ウィーンわが夢の街

ウィーンに魅せられてはや30年、ウィーンとその周辺のこと、あれこれを気ままに綴ってまいります

オペレッタ『こうもり』 とその種本が描きだした世界

2011-02-24 10:02:39 | オペレッタ
以前『こうもり』の台本作者が二人ともプロイセン人であったことを書きました。

このオペレッタの原作はフランスの戯曲、アンリ・メイヤックとリュドヴィック・アレヴィによる《Le Réveillon》という作品でした。タイトルの意味はクリスマス・イヴや大みそかに夜を徹してなされる宴のことです。

そもそも仮装、変装してのどんちゃん騒ぎでの無礼講、そこでは時に主人と従者の立場も入れ替わり、身分社会、宗教的な戒律の枠組みは外れ、日常から脱し、ストレス発散 ―いわゆるガス抜きというやつですね― することがこうした催しの実用的な目的、真の姿であったろうことを考えれば、喜劇にとってもオペレッタにとってもクリスマス、カーニバルがお気に入りのテーマになることは容易に想像できます。

『こうもり』では、取り違えの相手が自分の妻であることに最大のシャレがきいていました。
アイゼンシュタインはアデーレを見ればお尻にタッチせずにいられない浮気者ですが、アデーレに熱を上げたりはしませんし、いくらアデーレが妻ロザリンデの衣装にめかしこんでいようと、一目で侍女と見抜いています。アイゼンシュタインの無粋はその事実を口にすることなのです。ロールプレーの世界では役者は演技が求められるのであって、自分の役回りを忘れて観察者の側に回るなど無粋のきわみです。アデーレにたしなめられ、満座の嘲笑を浴び、以後アイゼンシュタインは見事にファルケのシナリオを演じ、妻を口説きます。

他方の妻ロザリンデはどうでしょうか? 表向き留置場に向かうはずのアイゼンシュタインが夜会服に正装して我が家を出ていくにあたって、ロザリンデは

So muß ich allein bleiben
Acht Tage ohne dich?

あなたと一週間も離れて
独りでいなくちゃいけませんの?

と大げさ極まりなく悲しみの言葉を口にしますが、言葉とはまったく裏腹にステップは次第にワルツ、隠しきれない心の奥から湧き出る喜びに包まれ、結局アイゼンシュタイン、アデーレとともに3者が3様に喜びのワルツの3重唱に一体化してしまいます。

O je. O je, wie rührt mich dies (Nr.4 Terzett)

ああ、ああ、感動で胸も張り裂けそう

感動というのは、表向きは夫を思って悲嘆にくれてみせるロザリンデの夫婦愛、しかしてその実態は夫から解放される喜びです。オ~ マイ ガッ!! やはり恐ろしいですなあ、女性は。

案の定、アイゼンシュタインが出ていくや否や、ロザリンデのもとには元彼のアルフレードが入り込んできます。
オペレッタではいつの間にかという形でお芝居が進行しますが、まさかねえ、アルフレードが窓から入ってくるとも思えないし、どう考えたってロザリンデが迎え入れたとしか考えられないでしょ? それどころかアルフレードはアイゼンシュタインのガウンに身を包みます。そのためアルフレードは警察署長フランクにとり違えられて留置場につれていかれる訳です。どう考えても現実の世界なら大スキャンダルですよ。

この一代ピンチにあたって、アルフレードは有名な科白「Glücklich ist, wer vergißt, Was doch nicht zu ändern ist!」(逆らえない運命を忘れてしまえる人は幸せだ) (Nr.5 Trinklied) を唄うのです。しかも、朗々と。

『こうもり』が初演(1874年4月5日)された時代、ウィーンは前年の5月9日の世に言う「ブラック・フライデー」で株が大暴落、まさにバブル崩壊の経済恐慌に襲われました。お酒で全てを忘れてしまいたい時代だったという意味でこのアルフレードの言葉はよく引き合いにだされてきました。しかし、アルフレードの歌、出だしでは「Trinken macht die Augen hell」と唄っています。お酒を飲めば物事がよく見えてくる、という意味ですね。やはりこの一言もとても利いていると思います。

世の中どうにもならないことをうじうじうじうじいつまでも引きずる輩ばかり。そういう輩こそお酒はね、飲ませても無駄、っていうくらいなものです。
お酒で脳味噌の縛りをとって、物を冷静に洞察してみようよ、そしてその結果、どうにもならない運命が見えてきたら、それはそれで身をまかせていこうじゃありませんか。こういう人生訓なのです。

ウィーンを襲った経済恐慌、もちろんウィーンの人々すべてを打ちのめしたかと言えば、そこには快哉を叫ぶ大衆もいたのです。Bartel F. Sinhuber はその著でこの事態を次のように分析してみせたコラムニストの言葉を紹介しています。(《Alles Walzer》Europaverlag)

