ウィーンわが夢の街

ウィーンに魅せられてはや30年、ウィーンとその周辺のこと、あれこれを気ままに綴ってまいります

ターフェルシュピツ

2012-09-10 23:41:00 | ウィーン
Tafelspitz は牛の先端がとがった(spitz)尾の部分を使う煮込み料理です。

煮込み用野菜を茹でたものに、スライスした肉をいれ、リンゴをすりおろしたもの、あるいはゼンメルパンを粥状にしたもの、西洋わさびのすりおろしなどと煮込みに際して出来た肉汁を加えて食べます。

付け合わせとしてさいの目状に切った、または千切りした根菜類とじゃがいも、いんげん、ホウレンソウなどが添えられます。

料理に関してことのほか好奇心旺盛で、その土地の名物、未体験の料理、具材を目にするとチャレンジせずにはいられないロザーリウムに比べればヨハンは極めて保守的、過去の経験にもとずく安全路線を歩んでいますから、好みのレパートリーが増えるのには、だいたい偶然の幸せな体験が果たす役割が大きく、逆に言えば、偶然の不幸せにぶつかると、相当あとをひいてしまうことにもなります。

牛肉を使ったウィーン料理の代表格と言えば
たぶんどなたも耳にしたことがある Wiener Schnitzel ( ヴィーナー・シュニツェル ) と Tafelspitz ということになるでしょうか。

毎年ウィーンに訪れるわりには、ヨハンはほとんどこのふたつは口にしてきませんでした。

日本にいるときはとんかつは好物になっているので、仔牛をあげたシュニツェルなんか喜んで食べてもよさそうなのに、敬遠してしまうようになったのは今から15年前、とあるところで出されたシュニツェルがトラウマになったのだと思われます。
先ず出されてきたときのそのばかばかしいボリューム、皿からはみ出るほどのシュニツェルが2枚重ねで出てきたのでございます。ただ量の問題ならば、体の大きさもわたしたちとは違う彼の地の連中のことです、これくらいでないと客に満足してもらえないものと、店側のサービスとして理解可能ですが、問題は油です。あぶら。途中から本当に吐きそうになりました。

次にターフェルシュピツ。これも当時としてはウィーンのまあまあ有名どころのお店でいただきましたが、というよりロザーリウムが注文したものを少しいただきましたが、そもそも煮込み肉があまり好きではないヨハン、やはりその味付けのあまりの濃さに辟易した覚えがあるのでございます。

これも冬が寒い彼の地のこととして、そんなものなのかもしれないと理解しつつも、以後ヨハンはご免こうむる、となったように思われます。当時は料理の付け合わせの野菜類も乏しく、本当にメインの肉料理をひたすら味濃く調理したものが主体だったように記憶します。そのくせ Nachspeise と称しておなかいっぱい食べた後にまだケーキ類を食べるのですから、健康にいいわけはありません。日本からウィーンに行くと、メタボな人ばかりが目につきました ( これは一時解消してきたと思っていましたが、最近また目につきだしてきているように思います )。

いつ頃からか、ウィーンでは、日本にならって (だったと思います)、バランスの良い食事を心がけて、市民をメタボから脱却させなくてはと官民タッグをくんで真剣な取り組みがはじまり、ずいぶんキャンペーンをしたように記憶します。それが功を奏したのでしょうね、すらっとしたお嬢さんの姿も多くなりましたし、しゃきっとしたサラリーマンが肩で風切るように街を歩いていく姿も珍しくはなくなってきました。でも、去年、今年あたりの印象ではもうあの取り組みは人々の頭から忘れ去られてきているように危惧されます。EUになってからどんどん外国から人は入ってくるし、健康に気を使う余裕なんてものもまたなくなってしまったのかも知れません。役人は危機感をもったほうがいいよ~♪ いずれ健康保険に跳ね返る問題なわけだし。

でも、ヨハンたちはウィーンに毎年でかけても、ここ何年かは、多くは地方にでかける足場として、最後に、買い集めた資料を packen して郵便局から日本に送るためであって、おいしいウィーン料理を探訪しようなんて気になることもなく、ウィーンのようなせっかくの都会、中華もあれば和食もあります。なんならケーバブの立ち食いでも野菜たっぷりなので大歓迎、まちがっても伝統のウィーン料理、なんて看板を目にすれば、それだけでパスしてしまうというのが実態でした。

あ、ウィーンの名誉のために言っておきますと
朝食のゼンメル、コーヒー、これは昔からとてもおいしくて、朝が満足できるので、今まで特に不満はなく過ごしてきたのです。ただわざわざウィーン料理の専門店には行かなかった、というだけの話です。

それが、今回ターフェルシュピツを記事にするということは、やはり幸せな偶然のおかげです。

今年の3月ヨハンたちはスイスのチューリヒ近郊のアルトという村で行われているオペレッタ祭りを訪ねて、ウィーンを経由してチューリヒに行きました。そしてチューリヒからの帰路いったんウィーンで降りて、ウィーン、バーデンでオペラ、オペレッタを観劇するという日程でした。

その機内の雑誌でここにご紹介する Plachutta の記事を目にしたのです。ただそのときは「今またウィーンではターフェルシュピツがいけてる!」という内容に目を惹かれたのであって、お店の名前までは記憶にはとどまりませんでした。

これだけなら、「ふうん」と受け流して、たぶんまた時の経過とともに忘れてしまったのではないかと思います。

なぜこの店の客になったかというとこうです。

ウィーンでわたしたちが訪ねた O さんがシェーンブルンの近くに住んでいて、その日はグロリエッテで待ち合わせ、シェーンブルンから沈み行く夕陽を見よう、と言うので、坂を下りて行きました。


シェーンブルン宮殿から西に沈みゆく夕陽を眺める
2102年3月23日撮影

そのあと O さんがヒーツィングの方に出よう、と言うので、ヒーツィングなら美味しいレストランもあるだろうし、ヨハンが恥ずかしながらいまだドムマイヤーすら行ってみたことがなく、とりあえずはそこを目指して歩きました。

   
ドムマイヤー 2012年3月23日撮影           ヨハン・シュトラウス(息子)は1844年ここでデビューしました

でも今このドムマイヤーはカフェのオバラーが経営しています。ケーキ屋さんになってしまっているのです。

そこでここには食事のあとまた戻ることにして、この建物とすぐ目と鼻の先の、今通りかかってきたレストラン Plachutta がここのところウィーンっ子たちに人気の ターフェルシュピツ専門店だから、そちらで食事しようと O さん。そのとき頭の中で先ほど書いたチューリヒ・ウィーン間の機内で読んだ雑誌のことがぱあっとヨハンの中によみがえったのです。

O さんは父親がレストランを経営していた人だし、ご自身もレストラン経営の名義権を持ち、一時その名義を王宮近くのイタリアレストランに貸していたこともあり、食べることに関してはヨハンもその舌には信頼を寄せていますから、ぜひとも行ってみたいという気になったのです。

その前に、ドムマイヤーの方、また来るにしてもここで、玄関先を見ただけで立ち去るのも残念だし、O さんは「わたしもまだ庭を見たことがない」と店の人にささっと交渉して、もう閉めて立ち入りできなくしてあった庭にわれわれを連れて入っていきました。
こういうときに自分ではそんなあつかましいことは無理だろうからと思うと、ラッキーでした。


ドムマイヤーの内庭、奥に見えるパビリオンのようなところで楽団が演奏したのでしょうか。ヨハンの印象としてはとてもスペースとしてはこじんまりした感じでした。
2012年3月23日撮影


プラフッタ

   
2012年3月23日撮影

今も書きましたように、プラフッタはドムマイヤーの斜向かい、目と鼻の先です。

店内に入るとほぼ満席。やはり人気があるんですね。
予約で席は一杯だけども、1時間で予約のお客さんに席を譲ってくれるのであれば、それまでいいですよ、との話。

こうなると余計に食べてみたくなるじゃないですか。

店のカラーもグリーンが基調。店内のウェイターたちもグリーンを基調にした制服を身だしなみよく着込んでいます。
なんとなくノータイでシェーンブルンからここまでしっかり散歩して、早春の候、汗こそはかいていないものの、散歩のついでといった風のわたしたち3人はまわりのお客さんたちがよけい身だしなみよく見え、多少の居心地の悪さを感じつつ、席に着いたと言う次第です。


料理は銅の鍋にいれて運ばれてきます。冷めないように中華でおなじみの熱プレートの上におかれ、そこから銘々がお皿にとりわけていただきます
2012年3月23日撮影

なにしろ時間を制約されてしまっていましたから、落ち着かない気分のなかでの食事となりましたが、ヨハンの採点としては、過去のよくない記憶は忘れ去ることができる程度に、ターフェルシュピツについての新たな幸せな出会いとなったことは確かです。

