ウィーンわが夢の街

ウィーンに魅せられてはや30年、ウィーンとその周辺のこと、あれこれを気ままに綴ってまいります

こうもり

2010-12-31 19:08:58 | オペレッタ
今日は12月31日、大みそか、2010年も残すところあと数時間となりました。
この冬寒波に見舞われたウィーンは今日も雪化粧をしていることと思われます。

ウィーンの大みそかで思い出すのは、前回の記事でも書きました1997年です。この年私たちは楽友協会でジルヴェスター・コンツェルトを聴くことが出来たのです。飛行機のチケットが翌日1日の帰国便でしたから、ラッキーだったと思います。

私たちはもともと切符も持っていなかったし、一日に帰国することになっていましたから、フォルクスオーパーでマチネーの『こうもり』(このチケットは到着早々国立チケット前売り販売所で手に入れておりました) を聴きに行く他に夜の予定はありませんでした。しかし、街を散歩しているときにいくつかのチケット販売店のウィンドーに切符が貼ってあるのを目にし、だんだん日を追うごとに、ここでアクションをとっておかないと、のちのち悔むことになるだろうな、との思いが強くなり、国立歌劇場前の地下にあるチケット取扱所のドアを開けました。

チケットの有無を尋ねるや、こちらの返答も待たずに (それくらい即答でした)、売り子の女性は「無理です」と答えるではありませんか。「チケットはありません」というのではありませんよ。「無理です」という返答だったのです。言葉を補えば、「あなたがたに買うことは無理な値段です」という意味です。なんとまあ、失礼な。でも、店員さんの言葉は正しかったのです。今はもう忘れてしまいましたが、25万円くらいのチケットでした。ふたりで50万前後かあ。あきらめざるを得ませんね。今思い出しても、ちょうど日本人がわんさか押しかけていた時代で、そんな値段のチケットが売られていることがニュースにもなっていた頃のことです。

そこで、いったん火がついた以上、こっちもとことんやってやろうじゃないか、って気持ちにそこでギアが変わってしまいました。つまり、当日券です。立見席は当日券での販売ですからね、寒い時期でしたが、並びに行こうとなりました。

マチネーがひけて、れんちゃん、ってやつですな。13年前の話ですから、わたしたちもまだまだ若かった。もう薄暗くなっている夕方、楽友会館にやってくると、さすがに、さすがに長蛇の列。あとは意地です。しかし、並んでいると、だふやの声です。最初は声をかけられても、知らんふりをしていましたが、ついにそのおにいちゃんに、値段はいくらか、聞いてみました。今手元の資料で確認してみると一人1,200シリングでした。たしか、一人1万円ほどだなと記憶しています。ウィーン・フィルのコンサートでも立ち見だと、通常は数百円だったと思いますが、さすがにジルヴェスターとニュー・イアーのときだけは1,000円くらいの特別料金になっていました。その10倍の値段だったわけですが、寒さをまぬかれる誘惑のもと、わたしたちはチケットを手に入れたのです。

そしたら、そのあと、二人の日本人から次のように言われました。

一人目の人は、ウィーン・フィル友の会の会員で、日本からチケットを買って来たという方です。で、その方は、これも簡単には手に入らないんだ ( たしか抽選を経て手に入れたというお話でした) と、そして、手には入ったが、ジルヴェスターとニュー・イアーのチケットのどちらか片方は必ず、立ち見券、というセットなんだというお話でした。「チケットもなしで会場にやってきて、だふやからチケットを手に入れるのはずるい」と言われた記憶が残っています。

そして、もう一人の日本人は、わたしたちにこう言ったのです。「あなたがたは当日券を求めて並んでいるの?」「ええ、でも、さっきだふやから買いました」「ああ、そうか。そういう人がいるからね、いけませんな。わたしについてくれば、立ち見ならチケットなしでも入れてあげたのに」

ん?

