングルートマップの案内板が設置されています。ハイキングルートは、前回のパスヘーエに行くときと反対方向、右手に進み、まずは隣駅ヴォルフスベルクコーゲル駅 (海抜933m) を目指します (距離1.5km)。


沿線ハイキングルートには随所にこのような案内板が設置されている (2008年撮影)

ヴォルフスベルクコーゲル駅周辺の見どころについては前回ご紹介しましたので、省略します。
ヴォルフスベルクコーゲル駅から、さらにドッペルライターヴァルテを目指し、そこからUターンする形で折り返し、山道を歩いていくと途中旧20シリング札の図柄となった景色を見はらすポイントを通ります。



ドッペルライターヴァルテ (Doppelreiterwarte) からの眺め(1999年撮影)





旧20シリング札に描かれた眺め (1999年撮影)

次のポイントはカルテ・リンネの二層ヴィアドゥクトです。

<カルテ・リンネ Kalte Rinne>
全長178m、高さ41m、上段10本のアーチ、下段5本のアーチで支えられています。



Kalte Rinne (2002年撮影)



建築中のViadukt



Kalte Rinne (1853年)

ここから先、ポレロス・ヴァントに一番接近している場所を歩いていき、ブライテンシュタイン駅の麓に到着です。

ブライテンシュタインにはグスタフ・マーラーの別荘が残っています。


◎  Variante 1-2 (ルート1-2、ブライテンシュタイン駅からクラム・ショットヴィーン駅まで、4.5km)

地図② Breitenstein駅 →Weinzettelfeldトンネル (239m)、Weinzettelwandトンネル (668m)、Rumplergrabenヴィアドゥクト (全長41m、高さ14m)、Gamperlトンネル (78m)、Gamperlgrabenヴィアドゥクト (全長122m、高さ14m)、Wagnergrabenヴィアドゥクト (全長137m、高さ24m)、Klammトンネル (192m) →Klamm Schottwien駅




ブライテンシュタイン駅を過ぎると列車はヴァインツェテルヴァントの岩壁に貼りつくように走ります。最初ゲーガはこの岩壁に沿ってプラットホームを造り、その上に鉄道を走らせる計画でしたが、1850年に崩落事故が起こり、14人の工夫の命が奪われてしまいました。そこで計画を変更し、岩壁を掘り、山の内側に線路を敷設することにしました。3つの独立したトンネルが連続しますが、岩石の崩落から守るためにこれら3つのトンネルは柱廊で互いに結ばれています。



ヴァインツェテルヴァントに敷設された柱廊 (1865年)


ヴァインツェテルヴァント・トンネルを駆け抜けてきた列車 (1910年、彩色絵葉書)

クラム・ショットヴィーン駅のホームからは、前回の記事でご紹介しましたが、絵画に描かれでもしたかのように、ショットヴィーンの街並み、アウトバーンの陸橋、マリア・シュッツ巡礼教会、ゾンヴェントシュタインが眺められます。



クラム・ショットヴィーンの駅からの眺め (2002年撮影)

ショットヴィーンについては前回ご紹介しましたので、ここではクラムについてご紹介します。
すでに鉄道でこのあたりを通る時、谷側にクラム城塞の廃墟がよく見えます。


廃墟と化したクラム城塞

このクラム城塞、パンフレットの説明を読むと、「長いこと難攻不落と謳われた自慢の要塞だったが、トルコ軍、マーモント元帥によってそうではないことが証明されてしまった」と書いてあります。ただ、要塞そのものの終焉をもたらしたのは、落雷でした。年代としては1801年とも、1805年とも言われ、はっきりはしていませんが、落雷により、土台を除いてすっかり焼失、残骸は今も崩落し続けていると説明されています。
だれがこれをつくったか、については、言い伝えとして、こう書いてあります。「昔アドリッツグラーベンに二人の強盗騎士が住んでいて、旅人たちを襲っていた。当時この地域を治めていた伯爵は狩りの途中道に迷って、強盗騎士に襲われましたが、金と土地を与えることで命を救われた。望むものを手に入れた強盗騎士たちはホイバハコーゲル山上に城塞をつくったのである。」
その後文献では1450年にクラム一族が絶えたことが分かっています。そして何人か支配者が変わりました。
この要塞の下に聖マルティン教会が見えます。これはすでに1511年には建造されていることが文献記録上分かっています。この教会も受難の歴史を持っています。1805年のナポレオン戦争の時です。一帯を蹂躙するナポレオン軍に対し、怒った司祭が発砲し、教会、司祭館は略奪、焼き討ちの報復を受けてしまったのです。当時の支配者ヴァルスエッガーは教会を再建しましたが、お金がないため、司祭館は建てられませんでした。司祭館が再建されたのはようやく1912年になってからでした。
この教会の墓地は、ゼメリング鉄道建設にあたって命を落とした多くの工夫が埋葬されました。コレラの流行が狭いバラックで寝起きしていた工夫たちの間に多くの犠牲者をだしたのです。
わたしたちは、2002年に好奇心のまま、クラム城塞の廃墟に足を踏み入れた記憶があります。ブロックされていたようには記憶していないので、そのまま入っていけたのだろうと思います。ただ、当時は、「今も崩落し続けて」いることは知りませんでした。くわばら、くわばら。


◎  Variante 1-3, 4 (ルート1-3、4クラム・ショットヴィーン駅からアイヒベルク駅を経てグログニッツ駅まで、7.5km)

地図③ Klamm駅 → Rumplerトンネル (53m)、Geyereggerトンネル (81m)、Eichbergトンネル(89m) → Eichberg駅

アイヒベルクは1852年に最初に完成した区間の終点だったので、そのときは、列車はここから折り返していました。




ここから沿線ハイキングルート、Variante 1 は鉄道と離れ、高低差の少ない谷間をグログニッツに向かいます。


地図④ Eichberg駅 → Gloggnitz駅



さて、ハイカーはこれでゼメリング鉄道沿線ルートの終点、グログニッツに到着です。ここは、いままでの駅と比べても大きいし、すでに都会という感じです。グログニッツそのものは1,000年の歴史を持つ町です。なりたちとしては11世紀にバイエルンの修道院の僧たちがここに庵をつくり、やがて修道院へと発展していったのが、町の基礎となりました。日本風に言えば、門前町でした。
ただ1803年以降世俗化が進み、その頃から今日の街が形成されていきます。古い壁 (Gemäuer) は保護文化財になっています。ウィーンでよく耳にする名前、ドクター・カール・レンナーは1910年以来ここにヴィラを持っており、今日レンナー博物館となっています。



クロスター・グログニッツ



1900年頃のグログニッツ駅


◎  Variante 2 (ルート2 クラム・ショットヴィーン駅からキューブ駅を経てパイエルバハ・ライヒェナウ駅まで、5.5km)

地図⑤ Klamm-Schottwien駅 → Eichberg駅 → Apfaltersbachgrabenヴィアドゥクト (全長99m、高さ25m)、Steinbauerトンネル (88m)、Höllgrabenヴィアドゥクト (全長80m、高さ26m)、Kübgrabenヴィアドゥクト (全長42m、高さ14m) → Küb駅 → Payerbachergrabenヴィアドゥクト (全長60m、高さ14m)、Schwarzerヴィアドゥクト (全長222m、高さ20m、13本アーチ、ゼメリング鉄道で最長のヴィアドゥクト) → Payerbach-Reichenau駅




ハイキングルートとして、クラム・ショットヴィーン駅からアイヒベルク駅に向かわないで、いったん鉄道と離れ、山の中を歩いてキューブに向かうのがヴァリエーション2です。この間およそ3.5kmほどです。
キューブは実力者たちの強い働きかけで1894年に独自の駅がつくられ、リゾート地として人気を集める場所になります。キューブの名をとくに有名にしているのは、ここの歴史的郵便局です。リゾート地として発展していくにつれ、郵便局を開設する必要が高まり、1905年、当初夏の数カ月営業ということでスタートし、1908年以降通年営業となりました。ここにある窓口、電話ボックスはかつて南部鉄道ホテル内に19世紀末から20世紀にかけての頃設置されていたものがここに移設されたものです。今もここで郵便を出せば、キューブの消印が押され世界中に配達されます。ロザーリウムも日本のおともだちにここから絵葉書を出しました。




キューブの街の入り口 (2002年撮影)



キューブの歴史的郵便局 (2002年撮影)



キューブの歴史的郵便局 (絵葉書)