今度機会があったらまたゆっくりこよう。
でも、難点はヨハンは絶対に予約が嫌いだということです。

O さんが、この店はヒーツィングのほか、Wollzeile にも、Oper の近くにも店を持っていると言うので、いつか歩いているときにまたそれらの店先を通りかかることもあるだろうから、気をつけるようにしようと思った次第です。

ただ、インターネットで調べれば、今は Plachutta そのもののホームページもあるし、創業者の Ewald Plachutta についてはウィキペディアにも記事があります。

そんなことで調べたものをここにご紹介しておきます


創業者

1940年ウィーンに生まれた Ewald Plachutta は1945年に母親の里であるシュタイアーマルクのマウテルンに両親とともに移る。学校を終えると、グラーツのグランド・ホテル Wiesler で料理修業をはじめ、21歳でウィーンの Astoria ホテルの料理長になる。1968年にドイツ、フランクフルト(a/M)で開かれた料理人のオリンピックでプラフッタは選手としてまたオーストリア・ナショナルチームの選手団長として参加し、ゴールド・メダルならびに特別賞を得ている。
1991年にゴー・ミヨによりその年の料理人に選ばれた。ミシュランも1993年に星1つを与えている。
2003年ウィーン市の金賞が与えられ、2005年にはプロフェサーの職業タイトルが与えられている。
古典的な料理であった Tafelspitz により、伝統的なウィーンの牛肉料理にルネサンスをもたらした。
1979年ウィーンの最高級レストラン「Zum drei Husaren」を買いとって独立。ほかにも「Grotta Azzurra」と「Hietzinger Bräu」の共同経営者となり、1987年に開店した「Hietzinger Bräu」の方はやがて名前を Plachutta Hietzing と変え、1993年からそこの単独経営者となっている。

ホームページには料理の写真もたくさん掲載されていますので、それをご参照ください





プラフッタの成功の理由としては、装飾から食器、ボーイの制服、マナーにいたるすみずみまで付加価値に重きを置いた店づくりをしたこと、またHPを見ると、牛肉はすべて生産者の顔が見えるもので、その牛の誕生から把握されていると書いてあります。
こうしたたくみなPR戦略。YouTubeにプラフッタ自身が登場した画像がupされています。かれはまたいくつか料理本を出しており、それらはウィーン料理のバイブルの如く扱われているようです。そして店舗をやたら拡大はせず、場所選びにも相当の神経をはらって展開してきているように思われます。要するに、売れることをとことん追及してきてはいるけれども、けっして売れればよい、との戦法をとってきたわけでもないのです。その点が一時期その資本力で街中に Running Sushi を展開していた似非回転ずしとは異なります。

少し褒めすぎてしまったかもしれませんが、幸せな出会いと言うのは受け手の側にも高揚感を与えてくれるというものです。つまり、誰かに伝えたくなる、という心理。結局これがPRとしては一番効果を生む方法です。口コミというやつですね。やらせのグルメ・ランキングだと、それに乗ってでかけて行った人間が期待外れを味わうわけですから、そこで伝達ゲームは終了となります。資本力にまかせて質をないがしろにしたまま、ただただ店舗拡大路線をとるチェーン店は、いつか同じようなライバル店が登場して、結局客に飽きられ、見捨てられていくものです。

ところで、ヨハンが、この自分自身そんなに好きではなかった肉の煮込み料理であるターフェルシュピツについて、書いてみようと思ったのは、その後もう一つ、幸せな出会いがあったからです。

今日のお話はその店についてです。

こちらのほうは今年の夏です。店との出会いはまったくの偶然です。犬も歩けばの類です。

その店のHPに書かれているのにしたがって紹介すれば、シューベルトの「Dreimädelhaus」の隣にあり、店の名前もそのまま 「schubert」です。

通りの名前は Schreyvogelgasse と言って、なんだかけたたましそうな場所ですが、リングから少し中に入り、閑静な場所にありますし、あまり観光客がうろうろする場所ではないので、実際静かで、まわりが官庁街なので、お客さんたちの多くもどうやらそういう人たちと見受けました。


2012/08/08撮影

ウィーンに到着したその日、夕食をどこにしようかと散歩しながら、この店にたどりつきました。

ロザーリウムがウィーン料理がいい、というので通常ならば、ヨハンの方が即座に「却下」と言うべきところを、その気になったのはやはり、春のプラフッタとの出会いがあったからです。einmal ist kein Mal 「一度で物事は語れない」― この精神です。ウィーン料理の良さをもう一度違う店で味わって見られるかもしれないと思ったのです。

そこでこのシューベルトでもターフェルシュピツを頼みました。

このときにヨハンのそれまでのイメージが本当に変わったのです。

素材を大切にした薄味で調理されて出てきたターフェルシュピツは、すでに皿に盛られ、プラフッタのように鍋に入ってはいません。

たぶんそこで初めてプラフッタのターフェルシュピツが今から思うとまだ少し味が濃い目だったと知りました。

それに比べシューベルトのターフェルシュピツは薄味のとても上品な味付けで、今までウィーンで、ウィーン料理で体験することのできなかった上質な味わいに本当に驚きました。

そこで今回は、われわれの方から O さんを誘って、彼女がどう判定するか知りたくて、もう一度11日にシューベルトを訪れました。



2012/08/11撮影

ウィーン料理のレシピを調べると、ターフェルシュピツは

リンゴをすりおろしたもの、西洋わさびのすりおろしなどをつけ合わせて食べると書いてあるのですが、O さんはこれが正式で、プラフッタではこのリンゴのすりおろしが出てこなかった、と言いました。ヨハンはもうあまりその点記憶はありません。ただ薄味に調理されたお肉とこのソースはとても合いました。

この11日はテラスではなくて、店内でいただきましたので、あまり写真をぱちぱち撮るのもはばかれましたので、写真は多くはありません。

そしてヨハンはここでならと、本当にひさしぶりにシュニツェルを注文してみました。

テレビのレポーターのように語彙豊富に説明できなくて、申し訳ありませんが、シュニツェルも抜群でした。

油でべとべとの何年か前のとはまるで別物でした。表面のころもはさくさく、中はジューシー。とてもワインと合います。

話としては前後しますが、前菜として、頼んだ Steinpilze ↓


2012/08/11撮影

きのことしては Eierschwammerl と並ぶ高級食材であることは分かっていますが、いままではシチューか何かの具材として、ステーキの添え物として食べてきたばかりで、Steinpilze そのものをこうしていただく経験は初めてでした。

ベルリンで K 先生に連れられて旬のアスパラを食べにいったとき以来の衝撃でした。

おいしい食材にはごちゃごちゃ手をかけない。日本人としてはちょうど松茸とか、旬のきのこをいただくようなそんな感じですか。

なにしろウィーンのレストランがここまで素材を大切に、薄味で調理するように大きな変化でも起こったのかと、とても気になりました。

http://restaurant-schubert.at/

ホームページを開くととても可愛らしくお店とそのまわりがイラストで描かれています。


ヨハン ( この記事は 2012/09/05 と 2012/09/09 をまとめたものです )


オーストリア皇帝フェルディナントⅠ世

2012-09-10 23:39:21 | オーストリア
オーストリア皇帝フェルディナントⅠ世 ( 在位1835-1848、ハンガリー国王としてはフェルディナントⅤ世 ) は善良帝 ( der Gütige ) と呼ばれた人でした。こうした呼称がついていることから判断すれば、あまり賢い人であったとか、権謀にたけた腹黒い人物であったとは見られていない人だったと思われます。病弱で帝位をつぐには難があると思われていましたが、メッテルニヒの差配で皇太子となり、1835年に父帝、初代オーストリア皇帝フランツⅠ世 ( この人は神聖ローマ帝国皇帝としてはフランツⅡ世でしたが、ナポレオンによって1806年に神聖ローマ帝国が解体されてしまったので、初代オーストリア皇帝となり、以後フランツⅠ世を名乗ります ) がなくなると皇帝を継ぎました。

これはめでたしめでたしというような話ではありません。皇帝なんてものは苦労ばかり多くて、楽しいことなんかな~んにもありません。決してなるものではありません。親父はフランスの田舎者に844年続いた神聖ローマ帝国をぶち壊され、歴史にその最後の皇帝として名をとどめる屈辱を味わわされているし、息子の方は息子の方で内乱、国内の騒擾、いわゆる革命 ( レヴォルツィオーン、この言葉がウィーンではいかにペストのように忌まわしいものであったか、映画三部作シシーでもため息と怒りとともに宮廷をかけめぐるシーンがでてきます ) によってついに帝位を譲るはめにまで追い詰められます。後継ぎを設けることのできなかったフェルディナントⅠ世の退位を受け、さて誰が次の皇帝の位につくのか、映画シシーの第一部では、とうぜんその役が回ってくるであろうはずであったフェルディナントⅠ世の弟フランツ・カールではなくて、その嫁ゾフィーは、フェルディナントⅠ世に輪をかけたお人好しで、政務に役立たずの夫フランツ・カールをふっ飛ばしてまだ18歳の息子フランツ・ヨーゼフに帝冠が渡るように奔走します。

