ウィーンわが夢の街

ウィーンに魅せられてはや30年、ウィーンとその周辺のこと、あれこれを気ままに綴ってまいります

アルプスの谷間に咲いたベル・エポックの花 ― バート・ガスタイン

2012-10-04 09:35:10 | バート・ガスタイン
山岳地帯に鉄道を走らせざるを得ないオーストリアでは、峻厳な山岳は迂回していったん隣接する外国に出てからまたオーストリアに戻って来た方がはるかに時間と距離が節約できる場合があります。
とは言え路線が外国領を間に挟むことにより、分断された形で国内の都市間が結ばれているのでは、事あれば封鎖の大ピンチを招くことになりかねませんから、もちろん国内路線はそれとは別にいかなる難工事になろうとも、克服して造っておかなければなりません。

たとえば今でも、トーマス・クック ( 最近買わなくなってしまったので、調べたのは手元にある2009年版です ) を見ると、次のことが分かります。

ザルツブルクからインスブルックに行く路線のケースです

ずっと全線オーストリア国内だけを走り抜けていく特急は ( そもそも利用のメリットが少ないため直通運行されている特急は数が少ないのですが ) 朝10時15分にザルツブルクを出て、インスブルックに13時48分に到着します。乗車距離251kmで、乗車時間はおよそ3時間半です。

他方、ザルツブルクを出て直ちにドイツの路線に入り、クーフシュタインで再びオーストリア国内に戻る Korridorzug は本数も多く、朝8時56分にザルツブルクを出る特急は、10時44分にはインスブルックに着きます。1時間48分の乗車時間で、走行距離は193kmです。

運賃は距離で計算されますから、インスブルックに行くのに、わざわざくねくね山岳地帯を喘ぎながら走って行く列車に乗る人は物好きと言わざるを得ません。

Korridorzug 「回廊列車」 とは外国 ( ここではドイツ ) にオーストリアの列車が通行の便宜をはかってもらい、その代わりその区間をノン・ストップで走って行く列車のことです。トーマス・クックの時刻表を見ても、ドイツの区間は - - - と記されているだけです。走っている場所はドイツながら、列車ならびに車内はオーストリア、言ってみれば通過区間を走っているとみなされているのです。




1909年7月5日、皇帝フランツ・ヨーゼフⅠ世臨席のもと、バートガスタイン*注) 駅において工事中だったトラウエルン鉄道の最後の区間、バートガスタイン=シュピタル・アン・デア・ドーラウ間がようやく完成し、営業運転を始めるにあたっての祝典が催されました。
 *注) バート・ガスタインはドイツ語表記では1996年まで Badgastein となっていましたが、1997年1月1日から今日の Bad Gastein と表記することが確定されました

トラウエルン鉄道 Trauernbahn というのは、ザルツブルク州のシュヴァルツァハ・ザンクト・ファイトとケルンテン州のシュピタル・アン・デア・ドーラウを結ぶ区間の名称で、全長79km。現在ホーエ・タウエルン国立公園となっているオーストリア一の山岳地帯、ここにようやく鉄道が通ったのです。至難の事業であったと想像するに難くありません。最大勾配25パーミル。最大の難関、関所はトンネルと鉄橋で結ばれました。工事は1902年に着工され、シュヴァルツァハ・ザンクト・ファイト=バートガスタイン間が先に1905年完成し、その2年後の1907年、残りの区間が完成したというわけです。


バート・ガスタイン駅にある鉄道建設の記念碑
     
2011年8月10日撮影
(左) シュヴァルツァハ・ザンクト・ファイト=バートガスタイン間の建設は1902年12月14日開始され、1905年8月31日に完成した
(右) 同区間の完成を1905年9月20日皇帝陛下自ら祝福されました


これは当時のオーストリアにとっては、北の工業地帯ベーメン ( 現チェコ) と南のアドリア海の軍港都市トリエステ (現イタリア) とを最短距離で結ぶ ( ウィーンを経由する路線はすでに全線出来ていましたが、こちらは大変な大回りとなってしまいます ) 軍事的にも経済活動の面からも帝国にとって大変重要な路線で、決して観光目的だけに計画、建設されたわけではありません。