さてキューブでハイキングルートはまた鉄道と合流します。
KübgrabenヴィアドゥクトとPayerbachgrabenヴィアドゥクトの間がゼメリング鉄道全線区間で最も勾配の急な場所です。そのため1851年この区間で機関車の性能をテストするための国際的なコンペが行われたのです。
ハイキングコースとしては最後から二つ目のPayerbachgrabenヴィアドゥクトの下をくぐり抜けると、目の前が開け、パイエルバハの街が見えます。鉄道の方は左手に見え、最後のそしてゼメリング鉄道で最も長いSchwarzerヴィアドゥクトの上をゆっくり、大きく右にカーブしながら、パイエルバハ・ライヒェナウ駅に近づいていきます。
(*下の木版画で言うと、右手に見える列車は最も勾配のきつい坂を降りてきたところ、左奥にも列車が見えますが、これはシュレーグルミュールからやってきて、これからパイエルバハに到着するところです)



シュヴァルツァ・ヴィアドゥクト (木版画、1880年)

パイエルバハについてはラックス登山の記事でご紹介しました。再びわたしたちは、今度はゼメリングから長い沿線ハイキングを終えて、パイエルバハに戻ってきたという次第です。
この町の名前はなんとなくドイツ語らしくない語感を持っていますが、PをBに置き換えると、なるほどと納得されます。グログニッツもそうでしたが、ここももとはバイエルンの修道院が所有する土地だったのです。昔はシュタイアーマルクに抜けるルートとして、ここからプライナー・グシャイトを経由したので、パイエルバハはその通商路の需要な経由地として発展したのです。記録上すでに1094年にこの地名が登場しています。
また18世紀末には近郊のグリレンベルクで鉄が採掘されるようになり、経済的に潤いました。しかし、ここもやはり19世紀初頭のナポレオン軍によって荒廃させられました。
ゼメリング鉄道の建設はパイエルバハの歴史上もっとも繁栄をもたらす出来ごとになりました。当時は帝国内で最も乗降客の多い駅でした。
シュヴァルツァ川に沿ってクアパルク (療養公園施設) がつくられ、1909年音楽の催しをするためのパビリオンも建設されました。
木版画にも見られる教会は1180年に造られた古いもので、15世紀末には外敵からの防衛のための要塞教会となりました。

ゼメリング鉄道は最初、ライヒェナウあたりで大きくカーブする計画でしたが、ライヒェナウの別荘の住民に反対され、また、その間鉄道技術が進歩して、パイエルバハでカーブ出来る見込みが立ち、今日の路線となったのです。しかし、駅名は、いつ頃からか、ライヒェナウとくっつけてパイエルバハ・ライヒェナウ駅と呼ばれるようになりました。

わたしたちが最初にゼメリング鉄道を列車で通ったのは、1983年でした。3月14日、ウィーンにやっと着いたと思ったら直ぐに大学は春休み (Osterferien)、初めての冬でしたから、なにしろ毎日まだ寒くてたまらないということもあり、休みを利用して直ぐにイタリア旅行に出たのです。3月28日、南駅から23時初の夜行列車でまずはヴェネチアを目指しました。寝台車などという気の利いたものではなく、普通のコンパートメントで満席でしたから、とても寝られるようなものではありませんでした。ロザーリウムは新婚旅行のときもそうでしたが、どこでも列車移動となると、直ぐに寝てしまいます。わたしは、見知らぬ連中と同じコンパートメントで旅行するわけですから、泥棒にでもあってはならないと、ずっと起きていました。
で、ウィーンを出て、一時間くらいしたころでしょうか。真夜中ですし、夜行列車ですから、車内の照明も極力落とされていました。そして外がまだとても寒かったんでしょうね、窓が結露していました。それまで順調に走っていた列車が、急にスピードを落とし、キーキー、キーキー車輪がすれる音を立てています。ゼメリングのことは、当時全く知りませんでしたし、カーブしているのは分かりましたが、外が真っ暗で、山を登っていることは全然気がつきませんでした。
ラックスの記事のところで書きましたが、その後ゼメリングを通ったのは1990年になってからですが、それもツアーバスの車内から駅を眼下に見た、という程度でした。結局意識してゼメリングを訪れたのは1999年が初めてでした。以来、ここはわたしたちにとって、お気に入りの場所の一つです。
ゼメリングの駅でウィーンに帰る時、特急が通過していく、その一等車の車内によく我が同胞らしき人たちをみかけます。おそらくあわただしくウィーンからグラーツへと移動していくのでしょうね。オーストリアの一番オーストリアらしいところは、実は田舎にこそあるのですよ、とわたしはいつもあわただしく2、3日の駆け足旅行でオーストリアを終了して次の目的地に向かう人たちに言いたいのです。




世界文化遺産ゼメリング鉄道 (絵葉書)




1930年頃

この写真を見ると、オーストリアにも屋根のないパノラマ車両が走っていたことがあるのが分かります。今は、危険だからなんでしょうか、登山鉄道でさえ、こういうパノラマカーは見かけませんね。




ゼメリング鉄道開通100周年記念列車 (1954年)




ゼメリング鉄道開通100周年記念碑、ミュルツツーシュラーク駅 (2001年撮影)

ミュルツツーシュラークにはゼメリング鉄道に関する鉄道博物館もあって、鉄道好きの方にはぜひ訪れていただきたいですね。
実は、ここから、支線が出ていることに以前気持ちがひかれて、いつか乗ってみたいと思ってミュルツツーシュラークも訪れましたが、やれやれ、とうに廃線になっていました。ですから、バスに乗ったわけです (ラックスの記事で書きました)。
鉄道路線は赤字だといつ廃止されるかわかりませんからね、鉄道ファンの方は、廃止されない前にお出かけになることをお勧めします。

ヨハン





ゼメリングのハイキングコース (2) 歴史的建造物をめぐるルート

2010-03-27 11:17:16 | ウィーン
― パスヘーエ周辺

<ゼメリング街道建設記念碑>
ニーダーエスタライヒとシュタイアーマルクの州境で、またゼメリング街道の最高地点でもある、標高984mに拓かれた峠パスヘーエには、写真の堂々としたモニュメントが据えられています。この街道建設記念碑は1728年、その完成を祝い周辺諸州の諸侯たちによって建造され、ときのオーストリア皇帝カール6世に捧げられました。この峠はウィーンからヴェネチアを結ぶゼメリング街道にあって最も越えるのに苦労した難所だったのです。



パスヘーエに建つゼメリング街道建設記念碑 (2005年撮影)

ここに宿坊と簡単な街道が開かれたのはすでに12世紀にさかのぼります。それまでは登山の山道と変わらないシュタイクが開かれていただけで、利用したのも巡礼者たちとか、家畜を使った荷物運びの人たちくらいでした。1728年6月21日には完成したこの街道を皇帝カール6世とその妃エリーザベト・クリスティーネも訪れました。



パスヘーエに建つゼメリング街道建設記念碑 (1810年)

1810年に描かれたパスヘーエのこの彩色銅版画を見ると、左に1662と記された石柱が立っています。これはニーダーエスタライヒとシュタイアーマルクの州境を示すもので、1878年に取り外されました。(*今は州境をあらわす碑は、背が低い形のものが、道路の反対側に据えられています)
馬に乗っている人物は後方のウィーンとヴェネチアを結んだ快速郵便馬車の御者で、ここで馬を乗り換えているところです。右の小屋から出てきた人物は、関所の人で、通行料を徴収するために出てきたところです。

今はアウトバーンも鉄道と同じように、トンネルが完成し、車はここまで上がってくる必要はなくなりましたが、トンネルが開通する前は、パスヘーエは車の通行量も多く、賑やかでした。トンネル工事と合わせるように、街道のほうも整備していたのでしょうね。以前より道が整備されてきれいになりました。初めてわたしたちが訪れたときには、この街道建設記念碑が堂々とその存在感を誇示しているように思われたのですが、いつの間にか台座だけになっていたり、ついには姿を消してしまい、どうなったんだろう、と訪れるたびに不思議に思っていましたが、昨年無事元通りの姿で現場復帰しているのを確認しました。たぶん道路整備にあわせて、移転していたものと思われます。

<パイロットNittnerの記念碑>
ゼメリング街道建設記念碑とは国道をはさんだ反対側、バス停近くに同じくひときわ人目を引く形でこの碑がたっています。1912年5月3日パイロット、エドゥアルト・ニットナー中尉はヴィーナー・ノイシュタットから飛び立ち、初めてゼメリング峠を飛行機で越え(午前6時30分)、その2時間後、無事グラーツに着陸しました。彼は功績をたたえられ、サラエヴォに新設された航空隊司令官に任命されましたが、一年後飛行機事故で命を落としてしまいました (1913年2月17日)。
わたしたちにもよく知られたライト兄弟による人類初の有人動力飛行の成功が、このわずか8年半前のことだったことを考えると、いかに勇気ある飛行だったか分かることと思います。