フェルディナントⅠ世の心情からすれば、退位の屈辱よりも、賢い、母親の言うことをよく聞く甥っこが皇帝になってくれたことで大いにほっとしたことでしょう。幼少期病弱を心配されたわりにこの人はその後長生きをして、82歳の長寿を全うして1875年に亡くなります。ウィーン万博さえも生前見聞 ( したかどうかは別として ) 出来たのです。

まあ物事なにごともケ・セ・ラ・セ・ラ、なるようにしかならないと受け流していくのがウィーン流。
Glücklich ist, wer vergisst, was doch nicht zu ändern ist.
何のためにウィーンにはワインがあるのかと言えば、いやなことを忘れるためではありませんか。

賢い王様、皇帝、武勇伝をおじいさんが孫相手に語れるような王様、皇帝は畏怖と賛嘆の対象となりますが、こうしたケ・セ・ラ・セ・ラの皇帝にはどうしても揶揄の対象となるエピソードが造られるようです。バカにしたり、軽蔑したりしているのではなくて、愛すべき人物として親近感を感じている証しだと思われます。

いつのときの話か書かれてはいませんが、初老の皇帝フェルディナントⅠ世が、と紹介されるので、退位の年1848年に近い頃のことだったのかもしれません。50過ぎたころのことです。
あるとき皇帝は、いまだかつて狩りという楽しみを経験したことがなく、やってみたいと希望を述べられました。何しろ病弱でそんな経験からは遠い生活を送って来ていたからです。
狩りなど未経験の皇帝のことですから、もちろんそこは周りのものが準備万端手助けしなくてはなりません。御供の者たちは候補となったお狩り場に用意する失敗のない獲物の選定にとりかかります。小さすぎてはまずいし、動きが俊敏すぎても難しかろうと知恵を絞ったのです。そこで人間で言えばとっくに年金暮しをしているであろう Adler ( 鷲 ) に白羽の矢をたて、皇帝陛下の初体験の大切なパートナー役を任せることにしました。いよいよ一行は狩りの場へと出発。鷲が棲家としている谷の奥深くに分け入りました。そしてさっそく鷲を発見。いつものように、けだるそうに、お気に入りの岩の突き出した所に目を閉じて止まっています。
「陛下、あそこに見えるは鷲では?」
フェルディナントⅠ世はたいそうよろこび、そうじゃなと頷かれ、鉄砲に弾をこめさせると、狙いを定め、ば~ん! 鷲はその場から転がり落ちます。こうなると、初体験で獲物に命中したばかりか、自分には生まれてからこの方ずっと慣れ親しんできたこの巨大な神秘の鳥をしとめたことで大満足。さっそく供の者がしとめた獲物を持ってくると、幸せそうな射手の前の地面に置きました。
が、なんと、彼が耳にしたのは皇帝のがっかりした叫び声だったのです。
「ああ、これではまたやり直しだわい。しとめたのは鷲ではないではないか。こいつには頭が一つしかついとらんぞ」
( Gerhard Tötschinger: Mein Salzkammergut, AMALTHEA)

レオポルツベルク・ケーブルカー

2012-09-10 23:37:49 | ウィーン
シュテファニー展望塔のことを調べてみると、突如登場したレオポルツベルク・ケーブルカーの話。ヨハンはもともとここ最近カーレンベルク登山鉄道については興味をひかれていたのですが、それとは別にケーブルカーが存在したことは恥ずかしながら初耳でした。
そんなわけで調べてみましたのでお付き合いください。

レオポルツベルク・ケーブルカーの計画は、1873年のウィーン万博開催のアトラクションとして、カーレンベルク登山鉄道の敷設計画と同時に持ちあがりました。
谷側駅 Kahlenbergerdorf から出て、全長725メートル、山側駅 Elisabethwiese とを結ぶ計画でした。1872年6月16日に、建設ならびに30年間の営業認可がおり建設が始まりました。
完成は5月1日の万博の開始に間に合いませんでしたが、工事に野次馬がおおぜい押しかけたようです。
そして1873年7月27日完成、営業を始めました。

カーレンベルク登山鉄道の方は建設認可がおりたのも少しあとで、1872年8月10日、路線工事全体が完成し、営業にこぎつけたのは、こちらはすでにウィーン万博の後、1874年3月7日でした ( 祭りのあと、ってやつですね )。

日本が初めて万博に参加したこのウィーン万博が開催された期間は1873年5月1日から10月31日まででした。日本から海を渡ってウィーンに行った当時の使節団、随行の人々のなかにはレオポルツベルク・ケーブルカーを体験した人が必ずいたに違いないと思います。( どなたか体験談がどこかに記録されているなど知っていらっしゃる方は是非お教えください。)

当時ロープの牽引を動力として、急勾配の山を登るこうした Standseilbahn ( 空中をロープで運ばれていくロープウェイは Schwebeseilbahn と呼び、地面に敷設された線路をケーブルに引かれた車両がのぼっていくこの方式のことをこのように呼びます、どちらもロープウェイですが、日本語ではこちらはケーブルカーとなります )、ヨーロッパ域内に当時先輩としてすでにどこかに営業運転していたモデルがあるはずです。
( このケーブルカーはロープだけで牽引され、歯車は使われていません )

調べてみて、またまたヨハンはびっくり仰天してしまいました。

ロープで牽引するタイプのケーブルカー、なんとその最初のものは、例のみなさんがもしザルツブルクを訪れた場合には、まず間違いなく登るであろう Festungsbahn、これのようです。
いつ頃出来たのかと調べると、なんと1495年。15世紀です。あまりに昔過ぎて感覚がマヒしてしまいそうなので、日本の偉人を引き合いに出すと、織田信長が生まれたのが1534年です。おそるべしザルツブルクのくそ坊主。でも、これは物資を運ぶためだけの用をなしたということなので、簡便な形だったと思われます。ちなみにザルツブルクの今の形の、人を運ぶケーブルカーが完成するのは1892年です。


現在の車両もモダンなザルツブルクの Festungsbahn

ついでケーブルカーで歴史に名を残しているのは、アメリカのナイアガラ見物のケーブルカーのようで、これもはやくも1845年に出来ているようです。さすがに民主主義の国、早いなあ。
その次は、フランスです、1862年にリヨンで造られています。こちらはその後廃線となり取り壊されているということです。今は新しいケーブルカーが出来ていますが、たしかに麓からフルヴィエールの丘を登るのは容易なことではありません。ヨハンは暑い真夏汗かきかき、意地で歩いて登って行きました。

余談はさておき、やっと次に登場するのが1870年、ブダペストです。例の王宮にむかってくさり橋のたもとからあがっていく、いかにも歴史を感じさせるふるめかしいあのケーブルカー、あれが営業用としてはヨーロッパで2番目に出来たケーブルカーです。


ブダペストのケーブルカー

ハンガリーに先を越されてしまったせいか、オーストリアとしては、まだ世界に例がないとして ( ドナウ二重帝国とは言え、どうもかたわれのハンガリーに先を越されて、オーストリアとしてはくやしかったんでしょうかね、技術的に確立された乗り物とは言い難し、と好奇心と同じくらい猜疑心で工事を見守ったようです )。

それでもこのレオポルツベルク・ケーブルカー、完成するや、はやくも7月27日から11月15日 ( 万博が閉会するのは10月30日です ) までの間に30万人の客を運んだと言うことです。1日平均の利用客ざっと2700人。大人気だったことがうかがわれます。

そんなに人気があったケーブルカーがなぜ早々に姿を消す運命に見舞われたのでしょうか。
とても疑問です。

説明を読むとこのケーブルカーは Zwei-Wagentechnik で動力は勿論当時のことですから、山側駅の機械棟で石炭をたき、蒸気でタービンをまわし、ケーブルを牽引するという方式です。
ブダペストのケーブルカーと同じだと思われますが、ザルツブルクの初期の方式は動力 ( ヨハンにはわかりません、たぶん人力か、馬力でしょうか ) を別にしても単車をロープを巻き上げひっぱっていたのだろうと思います。リヨンの方もどうやって牽引していたのかヨハンには分かりません。いずれにしても、当時としてはレオポツベルク・ケーブルカーのこの方式、ケーブルの両端にワゴンがつながれ、山側、谷側同時に発車して、ちょうど行程の真ん中ですれ違うという、今ならどこにもある方式 ( 箱根強羅のケーブルカーの方式、と言えばはやいか ) でしたが、しずかに停止させるのに技術的な問題点を残していたようで、地元のウィーンっ子たちからは、早々に Zuckerlbahn と揶揄されたようです。

「砂糖のように甘い」わけではござらんよ。

Zucken は Rucken をウィーンの言葉で言ったもので、「がくっ」とつんのめる、ということです。到着するときに、せっかく着飾った紳士、淑女がワゴンのなかで「つんのめる」様は、みっともいいものではありません。