しかし、建設目的はどうあれ、全線開通でバートガスタインがにわかに帝国の各地からアクセス可能となったことによって、物資のみならず、また大量の人をも運ぶ手段が出来たと言う訳で、多くの人々を引き付ける魅力の温泉地として一躍脚光を浴びる人気のスポットとして花を咲かせることになったのも当然でした。

1909年5月29日付けのザルツブルク・クローニク紙は、6月初旬バートガスタインに新たなホテルの誕生として、グランド・ホテル『ド・リュロプ』 (Grand=Hotel “de l’Europe”) の完成を次のように報じています。

2年の工期をようして完成するこの建物は山側斜面を背にして建ち、その規模はすべての当地に既存のホテルを凌ぐもので、横幅62メートル、高さは (別途付属の階段室を除き) 18メートル。屋上階 ( Mansarde ) を含め11階建。これに加え、食堂 (横25.5メートル、縦14.5メートル) が別館として建てられ、その階下には調理場、地下氷室などがある。・・・148部屋が温泉逗留客、外国人を迎え入れる。

ウィキペディアの記事によれば、当時のオーストリア=ハンガリー帝国内でも屈指の規模と最新設備を誇るホテルでした。



このグランド・ホテル、どうやら現在も営業しています。今は一階部分にカジノ Casino が入っているので、建物の顔となる看板も Casino の文字がやたら目立つ存在で、ヨハンはホテルとしての営業はやめてしまったのかと思っていましたが、ネットで検索すると、ホテルのホームページがあり、その予約フォームから宿泊予約が可能です。

グランド・ホテルは1980年に Denkmalschutz (保護対象記念建造物) の指定を受けています。

ホテルの創業者 Viktor Sedlacek が1937年に亡くなり、息子の Rudlof が相続しましたが、1970年彼の死により、これを相続した弟 Alfred は経営状態が悪くなっていた事業を継続する気持ちはなく、ホテルは die Alpenländische Hotel- und Kuranstalt AG (アルプス・ホテル湯治施設株式会社) に売却されてしまいました。取得した会社はこのホテルを営業する気はなく、結果として10年前からホテルは閉鎖状態となっていたのです。(理由は、ヨハンの想像ですが、すでにこの時代バートガスタインを訪れるお客のニーズは以前とはすっかり様変わりし、湯治場としてより、若者のウィンタースポーツの場所になっており、今私たちがこの町を訪れて目にする多くのホテルはこうした時代の変化のなかから生まれてきたものばかりです。ライバルホテルはつぶしておく、この考えによるのではないかと思います。現在は資料が不足しているのでただの想像です、いつか詳しいことが分かったらまたこのことについては改めて書きます)
1980年にふたたび身売りに出されたこのホテルを買い取った、ウィーンの医師の息子 Reinhardt Stefan Tomek によって、2年の改修期間を経て、1982年に息を吹き返したのです。

1983年2月12日「労働新聞」紙が、このホテルが前年の12月22日から営業再開したとの記事を載せています。

経営者は遊びで仕事をしているわけにはいきません。世の中の動きに敏感に対応していかなくては時代遅れの遺物としてつぶれる運命が待っているだけです。

さはさりながら、かつてはこのグランド・ホテルには、ブルガリア国王、イラク国王、ペルシャのシャーといった王族始め、ドイツの自動車メーカー、オペルの社長、さらにはハンリヒ・マン、ローベルト・シュトルツ、サマセット・モーム、ライザ・ミネリなどの著名人をお客として迎えたこともありました。

息を吹き返したことは建物を保存していく意味からもよかったことと胸をなでおろさずにはいられません。





鉄道でバート・ガスタインにやってくると、駅のホーム側の壁に前回アップしましたトラウン鉄道の建設開始と完成を記念したプレート碑のほかに、この駅の海抜を記したプレートも見られます。