「証券所は積年の罪の重さに耐えきれずに崩壊した。昨日からまっとうな人間が大手を振って町を歩くことができるようになった。汗して働く人間がばかもの呼ばわりされずに済むようになった。昨日から泥棒は男爵なんかでなくて、泥棒と呼ばれるようになったわけだ。すっかり毒されてしまった空気をこんなに見事に清めてくれた嵐はかつてなかったことだ」(コラムニストFerdinand Kürnberger の言葉)

アルフレードは突然現れるわけではありません。今は人妻となったロザリンデの夫アイゼンシュタインが留置所送りで不在となる情報を手に入れたからこそ、彼女のもとを訪れ口説いているわけです。一週間の自由を手にしたロザリンデは誘惑すれば落ちると踏んでいるからです。アルフレードは「観察」者なのです。

そもそもアルフレードはロザリンデの元彼ということになっています。ロザリンデはアイゼンシュタインと結婚するためにどうやら縁をきり、姿を消したらしいと想像されます。なぜならアルフレードはようやくロザリンデの居場所を捜しあて、お芝居の幕が開くや否や舞台のそでから

Täubchen, das entflattert ist,
Stille mein Verlangen

僕の手から飛び去って行った子バトちゃん
ぼくの切ない気持を慰めておくれ

なんて、唄っているのですからね。

でも、なぜロザリンデはアルフレードと縁をきったのでしょう?
それはアルフレードには金がないからです。他方のアイゼンシュタイン、「銀行家」と紹介しているバージョンもありますが、ほとんどのバージョンでは Rentner  (年金、または金利生活者) と書かれています。どっちなんでしょう? どうでもよさそうですが、そのことで彼の想定される年齢が変わってきます。ヨハンは仕事に成功し、侍女 (アデーレ) を雇うほどの大金持ちで、現在は退職し、株取り引きでもしている初老の男と想像しています。ロザリンデの気をひいた要素としてはお金以外にありません。

他方のアルフレードは若さいっぱい、唄声を耳元に吹き込めばロザリンデの理性なんかひとっ飛びに吹き消してしまうと自信を持った色男。アルフレードのテクは交際中に体に十分しみこませてきたとばかりに窓辺でテノールでロザリンデに呼び掛けているのです。金なしのアルフレードにはアイゼンシュタインを敵に回して生活力という点で勝負したら、勝つ見込みはありません。しかし、そのアイゼンシュタインは一週間の留置所生活、俄然色男アルフレードにチャンス到来という場面ではありませんか。

なんだかなあ、オッフェンバックの『天国と地獄』の世界 ―夫に飽き飽きしていると言いながらオルフェに耳元できんきんバイオリンを弾かれると身もだえするユリディス― みたいだ。テノール、バイオリンを聴かせると女性の理性が吹っ飛んでしまうのかと、これは音楽の才能のない男としてはおちおちしてられない話ですよ。
あ~あ、せめてピアノくらい習っておけばよかったと後悔するヨハン。

しかしこれらは象徴にすぎないわけで、真に受ける必要はありません。その象徴があらわしていることは異相の世界です。日常の世界を支える価値観、現実世界で役立つ価値とは経済力です。男としての価値の優劣がそのことでのみ決められる (これこそはまさに19世紀に出てきた新しい価値観にほかありません) ことへの疑問、価値崩壊、価値逆転がこのことで起こるわけです。実際、テノールのいい声がでたところで、そのことでおなかがすくことはあっても、腹の足しにはなりません。経済活動の視点からすれば無です。―とは言え、お墓の歌かなんかで突如ひっぱりだこになってテレビに出まくっている歌い手もいますから、現代では音楽は残念ながら立派に経済活動になり果てた現実がありますけどね。
芸術が経済価値に置き換えられていくようになるのも19世紀に出てきた考え方です。

19世紀の資本主義社会において、女性は経済的に安定させてくれる相手 ―勝ち組という連中ですな― に安らぎを感じつつ、その一方で人間の生きざまの多様性が捨象されて、男たちが単一の価値スケールで測られていく新思考の中で、競争に加わるわけでない女性たちは退屈さに打ちひしがれたのです。
ちょい悪野郎でも、異相の世界を垣間見させてくれる相手の方に女性の理性は緩むわけです。オペレッタの世界ではこのちょい悪親父はたいてい男爵か伯爵と相場が決まっています。侯爵、公爵にくらべて気軽な身分だからだとヨハンは思っていますが、これはこれから研究したいテーマです。