でも、御心配無用。このケーブルカー、なんと、一等、二等、三等まで分かれていました。身分のいやしい庶民に恥ずかしい姿をみられる心配はありませんでした。


黄色が一等、緑が二等です。でも一番眺めのいいのは赤の3等車のように思えます^^。悔しいから窓をなくして、寒くしたのかもしれませんな
(写真出典 Hans Peter Pawlik, Unvergessene Kahlenbergbahn, Verlag Josef Otto Slezak)


客席は全部で100席、ワゴンとしては相当立派です。料金によって3区分に分かれていましたから、つくりも当然そのぶんでかくなりました。ということで、このワゴンが工場から納品されるにあたって、谷側駅の出入り口から搬入したということで、その谷側駅の玄関ドアがやたらとでかく造られました。

この停車時にがくん、となることに加え、タービンを回すために造られた山側駅の機械棟にはでかい煙突が立っていました。これもやがてまわりの景色とあわない、とクレームがつくようになったようです ( たぶんライバル会社のカーレンベルク登山鉄道によるネガティブキャンペーンというやつでしょう )。

営業開始から2年たったかどうかという1875年にケーブル会社が抱えていた負債は 551,000 グルデンにのぼっていました。そこに追い打ちをかけるように1876年には地盤が崩落するという事態が発生し、ついに1876年4月28日の会社の総会でカーレンベルク登山鉄道への身売りが決定されました。
ライバル会社を買収したカーレンベルク登山鉄道の方は、これまた早々に邪魔者のケーブルカーの方は廃止とすることを決め、不要となった機械棟に使われていたレンガを、新たな登山鉄道のアトラクションとして建設するシュテファニー展望塔に利用したと言う次第なのです。

余談として
ケーブルカー利用客をどのように谷側駅に運んだかという話をしておきますと、ドナウ川の両岸を今鉄道がとおっていますが、ウィーンからクロスターノイブルクに向かう路線、ウィーンから見て左岸ということになる方ですが、これはフランツ・ヨーゼフ駅を始発駅としています。今ガラス張りの駅舎になっているあの駅です。当時はもちろん皇帝フランツ・ヨーゼフ鉄道線と呼ばれていましたが、現チェコのブドヴァール ( ブドヴァイス Budweis ) からグミュント Gmünd を経由して、エゲンブルク Eggenburg までの間が開通したのが1869年。翌1870年にウィーン・フランツ・ヨーゼフ駅までの路線が開通しました。

ケーブルカーお目当てのお客さんたちは、ドナウ川を船で、ケーブルカー乗り場まで出かけるか、フランツ・ヨーゼフ駅から出来たばかりの鉄道を利用して、カーレンベルガードルフ駅までいくかだったようです。
現在ÖBBの時刻表を見てもこの Kahlenbergerdorf 駅は出てきません。2004年に駅そのものも廃止となりました。現在の国鉄ヌスドルフ駅の次の駅でした。


手前の建物がフランツ・ヨーゼフ鉄道のカーレンベルガードルフ駅、駅名に「ケーブルカー駅」と記されています。そして奥の建物がケーブルカーの谷側駅。鉄道駅とそん色なく大きい理由は、ケーブルカーを搬入するときに玄関ドアを通したからと説明されています。Pawlik さんの本にはその写真もあります。その写真を見るとむかし漫才で「地下鉄はどこから入れた?」というネタで人気を博していたコンビを思い出してしまうくらい、滑稽な感じで、アップしたい気もしましたが、著作権のこともあり、自粛しました。興味の湧いた方はどうぞ Pawlik さんの本を買ってあげてください


ヨハン 2012/09/03

シュテファニー展望塔

2012-09-10 23:33:27 | ウィーン
カーレンベルクはウィーン市街はもとより、天気がよければ、はるかシュネーベルクも見渡すことが出来る場所で、ウィーンの人気の観光スポットの一つです。しかも、バス38Aを使って手軽に上がることが可能です。帰りにバスをグリンツィングで降りれば、美味しいワインが出迎えてもくれます。

また、カーレンベルクまでバスを利用しても、いったんあがってしまえば、もうそこから先に起伏はありません。次のレオポルツベルクまでの一区間くらいの距離なら歩いてみるのも気持ちいいし、整備されているので、バス道をさけて森の中を散策しても迷うことはありません。

ヨハンたちがウィーン滞在の折にいつしかカーレンベルク周辺をお気に入りのハイキングコースに入れるようになったそもそものきっかけは、バス停近くに置かれた周辺のハイキングルートを示した大きな看板でした。

レオポルツベルクまでいったら、今度は直ぐ真下に見える麓のドナウ川まで歩いて降りてみようと気持ちに誘われますし、そうなるとハイキングコースは以後どんどんバリエーションを増していきます。

路面電車Dの終点ヌスドルフから歩いてゆっくりワイン畑を眺めながら登っていったり、バス38Aも途中のコーベンツルで降りれば、そこから先今度は深い森の中をカーレンベルクめざして、いくつもあるルートを楽しむことが出来ます。どれもそれぞれその表情を持ち、いつも新しい発見にみち、飽きることがありません。

こうなってくると、それまでてっぺんからウィーン市街を見渡していただけだったカーレンベルクも、本格的に靴をはき変え、ストックを持ってでかけるウィーンの森ハイキングの場へと変身します。夜オペラとかオペレッタとか予定があるときでも、ここなら時間の都合に合わせ、早めにきりあげてホテルに戻り、シャワーでもして出なおすこともできるし。

コーベンツルからカーレンベルクを目指して歩いて行くさまざまなハイキングコースも終点ちかくで、いずれバスが走っているヘーエンシュトラーセに合流することになります。

ヌスドルフ側から上がってくると今 Modul University ( 現在ウィーンに6つある私立の大学のひとつ ) の、階下にレストランが入った建物の直ぐ真横に出て、そこがカーレンベルクのてっぺんということになるわけですが、コーベンツルから歩いていく時には、やがて終点の手前でバス道と合流するわけです。

でもせっかくここまできてあと少しとは言え今更バス道を歩きたくはないので、少し先に見えてくる陸橋を渡って、バス道をまたいでいく形で、反対側に出ていけば、そこから先はまた森の中のハイキングコースの続きとなります。

その陸橋からゴールとなるカーレンベルクの終点まで歩いて行くほぼ中間くらいのところでしょうか、森の中に写真の異様な建物が姿を現します。


21012年8月12日著者撮影

バスに乗っていても、ヌスドルフ側から歩いてきても、コーベンツルから歩いて行っても、これは森の中に建っていて、木々に覆われ、よほど建物の近くまでいかないとその姿にはほとんど気がつきません。

ヨハンたちは最初この建物をみたとき、なんだろうと思って近くまで行って「シュテファニー展望塔 Stefaniewarte」と知りました。


2012年8月12日著者撮影

でも、入口はいつ行っても閉まっていて、もちろん中に入ることができる曜日、時間は記されてあるので、読んでいたはずですが、メモしてまで行くようなことにはなりませんでした。

ところが今回通りかかった時に、たまたまその曜日と時間が合ったんでしょう。入口があいているし、塔のてっぺんには人もいます。

この塔の存在に気づいて3年越しに、ようやく登ってみることがかなったという次第です。

入口では一人女性が申し訳なさそうに入場料を受け取っていました ( 大人一人1オイロ )。

地元の「デープリング自然友の会 Naturfreunde Ortsgruppe Döbling」の人々がボランティアで建物を維持管理しているのです。

それで曜日とか時間が制約されていたわけです。

入場料を払うと、出来てから125年を迎えるこの展望塔について記された雑誌の記事をまるまる切り抜いたページを一枚下さいました。

名前に Stefanie がついているのは、出来た年代からしても フランツ・ヨーゼフⅠ世の息子の、例のマイヤーリンクで情死した皇太子ルードルフの妃としてベルギーから嫁いできたシュテファニーしか考えられないので、その辺のことが書いてあるのだろうかと、展望塔に上がりながらさっそく頂いたその記事に目を通してみました。

