ウィーンわが夢の街

ウィーンに魅せられてはや30年、ウィーンとその周辺のこと、あれこれを気ままに綴ってまいります

フォト・ギャラリー「飾り看板」 (1) オーストリア・ハンガリー

2012-11-09 00:28:32 | オーストリア

1980年9月2日撮影 ザルツブルク Getreidegasse

ザルツブルクの観光ポスターにはこの旧市街の「ゲトライデガッセ」が定番として顔を出しますね。
軒を並べた昔からのお店を飾っている古い看板。はではでしいネオンの広告や、他と不調和なまでにアッピールするばかでかい、またどぎつい原色を使うことをもいとわない安っぽい日本の看板を見なれた私たちには、どことなくほっとする心地よさがあります。
それに一見しただけでもその細工の贅に作った職人たち、またそれを作らせたお店のプライドがおのずと伝わってきます。

ヨハンは町で素敵なこうした飾り看板を見かけたときには出来る限り写真に収めてコレクションとしてきました。

でも、こうした飾り看板について、その由来を知ろうと思ったときに、はたと気がついたのが、そもそもヨハンはここで勝手に「飾り看板」と呼びましたが、一体ドイツ語では何と呼ばれているのだろうか、という疑問です。

きっと決まった言葉があるはずです。

でも、ガイドブックを見ても、そんなことには無頓着なのかあっさり「看板」としか書いてありません。

そんなことで、見当をつけて、ドイツ語からいろいろ検索をかけてみました。

ようやくヒットしたのが Zunftzeichen という言葉です。

Die mittelalterlichen Zünfte symbolisierten ihr Berufs- und Gemeinschaftsverständnis in Form von Zunftzeichen. Diese Zeichen sind teilweise von einem Wappenschild umgeben.
「中世のツンフト(同業組合、ギルド)はそれぞれ自分たちの職業をシンボル化したマークを持っていた。こうしたシンボルマークは楯枠に周りをかたどられていた。」(Wikipedia)

たとえば、パン職人のツンフトのシンボルマークは中央にブレーツェル、両脇に獅子が刀を持ち交差させています



これがお店の飾り看板となったものが次の画像です



ブレーツェルだけをシンボルマークとしてお店の看板としたサンプルもあります



Zunftzeichen はギルドとしての結束を象徴したものであろうし、そのシンボルマークがお店の軒先を飾った看板は、何よりも文字によらず、絵柄として遠くからでも人々に存在を知らしめたわけです。

で、その軒先を飾ったこの看板はドイツ語で何と言うんでしょう?

それは Nasenschild と呼ばれます。「鼻のように突き出した看板」という意味です。

小学館の独和大辞典では、Schild の項目において、Wirtschaftsschild としてこの Nasenschild が掲載されています。

突き出した看板という意味では Nasenschild は交通標識にも、表札にも使われます。



オーストリア


2009年7月26日撮影 ザルツブルク Getreidegasse



2011年8月5日撮影 ザルツブルク ・ レストラン Zum Mohren
このレストランのホームページにはモーツァルトもシューベルトも通った、と書かれています。また13世紀当時の市壁のオリジナルが店内に残されているとのことです。名前になぜ Mohr 「ムーア人」が付けられているのかの理由については分かりません。




2011年8月5日撮影 ザルツブルク ・ Judengasse のホテル Altstadt Salzburg。 
かつてここはシナゴーグでした。先端のつり下がった飾りの部分には Höllbräu の文字。

「18世紀にはこのヘルプロイ ( Höllbräu 直訳すれば「地獄の醸造所」 ) はザルツブルクで自家製のビールを販売する典型的な蔵元ホテルでした」 (Wikipedia)





2011年8月6日撮影 ヴェルフェン ・ 中心広場にあるホテル オプアウアー Obauer
ペンションの下に Fleischhauerei の文字。精肉、小売業を兼ねているようです。ホームページでは取り扱うお肉についてバイオ飼育の国産肉とアピールしてあります。こんなホテルに泊まればそれは美味しい食事を提供してもらえることは間違いないし!