「ひょっとして変な人?」

いいえ、変な人ではありませんでした。あとで開場になってホールにはいっていったとき、その人の顔を見かけました。不法、違法なことだったのかもしれませんが、その当時はそういうことがありました。もう時効だな。その人を調べて見つけ出して罰したりしないでね。

1997年のジルヴェスター・コンツェルトの指揮はズービン・メータでした。3大Mが順々に交代して指揮していた頃です。一夜明けると、1998年のニュー・イアー・コンサートになるわけですね。プログラムも全く同じです。ORFのテレビ・カメラも入っていました。生中継は翌日でも、この前夜の演奏会がリハーサルになったんでしょうね。

ところで、これを書くにあたって今ネットで調べてみたところ、今年はニュー・イアー・コンサートだけになっていますね。指揮はヴェルザー・メストです。いつからジルヴェスターはなくなったんでしょうか?

わたしたちは立ち見でしたし、走りはしなかったので、演奏は多くの人の後ろで聴くだけ、という形でした。立っているだけで汗ばむほど立見席は人でいっぱいでした。なるほど、当日券の販売数以上の観客が入っていることは間違いなしです。でも、ウィーン少年合唱団だけは、ステージの上のほうで歌いましたから、姿も見ることが出来ました。

さて、大みそかのウィーンと言えば、先ほども触れましたが、『こうもり』です。この日のウィーンは、フォルクスオーパーもシュターツオーパーも『こうもり』を各2回づつ公演します。

これも先ほどネットで検索してみました。

フォルクスオーパーが、13:30からと19:00からの2回公演。
シュターツオーパーは、11:00からと19:00からの2回公演です。
どうやら、フォルクスオーパーの夜の公演だけ、まだチケットが余っているようです (本日31日の日本時間17時半くらいに調べた結果です)

ウィーン・フィルのジルヴェスターがないのに、切符が売れ残っているのか。

ウィーンを愛するからこそ言わせていただきますが、やはり、昨年ウィーンでいくつかの出し物を聴きましたが、フォルクスオーパーもシュターツオーパーも、本当に残念なことにずいぶん水準を下げてしまいました。フォルクスオーパーはとくに悲惨です。

さはさりながら、ウィーンの『こうもり』は、やはり大みそかの定番プログラムです。

そこで、今夜は雪のウィーンに思いをはせながら、『こうもり』について書くことにします。

☆ ☆ ☆

このオペレッタの舞台となる場所はどこか、みなさんはご存じですか?

楽譜、CDにはおそらく、ほとんど物語の場所として、「ある大都会の近くの温泉町」とだけ、記されていることと思います。それ以下でも、以上でもないはずなのですが、調べてみると、<大都会>、これをウィーンと断定的に書き換えている解説が存在するようです。そして記憶に間違いなければ、<温泉町>、これをバート・イシュルとしているものも存在します。

いったいどっちなんでしょう。

しかし初演当時まだ現在のバート・イシュルはイシュルと名乗っていて、バート・イシュルと名乗るのは『白馬亭』の記事でも書きましたが、1906年以降です。それに当時イシュルにオルロフスキーが構えるような大きな館、裁判所、留置場、銀行、こういったものが存在したかというと、現在のバート・イシュルの様子から推測しても、否定的にならざるを得ません。

となるとやはり、ウィーン近郊のバーデンとするしかないのかな、とヨハンは思います。
バーデンには今も貴族の館、ヴィラがたくさん残っています。

オペレッタ『こうもり』の台本はリヒャルト・ジュネとカール・ハフナーによって書かれました。
ジュネは名前からフランス系移民と思われますが、生まれたのは1823年、ダンチヒです。フロトーと親交があり、1868年からアン・デア・ヴィーン劇場の第一指揮者を勤めています。なかなか才能豊かだったようで、自ら1876年 『海軍士官候補生』(Der Seekadett) というオペレッタの作曲もしています。このジュネが亡くなったのはバーデン(1895年) で、バーデンの市営墓地に埋葬されています。

カール・ハフナーは1804年にケーニヒスベルクで生まれました。ペストの劇場での作家活動を経たのち、やがてアン・デア・ヴィーン劇場の作家になっています。この人はウィーンの中央墓地に埋葬されています。

ウィーン・オペレッタの代名詞とも言えるこの作品、シュターツオーパーが今でも大みそかに舞台にかける、この最もウィーン的ともみなされるヨハン・シュトラウスのオペレッタ『こうもり』の台本がふたりのプロイセン人によって書かれていることはなかなか興味深い話だと思いませんか?


