ウィーンわが夢の街

ウィーンに魅せられてはや30年、ウィーンとその周辺のこと、あれこれを気ままに綴ってまいります

ゼメリングのハイキングコース (2) 歴史的建造物をめぐるルート

2010-03-27 11:17:16 | ウィーン
― パスヘーエ周辺

<ゼメリング街道建設記念碑>
ニーダーエスタライヒとシュタイアーマルクの州境で、またゼメリング街道の最高地点でもある、標高984mに拓かれた峠パスヘーエには、写真の堂々としたモニュメントが据えられています。この街道建設記念碑は1728年、その完成を祝い周辺諸州の諸侯たちによって建造され、ときのオーストリア皇帝カール6世に捧げられました。この峠はウィーンからヴェネチアを結ぶゼメリング街道にあって最も越えるのに苦労した難所だったのです。



パスヘーエに建つゼメリング街道建設記念碑 (2005年撮影)

ここに宿坊と簡単な街道が開かれたのはすでに12世紀にさかのぼります。それまでは登山の山道と変わらないシュタイクが開かれていただけで、利用したのも巡礼者たちとか、家畜を使った荷物運びの人たちくらいでした。1728年6月21日には完成したこの街道を皇帝カール6世とその妃エリーザベト・クリスティーネも訪れました。



パスヘーエに建つゼメリング街道建設記念碑 (1810年)

1810年に描かれたパスヘーエのこの彩色銅版画を見ると、左に1662と記された石柱が立っています。これはニーダーエスタライヒとシュタイアーマルクの州境を示すもので、1878年に取り外されました。(*今は州境をあらわす碑は、背が低い形のものが、道路の反対側に据えられています)
馬に乗っている人物は後方のウィーンとヴェネチアを結んだ快速郵便馬車の御者で、ここで馬を乗り換えているところです。右の小屋から出てきた人物は、関所の人で、通行料を徴収するために出てきたところです。

今はアウトバーンも鉄道と同じように、トンネルが完成し、車はここまで上がってくる必要はなくなりましたが、トンネルが開通する前は、パスヘーエは車の通行量も多く、賑やかでした。トンネル工事と合わせるように、街道のほうも整備していたのでしょうね。以前より道が整備されてきれいになりました。初めてわたしたちが訪れたときには、この街道建設記念碑が堂々とその存在感を誇示しているように思われたのですが、いつの間にか台座だけになっていたり、ついには姿を消してしまい、どうなったんだろう、と訪れるたびに不思議に思っていましたが、昨年無事元通りの姿で現場復帰しているのを確認しました。たぶん道路整備にあわせて、移転していたものと思われます。

<パイロットNittnerの記念碑>
ゼメリング街道建設記念碑とは国道をはさんだ反対側、バス停近くに同じくひときわ人目を引く形でこの碑がたっています。1912年5月3日パイロット、エドゥアルト・ニットナー中尉はヴィーナー・ノイシュタットから飛び立ち、初めてゼメリング峠を飛行機で越え(午前6時30分)、その2時間後、無事グラーツに着陸しました。彼は功績をたたえられ、サラエヴォに新設された航空隊司令官に任命されましたが、一年後飛行機事故で命を落としてしまいました (1913年2月17日)。
わたしたちにもよく知られたライト兄弟による人類初の有人動力飛行の成功が、このわずか8年半前のことだったことを考えると、いかに勇気ある飛行だったか分かることと思います。



パイロットNittnerの記念碑


― スポーツ競技とゼメリング

標高1,000メートルに位置するゼメリング一帯は、1854年ゼメリング鉄道が全線営業を開始したことにともない、またたくまに高地療養地として注目を浴び、またリゾート地としても夏は避暑に、冬はスキー、スケートに、さらに複雑な地形を利用した冒険の場として、モーターライゼーションの到来とともに、自動車、バイクレースも開催され、高級リゾートホテルが相次いで建設され、競うようにヴィラが建てられました。シーズンにはさながらすっかりウィーンの社交場がゼメリングに移ってくるといった様相でした。

1912年にはヒルシェンコーゲルにスキーのジャンプ台が造られました。(*現在ジャンプ台はありません)


ヒルシェンコーゲルのジャンプ競技 (1912年)

また、国道をはさんだ反対側、ホテル・パンハンスの脇をあがっていくピンケンコーゲルには、リュージュ・ボブスレーのコースがつくられ、やがてオーストリア最後の皇帝となるカール1世も1912年ここで4人乗りボブスレーを操縦しています。