オペレッタが好んで描いたこうした宴の世界では心の縛りを自ら解放することが眼目で、その後また登場人物たちは現実世界に後戻りするであろうことは想定済みの世界です。現実世界そのものがひっくり返されることはありません。やがて待ち受ける運命を予感していたのか、そうでないのか、とにかくあらがうこともなく世紀末にひた走っていく、これがウィーンの貴族社会の遊び心、爛熟した退廃文化をつくったのでしょうね。
もちろんシュトラウスは音楽を通して人々を躍らせてはいましたが、その目は <hell> 、しっかりその退廃の美を見届けていたのです。なぜかと言えば、運命は逆らえないからです。

そんな苦虫をかみつぶしたような顔をしていないで、さあ
みなさまも、どうぞワルツを Alles Waaaalzer!!


☆ ☆ ☆

ヨハン・シュトラウスのオペレッタ『こうもり』が直接的には1872年にパリのパレ・ロワイアルで上演され好評を博していた芝居 《Réveillon》 (イヴのどんちゃか騒ぎ)をタネ本にしていると冒頭に書きました。

この芝居も、どうやらもとをたどればドイツ人ロードリヒ・ベネディクスRoderich Benedix (1811-73) という人の戯曲 『監獄』 《Das Gefängnis》 をもとに書かれたもののようです。

*『監獄』のあらすじ (ツェントナーに拠ります)

夫の家で、という女性の望まぬ逢引を無理やり承知されたと思ったら、その間男が不在の夫と間違われて逮捕される。世間に逢引の事実がばれてはまずいので、彼氏は夫の身代りとして監獄に連れていかれる。

オペレッタ『こうもり』と筋の骨格は同じです。残念ながら、しかし、これ以上の詳細は、戯曲がいつ発表されたものなのかも含めて現在のところまでヨハンには全く知り得る手段の持ち合わせがありません。これを紹介しているヴィルヘルム・ツェントナー Wilhelm Zentner  (レクラム文庫 《Die Fledermaus》 解説) 自身も、ベネディクスから『こうもり』への影響関係を過大に考える必要はないとも書いていますので、これはこれで頭におさめて、ここでは一つ前の作品、つまり、『監獄』と『こうもり』の間ある作品ですね、『こうもり』にとって直接関係を指摘されてきている作品、メイヤック&アレヴィ台本 (アレヴィはオッフェンバックの『天国と地獄』のリブレティストの一人でした) の 《Réveillon》 について見てみることにします。
*Henri Meilhac (1831ß97)、Ludovic Halévy (1834-1908)




先ず、登場人物を『こうもり』と比べて一覧してみましょう。『こうもり』の方はカタカナ (レクラムに拠って書きます)、その後に対応する 《Réveillon》 中の人物はまずアルファベートで並べていきます。

ガブリエル・フォン・アイゼンシュタイン・・・年金 (金利) 生活者// Gabriel Gaillardin ・・・der wohlhabende Rentner (ガブリエル・ゲヤルダン・・・富裕な年金、金利生活者)

● Duparquet・・・Notar (デュパルケ・・・公証人)

プリンス・オルロフスキー// Yermontoff・・・der junge russische Prinz (イェルモントフ・・・ロシアの若きプリンス)

ロザリンデ// Fanny (ファニー)

アルフレード・・・ロザリンデに歌を教えた先生// Alfred・・・Geiger (アルフレード・・・バイオリン弾き)

フランク・・・監獄長// Tourillon・・・Gefängnisdirektor (トゥリヨン・・・監獄長)

● Metella・・・ein schönes, früheres Hirtenmädchen von Pincornet-les-boeufs. (メテッラ・・・・もとはパンコルネ・レ・ベフの羊飼いの美人娘)

*Pincornet-les-boeufs はネット検索をするとヒットします。実在の地名です。クルーズのサイトに出てくるのでフランスのセーヌか、ロワールかの河岸の村のようです (それ以上の詳細は目下つかめていません)。


ご覧のように、『こうもり』が 《Réveillon》 に依拠して書かれたオペレッタであったことは一目了然。登場人物の対照を表にできるほどです。そうなのですが、しかし、また、あえて、対応に無理がある人物については●印をつけました。二つの作品の間には大きな違いがあることもはっきりしてきます。それを見てみましょう。

『こうもり』で重要な役割を演じるDr.ファルケ、プリント、そして小間使いのアデーレが《Réveillon》 に登場する人物と比べると大きく役回りが違っています。

先ず、《Réveillon》 の設定場所と時期ですが、これはクリスマス・イヴのパリです。
この時期について、R・シュトルツ指揮の『こうもり』(DENON) で解説を書かれている保柳健氏がこのように書いています。