ところで、ヨハン・シュトラウスが3度結婚していることはご存じの方も多いと思いますが、1878年最初の妻ヘンリエッテ(イェッティ) が亡くなって、数週間後に彼は歌手のアンゲリカ・ディトリヒ(リリー) と再婚します。結婚の前年1877年の夏リリーはバーデンの弁護士夫妻の家に滞在していました。52歳になっていたヨハン・シュトラウスは毎日足しげく彼女を訪れたと言います。
しかし、これはもう『こうもり』が出来上がった(1874年初演)あとの話ですから、脱線です。

ところで、この作品のタイトル、こうもり、って例のねずみか鳥か、はっきりしない、通常あまり気味のいい動物とは思われていません。作品があまりにも認知度が高いので、なんで、こんな動物の名前が楽しかるべきオペレッタのタイトルになったんだろう、って疑問すら湧いてこないでしょうし、疑問がわいても、オペレッタを聴けば直ちに第一幕でそのわけが明かされるので、それ以上深入りすることもないのではないでしょうか?

直接作品との関係はない話で恐縮ですが、実はバーデン近郊には、あちらこちらに、こうもりの洞窟があるのです。鉄道の開設によって、ウィーンの人々にとって、身近なこのバーデン近郊の洞窟を探検しにいくことが一時ブームになったと、どこかで読んだことがあり、ハイキングをかねて、わたしたちも2005年に洞窟探検にでかけてみました。
バーデン側から歩いていったのですが、案内板の地図にもそれらしいものが載っていないので、やむなく人に尋ねてみました。が、聞いたこともない、という返事。それでも、粘って、昔ウィーンからいっぱい人が探検にきたと本に書いてあるところですよ、と話しているうちに、「ああ、そうか」、なんとなく聞いたことがある、それはこちらの方角にあるでしょう、とやっと答えを引き出すことができたのです。

無事その洞窟に辿りつくことができたわけですが、このEinöd Höhle (ハイキング・ガイドブックにはこうもり洞窟、妖精洞窟と紹介されています)、バーデンから一駅ウィーン方向に戻ると、Pfaffstätten駅があります、そこから行く方が近いです。

こうもりは、ウィーンの人たちにとって、とても馴染みの動物だったのだというお話でした。

    
(2005年撮影)


ヨハン (2011/02/13一部書きなおしました)

メリー・クリスマス (ツリーの話)

2010-12-24 02:55:00 | ウィーン


ロザーリウムとヨハンは、いくどかクリスマスの時期をオーストリア、ドイツで (パリ、ブダペストもありました) 過ごしました。



この写真は、1997年に撮影したもので、ウィーンの Volkstheater の真横にある Museum というホテル・ペンションでクリスマスを過ごしたときに、そこのロビーを飾っていたものです。

クリスマスは日本とは全くことなり、お店も劇場もお休み、観光客にはだれか知人の家ですごすのでもなければ、どこも行くあてのない一日です。

もちろん教会に行く日ですからね、当然と言えば当然です。

わたしたちはこの年だったかなあ、とにかく冬場のウィーンは、寒いし、街に人の姿なんてそんなに見かけるわけでもないし、ウィーンからバスを乗り継いで初めて冬のラクセンブルクを訪れました(12月28日)。


クリスマスイヴはシュテファン寺院のミサに参加させていただきました。真夜中を過ぎてわたしたちがホテルに戻ると、部屋にゼクト (発砲ワイン) と、クリスマスのおかしが置かれていました。オーストリアのホテルの人々は温かいですね。