パイロットNittnerの記念碑


― スポーツ競技とゼメリング

標高1,000メートルに位置するゼメリング一帯は、1854年ゼメリング鉄道が全線営業を開始したことにともない、またたくまに高地療養地として注目を浴び、またリゾート地としても夏は避暑に、冬はスキー、スケートに、さらに複雑な地形を利用した冒険の場として、モーターライゼーションの到来とともに、自動車、バイクレースも開催され、高級リゾートホテルが相次いで建設され、競うようにヴィラが建てられました。シーズンにはさながらすっかりウィーンの社交場がゼメリングに移ってくるといった様相でした。

1912年にはヒルシェンコーゲルにスキーのジャンプ台が造られました。(*現在ジャンプ台はありません)


ヒルシェンコーゲルのジャンプ競技 (1912年)

また、国道をはさんだ反対側、ホテル・パンハンスの脇をあがっていくピンケンコーゲルには、リュージュ・ボブスレーのコースがつくられ、やがてオーストリア最後の皇帝となるカール1世も1912年ここで4人乗りボブスレーを操縦しています。

ヒルシェンコーゲルに最初のリフトが造られたのは1953年です。ゾンヴェントシュタイン側は1956年にリフトが建設されました (前回の記事)。本格的にアルペンスキーの場所として、ウィーンから近いこのヒルシェンコーゲルが戦後ますます注目されたと思われます。
1995年からは女子スキー初のワールド・カップ競技が開催されるようになり、回転と大回転競技が隔年この地で開催されています。地元出身の女性選手がオリンピックで金メダルをとったことはゼメリングの人々にとっての自慢のたねです。
また、ここではナイト・コースも冬季の日曜を除く毎日営業されます。
現在は夏季にマウンテンバイク競技も行われ、今も冒険好きの若者の人気を集めています。

<グランド・ホテル・ヨハン大公>



ゼメリング・カーレースのゴール、グランド・ホテル・ヨハン大公前



Grand Hotel Erzherzog Johann

今駐車場として利用されている一角にレストランとガソリンスタンドがたっていますが、その場所にかつて、グランド・ホテル・ヨハン大公が建っていました。ヴィクトール・ジルベラーがここにあったホテル・ヨハン大公を1870年に買い取り、1898年グランド・ホテル・ヨハン大公に改築、翌年1899年営業を開始しました。部屋数130、すべての快適な設備を備えた豪華なホテルでした。ゼメリング・カーレースはこのグランド・ホテル・ヨハン大公前をゴールとして行われました。
1886年ショットヴィーンをスタートしホテル・ヨハン大公前をゴールとする自転車の選手権競技が開催され、1932年まで大会は続きました。面白いのは1890年までは、よく写真でみかける車輪の大きな自転車、あれで選手たちは峠を駆け上っていたのです。自動車レースが始まったのは1899年からでした (8月27日)。
第二次大戦後ホテルは焼失してしまいました。


それでは、次にパスヘーエを出発して、ホホシュトラーセを歩き、ゼメリングの歴史的建造物を訪ね、終点のクアハウスまでハイキングすることにしましょう。

― ホホシュトラーセ沿いの歴史的建造物

地図①



17 ゼメリング駅
4 ホテル・パンハンス
6 教会
7 ジルベラーの小城
9 南部鉄道ホテル

地図②



11 クアハウス
12 ドッペルライターヴァルテ

これからご紹介するのは、ホホシュトラーセを道なりに歩いていき、順番に、パンハンス (地図①の4)、教会 (地図①の6)、ジルベラーの小城 (地図①の7)、南部鉄道ホテル (地図①の9)といった歴史的建造物をみながら、さらにヴォルフスベルクコーゲル駅付近で線路の反対側に出て、最後にクアハウス (地図②の11) を目指すハイキング・ルートです。およそ半日のコースでしょうか。

 <ホテル・パンハンス>
南部鉄道ホテルがウィーンでたたき上げの料理人として腕をあげ料理長として活躍していたヴィンツェンツ・パンハンスにホテルの経営を任せたところ、ゼメリングのリゾートブームという追い風にも乗り、彼は大いに利益をあげ、1888年独自に規模の小さなホテルを、ピンケンコーゲル山麓に建設するまでになりました。それは当初ホテル・ウィーンと名乗っていましたが、その後スポーツ・ホテルなど名を変え、やがて経営は甥のフランツ・パンハンスに譲られ、1912/13年さらに大改築して現在の形になりました。ファサード (ホテルの正面部分) が300メートル、客室400というまさに大ホテルです。今も現役です。わたしたちもなかに入ってみたことがありますが、歴史の重みを感じ、一見の価値ありです。もちろんお金に余裕のある方ならば、泊まってみられるのもよい想い出となると思います。



パンハンスから顧客に出された年賀状 (1897年)



パンハンス (1905年)

 <教会>
これはメッテルニッヒの実の娘、ツィヒー伯爵夫人のイニシアチブでホテル客、ヴィラの住人たちの礼拝場所として1894年に造られました。1954年この教会は保護文化財になっています。


ゼメリングのKirche

<ジルベラーの小城>
この建物は建っている場所が小高いところという点、またその外観が、他のヴィラがいわゆるゼンメリング様式という一つのスタイルを持っているのに対して、キッチュな感じで (*どうやらバイエルンのノイシュヴァーンシュタイン城を模したものと説明されています)、とても目立つ存在で、ホホアルムヴェークからもよく見えます。
ジルベラーというのはここに登場するのは二度目です。グランド・ホテル・ヨハン大公を造った人物です。この人の経歴はもとはジャーナリストで、アメリカの新聞に記事を書いていました。普仏戦争 (1870/71年)のときはウィーンの「新自由プレス」に記事を書きました。記者時代パリで情勢視察用の気球に同乗していらい、技術革新の重要性に目覚め、やがてオーストリア航空クラブの会長になっています。好奇心と科学的探究心にあふれた冒険野郎だったと思われます。そんなことで、1895年に建てられたこの彼のヴィラは意図的にキッチュに派手に、目立つところにつくられたようです。形からヴィラと呼ばれず、Schlößchen 小さな城、と呼ばれているのです。ここは現在中を見学することは出来ないようです。



ジルベラーの小城

 <南部鉄道ホテル>
ヴォルフスベルクコーゲル駅に隣接する一帯の土地を所有し、そこにヴィラを建てていたシェーンターラー (ウィーン宮廷歌劇場を建築した人物) から南部鉄道が土地を譲り受け、ホテルを建設したのは1882年6月でした。南部鉄道会長のフリードリヒ・シューラーにはすでに観光業界で多くの実績をあげてきていましたので、シェーンターラーもこの人物ならと惚れこんで、譲ったといいます。しかし、当初建築されたホテルは飾り気のない実用本位の3階建てで、兵舎と揶揄されました。その後顧客の需要を満たすための増改築が繰り返され、今日の複雑怪奇な形に変貌していきました。ナチの時代、野戦病院として使われるなど、ホテルとしての機能は以来まったく失われてしまいました。戦後も再建の手がつけられることなく、荒廃したまま放置されてきました。わたしたちが最初に訪れたときもまったく廃墟同然の状態でした。
2000年になって、突然この南部鉄道ホテルが妙な形で蘇ります。ウィーンのブルク劇場は毎夏ライヒェナウでフェストシュピーレを行っているのですが、この年から建物の所有者との間に合意を得、南部鉄道ホテルをまさに劇場として使用、再生させたのです。
2000年はカール・クラウスの『人類最期の日々』が上演されました。わたしはゼメリングに別荘を持つ友人から、貴重な切符も譲ってもらうことができ、2003年の公演、『シュニッツラーの夢物語』を観劇することができました。芝居の舞台を、フォワイエ、食堂、ホールと変えながら、ヴェランダの外に開放された窓から近郊の山々の自然を借景に芝居を進行させていくという、不思議な体験でした。この南部鉄道ホテルには館内に郵便局も設置されていました。


最初に建てられた時の南部鉄道ホテル



有名なポスターの図柄にも選ばれた南部鉄道ホテル


― ホテル・パンハンスの創立者は料理人から大ホテルのオーナー経営者になりました。
ヨーゼフ・ダングルという人物も、南部鉄道ホテルのボーイ見習いから、単独オーナーに上りつめ、ついにはゼメリング市長、栄誉市民にまでなります。セメリングという土地がドリーム体験を生み出す風土だったと思われますし、また19世紀末という時代がこうしたシンデレラボーイを生み出したのかもしれません。