1997年8月13日撮影 St.ヴォルフガング ・ Gasthof Zimmerbräu

16世紀半ばに Bierstube として記録に名を見せ、1573年頃から醸造マイスター Aegidius Zimmermann によってこの建物は„Zimmermanns Bräu“ としてビール醸造の店として経営され、やがて1895年にはホテルに改装されました。

Zimmermann 醸造所、画像左が聖ヴォルフガング巡礼教会 (ホテルのホームページ資料写真)



2009年7月31日撮影 St.ヴォルフガング
左はホテル、牡鹿がシンボライズされているので Hotel zum weissen Hirschen だったのかも知れません (検索して確かめてみましたが、ホームページの写真とドンピシャとはいかなかったので、断定はできません)、右はベイカリーですね



2009年8月20日撮影 St.ヴォルフガング ・ ホテル白馬亭
この湖にむかって突き出た白馬のシンボルマーク、誇らしげに見えるのは気のせいでしょうか。
白馬亭についてはこのブログの記事「ザンクト・ヴォルフガング ― 幸せが出迎えてくれるホテル「白馬亭」」をご参照ください。白馬亭がホテルとして登場するのは1878年です。





2011年8月7日撮影 バート・イシュル ・ 薬局 Esplanade Apotheke、 Esplanade 18
薬局のシンボルマークにも鹿が登場しますが、鹿の角が薬として重宝されることと関係あるんでしょうね






2011年8月17日撮影 ウィーン ・ 錠前屋 Klaus Schuldes、 Günthergasse 1
ホームページを見ると、創業1928年、現在の経営者は3代目。



2011年8月16日撮影 ウィーン ・ ベイカリー Wenninger、 Rauhensteingasse 4
「 n 」 が一つの Weninger  ヴェーニンガーというベイカリーが Wels にありますが、それとは関係ないお店のようです



2011年8月16日撮影 ウィーン ・ 貴金属、インテリア Franek、Ballgasse 4



2011年8月16日撮影 ウィーン ・ レストラン Kuckuck、 Himmelpfortgasse 15

このお店が入っている建物は Palfin 伯爵の名をとり、1700年に「パルフィン館」と名づけられましたが、綴りの「f」と「t」を間違えたため das "Paltische Haus" となりました。天井は16世紀、ファサードは17世紀後半のバロック様式で、美しい破風と、またルネサンス様式の美しい門構えをもち、文化史の観点からウィーンの興味深い世俗建築物です。このあたりは古代ローマ人が居住したこともあり、地下からは大理石の頭像、トルソーなどの遺跡が出てきました、これらは現在ウィーン市歴史博物館に展示されています。



2011年8月16日撮影 ウィーン ・ 服飾、装飾品 JEM、 Himmelpfortgasse 11







2002年8月19日撮影 プフベルク ・ Sebastianhütte

シュネーベルク山麓のセバスチャンの滝近くに1829年 Jägersberger によってここに最初の小屋が建てられました。


現在の Wasserfallwirt (Sebastianhütte)





2005年8月5日撮影 クレムス ・ Hotel Alte Post、Obere Landstraße 32



2007年7月28日撮影
これはどこにでもある国産たばこの販売店のしるしです




1994年2月18日撮影 インスブルック ・ ホテル・レストラン Happ、 Herzog-Friedrich-Straße 14
ホームページには1484年にこの建物の最初の記録が出てくると書いてあります
Weinhaus と書いた文字も見えるので、ワイン酒場も兼ねているのでしょうか、シンボルマークもぶどうです




ハンガリー



2002年3月9日撮影 ブダペスト ・ Café Pierrot Restaurant、 Fortuna utca 14.
このお店、初めて入った時には料理がとても美味しくて、再び訪れましたが、そのときは残念ながらさほど感激することはありませんでした。検索してみると2004年に大規模な改装がされたようなので、もうこの看板はなくなっているかも知れません。
王宮側、ブダのマーチャーシュ教会近くにありました


ヨハン 2012/11/8

オーストリア皇帝フェルディナントⅠ世

2012-09-10 23:39:21 | オーストリア
オーストリア皇帝フェルディナントⅠ世 ( 在位1835-1848、ハンガリー国王としてはフェルディナントⅤ世 ) は善良帝 ( der Gütige ) と呼ばれた人でした。こうした呼称がついていることから判断すれば、あまり賢い人であったとか、権謀にたけた腹黒い人物であったとは見られていない人だったと思われます。病弱で帝位をつぐには難があると思われていましたが、メッテルニヒの差配で皇太子となり、1835年に父帝、初代オーストリア皇帝フランツⅠ世 ( この人は神聖ローマ帝国皇帝としてはフランツⅡ世でしたが、ナポレオンによって1806年に神聖ローマ帝国が解体されてしまったので、初代オーストリア皇帝となり、以後フランツⅠ世を名乗ります ) がなくなると皇帝を継ぎました。