2011年8月10日撮影

海抜1086.2メートル。

ゼメリング駅 ( 1854年に完成 ) は海抜896メートルにありますから、それよりも190メートル高い場所に駅が造られました。ちなみにザルツブルクは海抜で言えばおよそ424メートルのところにありますから、建設当時の汽車、今はもちろん電化されていますが、機関車は総距離99kmのところをおよそ660メートル駆け上ってこなくてはなりません。ですから今でも特急に乗っていても列車がガスタイナー・タール ( ガスタインの谷 ) に入ってくると本当に喘ぐようにゆっくり、ゆっくり進んでいきます。


機関車が3台つながれてバート・ガスタインの駅に停まっていましたので撮影しました。
2011年8月11日撮影

ゼメリングの方は駅を降りてもまわりに町はありません。そこから今度はお客の方が喘ぎながらさらに80メートルほど山を登ってようやくゼメリング街道の最高地点で、州境のパスヘーエ ( 984メートル ) に出てやっと、ホテルやヴィラに通じる町のメインストリートと合流します。列車の方はゼメリング駅を出ると直ちにトンネルに入り、そこでこの路線の最高位点を過ぎて、隣のシュタイヤーマルク州に抜けていきます。

これに対して、バート・ガスタイン駅も、降りても何もないと言うのは語弊があって、降りると直ぐに町に続くホテル街が目の前から始まります。ただグランド・ホテルがある町の中心地に行こうとすると、今度は80メートルほどつんのめりそうになりながら急な坂を下りていかなくてはなりません。


標高1086メートルにあるバート・ガスタイン駅
2011年8月12日撮影

ホテルを予約してきた泊まり客でもなければ、バート・ガスタイン駅に降り立った観光客が真っ先に目指す場所はこの街を今も有名にしている Wasserfall (滝) です。


   
ガスタイナー・アッヘの滝
2011年8月10日撮影

この滝をつくっているガスタイナー・アッヘという川はホーエ・タウエルンに源を発して、やがてはザルツァハに合流していきます。
ヨハンたちが2001年に初めてこの滝を訪れた時にもその豪快な姿には感動しましたが、今年は8月16日に Gewitter (夏の激しいにわか雨) があったせいか、18日に見た時には以前にも増して水かさを増し、まさに荒くれ者といったすさまじさでした。

ガスタインという名前もこの川からきています。語源的には「どす黒い川」、「猛しぶきをあげる川」という意味からきているので、決して岩とは関係ありません。ガシュタインとは発音しません。

写真の人々が滝を眺めているこの場所は1840年に造られた石橋の上です。

そしてこの橋を中心として町がつくられたので、鉄道が開通する前は川の下流のホーフガスタイン方面から人々は歩いて、あるいは馬車に揺られてこの湯治場を目指してやって来たわけですね。
現在ヨハンたちのように鉄道を利用して山の上に降りたって、坂道を下ってくるのと、鉄道開通以前の人々がこの町を目指してやってきたルートはまったく逆さ絵のような関係になっているのです。
この石橋を渡って更に山側に進んでいくと、鉄道のなかった時代、もうそこはどん詰まりと言ってよい場所でした。前回のグランド・ホテルが山側を背にして建てられたのは、鉄道開通によって、滝を中心に発展してきたこの町に、駅が出来たことによってどん詰まりの場所が一番の場所 ( 駅に近くて、なおかつ谷を見渡すにも最高のロケーション ) に目がつけられたということに気が付きます。人々が車でやってくる今は山側にこそ新しいホテルが林立するようになりましたが、それ以前の歴史的な建造物は滝の周辺に肩をよせるように建てられたのです。




ウィキペディアでバート・ガスタインについて調べていたら、とても興味深い写真に気が付きました。




建物が赤くなっているのは、現在使われなくなって放置されている建物です。
赤い建物が左下から斜め右上に向かって二列に並んでいるのがわかると思います。その間が前回お話した滝にかかる石橋を結んで町のメインストリートとなっている場所です。
ちょうどそのメインストリートが最後にぶつかるところに白い建物 ( これは Hotel Weismayr で、すでに1888年に完成し、今も現役です ) が見え、その右隣りにそれより大きな建物が写っています。グランド・ホテル・ド・リュルプ ( ホテル・オイロ―パ ) です。
手前側の赤い建物の真ん中に白い建物が見えますが、その白い建物の左側を画面斜め左上の森から、画面斜め右下の崖に向かって滝が落ちていきます。