 <クアハウス>
南部鉄道ホテルはヴォルフスベルクコーゲル駅の方が近いわけですが、南部鉄道ホテルとは駅をはさんで反対側に、やはりその規模からとても目につく建物がもうひとつあります。1910年に建設されたクアハウス (療養ホテル) です。ここもわたしたちはヴォルフスベルクコーゲル駅から歩いて訪れてみたことがありますが、そのときは近くに行ってみてどうも使われている様子ではありせんでした。ウィキペディによれば2000年代になって倒産したようです。しかし2007年に外国資本が施設を買収し、いずれホテルとして復活する予定と記されています。




クアハウス


この先、ドッペルライターヴァルテに行くには、このクアハウスの横を通っていく道のほかに、鉄道がトンネルをくぐっているその上の山道を進んでいくコースもあります。それについては、次回の鉄道沿線ハイキングルートで触れることにいたします。


ヨハン





ゼメリングのお薦めホテル・レストラン

2010-03-25 03:37:58 | ウィーン
歴史的建造物も多いゼメリングでゆっくり過ごすためには、やはりどこかに宿をとりたいものです。
お勧めの宿をご紹介しておきます。
わたしたちがここに宿をとって、じっくりその魅力を味わいたいと思ったのは1999年でした。なにしろヨハンの性格上、当時はあらかじめ宿を決めて旅行するなんてことは大嫌いでした。風の吹くまま、気ままにやるのがヨハン流。効率の悪いことも確かでした。
最初にご紹介したように、ゼメリングは駅と町の中心が離れているだけではなく、90メートルくらいの標高差があり、それを登っていかないとなりません。トランクを持っていますから、駅前にいたタクシーに乗り、運転手さんにいい宿を紹介して、連れて行って下さい、と頼みました。
メインストリート、ホホシュトラーセ (Hochstraße) に面したペンションにつれていかれました。なかなかこじんまりとして、清潔で、気にいったのですが、2泊のつもりが、翌日は宿の都合 ( どういう理由だったか昔のことで、忘れてしまいました ) で、別の知り合いの宿を紹介してあげるから、と移らなくてはならなくなりました。その移った宿が、写真のベルヴェデーレです。
これが大正解だったのです。このときは、南向きのベランダ付きの部屋をもらい、大満足。ゾンヴェントシュタインからホホアルムのパノラマが眺望出来る部屋でした。予定の残り、つまり一泊しかしませんでしたが、翌日帰るときには、マダム自ら車を運転して駅まで送ってくれました。


ベルヴェデーレ (2005年撮影)

(*場所はホホシュトラーセを少しあがったところです。駅からホホシュトラーセに登ってくるときにこのベルヴェデーレの前を通りますから、すぐわかります。)
E-Mail: hotel@belvedere-semmering.at
WWW: http://www.belvedere-semmering.at

とても気に入ったので、わたしたちは2001年にもここに泊まりました。このホテル、HPを開いてごらんになれば分かりますが、ホテル・レストランです。レストランはミシュランのオーストリア版とでもいうレストランガイドにも出ています。ご主人もマダムも、シュタイアーマルクのご出身で、シュタイアーマルク料理です。その後は友人が別荘を貸してくれ、そこで過ごしたことを除いて、ゼメリングには、なにしろ便利も良いので、日帰りばかりしていますが、そうしたときでもレストランには寄ることにしています。食事しないときでも、なにしろ、ロザーリウムが、ゼメリングにいくと、ベルヴェデーレのマリレン・クネーデルを食べたい、というので、わざわざそれを食べに立ち寄ります。これが、注文を受けてから造り出すので、時間が多少かかるし、また、新鮮なマリレンがなければ造ってもらうことができないしろものです。ヨハンはデザートケーキ (Mehlspeise) がなくてはいられない、というほどではありませんが、たしかにベルヴェデーレのマリレン・クネーデルは他では味わえない一級品です。音楽でいうとヨハン・シュトラウス (息子) のポルカを聴くような、そんな感じでしょうか。



ベルヴェデーレの特製マリレン・クネーデル (2009年撮影)

このホテル、朝食の時のお客さんのテーブルが暗黙のうちに決まっています。おそらくそれほどに常連のお客さんが多いと思われます。ヨハンが本当に感心したのは、おひとりお年をめしたご婦人がいつも、朝食のときも、夕食のときも同じテーブルで、ゆったり食事を楽しまれているのですが、その姿も正装そのもの、背筋をぴっと伸ばし、首にはしっかりとネックレスがかかっています。ディナーのときだけではないのですよ。朝からそうなのです。浴衣でロビーをうろうろ、これはこれで日本の良いところなのかもしれませんが、オーストリアのホテルでは泊まり客も子供のころからのしつけで、いったん人前に出ると、ぴしっ、とするのが体に染みついているんだな、ってつくづく感心します。

2001年の夏に泊まった時には、さらにニューヨーク在住のオーストリア人ご夫婦と知り合いになりました。日本の音楽学校で教えていたことがあるというご主人でした。住所を教えていただきましたが、この年、みなさんは覚えていらっしゃいますよね? 9月11日に世界貿易センターがテロ攻撃された年です。わたしたちが知り合ったのが8月6日です。当然もう9月にはニューヨークに戻っていたと思いましたからね、ニュースを聴いてご夫妻のことが心配になりました。
次にベルヴェデーレに立ち寄ったとき、わたしたちはマダムにご夫妻のことを尋ねました。
ああ、安心、よかった、その年もご夫妻は泊まりにきていました。
先生の奥さんは、アイスが好物らしく、パスヘーエのバス停からミュルツツーシュラーク行きのバスで出かけ、散歩をかね、そのアイスの店にいくと「ハイセ・リーベ Heiße Liebe」を食べてくるんだと、おっしゃっていました。わたしたちにはそのとき初めて聞くアイスの名前でした。もちろんロザーリウムが試さないわけはありません。さっそく、出来たばかりのブラームスの散歩道をハイキングするという予定をたて、ミュルツツーシュラークに行き、言われたアイス屋さんでロザーリウムは「ハイセ・リーベ」、ヨハンは相変わらず「アイス・カフェ」を食べました。



ヨハン


ゼメリングのハイキングコース  (1)

2010-03-25 03:35:15 | ウィーン
<ゾンヴェントシュタインのパノラマ・ルートとマリア・シュッツ>
あなたがウィーンに滞在していて、予報で翌日天気がよく、しかも格段の予定がないか、あっても別な日に変更できる場合、そしてどこかウィーン近郊の山を歩いてみたい気持ちがすでにあなたの心に湧いてきているとしたら、迷わずゾンヴェントシュタインにお出かけになることをお勧めします。一度その素晴らしさを体験すると、ゼメリングの魅力の虜になること間違いなしです。

今までご紹介してきたシュネーベルク、ラックスは登山に比重がかかったハイキングコースでしたが、ゾンヴェントシュタインは誰でも手軽にハイキングが楽しめるスポットです。しかも、すでに下車するゼメリング駅が海抜896メートルにあります。プフベルクは海抜577m、ラックス・ロープウェイの谷側駅が528m地点だったことを思い出してみてください。ゼメリングは幹線鉄道を利用しながら、下車駅が登山鉄道に乗ってきたような標高の高い所にあるのです。
シュネーベルク、ラックスに比べると、ゼメリングはウィーンからはより遠くに位置していますが、鉄道を使えば、むしろここが一番便利な場所です。なにより最大の利点は、ここには午前中一本、特急が停まってくれるのです。
ゼメリングに停まる特急は土日か平日かによって時間がことなりますが、調べてみたところ、現在土日だと、ヴィーン・マイトリング9時3分発の特急がゼメリングに10時14分に到着します。平日だと8時3分発になります (したがってゼメリング到着は9時14分です)。わずか1時間11分の乗車時間です。そこから先バスに乗り継ぐ必要がない分、自分のペースで行動できますし、また帰りの時間も終バスを気にしなくて済みます。ゆっくり夕食を楽しんで帰ることも、暗くならないうちにウィーンに戻ることもできるわけです。

(*ゼメリングの見どころはたくさんあります。最初にここではゾンヴェントシュタインのパノラマコースに絞ってご紹介します)