「すでに1887年4月8日に新聞はシュテファニー展望塔の建設開始を報じている: 『カーレンベルクを訪れる人々は今年はさまざまな新趣向、改良に驚くことになるだろう。この山の最高地点に、建築家ヘルマー Helmer とフェルナー Fellner の設計による高さ20メートルのレンガ造りの物見の塔が出来上がる。建設は昨日から始まった・・・』
それから7週間後にもう建設は完成し、竣工式は5月29日と予定された。皇帝陛下はこの物見の塔を以後《皇太子妃シュテファニー展望塔》と名乗ることを許可した。竣工式そのものに関して、あるいはこの建物そのものについて報じた記事はこれ以上はみあたらない。《ウィーン一般新聞》が竣工式前夜に短く次のように報じているのみである。
『カーレンベルク山頂の皇太子妃展望塔。竣工式は聖霊降臨の祝日。他に類をみないまわりの眺望。Hoch- und Deutschmeister の軍楽演奏。電気による照明』
それから一月ほど後新聞は訪れる人々の賑わいぶりを伝えている: 『シュテファニー展望塔という新たに出来た物見の塔は得も言われぬ美しいパノラマを眺望できる最高の場所であるため、雨の日でさえも大勢のハイカーたちがひきもきらず押しかけている』
当時たくさん出された絵葉書に書かれたシュテファニー塔からの眺望についての記述を取り出してみると: 『カーレンベルク山頂にたつシュテファニー展望塔からの眺めは、周囲約2万平方キロを完全に眼下におさめ、その範囲は直轄地ニーダーエーステライヒから、遠くシュタイアーマルク、ハンガリー、そしてモラビアにまで及ぶ』
最後にシュテファニー展望塔についてウィキペディアの記事を引用しておこう: 『シュテファニー展望塔は1887年にウィーンのカーレンベルク山頂につくられた物見の塔である。この物見の塔は1887年カーレンベルク鉄道会社がそれまでの終点を路線延長して奥にずらした際に造られたもので、皇太子ルードルフ妃、大公妃シュテファニーの名をいただくものとなった。設計はフェルナー&ヘルマー事務所。建設にあたって一部1876年に廃止となったレオポルツベルク・ケーブルカーの機械棟に使われていたレンガが再利用された。高さ22メートルのこの四角い塔は土台部分の面積がおよそ35㎡。展望プラットホームはおよそ60㎡あり、木製の柵で囲われている。入場客が殺到することにそなえ階段室は二カ所に分かれて造られており、それぞれ125段、片方は登り、もう片方は下り専用となっている。現在一般公開されているのはそのうちの片方の階段室である。1992年に階段バルコニー部分にガラスを使った改良がなされた。この展望塔はデープリング自然友の会によって管理されている』

一般公開されているのは5月初旬から10月末までの、土曜13時から18時、日曜、祝日は10時から18時の間です。

現在一般に大勢の観光客が訪れる展望所は、カーレンベルク・バス停から少し歩いたドナウ川が展望できる Modul University 脇ということになりますが、このシュテファニー展望塔はカーレンベルクの最高地点にたてられたもので、下からはその姿を見つけるのは容易ではないものの、たしかに実際登ってみると、そこには360度の展望が広がっています。Modul University 側からだと北側をこの小高い森によって視界が遮られてしまいますが、この塔からはクロスターノイベルクは勿論、はるかチェコ ( 建設当時 Mähren と呼ばれていた帝国領で、今のモラビア地方 ) までもが見渡せるところが大きな違いでしょうか。おそらく当時も今もこれだけ周囲を展望できる場所はウィーン随一だと思われます。


(写真出典 Hans Peter Pawlik, Unvergessene Kahlenbergbahn, Verlag Josef Otto Slezak)

この展望塔はカーレンベルク登山鉄道会社のアトラクションとしてつくられ、こような会社ポスターはもちろん、カーレンベルクのどの絵はがきにも必ず描かれた人気のスポットでした。登山鉄道そのものがなくなってしまった今は、シュテファニー展望台は当時のおもかげをしのぶことができる数少ない歴史遺産となりました。名前のもととなったシュテファニーと皇太子ルードルフの婚約が決まったのは1880年、ウィーン宮廷になじめなかった自らの妻シシーに手を焼いていたフランツ・ヨーゼフは言うまでもなく、シュテファニーは国民の多くから祝福され、便乗と言えば便乗ですが、多くの建物にルードルフ、シュテファニーの名がつけられました。そうした祝福ムードいっぱいのなか翌年ふたりは結婚しますが、このシュテファニー展望塔が完成した2年後にルードルフはシュテファニーを置き去りにしてマイアーリンクで情死。放浪の日々にあけくれたシシーもそれから10年もたたない1898年にジュネーブで無政府主義者に殺されてしまいます。

入り口で訪れる人を出迎えていた女性に、カーレンベルク登山鉄道の駅はどこにあったのですか、と尋ねると、「さあ、わかりません」との答え。登山鉄道そのものは1873年のウィーン万博が契機で建設されたもので ( 完成は翌年の5月にずれこんでしまいました )、1923年5月には完全廃止となり、それから90年近くの月日を経て今はどこをどのように走っていたのだろうと、草に覆われた線路の跡地をたどるのももうひと苦労の世界です。*

シュテファニー展望塔をながめると、なんとなく芭蕉の句が頭をかすめます

「夏草や つわものどもが 夢のあと」




シュテファニー展望塔の興味深い点は娯楽目的で建設されたことです。

以前このブログで書きましたが、登山鉄道建設も純粋に娯楽目的から推進されました。シュネーベルクも、シャーフベルクもすでに19世紀の間、鉄道建設のまだ黎明期といってよい時期に、巨額の費用と、技術的な困難を克服しつつ、そうした娯楽目的の登山鉄道を建設したエネルギーには驚嘆を禁じ得ません。

シュテファニー展望塔のような Warte は、実際今回調べてみると実にたくさん、ウィーンのみならず、オーストリアの各地にたてられたことが分かります。

ヨハンが以前、実際にも登ったのは2002年、もう10年も前のことになりますが、 Bad Vöslau の Jubiläumswarte 「皇帝在位50周年記念展望塔」でした。これはフランツ・ヨーゼフ在位50年を祝賀して、資金を寄付により集めて、1898年に建てられたものです。ウィーンを発車した列車がバーデンをすぎたあたりから進行方向に向かって右に見えてきます。標高466m の ハルツベルク Harzberg 山頂にこの塔が見えてくるとバート・ヴェースラウだな、といつも目印にしています。


バート・ヴェースラウの「皇帝在位50周年記念展望塔」


展望塔の入り口、記憶の限り、入場料を払ったようには思いません。入口はごらんのように開いていました。


展望塔からの眺め
2002年8月5日撮影

ところで、シュテファニー展望塔に戻れば、現在直ぐ近くには立派な電波塔がたっています。こちらはウィーンの市街からよく見えます。当然地形的な利点から言えばカーレンベルク山頂に電波塔が建てられたことの方が自然です。

ヨハンはそうした先入観からでしょうね、塔には何らかの軍事的な意味、実用的な目的があったのではないかと、単純に思いこんでいましたが、今回調べてみて、当初の建設目的がまったくそうではなかったことにむしろ驚いたくらいです。
それでも、やはりシュテファニー展望塔は、第一時世界大戦の勃発により1915年に軍により接収されています。カーレンベルク登山鉄道は大戦を生き延び、しばらく存続しましたが、こちらは戦後の燃料不足など諸般の事情から上下線あった路線が単線となり、やがて、1923年5月16日をもって廃線となっています。

ウィキペディアの方には、その後のシュテファニー展望塔がたどった歴史についての記述もみられますので、それを紹介しておきます。

今日わたしたちが目にしている電波塔が出来たのは1974年です。カーレンベルク登山鉄道が廃線となったことで会社所有の土地がウィーン市に渡り、そこに電波塔が建設されたという流れです。
すでに1898年2月から4月にかけてに海軍がシュテファニー展望塔から市街のフォーティフ教会南塔との間で無線による送信実験を行ったことがあり、これがオーストリア最初の無線通信となりました。( マルコニーが無線通信の実験に成功したのは1895年でした。日本では1897年に成功しているようですから、これは負けてる^^ )
戦後は1953年からこの塔を使ってORFのラジオ放送の送信を始めましたが、1956年10月10日にシュテファニー展望塔わきに129mの送信電波塔が完成し、シュテファニー展望塔は完全にその役目を終えます。現在の電波塔は高さ165mあり、1974年に完成しました。


(写真出典はウィキペディア)



* 今回カーレンベルク登山鉄道について調べていると YouTube にカーレンベルクから麓のヌスドルフまでの全線の跡地をビデオ撮影したものが up されていました。ウィーンの人なんでしょうかね。オーストリアには鉄道マニアが多い。


ヨハン ( この記事は 2012/08/31 と 2012/09/01 をまとめたものです)




オーストリア国鉄格安切符最新事情

2012-09-10 18:52:30 | ウィーン
8月10日、金曜日

前日に続いてこの日もバーデンの Sommerarena でオペレッタ公演観劇。
演目は日本人にも馴染みのカールマーンの 《Gräfin Mariza》。

チケットは日本からネット予約してあり、すでに前日ライムントの 《Der Bauer als Millionär》( これはオペレッタというよりは歌がおりまれたライムントの芝居で、全編ウィーンの言葉で進行していくため、わたしたちには理解するのはとても難しい作品でした ) を観劇するために訪れたときに今回オーストリア滞在中にこの劇場で観劇予定のもうあとひと公演の出し物を含め、すべて入手済みになっていました。