今述べた白い建物の右隣りは駐車場の骨組みです。そこに1970年代に Kongresshaus 会議センターがつくられたのですが、現在はテナントに貸している状態です。
その前は広場になっていて、通りをはさんで向かいの赤い建物が Haus Austria (1898年建設) 、以前には博物館、インフォメーションなどが中に入っていて、昨年訪れたときにはまだ活動していた記憶があるのですが、今回訪れてみると、建物全体すっかり立ち退きが完了し、無人状態となり、プロックされていました。

前にも書きましたように、ヨハンたちがバート・ガスタインを初めて訪れたのは2001年で、11年前のことになりますが、今この写真で確かめられる赤く色をつけられている建物はすでに当時から空き家になっていました。

町の中心地であるだけに、その光景は異様と言えば、きわめて異様と言わざるを得ません。

写真の画面左下の建物は Hotel Straubinger です。ここは対デンマーク戦争の結果勝利したドイツ側が1865年8月14日、オーストリアとプロイセンとの間でシュレースヴィヒならびにホルシュタインの帰属に関して協定を結んだ場所でした。

またその向かい側の赤い建物が、1790年代の初めに建てられた Badeschloss です。ここはドイツ皇帝ヴィルヘルムⅠ世が温泉治療に訪れたときに滞在した建て物です ( 初めて訪れたのは1863年で、その後1866年を除いて1887年まで毎年訪れました )。

さらに Hotel Straubinger に隣接する建物*注) にはこの地を訪れた作家グリルパルツァー、作曲家シューベルト、ヨハン・シュトラウス(息子)、三人の記念プレートが貼られています。

*注) これは Hotel Straubinger の旧館 (1823-26年建設)です。右に隣接する建物が Hotel Straubinger (1840-42年建設) ですが、旧館の方は今も使われているのに、こちらの方は荒れ果て、窓ガラスも割れたままに放置されています。 人が立ち入らないように現在はブロックされています。写真の車が出てくるところの先に石橋があります。写真の左端にわずかに見えているのが郵便局(1887-88年建設)です。

正面の建物の一階の壁に三人の記念プレートが貼られています。左からシューベルト、ヨハン・シュトラウス、グリルパルツァー


   
   

2011年8月10日撮影
(左) シューベルトは1825年当地で 《Die Allmacht》 と 《Das Heimweh》 を作曲した
(中央) ワルツ王ヨハン・シュトラウス(息子)が1854年、1855年にこの地に湯治滞在したことを記念して
(右) グリルパルツァーは1818年、19年、20年ならびに1831年、この地を訪れた


これらの記録を見れば、すでに鉄道のなかった時代からバートガスタインがいかに芸術家たちをひきつけてきたかを知ることができます


赤い建物はすべて Denkmalschutz (保護対象建造物) です。へたな金もうけ主義の業者の手に渡って取り壊されたら大変なので、今は建物を維持、保存するために力を貸してくれる投資家の登場を待っている状態です。

今回訪れてみると旧会議センター前の広場にインフォメーションと書かれた簡易なパビリオンが建てられ、そこにこうした建物についての説明と、町がこれらをなんとかよみがえらせたいと思い、新たな投資家をもとめて、全てのテナントの建物からの立ち退きを完了した状態にある旨が書かれています。

ウィーンは南駅の大改造にも巨額の資金を投入できて、ちゃくちゃくと都市改造が進められていますが、バートガスタインが歴史的な輝きを取り戻すのにはまだまだ時間がかかるかもれません。