「アン・デア・ウィーン劇場の支配人、マックス・シュタイナーはその劇の内容どころか、題名の意味さえよく分からずにウィーンでの上演権を買ってしまった・・・「レヴェーユ」(を)“起床ラッパ“と混同したよう (です)・・・クリスマス・イヴに・・・フランス人がやるような“僧侶も尼僧とワルツを踊る“どんちゃん騒ぎ・・・などは、ウィーン人にとってはそれこそ“神への冒涜“・・・“喜劇の台本“は (お蔵入りとなりました)」
「ところが・・・知恵者はいるもので・・・“クリスマス・イヴの晩餐“を・・・移しかえれば問題はない」

ウィーンはマリーア・テレージアの時代から (表向き) 風紀には厳しい土地柄であったことも事実ですし、大司教のおひざ元、シュテファンとホーフの距離は歩いて30分もかかるかどうか。でも、オーパンバルを調べるなかで既に見てきたように、その宮中で12月のクリスマスの時期に、舞踏会を幾夜も開くのはまずいんでないですか? と再三お坊さん側からクレームが入り、やむなく宮中舞踏会の時期も場所も移したのです。

アン・デア・ヴィーンの支配人がレヴェイヨンをレヴェイユと誤解したかどうか、その真偽はヨハンには分かりませんが、オペレッタ『こうもり』では教会側からのクレームを避けたのでしょう。時期は大みそかにずらされました。

以上を踏まえて、あらすじです。

『イヴのどんちゃか騒ぎ』 あらすじ

第一幕
ガブリエル・ゲヤルダンは留置場送りの判決が下された身であったにもかかわらず、公証人デュパルケの誘いにのってイェルモントフのヴィラで開かれる夜会 (ソワレ) に出かけていく。その間自宅では妻のファニーが最初激しく抵抗したのにもかかわらず、結局バイオリン弾きのアルフレードにあがりこまれ、ふたりでいるところに夫を連行しにきた監獄長トゥリヨンに逮捕連行される。

第二幕
ゲヤルダンとトゥリヨンは名前を偽ってイェルモントフの夜会に出席している。この宴の席でゲヤルダンは美人メテッラの魅力のとりこになってしまう。

第三幕
ゲヤルダンが留置所に出頭してきてびっくり仰天。なぜなら彼が留置されるべき檻にはすでにアルフレードが入っているからだった。そこでゲヤルダンは自宅でなにがあったか知るために弁護士に扮装してさぐろうとするものの、要領を得られない。
最後にデュパルケが登場してすべては自分がプリンス・イェルモントフを楽しませるためにしかけた一場のファルス (笑劇) だと種明かしをする。

このツェントナー解説による最後、ラストの場面からすると、アルフレードも、メテッラも仕込まれた役者 (トラップ) だったのかもしれません。

そう考えると、この作品はそれなりに喜劇として後味の良い完成された作品とも思えます。

『こうもり』はこれに比べると少し手が入りすぎている気がします。ロザリンデ、アデーレがともに夜会に出席するのもなんとなく不自然です。しかし、まあ、そうした構成ですばらしいシュトラウスの名曲がたくさん生まれたことを考えれば、よしとしますか。

ちなみにフロッシュはオリジナル『こうもり』の台本ではセリフは与えられていなかったそうです。実際の公演のなかで、今日のギャグが生まれていったようです。(アーノンクール指揮『こうもり』TELDEC、解説マンフレート・ヴァーグナーに拠る)


ヨハン (この記事は2011/02/20と2011/02/23をまとめたものです)


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2 コメント

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Unknown (まいこ)
2013-04-19 19:34:27
初めまして。このページを読ませて頂き筆者様にご相談がございます。
只今、こうもりの原作となった『夜 食』(Le Réveillon)の日本語訳がないかと探しておりますが、なかなか見当たらなく困っております。
こんな詳しい記事を書かれていらっしゃるなら、筆者様は日本語訳をお読みになったことがございますか?!
もしおありでしたら、どこで拝読できるか教えて頂けたら有難いです。
このようなことをコメントに書いてしまい申し訳ありません。
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Unknown (ヨハン)
2013-04-26 18:52:17
まいこ様
お問い合わせをいただき恐縮です
メイアック、アレヴィの原作についてのお尋ねですが、もちろんフランス語の原文で、目下のヨハンにはすらすらすいすい読める代物ではなく、オペレッタ辞典でそのあらすじを調べたものと記憶します。ちなみにお問い合わせをいただきましたので原作そのものが今入手可能かどうかについて、AbeBooks.com で検索してみました。2009年に米国でリプリント版が出ているようで、このサイトを経由して入手可能のようです(16.21米ドル)
翻訳が存在するかどうかはわかりません
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