Sommerarena での公演は一部のマチネをのぞきすべて19時半の開演。

チケットは予約してあっても、手に入れるためには開演の一時間前までに窓口に出向かなくてはなりません。そのため前日はウィーンから早めにバーデン入りして3公演分のチケットを受け取っておきました。

そんなわけで二日目のこの日は、チケットを持っていたので開演時間ぎりぎりに出かけても問題ありません。

8月8日に成田を発ち、ウィーンに到着して以来、天気は絶好調。むしろ日本以上に気温が高いくらい、日差しもきつい日々が続いていました。
せっかくのいい天気、こんなときはやはり山に行きたくなります。

ヨハンとロザーリウム、わたしたち二人のお気に入りのラックス、本当は翌11日が土曜日でバーデンのオペレッタ観劇の予定もなく全日あけてありましたから、11日に出かける予定にしてありましたが、

10日はいずれにしてもバーデンに出かける予定だし、それも19時半までにつけばよいので、急きょ、予定を変えて、午前、ウィーンからラックスに直行、これまたわたしたちには定番のお気に入りの山小屋 Ottohaus までハイキングして、そこでお昼をしながら、のんびり、まったりして、帰りの電車をバーデンで途中下車して、オペレッタを観て、ウィーンに戻れば完璧じゃん。翌日はまた別のことに全日振り向けられるし。・・・このようにヨハンとロザーリウムは考えた次第です。

問題は鉄道のきっぷ。

発地となるウィーンは問題ありません。帰りの方です。近距離区間なので、もちろん前日は行きも帰りも自動券売機できっぷを買って乗りました。

ヨハンの勘違いなのかなあ。

自動券売機でも以前は往復できっぷを買えたように思います。今回、タッチパネルにあるいろいろな選択ボタンに「往復」という項目が見当たりません(でした)。←ヨハンの勘違いか?

でも、そうそうに後ろに人は並ぶし。

ちなみに、なぜか自動券売機がほかにもあるのに、ヨハンが操作しているとすぐに後ろに人が並ぶ気がします。
「ほかにもあいている機械があるだろうに、うしろに並ぶなよ!」 とヨハンの心の声。

大昔、やはりウィーンの南駅で、当時はまだ公衆電話の時代、ヨハンが電話していると、ほかにも電話器はあるのに、うしろに人に並ばれ、早く代われとばかりに舌打ちされた記憶がトラウマのように残っているのでございます。

パリでも自動券売機できっぷを買っていると、ほかにいくらでもあいている券売機があるのに後ろに人に並ばれたことがありました。
きちんと使える機械、電話かどうかよくわからないのがかの地の実情なので、誰かが実際に使っているものの後ろに並べば、使えることが確実だから、というのが目下ヨハン、ロザーリウムが出している善意の推測です( それにしては後ろで舌打ちするのは心なき仕業かな )。

往復できっぷを手に入れておきたい理由は、帰りのきっぷの心配です。

地方に行くと夜遅くになった時の駅では無人になるのがほとんど。帰りのきっぷは否も応もなく、券売機で買うしかありません。
いつ頃からかオーストリアのこうした無人駅にも券売機が完備されました。それ以前は窓口が閉まれば、きっぷを買わずに乗っても乗客のせいではないので、車内で車掌さんから普通にきっぷを買えました。
ところがあるとき、よく乗る区間なので、車内で車掌さんから買ったきっぷの値段が少し高いと感じた時があって、あとで同じ区間の使用済みきっぷの値段と比べてみて、無券乗車の車内精算は高くつくことを知ったのです(乗車駅に券売機が完備されて以降のことだと思います)。

なんだかけちくさいお話に聞こえて面目ありません。金額のことより、ごまかす気がない乗客としてはなんとなく「罰金」を課された感じは心持がよくなくなること、と、もうひとつ、行きと違って、帰りは、駅に着いたときに直ぐにも電車の到着が迫っていたりすることがあり、そんなときは、やはりきっぷを持っているにこしたことはないからです。

バーデンの駅には有人の窓口がありますが、さすがにオペレッタの終了するような午後10時半を過ぎた時間まではあいていません。それでも、上りのウィーンに向かう電車の本数もこの時間帯は少なくなり、たいていは30分以上駅で電車を待たなくてはなりませんので、券売機できっぷを買う時間的ゆとりはおつりがくるほどあるのでございます。前日の9日はそのようにしてバーデンの券売機で帰りのきっぷを買ってウィーンに戻りました。

ラックスにでかけることにした10日は、帰りの最寄りの駅は Payerbach=Reichenau 駅です。ここも無人駅ではないし、このあとバーデンで下車してオペレッタ観劇しようという予定なので、時間的にも窓口が閉まるような時間にはならないだろうと思いましたが、

8日にウィーンに到着して以来、ヨハンたちは再三再四、鉄道の駅で、あるいは地下鉄の駅で、ふたつの路線が夏の線路補修で不通、代行バスを利用しなさいとのアナウンスを耳にしていました。
ひとつは、地下鉄の1号線、Schwedenplatz-Reumannplatz 間。そしてもう一つは国鉄 ÖBB の Gloggnitz-Payerbach=Reichenau 間です(こちらはドル箱の特急だけは補修中であっても直通で走らせています)。

と、いろんなことがぐるぐると朝あたまをかけめぐり、パイエルバハまで出かけるには、いずれにしても南駅がなくなってしまった今、特急の発駅になっている Meidling まで行って、時間と相談しながら都合のいい列車に乗ることにしよう、これが第1の結論、そして、どうせその駅から乗るのであれば、大きな駅で窓口もあるので、その後1日きっぷ購入の面倒から解放される往復券を買おう、これが第2の結論でした。

マイトリングの窓口にて


ヨハン 「今日これからパイエルバハに出かけて、帰りはバーデンでいったん下車して、またその後バーデンから乗車してウィーンに戻りたいと思っています。二人分の往復切符が欲しいのですが、ウィーンからパイエルバハまでの往復切符は途中下車してもその後使えますか?」

窓口 「出来ますよ」


シャカシャカシャカ (窓口の人がコンピューターに入力して、きっぷがプリントアウトされてくる音)

良かった~♪ これできっぷの心配はなくなった。

さてと、次は、
この時間に乗ることのできる電車。何番ホームかな?



今回のお話のメインはここからスタートです
せっかく特急の発駅マイトリンクまで来ているのだし、特急があればそれに乗ろうか。

今までラックスやゼメリング、シュネーベルクに出かけるときには、ゼメリングに宿を取ったり、パイエルバハに宿をとったことも、また、バーデンに宿をとり行動の拠点にしたこともありました。
でも、いくたの経験から、ウィーンから直接出かけても、朝少し早目の特急に乗れば、現地に泊まっているときとほとんど時間的に目的地の山に着くのに変わりがないことが分かってきました。( ゼメリングは特急の停車駅ではありませんが、午前中たしか一本だけ特急が停まります )

特急よりかなり早い時間に出る急行 ( Regionalzug というのは、S-Bahn が本当に各駅停車なのに対して、特急よりは停車駅は多いけれど、急行なみに駅を飛ばしていきます ) でも、結局 Wiener Neustadt 駅であとから来る特急を待ち合わせることになります。
逆に言えば、あとから出る特急はその急行にノイシュタット駅で追いつき、乗り換えが可能なのです。そのことに気がついてからというものは、ヨハンたちは荷物を持って移動しなくても済むし、ウィーンに宿をとったまま、南駅から ( まだ南駅が現存していた数年前までの話ですが ) 特急に乗り、ノイシュタットで、シュネーベルクに行くにしても、ゼメリングに行くにしても、あるいはまたラックスに行くときでも、急行に乗り換え、山に行くようになったのです。当時、と言ってもまだほんの二、三年前の話です。その頃の特急にはヨハンたちと同じように天気の良い日には登山をしようという人が結構乗っていました。みなさん一駅特急に乗り、次のノイシュタットで急行に乗り換えたのです。

で、この日も、すぐに出る特急があることが分かりました。

ただ、きっぷです。きっぷ。

オーストリア ( スイスも!! ) では、特急だからといって特別な料金は発生しません。乗って行く区間が同じなのに、各駅停車と特急で値段が違う方がおかしい。以前ウィーンからリーリエンフェルトに行くときに、オーストリアに乗り入れているドイツの ICE にだって普通乗車券だけで途中の乗り換え駅まで乗ったもんだし。

でも、今回手にしているこのきっぷ

さっき窓口で買ったときに、「ずいぶん安いなあ」とヨハンは感じていました。「これは何かあるかもしれない」

ちなみに、そのときの感覚は直感で、それを確かめるための比べる手立てがありませんでしたが、今ネットでウィーン-パイエルバハ間のきっぷの値段を確かめてみると、片道一人2等で、15.10オイロです。
ヨハンが手にしていたきっぷは、二人分の往復きっぷで、32オイロ
単純に普通に買う時の半額の値段です
けっしてヨハンが窓口のおねえさんに格安のきっぷを下さいと頼んで買ったものではありません。