ところでツリーをクリスマスに飾る習慣は19世紀にドイツから世界に広まっていきました。

クリスマスツリーはキリスト教の「待降節」 (Adventszeit) と呼ばれるクリスマスマス・イヴまでの期間 (11月末日に一番近い日曜日から12月24日まで) にたてられ、プロテスタントの地域では、1月6日の「公現祭」までの期間、カトリックの地域では2月2日の聖母マリアお潔めの祝日まで飾られます。
キリスト教に関係なく冬のイベントとして祝う日本のように、12月25日になると一気にクリスマス・モードは終わりを告げ、ツリーも撤去され、やがて今度は新年を迎える門松、しめかざりがとって代わる国とは異なり、ドイツでも、オーストリアでもツリーは年を越して飾られるのです。

そんなわけで、まだまだツリーの話題は時期外れとは言えない話題なので、ご紹介することにします。



ウィーンのわたしたちの知人M先生のご自宅を訪問したとき、こんなに立派なツリーが飾られており、目の前でローソクに火をつけるところを見せて下さいました。もちろんツリーは本物のもみの木、ローソクも電飾ではなくて、本当のローソクです。そして、ロザーリウムがいつまでこのツリーは飾っておくものかとお尋ねしたら、来年の2月初めまでだと教えて下さいました。本当のローソクですから、火事の危険ということがありますから、だんだん本物の代わりに電飾を使う家庭が増えてきた、という話です。(2000年撮影)


もみの木 (Tannenbaum) が使われる理由は勿論私たちにも馴染みのクリスマスの歌「O Tannenbaum」にあるように、冬でも緑を保ち、命の象徴として古代ゲルマン民族の間で冬至の祭りを飾ったことが、キリスト教にも取り入れられたのです。
でも、実際には今はドイツトウヒ (Fichte) などもツリーに使われるようです。
ウィキペディアによると、2006年にドイツの家庭で消費されたクリスマスツリーは2800万本、金額にして6億1600万オイロだったそうですよ。ほとんどの家庭が飾るんですね。

他方人口からいけば836万とドイツよりはるかに少ないオーストリアですが、ここでも240万本のツリーが飾られたとされています。ドイツではデンマークなどからも多くのツリーを輸入して供給をみたしているのですが、オーストリアのクリスマスツリーは85パーセントが国内産だそうです。



ツリーの多くはニーダーエスターライヒ産ということです。わたしたちが2005年にランゲンロイスというドナウ河畔の小さな村にオペレッタ祭りを見るために訪れたとき、宿の近くを翌日の出発前に散歩していると、まさにこのツリーを養成している場所にでくわしました。30センチほどのまだ生まれたてのちびちゃんから、1mほどに育ったもの、そして、写真のように ずいぶんそれらしくなってきたものまで、辺り一面もみの木が育てられていました。(2005年撮影)


補足)
ツリーをいつまで飾るのかについて、ロザーリウムの記憶ではM先生にお尋ねしたとき1月6日までと聞いたというので、今回ヨハンもウィーンの友Oさんに直接尋ねてみました。彼女の記憶でははっきり2月2日までと刻まれているようでした。

ただ本物のモミの木を使う習慣があるドイツ語圏では、余りに長期間飾っていると枝葉が枯れてきて、火事の危険性も増すので、1月6日に片づけてしまうことも多いようです。

飾り終わったモミの木はどうするか、について、ロザーリウムはベルリンで通っていたときのドイツ語学校の先生が、窓から放り投げるしぐさをしたことを記憶していたので、単純に捨てるものと理解しています。つまり、翌年に使いまわしたりしないわけです。それは記事でも書きましたようにドイツ、オーストリアで毎年たくさんモミの木がツリー用として購入されていることからも分かります。

Oさんに聞くと、ちょうど日本の新年のお飾りと同じですね、役目を果たしたツリーはそれ専用の回収場所に持っていくのだそうです。

ウィーンの市庁舎前の大ツリーはどうかというと、まず、年ごとに国内の場所を変えつつ、選ばれたツリーが運ばれ設置されるようです。そして期間が過ぎると、今年に関しては、その幹からキリストの箱 (Christkästchen) が作られたそうです。個人のツリーと違い、市庁舎前のツリーのように大きなものにはまた新たな人生 (というのも変ですが) が待っているようですね。