地図①

ハイキングの出発点は地図① 画面右のロープウェイ乗り場です。駅からそこに行くには、駅を出て先ず目の前に Stefanie ( 以前はホテルだったようですが、今はSeniorenheim老人ホームになったようです ) という建物が見えていますから、そのわきの道をあがり、車の通る道に出たら、しばらく左に歩いて、Hochstrasse方面という標識がありますから、それに従って小道を上がっていきます。登り切ると ホホシュトラーセに出ます。それをまた、左に折れ、つまり下っていくわけですが、そこからは国道が見えています。それがニーダーエスタライヒとシュタイアーマルクの州境パスヘーエ Passhöhe (海抜 984m) です。駅からおよそ20分くらいでしょうか。ここまでくればロープウェイ乗り場は直ぐ分かります。

近年アウトバーンのトンネルが完成したことによって、シュタイアーマルク側に出るトラック、乗用車の多くはもはや峠にあがってこなくなり、その分さびれてしまいましたが、ゼメリングにヴィラを持つ人々にとっては、静けさが手に入ったとも言えます。いずれにしても、このパスヘーエ界隈が街の中心で、インフォメーション、銀行、スーパー (日曜はもちろん開いていません)、レストランなどが集まっています。スーパーでサンドウィッチでも調達すれば、パノラマコースにあがって、好みの場所で絶景を目の前にお昼をすることも可能です。

ロープウェイは運転しない曜日があるので注意が必要ですが、土日はもちろん動いています。終点が写真のリヒテンシュタインハウスというレストランです (標高1,340m)。ここからの眺めもすでに爽快です。



Liechtensteinhaus (2006年撮影)

もちろん地図画面の白線で描かれた道を歩いて登ってくることも可能です。車も通るので、必ずしも快適とは言えませんが、ロープウェイで上がって、下りはこの道を歩くことにするか、二度目に訪れた時には歩いて登ってみることをお勧めします。この山がヒルシェンコーゲルです。

頂上に木造の展望塔があります。わたしたちも一度のぼったことがありますが、眺望に大きな変化はありませんでした。
ロープウェイの山頂駅から。ゾンヴェントシュタインに向かって白い線が左に伸びています。ロープウェイの下車駅からは従って、最初少し下る形になります。麓から歩いて登ってくる白線と山頂駅から下ってくる白線が交わる地点がパノラマコースの登山口 Brandstattです。そこから3つのルートがあることが分かると思います。一番右が Kammweg、真ん中がパノラマコースのHochalmweg、左は舗装道路です。すべてめざす目的地は同じですが、今はパノラマコースを進みます。森の中を歩いていくわけです。いきなり急な登りです。結構汗をかきますが、とても楽しいコースです。およそ30分で頂上にでます。



地図②

ここからHochalmweg、直訳すれば「高い所にあるアルムを歩く道」、です。麓のゼメリングからもよく見えています。木が生えていない、若草山のような場所で、稜線をゾンヴェントシュタインに向けて、およそ一時間、左手にゼメリングのヴィラ、駅、そして、ラックス、シュネーベルクを眺めながら、また、右手にシュトゥールエック、前方にエルツコーゲルの山頂十字架 (1,501m)、さらにもちろんORFの電波塔を山頂にいただくゾンヴェントシュタイン (1,523m) といったパノラマを楽しみながらのハイキングです。

しばらく歩いて振り返るとロープウェイ山頂駅がどんどん小さくなっています。



パノラマコースからヒルシェンコーゲルを振り返る (2007年撮影)

アルムですから、あちらこちらに牛が放牧されています。このあたりの眺望のいい草地に座って、スーパーの対面販売でつくってもらったサンドウィッチでお昼としゃれこむなんか、ヨハンには最高に贅沢な時間と思えます。



パノラマコースからの眺め、正面にポレロス・ヴァントが見える (2006年撮影)



パノラマコースからの眺め、ホテル・パンハンス、背後の山はラックス (2006年撮影)

ただ、平日ご案内の特急に乗り、なおかつロープウェイであがって来てしまうと、このあたりではまだまだお昼には早すぎてしまいます。それほどにゼメリングはウィーンから近いのです。そんなときは、目的地まで、あと少し、歩いて行くことにしましょう。前方にエルツコーゲルの山頂十字架が見えるあたりで、道がまた分かれたりしますが、先に行けば合流します。
BrandstattからKammweg (一番右側のルート) を歩いてきたハイカーもエルツコーゲルで合流します。



ゾンヴェントシュタインの電波塔 (2006年撮影)

やがて少し道を下ったところあたりでポレレスヒュテが見えてきます。



ポレレスヒュテはもう直ぐそこ (2006年撮影)

最後の坂を上がり切れば、ゾンヴェントシュタインです。



ゾンヴェントシュタイン (2007年撮影)

ここでは、ポレレスヒュテがハイカーたちを出迎えてくれます。テラスでビールを傾けながら、左にラックス、シュネーベルクの山並み、右前方下にグログニッツの街並みも見えます、そしてはるかかなたがハンガリーです。日常のつまらないことにめげていた心も、すでに雲散霧消、気分は爽快になっていることでしょう。おいしい料理を召し上がれ!



ポレレスヒュテ (2006年撮影、この日はゼメリング駅で i のおじさんと話し込んでしまったり、あちこち道草して、ゆっくり歩いて登ってきたので、たしか17時まで営業しているとせっかく i のおじさんが教えてくれたのに、到着したのがそれより遅くなってしまい、小屋は店じまいしていました )



これは昨年2009年に撮影したものです

ゾンヴェントシュタインからは、谷間に開けたショットヴィーンの街をまたぐようにかけられたアウトバーンの長い陸橋が見えます。逆に言えば、ウィーンから鉄道で来る時、クラム・ショットヴィーンの駅あたりから、陸橋、マリア・シュッツ巡礼教会、ゾンヴェントシュタインが額縁におさめられた絵画のように見えます。



ゼメリング駅とシュネーベルク (2005年撮影)



ショットヴィーンにかかるアウトバーンの陸橋 (2008年撮影)

<Bergkircherl>
ポレレスヒュテの脇を5分ほど登ったところにベルクキルヒェルル (山の小さな教会) があります。出来たのは1930年代ですが、大戦で損傷され、その後修復されました。内部のガラス窓は芸術的に価値のあるもので、見学できます。以前は鍵をリフト山頂駅でお借りするようになっていましたが、今はリフトそのものがなくなり、山頂駅も閉鎖されてしまいましたので、おそらくポレレスヒュテで鍵を借りることになるのではないかと思いますが、小屋で尋ねてみてください。しかし教会の内部に入ることが出来なくても、ここまであがれば更に眺望が楽しめます。

<ゾンヴェントシュタインのリフト>
今は影も形もなくなってしいました。わたしが貼った地図② にはまだ描かれています。1956年に建設され、ニーダーエスタライヒでも最初期の、また、東アルプス地域で最大規模のリフトでした。登るときには、山側を向いて座りますが、下る時は谷側を向くので、とても楽しいリフトでした。これに乗れば、ショットヴィーンの街並み、シュネーベルクの山並みなど、そのパノラマに歓声を上げているうちに、マリア・シュッツ巡礼教会のわきに降りることが出来、楽ちんに巡回コースがとれました。なくなってしまい本当に残念です。

そういうわけですから、ここからゼメリングに戻る方法は、二つです。
来た道を帰るか、マリア・シュッツ側に歩いて降りるか、です。

―先ずは来た道を戻る、です。
前回書きましたが、ここまで来るのにも、いろいろなヴァリエーションがありました。それを組み合わせると、なかなか飽きません。ですから、帰りは舗装道路を使うのも一つの手です。パノラマコースに比べると、眺望は劣りますが、無理のない下り道で、ひざを痛める心配もありません。歩いていると、上を歩くパノラマコースの家族連れの話し声が聞こえてきます。Brandstattでパノラマコースと合流します。そこからロープウェイ乗り場への道を登らずに、まっすぐ下っていけばパスヘーエに出ます。途中に山小屋エンチアーンヒュテがありますから、天気のいい日ならば、そこの庭で元気づけにコーヒーでも飲みながら一休みが可能です。



Enzianhütte  (2006年撮影)

―マリア・シュッツ巡礼教会側に降りる
しかし、十分時間に余裕があるようでしたら、是非マリア・シュッツ巡礼教会側に降りることをお勧めします。
これも大きく二つのルートがあります。
ひとつはかつてのリフトの下を縫うように降りていくGebirgsjägersteig (山の狩人の小道) です。シュタイク、ですからね、前に書きましたように、とても急峻です。わたしたちは、2007年に、ゼメリングから先ずマリア・シュッツへ出て、そこからリフトで上がろうと予定していましたが、リフトが動いていなかったので、やむなくこのゲビルクスイェーガーシュタイクを登ることにしました。標高差およそ800m 近くの登りでしたから、まったくいっぺんにシェイプアップ出来ました。
下りですと、時間的にははやく降りることが可能だと思いますが、ひざが笑ってしまうことは間違いないでしょう。(*こんな山の中でと思うかもしれませんが、若者にとってはこの一帯格好のマウンテンバイクのコースとなっているようで、突然マウンテンバイクが下ってくることがあります。)