告げたこちらの希望は、往復券で途中下車が可能であること、それだけでした。
このヨハンたちがもらったきっぷ、タイトルが書かれています。

Einfach-Raus-Ticket



拡大



オーストリアの鉄道は JR ほど完全民営化はされていないので呼称もいまだに ÖBB のままです。ヨハンは国鉄と呼びましたが正式にはオーストリア連邦鉄道。でも、今は事業として民営化並みの努力が求められているのか、さまざまな企業努力をしているようです。ホームページを見れば、実に各種の格安きっぷを出しており、なにがどうなのか、ちょっと目には把握できないほど複雑怪奇です。

現地に住んで生活している人にとっては大切な情報かもしれませんけど、一時的に旅行者として訪れる者にとっては、それらを詳しく事前に調べてきっぷを買うなんてことは、無駄と言ってしまえば、無駄な労力と思われます。時間の方が貴重だからです。

で、手にしたこのきっぷ。 Einfach-Raus-Ticket

普通これまでの常識からすると、ドイツ語できっぷを買う時に „einfach“ と言えば、「片道」という意味でした。
ここではその意味でないことは間違いありません。こっちの希望をしっかり伝えた上で買っているわけですから。
次の „raus“ 、どこかに「出ていく」という意味です。
よく見ると、このきっぷ、目的地が書いてありません。いやそれどころか発駅も書いてないわい ( 印字されているのは発券された駅名です )。
„einfach raus“ とは要するに、このきっぷで、気軽に好きな駅から、希望の目的地に自由にお出かけなさい、というコンセプトらしいと思われます。

書かれている条件を訳すと

「買った日、月曜から金曜までの間は朝9時以降の乗車と条件がつき、土日については午前0時から有効で、きっぷが失効するのは、曜日に関係なく翌日の午前3時、国鉄全線と Raaberbahn について有効」


そのときヨハンは Raaberbahn に関しては、おぼろに、確かノイシュタットからハンガリーのショプロンに行ったときに乗り換えた鉄道のことだったと記憶していました ( あらためてホームページで確かめると、かなりハンガリーの広範囲に路線が展開しています )。

ウ~む、たしかにこれが本当なら実に格安切符だ。

翌日の午前3時にウィーンに戻ってきていればいいわけだから、二人の大人がわずか32オイロでオーストリアのかなり端っこまで乗っていけるぞ! と思ったものです。 ( ただ午前3時まで走っている電車があればの話だけど )

特急が待つホームに向かいつつ、ヨハンはなんどもこのきっぷに書かれた条件を読みました。R- und REX-Züge bzw S-Bahn という条件のところです。

「ひょっとして特急は制限されているのかもしれない」

大体こういう勘が働くときには、悪い方に結論を持っていく方が無難です。

ホームに行くまでのみじかな時間と、ホームに着いてすでに発車を待っている特急を目にして、なお、あたりに通常はいるその列車の車掌さんの姿を探しつつ、「このきっぷで特急に乗れるのかなあ」と心配になりました。
「でもなあ、オーストリアじゃあ、ドイツで Zuschlag と言われるような特別料金はこれまでなかったわけだし」
心の中で繰り返していました。「 R と S が特急でないことははっきりしています。でも REX は地方を走っている立派な「特急」なわけだし。」

大体こういう勘が働くときには、悪い方に結論を持っていっておいた方が無難です。

車掌さんの姿は見当たりませんでしたが、わたしたちのように登山用ストックを持った、さも登山をよくしていそうなおじさんの姿に目がとまりました。

「この人に聞いてみよう。よく登山している人なら、このきっぷのことも知っているだろう」


ヨハン 「窓口でこのきっぷを買いましたが、これでノイシュタットまで特急に乗ってかまいませんか?」

おじさん 「ああ、大丈夫だよ」


ヨハンの迷いはそのおじさんの一言でとりあえず消えてしまったのです。

でも、いやな勘が働くときには、やはり、悪い方に結論を持っていく方が無難でした。

しかし、特急に乗らないで、急行にすると目的地に着く時間にはかなりの差ができます。
結局、欲目が判断を曇らせたとしか言いようはありません。

あわれ、ヨハンとロザーリウムは、特急に乗りこみました。

ちなみにまた脱線すると、Railjet と呼ばれるオーストリアの最新特急、快適この上なく、ヨハンは3年前ザルツブルクからウィーンに帰るときに乗りました。当時最新だったと思います。今年はウィーンからグラーツ、フィラハ方面に向かうほぼ全ての列車もこの railjet に変わっていました。車内はもちろん空調されています。3年前は一等車だったせいもあるし、乗ると新聞は無料で配られるし、確か何かスナックのようなものも貰った記憶があります。

いつもだったらノイシュタットまでは立っていかなければならないこの時間帯の特急にしては、座席には余裕があり、乗り換え駅のヴィーナー・ノイシュタットまでノンストップ、一駅だけの乗車でしたが、ゆったり腰をおろし、やれやれ、空調の利いた涼しい車内で、一息ついて、検札に備えて、きっぷをあらためて眺めていました。

そのとき、わたしたちの後ろの座席にすわっていた私たちよりお若いご夫婦連れの奥さんの方が、ヨハンに声をかけてきました。


奥さん 「もしもし、あなたが持っていらっしゃるきっぷではこの特急には乗ることができませんよ。」


よく後ろの座席からヨハンの持っているきっぷに書かれた文字が読めたものだと今でも感心します。


奥さん 「以前わたしたちもそのきっぷを買って ( 買わされて、と言ったのかもしれません )、電車に乗ったら、検札で不正乗車を指摘され、その場で、別途正規のきっぷを買わされました」


こうなって初めて欲望で少し曇っていたヨハンの目がすーーーっと蔽いが取れるように、いっきに晴れていきました。「やっぱし!!」

ちょうどそのとき、車内販売のお兄さんが車内を歩いていましたので、とりあえず彼に声をかけてみました。


お兄さん 「ああ、これではこの特急には乗れませんよ。車掌に話してあげるから待っていてください」


こう言う時、話してなんとかなるものなのか、というと、実はたいていの場合は「話してもルールはルール、なんともならない」世界です。


戻って来た車内販売のお兄さん 「おかしいなあ、いつも座っている車掌席に車掌がいない」


こう言うケースでは
相手から不正乗車を先に指摘されたら、先ず100%言い逃れはききません。わずかな希望の可能性として、こちらから先に事情を話すこと。それに唯一の見込みが存在します。

そこでヨハンは一等車両と二等車両の連結部分に設けられた車掌席にこちらから出向き、railjet が猛スピードで次の停車駅にどんどん近付くなか、いつもは麗々しく座っているはずの車掌さんが戻ってくるのを待ちました。

しばらくしてようやく車掌さんが戻ってきました。


ヨハン 「かくかくしかじかで、マイトリング駅の窓口でこのきっぷを買わされた ( つたないドイツ語なので「買った」と言ったに違いありませんが、気持ちは「買わされた」なのです ) こと、パイエルバッハに行くつもりであること。駅で人に確かめたら「乗れるよ」と言われたので、間違ってこの特急に乗ってしまったこと。後ろの席の人からこれには乗れないことを指摘され今はじめて気がついたこと。もともと次のノイシュタットで乗り換えのために降りるつもであること」を説明しました。

車掌さん 「本当は別途にきっぷを買わなくてはいけないケースだけど、今回は見逃してやろう」 なんて上から目線の言葉ではありませんでしたが、とにもかくにも車掌さんは見逃してくれました。


許していただけました~♪。

後ろの御夫婦がヨハンのきっぷに気がついてくれたおかげでした。

でも、オーストリア人 ( と、かってにヨハンは思っているだけですが、ひょっとしてドイツ人夫婦だったかもしれません ) で、そうそうきっぷを買い間違えることはないだろうと思われるような人たちでさえ、このきっぷで苦い思いをしたと言うのですから、分かりにくいきっぷであったことはまちがいありません。
今の ÖBB の格安きっぷの複雑なシステムは、よくよく窓口で確かめないといけないぞ、と思い、今回このことを記事にしました。



railjet はダイヤなどには略称として rj と記されます。
他方、R は Regionalzug の略ですから、rj の r とは関係のない略号です。

そんなことは今から思えば分かっているし、なんであのとき目が曇っちゃったのかなあ。言い訳すれば REX だな。Regionalexpress だし。これで「特急」もいいかもしれない、と思ってしまったわけです。

最後に、ÖBB の名誉のために申し添えておくと、
格安きっぷを種類多く出しているのは、なんとか人々にガソリンを使う車を止めさせ、鉄道にお客を呼び込もうという考えからでてきたものです。


☆ ☆ ☆


昨日 (9月8日) の毎日新聞夕刊のコラム記事にウィーン交通機関の年間定期券のことが出ていました。

コンセプトはガソリンを使う車をやめて、公共交通を利用しましょう、ということでしたが、1年使える定期券が、そのためにもウィーンではとても割安に設定されているとして、その値段が紹介されていました。

1年間で 365 ユーロ

また、それに対して無券乗車には 100 ユーロの罰金が科せられる、という内容でした。

1日1ユーロということですね。ほぼ1日100円でウィーン市内の公共交通は乗り放題。

これさえ持っていれば、日本のように、都営だ、営団だ、JRだ、やれ小田急だって、いちいちきっぷをそのつど買わされなくても済むんです!!!