***




ベルリンのクリスマスツリー(2005年撮影)


ブダペスト(2000年撮影)


生命の象徴として冬に緑の植物を飾るという風習そのものの起源を問い出せば、どうやらローマ時代 (月桂冠を年の終りに飾って新年を迎えたとされます) にまでも遡ることが出来るようです。確実に言えることは、風習が先にあってキリスト教によるイエスの誕生と関連付ける意味付けはあとから付加されていったということですね。

現在信じられている記録上に残された最初のクリスマスツリーは1419年南ドイツのフライブルク(i/B) という街のパン職人組合によるものとされています。お菓子、果物、木の実などを枝に飾り、新年に子供たちが木を揺らして落とし、それらを頂いたとされています。しかしこの起源説はドイツ語ウィキの説明を読むと、どうやら現在では出典を明らかにしえない、根拠のはっきりしないもののようです。

ツリーに最初にろうそくを飾ったのはシュレージェンの公爵夫人ドロテーア・ジュビュレという人で、1611年でした。



ところで、興味深いことに、みなさんもよくご存じのゲーテの『若きウェルテルの悩み』(1774年刊) に、当時のクリスマスツリーが描かれています。

「・・・クリスマスの前の日曜日だったが、夕刻、彼(ウェルテル)はロッテのところへやってきた。彼女はひとりきりで、小さな弟妹(きょうだい)たちのためにクリスマスの贈物として用意したいくつかの玩具を整理しているところだった。彼は、小さい子たちがさぞ大喜びするでしょう、と言い、不意に扉がひらいて、ろうそくや菓子やりんごで飾りたてたクリスマス・トリーがあらわれると、天国に行ったように有頂天になった頃のことを話した。」
「木曜の晩がクリスマス・イーヴでしょ」と彼女がいった、「その晩、子供たちが来ることになっています、それから父も。そして、めいめいプレゼントをもらうことになってますの。そのときに、あなたもいらっしゃってね ― でも、その前は、いけないの。」(秋山英夫訳、現代教養文庫、社会思想社1960年刊)

これを読むとすでに18世紀後半のドイツの裕福な家庭で、クリスマスツリーが飾られ、その枝に子供たちへの贈り物が飾られていたことがわかります。



子供たちへの贈り物ではなく、まったくツリーの装飾として、ガラス玉やラメッタ (金属の飾り)がツリーを彩り始めるのはこれよりもう少し時代が下ります。

ガラス玉がツリーの装飾として登場してくるのは1830年頃のことです。この頃一般家庭にもツリーを飾る風習が広がっていきました。

ぴかぴか光る金属製の飾りが考えだされたのは1878年、ニュルンベルクのツリーからです。これらはつららがきらきら輝く様子を模したものです。


パリではデパートの中にこんな巨大なクリスマスツリーが飾られます(2003年撮影)



海を渡ったツリーの記録として最初に挙げられているのは、合衆国マサチューセッツ州のケンブリッジで1832年、ドイツ系アメリカ人のハーバード大教授カール・フォレンという人物が自宅に飾ったものです。そこからやがてニューイングランドに風習が広まったとされています。

他方英国には、ヴィクトリア女王が1840年、ドイツのアルベルト・フォン・ザクセン-コーブルク・ウント・ゴータを夫君に迎えたことで、ツリーも夫君とともにドーヴァーを渡ったのです。


1848年の絵入りロンドン・ニュース紙にはそのヴィクトリア女王と夫君アルベルト、そして子供たちが取り囲む王室のツリーが掲載されました。


***



わたしたちが2005年の冬にドイツを訪れたときの成田には、こんなクリスマスツリーが飾られていました (2005年撮影)


ヨハン (この記事は2010年12月24~26日に投稿したしたものに今回2月7日に書いたものを加えてまとめました。)