これはめでたしめでたしというような話ではありません。皇帝なんてものは苦労ばかり多くて、楽しいことなんかな~んにもありません。決してなるものではありません。親父はフランスの田舎者に844年続いた神聖ローマ帝国をぶち壊され、歴史にその最後の皇帝として名をとどめる屈辱を味わわされているし、息子の方は息子の方で内乱、国内の騒擾、いわゆる革命 ( レヴォルツィオーン、この言葉がウィーンではいかにペストのように忌まわしいものであったか、映画三部作シシーでもため息と怒りとともに宮廷をかけめぐるシーンがでてきます ) によってついに帝位を譲るはめにまで追い詰められます。後継ぎを設けることのできなかったフェルディナントⅠ世の退位を受け、さて誰が次の皇帝の位につくのか、映画シシーの第一部では、とうぜんその役が回ってくるであろうはずであったフェルディナントⅠ世の弟フランツ・カールではなくて、その嫁ゾフィーは、フェルディナントⅠ世に輪をかけたお人好しで、政務に役立たずの夫フランツ・カールをふっ飛ばしてまだ18歳の息子フランツ・ヨーゼフに帝冠が渡るように奔走します。

フェルディナントⅠ世の心情からすれば、退位の屈辱よりも、賢い、母親の言うことをよく聞く甥っこが皇帝になってくれたことで大いにほっとしたことでしょう。幼少期病弱を心配されたわりにこの人はその後長生きをして、82歳の長寿を全うして1875年に亡くなります。ウィーン万博さえも生前見聞 ( したかどうかは別として ) 出来たのです。

まあ物事なにごともケ・セ・ラ・セ・ラ、なるようにしかならないと受け流していくのがウィーン流。
Glücklich ist, wer vergisst, was doch nicht zu ändern ist.
何のためにウィーンにはワインがあるのかと言えば、いやなことを忘れるためではありませんか。

賢い王様、皇帝、武勇伝をおじいさんが孫相手に語れるような王様、皇帝は畏怖と賛嘆の対象となりますが、こうしたケ・セ・ラ・セ・ラの皇帝にはどうしても揶揄の対象となるエピソードが造られるようです。バカにしたり、軽蔑したりしているのではなくて、愛すべき人物として親近感を感じている証しだと思われます。

いつのときの話か書かれてはいませんが、初老の皇帝フェルディナントⅠ世が、と紹介されるので、退位の年1848年に近い頃のことだったのかもしれません。50過ぎたころのことです。
あるとき皇帝は、いまだかつて狩りという楽しみを経験したことがなく、やってみたいと希望を述べられました。何しろ病弱でそんな経験からは遠い生活を送って来ていたからです。
狩りなど未経験の皇帝のことですから、もちろんそこは周りのものが準備万端手助けしなくてはなりません。御供の者たちは候補となったお狩り場に用意する失敗のない獲物の選定にとりかかります。小さすぎてはまずいし、動きが俊敏すぎても難しかろうと知恵を絞ったのです。そこで人間で言えばとっくに年金暮しをしているであろう Adler ( 鷲 ) に白羽の矢をたて、皇帝陛下の初体験の大切なパートナー役を任せることにしました。いよいよ一行は狩りの場へと出発。鷲が棲家としている谷の奥深くに分け入りました。そしてさっそく鷲を発見。いつものように、けだるそうに、お気に入りの岩の突き出した所に目を閉じて止まっています。
「陛下、あそこに見えるは鷲では?」
フェルディナントⅠ世はたいそうよろこび、そうじゃなと頷かれ、鉄砲に弾をこめさせると、狙いを定め、ば~ん! 鷲はその場から転がり落ちます。こうなると、初体験で獲物に命中したばかりか、自分には生まれてからこの方ずっと慣れ親しんできたこの巨大な神秘の鳥をしとめたことで大満足。さっそく供の者がしとめた獲物を持ってくると、幸せそうな射手の前の地面に置きました。
が、なんと、彼が耳にしたのは皇帝のがっかりした叫び声だったのです。
「ああ、これではまたやり直しだわい。しとめたのは鷲ではないではないか。こいつには頭が一つしかついとらんぞ」
( Gerhard Tötschinger: Mein Salzkammergut, AMALTHEA)