エコロジーとは国民の意識の問題です。

おかけで、オーストリアの電車は大昔ヨハンが一年いたときとくらべ、みんながよく利用するようになりました。

ヨハンもさきほど、ネットで検索してみました

いろいろみなさんがブログでウィーンの年間定期のことも書いていらっしゃるのが分かりました。

そして最終的にウィーン交通局のHPで確認しました。

現在、年間定期は(支払方法や、シニアなどにより、金額が異なりますが)、普通のケースとして、ゾーン100(郊外を含まない市内全域、全交通機関)で、365ユーロと確認しました。


ちなみに、昨年記事をアップしていらっしゃった方は年間定期が 449ユーロで、これは使用開始日から一年間有効と書いていらっしゃいました。

Wiener Linien のホームページで現在の状況を確認すると
値段が今書きましたように、とても大幅に値下げされていることのほかに

月初めからの使用で、1年後の月末までの有効

と書いてあります

値下げととともにこの点は変更になったのかも知れません。

これは、写真を添付されますから、他人が使うことはできません

ちなみに、月定期券の方は、今確認してみると、
45ユーロで、月初めの開始で月末(+続く2日目の24:00までと書いてありました)までの有効、写真は添付されず、誰が使ってもかまいません

夏や、年末、春に長期に休みをとる人、とくに外国からの留学生などには、微妙なところですが、年間8か月しかウィーンにいなければ Monatskarte、年間9カ月をこえれば Jahreskarte ということでしょうか。

ヨハンたちはせいぜい週単位の訪問ですから、いつも 8-Tagekarte を買っています。 
今、このタイトルは 8-Tage-Klimakarte となっています。Klimakarte というのは、車をやめてクリーンな公共交通を利用しましょうということです。
Wochenkarte が月曜使用開始で日曜まで、にたいして、この8-Tagekarte は利用する日の乗車前にパンチして使います。
どこかウィーンを離れても、戻ってきたときにまた残りの券を使うことができますし、ふたりで使用するときは、2日分をパンチして乗ればいいので、便利です。

で、前年使い残しても、今年も残りを使うことができます。有効期限は書いてありません。

空港からバスでウィーンに入る時に、ここ何年かはヨハンたちは Schottentor の Regina に泊まっています。朝、外で食事ができるし、何しろ部屋が広いのでお気に入りにしているのです。ただ、空港バスだと少しトラムに乗り換えないといけません。そのため着いたその日からウィーンの切符を持っていた方が、スムースに移動出来るので、あえて使い切らずに帰ってきます。

今回も日程から考えて、新しい 8-Tagekarte を買っておいた方がよい、とロザーリウムは考え、Tabak-Trafik で新しいのを買いました。

前回 ( 今年の春の残りだったかもしれません ) の券は 28.80 ユーロでした。
今回買ったものは 33.80 ユーロです。
この券に関しては、買う度に値上がりしているような気がします。

ロザーリウムが Tabak-Trafik のおじさんに「この券は有効期限はないの? 来年でも使えるの?」
と確認の意味で尋ねたら、そのおやじ、何と答えたと思いますか?

「今の政府が続いていたらね」

だってさ。

外国人観光客相手だろうが、もちろん簡単な内容ですが、政治ジョークを飛ばす彼ら

ユーロ危機がずいぶん騒がれた今年ですが、ウィーンの人は何も心配していませんよ

そのためにワインがあるわけじゃないですか

世の中 ケ・セ・ラ・セ・ラ


☆ ☆ ☆



ところでこの記事を書いたあとで、 今回の旅行で集めてきた資料のなかから、 Einfach-Raus-Ticket についての詳しい案内パンフレットが出てまいりました。マイトリング駅で切符を買ったときに一緒にもらった記憶はなかったので、ロザーリウムに確認すると、特急をW・ノイシュタット駅で下車した際、乗り継ぎの急行まで時間があったし、その列車はグログニツから先代行バスになるらしいので、確認のためにふたりは日本で言うグリーンの窓口に出かけました。そのとき棚にいろいろおいてあったパンフレットからロザーリウムがもらってきたものだと分かりました。



今、ざっと目を通してみて、これはもう一度このきっぷについて書かないと、とんでもない誤解をみなさまに生み出しかねないと心配になりましたので続きを書きます。

料金
これは定額で32オイロです

前に書きましたように、わたしたちが マイトリング駅の出札窓口で述べた希望はたまたまこのきっぷに要する条件を全てみたすことになったので、窓口のお姉さんがこれを売ってくれたのだとわかりました。

その条件の第1番に挙げてあるのは、人数です。
わたしたちは、ヨハンとロザーリウムの二人でウィーン、パイエルバハを往復するという条件でした。
ヨハンはこのきっぷの料金はその人数(2人)と関係しているものと思い込んでいました。3人だったらまた別の料金のきっぷになったのだろうと思っていたのです。

ところが今パンフレットを読んで、本当に仰天しました。

〇 2人~5人までのグループで旅行すること (年齢は関係ありません)

このきっぷは私たちのように2人で乗っても、家族、あるいは友達同士の5人で乗っても料金定額で32オイロです。

またまたケチくさいお話で面目ありませんが、あの日5人のグループでパイエルバッハを往復してもやはり32オイロだったことになります。

おどろけ~♪

正規にきっぷを買っていれば5人で10.5×2×5で105オイロするところが32オイロで済んでしまうということになるわけです。ただしもちろんグループ券ですから、つねに一緒に乗車することが必要です。


乗れる列車
これはヨハンの前回の記事のメインでしたから、再度強調しておけば、特急の類、ダイヤで rj、IC、EC と記されたものには使えません。たまに E というのもあります。これも利用不可の列車だということになります。
使えるのは、R か、S か、REX かです。

自転車を持ち込む人たちの場合は別種のきっぷになり、39オイロとなります。
他の条件は全く同じです

ÖBB によるこのきっぷの利用モデルケース
以下、ウィーン発着の時刻とともに各地への旅行モデルが何ページにもわたって示されています。

特典
ウィーン西駅発のケースでは、Melk で船に乗って対岸の Krems にわたる人気のコースが取り上げられています。




そして、
「この Einfach-Raus-Ticket を乗船券売り場で提示すれば、各自が15パーセントの料金割引を受けられます」と記されています。

パンフレットには、このほか割引特典が受けられるさまざまな Museum が挙げてあります。

ヨハンがこのパンフレットで仰天したのは
前回の記事に書いたラックスに関してもモデルケースとして取り上げられていて、こう書いてあるのです

「Einfach-Raus-Ticket を使って 8時30分、9時30分、10時30分、11時30分にパイエルバハ駅に到着する列車を利用した場合はこのきっぷを提示するとラックス・ロープウェイの谷側駅まで無料のタクシー・シャトルサービスが受けられます」 ( もちろん帰りも同じです )
ちなみにパイエルバハ駅からロープウェイ駅までのバス便は本数が限られていてヨハンたちはいつも列車との接続に苦労します。今年のことで書いておきますと、バス料金は片道二人で3.8オイロでした。往復で7.8オイロしたことになります。
また、ロープウェイそのものも ( 必ず往復チケットを利用することが条件ですが )、窓口で Einfach-Raus-Ticket を提示すれば、20パーセントの割引が受けられます。
ちなみにヨハンたちが今回ロープウェイ往復で支払った2人分の往復料金は40.8オイロでした。
2割引だと32.64オイロになったというです

夢のようなきっぷじゃありませんか

パンフレットの表紙に
Wien, Niederösterreich, Burgenland と記されていますから、書いてない地域では使えないものと理解します。ウィーンを起点としたオーストリア国内、ウィーン市内、ニーダーエスタライヒ州内、ブルゲンラント州内の鉄道路線で有効ということです。

2012年の7月2日がこのきっぷが販売開始となった日のようです

めまぐるしくいろいろなことが変わりますから、来年の夏にもまだこのきっぷが利用可能となっているかどうか分かりません。
今年、これからウィーンに、特にご家族でお出かけになられるご予定の方はぜひ参考にしてください

パンフレットをあらめて参考にした結果、ヨハンはこのきっぷの命名をこのように改めます

「ウィーン周辺ゆったり旅、国鉄一日フリー・グループ乗車券」

ロザーリウムに聞いたら、JRの「青春18キップ」と似ているようです。日本のことを参考にしたのかもしれませんね。


ヨハン ( 2012/08/28、29 と 09/09 の記事をまとめました)