ヒルシェンコーゲルに最初のリフトが造られたのは1953年です。ゾンヴェントシュタイン側は1956年にリフトが建設されました (前回の記事)。本格的にアルペンスキーの場所として、ウィーンから近いこのヒルシェンコーゲルが戦後ますます注目されたと思われます。
1995年からは女子スキー初のワールド・カップ競技が開催されるようになり、回転と大回転競技が隔年この地で開催されています。地元出身の女性選手がオリンピックで金メダルをとったことはゼメリングの人々にとっての自慢のたねです。
また、ここではナイト・コースも冬季の日曜を除く毎日営業されます。
現在は夏季にマウンテンバイク競技も行われ、今も冒険好きの若者の人気を集めています。

<グランド・ホテル・ヨハン大公>



ゼメリング・カーレースのゴール、グランド・ホテル・ヨハン大公前



Grand Hotel Erzherzog Johann

今駐車場として利用されている一角にレストランとガソリンスタンドがたっていますが、その場所にかつて、グランド・ホテル・ヨハン大公が建っていました。ヴィクトール・ジルベラーがここにあったホテル・ヨハン大公を1870年に買い取り、1898年グランド・ホテル・ヨハン大公に改築、翌年1899年営業を開始しました。部屋数130、すべての快適な設備を備えた豪華なホテルでした。ゼメリング・カーレースはこのグランド・ホテル・ヨハン大公前をゴールとして行われました。
1886年ショットヴィーンをスタートしホテル・ヨハン大公前をゴールとする自転車の選手権競技が開催され、1932年まで大会は続きました。面白いのは1890年までは、よく写真でみかける車輪の大きな自転車、あれで選手たちは峠を駆け上っていたのです。自動車レースが始まったのは1899年からでした (8月27日)。
第二次大戦後ホテルは焼失してしまいました。


それでは、次にパスヘーエを出発して、ホホシュトラーセを歩き、ゼメリングの歴史的建造物を訪ね、終点のクアハウスまでハイキングすることにしましょう。

― ホホシュトラーセ沿いの歴史的建造物

地図①



17 ゼメリング駅
4 ホテル・パンハンス
6 教会
7 ジルベラーの小城
9 南部鉄道ホテル

地図②



11 クアハウス
12 ドッペルライターヴァルテ

これからご紹介するのは、ホホシュトラーセを道なりに歩いていき、順番に、パンハンス (地図①の4)、教会 (地図①の6)、ジルベラーの小城 (地図①の7)、南部鉄道ホテル (地図①の9)といった歴史的建造物をみながら、さらにヴォルフスベルクコーゲル駅付近で線路の反対側に出て、最後にクアハウス (地図②の11) を目指すハイキング・ルートです。およそ半日のコースでしょうか。

 <ホテル・パンハンス>
南部鉄道ホテルがウィーンでたたき上げの料理人として腕をあげ料理長として活躍していたヴィンツェンツ・パンハンスにホテルの経営を任せたところ、ゼメリングのリゾートブームという追い風にも乗り、彼は大いに利益をあげ、1888年独自に規模の小さなホテルを、ピンケンコーゲル山麓に建設するまでになりました。それは当初ホテル・ウィーンと名乗っていましたが、その後スポーツ・ホテルなど名を変え、やがて経営は甥のフランツ・パンハンスに譲られ、1912/13年さらに大改築して現在の形になりました。ファサード (ホテルの正面部分) が300メートル、客室400というまさに大ホテルです。今も現役です。わたしたちもなかに入ってみたことがありますが、歴史の重みを感じ、一見の価値ありです。もちろんお金に余裕のある方ならば、泊まってみられるのもよい想い出となると思います。



パンハンスから顧客に出された年賀状 (1897年)



パンハンス (1905年)

 <教会>
これはメッテルニッヒの実の娘、ツィヒー伯爵夫人のイニシアチブでホテル客、ヴィラの住人たちの礼拝場所として1894年に造られました。1954年この教会は保護文化財になっています。