もうひとつはもっとゆるやかな道で、これは、いったんヒルシェンコーゲル方面に戻り、標識に従って左手に降りて行きます。このコースもわたしたちは歩いてみましたが、ゾンヴェントシュタインの東側の山の腹を巻くように徐々に降りていくので、急峻な感じは全くありません。ただ、とても時間はかかりました。



マリア・シュッツ順礼教会へ (2007年撮影)


マリア・シュッツ順礼教会、手前はクロスター・レストラン (2005年撮影)

教会のとなりがクロスター・レストランで食事が可能です。しかし、なんといってもここの名物はクロスター・クラプフェンです。



マリア・シュッツ順礼教会レストランのクロスター・クラプフェン (2005年撮影)

<マリア・シュッツ巡礼教会>
マリア・シュッツ巡礼教会を有名にしているのは、ここに湧き出る泉によってもたらされた奇跡によるもので、Liebfrauenbründll (リープフラウエンブリュンドゥル、聖母マリアの泉) と呼ばれるその泉は今も教会内部の祭壇の後ろに湧き出ていて、マリア像とともにこの地を訪れる人々の信仰の対象となっています。
ショットヴィーンのマリアンネ・フェルベリンという盲目の女性が泉の力で視力を得たことにはじまり、とくに1679年にペストが猛威をふるったときには、人々はマリア様に救いを求め、癒されました。その感謝の気持ちから、ここにカペレを建てることが誓われたのです。実際にカペレが完成するのは1722年でした (1794年の教会記録)。その後も何人かの人の前にマリア様があらわれ、評判がここを訪れる人々を増やし、まもなくカペレでは小さいということになって、1739年立派な教会に建て替えられたのです。
そのときの屋根はたまねぎの形をしていました。しかし1826年に火災で教会は焼失、直ちに再建されましたが、屋根は普通の形になりました。
それが1995年11月に修復され、もとのたまねぎにもどったのです。



マリア・シュッツ順礼教会内部 (2005年撮影)



マリア・シュッツ順礼教会奇跡の泉 (2005年撮影)

わたしたちがウィーンからのバス・ツアーでここを初めて訪れた1990年は、おそらく教会の屋根が修復されたことから人々の関心を集めるものと、そうしたツアーが企画された旨、ラックスの記事で書きましたが、その後調べてみて、屋根の修復が完成したのは1990年ではなくて、1995年だったことがわかりました。また、教会が戦争によって破壊されたように書きましたが、これも間違いでした。
わたしたちが2005年に訪れた時に写真 (↑) に収めている教会を見れば、たしかにすでに屋根はたまねぎ形になっています。
1990年に訪れたときの屋根がどうなっていたか、いろいろ資料を調べましたが、どうやら写真は撮影しなかったのか、今のところ見つかっていません。ビデオは撮影しましたが、劣化して、これも再生できないために確認できませんでした。面目ござらん。
記憶を呼び戻してみると、たぶんツアーがここに立ち寄ったのは、屋根修復の寄進を兼ねていたのではないかと思われます。そしてそのときの屋根は修理中で足場に覆われていたように思われます。



火災で焼失する前のマリア・シュッツ順礼教会 (ショットヴィーンから眺めた図、このときの屋根はたまねぎ形です)


再建されたマリア・シュッツ順礼教会 (1880年、屋根は普通の形になってしまいました)

<ショットヴィーン>


ショットヴィーン (2003年撮影)

ショットヴィーンはゼメリング街道の宿場町として重要な役割を果たしてきましたが、1805年のナポレオン戦争によって荒廃し、その後はゼメリング鉄道の開通 (1854年) によって宿場町としての役割を終え、その後さらにアウトバーンがショットヴィーンをまたぐように高架橋かけたことで車も素通りしてしまうことになり、今はまったく閑散としています。

― マリア・シュッツからはゼメリング行きのバスが出ていますので、バスで戻ることが可能です。
しかし、できればゾンヴェントシュタイン山麓のハイキングコースを歩いて帰ることをぜひお勧めします。最初に貼りました地図② では、マリア・シュッツから右に赤い線で描かれているルートです。眺望がいいわけではありませんが、森の中の道で、とても魅力的、パノラマ・ルートと同じくらいお勧めのコースです。およそ1時間半で、ヒルシェンコーゲルのロープウェイ谷側駅の横に出ていきます。

 <パラス・ホテル>
マリア・シュッツから歩いてセメリングに戻るコースの途中で、このホテルの正面玄関前を通り過ぎることになります。

1912年にこのホテルを建てた人物、ウィーン生まれのヨーゼフ・ダイジンガーは、若い頃ロンドンのホテルでピコロ ( オペレッタ『白馬亭』でボーイ長レーオポルトの下で働いている若者もピコロと呼ばれます ) という見習いをしていました。彼がパラス・ホテルを建てた時、まだ30を越えたばかりの若さでした。設計建築を任された人物も同様に若い人で、モダンな建物にしようというふたりのコンセプトそのままに、ホテルはコンクリートの機能重視のそっけない建物に仕上がることになりました。
新参者がゼメリングの景色に不調和なホテルを建てると聞いて、公然と地元の反発いやがらせがおこなわれ、建築資材を運ぶための道路が封鎖されてしまいました。そのため、ダイジンガーは写真 (↓) で見るように、崖下の道からリフトを通して資材を運ばなくてはなりませんでした。
ちなみにこのホテルはわたしたちがゼメリングを訪れたときには、OMVパラス・ホテルと名乗っていましたが、昨年訪れた時には代替わりしたのか、Artis Hotelと名前が変わっていました。



パラス・ホテル

以上ご紹介しました巡回コース、逆に先ずパラス・ホテルの前を通り、森の中をマリア・シュッツに向かって歩き、午前中の元気なうちにゲビルクスイェーガーシュタイクを登ってポレレスヒュテに出て、それからパノラマコースを歩いて、ヒルシェンコーゲルを降りるという形にすることも可能です。

ヨハン

ラックスの魅力 (下)

2010-03-14 00:26:48 | ウィーン
○ オットーハウスからゼーヒュテへ

初めてラックスを訪れる場合には前回のA-1の周回ルートで十分楽しいし、帰りの時間を気にしないでゆっくり過ごすことができると思います。ただ地図の上ではほとんど移動していないことになります。で、今回は、オットーハウスから先に進むコースのご紹介です。ルートAと書いているのは全く私の整理の便でしているだけです。



登山ルートA-2 またはB

地図が見にくいのはお許しください。オットーハウスの所在地は ③ ですね。そこから ④ のゼーヒュテ (Seehütte) を目指します。④ は地図では、真上にルートが枝分かれしている場所です。枝分かれした道を地図上の真上に進んでいくと ⑤ のポイントです。これは別途紹介します。

オットーハウスからゼーヒュテに行くには二通りのルートがあります。ここにわたしが貼った地図では、赤い数字の他は読みづらいかもしれませんが、崖になっているところに描かれたルートを進んでいくのを A-2 とします。B は地図では記されていないのですがオットーハウスからプラーターシュテルン方向に少しだけ戻ったわきの道を上がり、しばらく森の中を通っていくコースです。現地に行けばルート801 の表示があってゼーヒュテ方面と記されているので間違うことはありません。
どちらのルートを進んでいっても最後に合流してゼーヒュテに到着します。
B の方を先にご紹介すると、多少のアップダウンはありますが、基本的に森の中のハイキングコースです。 背後にシュネーベルク、そして森を抜けると右手にレヒナーマウアーの崖が見えてきます。それを見ながら歩いていくルートで、ゼーヴェーク (Seeweg) と言います。


ゼーヴェークのお花畑 (2009年撮影)

A-2 は前回ご紹介したオットーハウスの展望台からさらに先へと登っていくコースです。したがって、ずっと左手が崖で、その点パノラマを楽しんで歩いて行くことになります。展望台からしばらく登っていくと右手に十字の鉄塔が見えてきます。このあたりエーデルワイスが自生していますから、足元をよく見てみることをお勧めします。アルペン・ガルテンにもちろんエーデルワイスはありますが、なんてったって自生しているエーデルワイスを発見するととても幸せな気持ちになります (写真)。
十字の鉄塔 (写真) はヤーコブスコーゲル (Jakobskogel) 山頂 (1737m) の印です。


パノラマ・ルートからゼーヒュテを目指す
(オットーハウスを眼下に眺める、向こうに見えるのはシュネーベルク、2006年撮影)


自生するエーデルワイス (2006年撮影)


ヤーコブスコーゲル (2006年撮影)

鉄塔からまた下って A-2 のコースに戻ります。左手にはゾンヴェントシュタイン (Sonnwendstein) の電波塔が確認できます。以前毎朝 ORF がここからの景色とオーストリア音楽を流していましたが、最近は山の気象情報を兼ねて、あちこちの景色を流すようになりました。電波塔から稜線を右方向にたどっていくと、うり、みたいな、すいか、みたいな縦じまの円い山が見えます。女子アルペン・スキーの大会が行われるヒルシェンコーゲルで、その麓がゼメリングです。

A-2 のこのコースは背の高い樹木はありません、崖っぷち、はい松のなか (写真) を歩いて行くうちに、また、鉄塔が見えてきます (写真)。これはプライナー・ヴァントの崖の上に立つこのコースでのビュー・ポイントです。





プライナー・ヴァント・クロイツ (1783m、2009年撮影)

そして、すこし足元に気をつけないといけませんが、急ながれ場を下っていくと、先ほどのB のコースに合流します。ここまで来るともう、ゼーヒュテもすぐそこに見えています。

○ ゼーヒュテ

ゼーヒュテは標高 1,648メートルにありますから、オットーハウス (1,644m) とほとんど変わらないことになります。現地の案内パンフレットの説明ではラックス・ロープウェイ山頂駅からゼーヒュテまでの距離は 6km、およそ 1時間半の行程と記されています。
オーストリアの人々は確実にパンフレットに記載された時間で歩いています。なにしろ彼らは老若男女を問わず、忍者のように速く歩いていきます。
しかし、しかーーし、私たちはもう一度繰り返しますが、パンフレットに記された時間で歩けたためしがありません。2時間以上はかかると思います。ですから、日帰りでラックス登山をしてゼーヒュテまで周回 (行きに A-2 で帰りは B というように) しようとされる方は、オットーハウスを出発する時点で、十分往復の時間を計算に入れておくことが肝心です。A-2 のルートは景色がいいですが、最高地点 1,783メートルのプライナー・ヴァント・クロイツを経由しますから、標高差およそ 140メートルのアップダウンがあることを忘れて近道だと思って突入していくと、逆に体力を消耗して、動きも悪くなって、結果、終バスに間に合わないとなりかねませんので、くれぐれもご注意あれ。


A-2 と B のルートが合流するあたりでゼーヒュテが見えてくる、向こうに見える山はシュタイアーマルク州です、そして右の山上にカール・ルートヴィヒ・ハウスの姿も確認できます (2009年撮影)


ゼーヒュテ (2007年撮影)

私たちは 2007年、ゼーヒュテを経由して、更にプライナー・グシャイトに降りようと計画を立て、ここまでやってきましたが、プライナー・ヴァント・クロイツ辺りで雲行きが怪しくなったかと思ううちに、雷、雨、そして、ここにたどり着いたころにはすっかり本降りになってしまっていました。
ひとまずゼーヒュテで雨宿りをかね、おやつにケーキを食べながら雨が上がるのを待ちました。


セーヒュテのトップフェン・シュトゥルーデル (2007年撮影)

ここから先は、写真 (↓) の下側に見えている道を歩いていくわけですが、山の中腹を少しずつ下っていく形で、しばらく左手にプライナー・ヴァントの迫るようなカルク・アルペン独特の岩山を眺めながらのハイキング、天気が良ければ本当に爽快です。



以前歩いたことのあるこのルートを、2007年に、もう一度日帰りプランで歩いてみようと、やってきたのです。しかし、あいにくの雨です。いまさらロープウェイの山頂駅に戻るのは、先に進むルートより時間がかかるかもしれません。かと言って、これから先は雨の中を歩くのはとても危険なコースです。最終バスの時間を気にしながら、戻るか、先に行くか、本当に時計とにらめっこの状態で雨が上がるのを待ちました。結局、雨はすっかりあがってはくれませんでしたが、小ぶりになってきたので、先のルート C へと出発しました。


 <シュトゥルーデル豆知識>


(資料写真)

シュトゥルーデルというのは渦という意味です。我が家にウィーンから O 嬢がやってきたとき、目の前でつくって見せてくれました。タイクをこの写真のように、ピザ生地をつくるときのように、空中で回しながらどんどん薄くしていき、最後は両手の甲にのっけながら、むこうが見えるくらいの薄さにまでのばしていきます。食卓ほどの大きさに引き伸ばされたタイクの上にりんごをのせ、下の敷物をもちあげ、くる、くる、くるくるくるくるーー、っと巻き込んでいったときは、ビデオ撮影しながら、おもわず「wunderbar!」と叫んでしまいました。
この最もオーストリアを代表するデザート・ケーキ、ポピュラーなのはもちろんリンゴを巻き込んだアップフェル・シュトゥルーデルです。おいしいアップフェル・シュトゥルーデルに出会うと、一日中幸せな気分が持続します。モーツァルトのディベルティメントを食べ物にしたらこんな感じになるのではないでしょうか。
でもクワルクを巻き込んだトップェン・シュトゥルーデルも上品で、おいしいトップフェン・シュトゥルーデルは、一口のど元を過ぎていくと、まるでモーツァルトの弦楽四重奏曲第17番《狩り》が体全身に響きだすかのような感動の世界に誘われます。
調べてみますと、アラビアに起源をもち、トルコからハンガリーを経由して、15世紀頃、ウィーンに入ってきたもので、もとは単純、質素な貧しい人々の食べ物だったと説明されています。もちがいいので行軍に際しての食糧として携行されたと書いてあります。16、17世紀のトルコの侵攻の時代に今日のタイクを薄く延ばす方式がはいってきたようです。文献としてはウィーンの国立図書館に Puech (ピュヒ? と発音するのでしょうかね) という料理人の自署つきの手書きレシピ (1696年) が残っているのが、もっとも古い言及とされています。やがてマリーア・テレージアを通して貴族の間にも広がっていきました。

 <ゼーヒュテ豆知識>

1876年二人でスタートした樵のアルペン協会 (die Alpine Gesellschaft D’Holzknecht) はたちまち会員を増やしていきましたが、会独自の小屋を持たなかったため、1894年8月15日、なかに会員独自のクラブルームを持つゼーヒュテを建設したのです。しかし戦後になって、小屋一帯の土地をウィーン市が入手し、水源保護の理由から小屋は取り壊されることになってしまいました。1946年のことです。会はその間新たな土地を探し、解体された古い小屋を移築したのです。1954年に営業許可もおり、その後今日の形に修復されていきました。今の小屋はしたがって新ゼーヒュテ (Neue Seehütte) と呼ぶこともあります。
周辺の見どころに、自然保護下にある Eishöhle (氷の洞窟) があるようですが、私たちはまだ訪れていません。ゼーヒュテから往復一時間と記されているので、例によって見物時間を含めると2時間はみたほうがよいと思われます。ゼーヒュテから私たちが次に目標とする C ルートに降りていく十字路を左に曲がらず、右手にとった方角に進んでいくと氷の洞窟にたどり着きます。

なお、現在ご紹介しているシュネーベルク、ラックス一帯はウィーンの重要な水資源の供給地となっています。このウィーンの水、については別に書くことにしていますが、このあたりでは、日本の尾瀬と同じですね、自然に対してハイカーにも特別の気配りが求められています。エーデルワイスはもちろんのこと、どんな高山植物も絶対にとってはいけません。

 <アルプスの高山植物>

オーストリアのアルプス登山の楽しさは、美味しい料理、そのあとのデザートケーキ、そして高山植物、動物たち、人々との出会いです。ここでは山そのものがオーケストラ会場、そこに縁あって居合わせた者皆すべてが演奏者となるのです。
ですから、ほかの演奏者の楽器をとりあげてしまったら、演奏会はぶちこわしです。きれいな花をみつけたら、心が豊かになります。しかし持って帰ってしまうと、山もわたしたちの心もさみしくなります。