ゼメリングのKirche

<ジルベラーの小城>
この建物は建っている場所が小高いところという点、またその外観が、他のヴィラがいわゆるゼンメリング様式という一つのスタイルを持っているのに対して、キッチュな感じで (*どうやらバイエルンのノイシュヴァーンシュタイン城を模したものと説明されています)、とても目立つ存在で、ホホアルムヴェークからもよく見えます。
ジルベラーというのはここに登場するのは二度目です。グランド・ホテル・ヨハン大公を造った人物です。この人の経歴はもとはジャーナリストで、アメリカの新聞に記事を書いていました。普仏戦争 (1870/71年)のときはウィーンの「新自由プレス」に記事を書きました。記者時代パリで情勢視察用の気球に同乗していらい、技術革新の重要性に目覚め、やがてオーストリア航空クラブの会長になっています。好奇心と科学的探究心にあふれた冒険野郎だったと思われます。そんなことで、1895年に建てられたこの彼のヴィラは意図的にキッチュに派手に、目立つところにつくられたようです。形からヴィラと呼ばれず、Schlößchen 小さな城、と呼ばれているのです。ここは現在中を見学することは出来ないようです。



ジルベラーの小城

 <南部鉄道ホテル>
ヴォルフスベルクコーゲル駅に隣接する一帯の土地を所有し、そこにヴィラを建てていたシェーンターラー (ウィーン宮廷歌劇場を建築した人物) から南部鉄道が土地を譲り受け、ホテルを建設したのは1882年6月でした。南部鉄道会長のフリードリヒ・シューラーにはすでに観光業界で多くの実績をあげてきていましたので、シェーンターラーもこの人物ならと惚れこんで、譲ったといいます。しかし、当初建築されたホテルは飾り気のない実用本位の3階建てで、兵舎と揶揄されました。その後顧客の需要を満たすための増改築が繰り返され、今日の複雑怪奇な形に変貌していきました。ナチの時代、野戦病院として使われるなど、ホテルとしての機能は以来まったく失われてしまいました。戦後も再建の手がつけられることなく、荒廃したまま放置されてきました。わたしたちが最初に訪れたときもまったく廃墟同然の状態でした。
2000年になって、突然この南部鉄道ホテルが妙な形で蘇ります。ウィーンのブルク劇場は毎夏ライヒェナウでフェストシュピーレを行っているのですが、この年から建物の所有者との間に合意を得、南部鉄道ホテルをまさに劇場として使用、再生させたのです。
2000年はカール・クラウスの『人類最期の日々』が上演されました。わたしはゼメリングに別荘を持つ友人から、貴重な切符も譲ってもらうことができ、2003年の公演、『シュニッツラーの夢物語』を観劇することができました。芝居の舞台を、フォワイエ、食堂、ホールと変えながら、ヴェランダの外に開放された窓から近郊の山々の自然を借景に芝居を進行させていくという、不思議な体験でした。この南部鉄道ホテルには館内に郵便局も設置されていました。


最初に建てられた時の南部鉄道ホテル



有名なポスターの図柄にも選ばれた南部鉄道ホテル


― ホテル・パンハンスの創立者は料理人から大ホテルのオーナー経営者になりました。
ヨーゼフ・ダングルという人物も、南部鉄道ホテルのボーイ見習いから、単独オーナーに上りつめ、ついにはゼメリング市長、栄誉市民にまでなります。セメリングという土地がドリーム体験を生み出す風土だったと思われますし、また19世紀末という時代がこうしたシンデレラボーイを生み出したのかもしれません。


 <クアハウス>
南部鉄道ホテルはヴォルフスベルクコーゲル駅の方が近いわけですが、南部鉄道ホテルとは駅をはさんで反対側に、やはりその規模からとても目につく建物がもうひとつあります。1910年に建設されたクアハウス (療養ホテル) です。ここもわたしたちはヴォルフスベルクコーゲル駅から歩いて訪れてみたことがありますが、そのときは近くに行ってみてどうも使われている様子ではありせんでした。ウィキペディによれば2000年代になって倒産したようです。しかし2007年に外国資本が施設を買収し、いずれホテルとして復活する予定と記されています。




クアハウス


この先、ドッペルライターヴァルテに行くには、このクアハウスの横を通っていく道のほかに、鉄道がトンネルをくぐっているその上の山道を進んでいくコースもあります。それについては、次回の鉄道沿線ハイキングルートで触れることにいたします。


ヨハン






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1 コメント

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Unknown (wano)
2014-07-18 17:42:29
イタリア人技師ゲーガに関する文章、興味深く読みました。「トスカーナの休日」という映画の中で、「アルプスを越えられる列車が走るかわからないのに線路を作り続けた」というくだりがあり、どのようなことなのか調べているうちに、ここにたどり着きました。
困難なことでもあきらめないその志は見習いたいものです。

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