ここで、もっともポピュラーな高山植物をご紹介しておきます。


リッターシュポルンと言います。意味は騎士の拍車です。



これはエンツィアーンといいます。

ラックスをハイキングしているときにおばあちゃんとお孫さんの二人連れと出会いました。道には花がいっぱい咲いていました。そそっかしいわたしが、ロザーリウムに「リッターシュポルトだ!!」って、知ったかぶりして言いました。一緒に歩いていたおばあちゃんが、たちどころに顔を真っ赤に染めて、笑いをこらえています。
リッターシュポルト、って、もちろん花の名前なんかじゃなくて、有名なチョコレートの名前ですもんね。面目ござらん。


○ ゼーヒュテからプライナー・グシャイトへ



登山ルートC

さて、今回はゼーヒュテ ④ から、⑦ のヴァクスリーゲル・ハウスを経由して、⑧ のプライナー・グシャイトを目指します。ここまで降りてくると、バス停があり、前に説明しましたが、そこからバスに乗れば、いったんヒルシュヴァント (ロープウェイ乗り場) を経由しますが、更にパイエルバッハの駅まで行きますから、ウィーンにその日のうちに帰ることが出来ます。

ゼーヒュテからプライナー・グシャイトまではおよそ4.5kmの行程です。
ゼーヒュテから南に進んでいくことになるわけです。とにかくこのルート天候に恵まれていれば、ずっと下りで、しばらく視界を遮るものもなく、左手にプライナー・ヴァントの威圧するような岩塊 (写真) を仰ぎ見ながらのハイキング、ほんのしばらく前には、あの岩山のてっぺんからはるかかなたのパノラマを楽しんだんだな、って思い出しながらのハイキングで、とても楽しいです。


プライナー・ヴァント (2008年撮影)

しかし、天候が悪く、雨が降ったりでもすれば、下りである分、一転して危険になります。次の目的地のヴァクスリーゲル・ハウスは標高 1,361m ですから、287 メートル下ることになります。このルート、公式にはヴァクスリーゲル・シュタイクと言って、801A の表示で示されるルートです。シュタイクというのは、大体私たちにとってはきついなあ、と感じるほどに急で、また、狭い道です。階段のように急な坂だと思って間違いありません。
雨に降られてしまった 2008年は、このルートを下るのは、二度目でしたが、前回天気が良かった時に比べると、とてもヴァクスリーゲル・ハウスが遠く感じられたものです。コースの半分ほど進んだころから、道は森の中にはいっていきます。森に入ればもうすぐ小屋だ、と思ったのですが、とくにそこから先が長く感じました。十分時間的なゆとりをもっていることが何しろ肝心です。




ヴァクスリーゲル・ハウス (2008年撮影)

というわけで、ヴァクスリーゲル・ハウスに到着です。ここはすでにシュタイアーマルクです。2008年は天気が良くないせいもあったのか、お客さんは誰もいないようでした。その分小屋の人に親切にしていただき、ロザーリウムとふたりで、写真を撮ってもらうこともできました。ここからは、右手の頭上高く、山上からカール・ルートヴィヒ・ハウスが見降ろしています。「今日はここまで登ってこないで、帰ってしまうのか?」と言いたげです。しかし、終バスに乗り遅れたら大変なことになりますから、私たちは早々にプライナー・グシャイトを目指しました。

プライナー・グシャイトのバス停、ちょうどニーダーエスタライヒとシュタイアーマルクの州境にあります。グシャイトというのは、追分、というような意味ですね。バス停の目の前にエーデルワイス・ヒュテ (シュネーベルクにも同じ名前の山小屋がありましたが、もちろん別物です) があり、バス時間を待ちながら、コーヒーでも飲むことができます。ここが標高 1,070m。今回の最高地点プライナー・ヴァント・クロイツから 713m 下ってきたことになります。とくに最後のヴァクスリーゲル・ハウスからプライナー・グシャイトまでは標高差 291m、ただひたすら草地を直線的に降りてきますから、バス停に着いた時には足が完全にわらっています。

今回ご紹介しましたこのルート、A-B-C、もちろん逆にすることも可能です。713m 登って、最後はロープウェイで降りる形です。いろんな組み合わせが可能で、飽きない山です。上級登山者にはロック・クライミングの場所もあります。

(*以前わたしたちは、鉄道でミュルツツーシュラークまで行き、そこからバスでアルテンベルクを訪れ、帰りはプライナー・グシャイトからバスに乗って、パイエルバッハに戻る、という計画をたて、出かけたこともありましたが、なにしろバスの便が少なくて、とくにプライナー・グシャイトからシュタイアーマルク側に出るバス (あるいはその反対) はないので、アルテンベルクからプライナー・グシャイトのバス停まで全行程歩いて行ったことを思い出します。ミュルツツーシュラークは特急が停車する駅で、都会なので、そこをラックス登山の基地に出来ればいいのですが、バス便がないので、やはり、ラックスを堪能するにはパイエルバッハに宿をとるのがベストという結論です。)

○ プライナー・グシャイトからカール・ルートヴィヒ・ハウスへ



次にヴァリエーション・ルートとしてヴァクスリーゲル・ハウスからカール・ルートヴィヒ・ハウスを目指し、さらにそこから、ゼーヒュテに降りていくコースをご紹介します。
このルートは、最初前回の逆コースを歩きます。プライナー・グシャイト ⑧ までバスで来て、そこから歩いてヴァクスリーゲル・ハウス ⑦ を目指しますが、途中で目標のカール・ルートヴィヒ・ハウス ⑥ に行く道は分かれます。
カール・ルートヴィヒ・ハウスは標高 1,804m にありますから、バス停からだと、734メートルずっと登りです。ヴァクスリーゲル・ハウスの手前で左に入り、しばらく行くと、シュランゲンヴェーク (へびの道、という意味ですね) が見えてきます。イロハ坂の登山者バージョンといったところでしょうか、とにかくひたすら 500メートルほどの標高差をじぐざぐ、じぐざぐと登っていきます。シュネーベルクのファーデンシュタイクのように、岩場をよじ登る、といった感じではないので、安全ですが、きついことに変わりはありません。私たちが登ったのはもう 7年も前のことなので、まだまだ若かったし、体力もあり、最後はへとへとでしたが、なんとか登り切りました。


カール・ルートヴィヒ・ハウス (2003年撮影)

ラックス山塊としての最高地点は、ここからしばらくさらに登ったホイクッペ、標高 2,007m です。この一帯はシュタイアーマルクです。ホイクッペに行く途中に写真の遭難者慰霊教会があります。


遭難者慰霊教会 (2003年撮影)

このカール・ルートヴィヒ・ハウスはカール・ルートヴィヒ大公 (オットー大公の父、フランツ・ヨーゼフの弟でしたね) の要請に基づき、オーストリア・ツーリスト協会によって建てられることになり、1876年9月10日厳かに大公自ら礎石を置き、一年後の 1877年に完成したものです。ここは通年営業していて、宿泊もできますし、また、緊急宿泊も受け入れているところです。パンフレットでは、バス停からここまで 5.5km、およそ 2 時間半の行程とされています (ということは 4 時間近くはみておいたほうがいいかもしれませんね)。なにしろこのカール・ルートヴィヒ・ハウス、結構どこからでも見られるように、逆にとても見晴らしのいいところです。登った分だけはかならず報われます。

私たちはここから、801 のルートを歩いて、左手かなたにハープスブルク・ハウス ⑤ をみながら、Trinksteinsattel (トリンクシュタインザッテル、写真↓― 船の形をして面白いですが、石造りの水飲み場です) を経由して、ゼーヒュテ ④ に降りて行きました。この山頂にあがってからは、ほとんどアップダウンはなくなり、山の上にいることを忘れるくらい、広大な草原で、登りさえもう少し時間短縮できれば、とても素晴らしいところだと思いました。本当ならばハープスプルク・ハウスまで行って見たかったのですが、時間がなくて、断念せざるを得ませんでした。ハープスプルク・ハウスに行く場合は目標をこれだけに絞り、寄り道をしないか、山の上に宿をとるしかないと思います。


Trinksteinsattel (2003年撮影)

そんなことで、わたしたちは周回コースをとり、ゼーヒュテから、ヴァクスリーゲル・ハウス、更にプライナー・グシャイトへと降りてバスで帰りました。
もちろん時間に余裕があれば、オットー・ハウスを経由して、ロープウェイでヒルシュヴァングに出ることも可能です。

(*このカール・ルートヴィヒ・ハウスに登るルートは 2003年、パイエルバッハに宿泊していたときに歩きました。時間に余裕はあったわけですが、それでもぎりぎり終バスに乗って帰った記憶があります。また、まだデジカメを持っていない頃でしたし、たぶん写真をパチパチ撮るゆとりもなかったのかもしれません。そんなことで山頂の広々した草地のハイキングコースをご紹介できないのが残念です)

ヨハン