ところで旧会議センター前のバート・ガスタイン唯一の広場、そこにはこんな噴水があります。



2011年8月12日撮影

台座のところに Thermalwasser と記されています。温泉が流れているのです。手にとってみると確かに人肌ほどの暖かさがあります。


広場ではこのように屋台がでることもあります。画面正面左の建物が Hotel Weismayr、右の建物が Hotel Europa です

さきほど町の公式ホームページを読んでいたら、こちらの方では、町の名前について、Gastuna 「お湯、温泉」というケルト語からきていると説明されています。ウィキペディアの説明とは異なりますが、語源については諸説あると言うことなんでしょう。

また橋の近くだったと思いますが、正確な場所は忘れました。こんなプレートも見つけました。


2011年8月10日撮影

前回は駅のホームの標高を示すプレートでしたが、こちらは「ここがぴったり海抜1000メートルの地点ですよ」という意味のプレートとして見過ごしてしまいそうですが、一番下に「アドリア海」からの標高と記されていることに、もちろん当時帝国領の中にあって唯一世界と自由につながっていたアドリア海に対する思いがこのプレートに込められていることが分かります。



最後に、唐突ですが、バート・ガスタイン唯一の中華レストランの話をして締めくくります。
今年の8月19日の日曜日に初めてわたしたちはその中華レストランを訪れてみました。
駅からは少し見えにくくなっていますが、Felsentherme を訪れて、駅前の坂を少し上がって行くとその中華レストランがあります。

中華に行くと、よく「日本人か?」と質問されます。そういうときには「そうです。あなたはどちらのご出身ですか?」と尋ね返します。
その時間他にお客さんもいなかったせいもあり、そこから彼女の話がとまらなくなって、たくさんのことを教えていただきました。

彼女の両親は幼い彼女を連れ、大陸から台湾に亡命し、その後彼女はアメリカに渡り大学で勉強しましたが、次にはドイツにまた渡り、そこで一からドイツ語を学んだそうです。そして最終的にオーストリアのこの地にやってきて、その間知り合った夫とこのレストランをもう30年ほどやっているのだそうです。

彼女 「30年ここでずっとオーナーをしているのは今は私たちだけになりました。どこそこホテルはデンマーク人、どこそこホテルはロシア人、どこそこホテルはイタリア人、Felsentherme の横にできた Jugendherberge (ユース) はドイツ人の経営で、それまでオーストリア人が持っていたホテルはほとんど外国人の手に渡ってしまいました」

ヨハン 「どうして?」

彼女 「父親が死んで相続した息子たちはだれも経営を引き受けたくはなくて、外国人に売ってしまうからよ」

彼女 「あなたがたはどこのホテルに泊まっているの?」

ヨハン 「ベル・ビュー」

彼女 「ああ、そう。あそこは何年か前に火事で焼けました。それには保険が降りたけれど、経営者は続ける気をなくし、スウェーデン人の手にわたりました」

なるほど

Felsentherme のことは以前このブログの Brunnen のところに書きましたが、今回、プールには入らず、Felsentherme に付属するレストランで夕食をしたとき、ちょうど上からプールを見おろす形だったのですが、2001年に訪れたときとはまったく装いを新しくして、モダンに変身していました。名前が「岩の温泉」ですから、2001年にはプールの一角に岩を組んで、そこから打たせ湯よろしく温泉を流していたのですが、どうも見当たりません。レストランのウェイターにそのことを尋ねても、「昔の話だろ」というのみです。まだ11年ほど前なのに。

今はとにかく急速にものごとが変化しているようです。

シュトュ―プナー・コーゲルに行くロープウェイの駅舎もどうやら建て替えられと思います。今は、この Felsentherme 側からも、道路に降りなくても、そのまま渡り廊下のようにして空中ブリッジを渡って向う側に出ていけるようになっています。

今日のお話の、写真上で赤く処理された歴史的建造物。

潰して、新しい建物を立ててよい、という話ならば、いくらでも投資しようと言う外国人はいそうな気がします。なにしろ町の中心地ですから。でも、そうするとバートガスタインの歴史的価値と記憶は二度と戻らなくなってしまいますからね、空き家でゴーストタウンのようになっているのはあまり見栄えのいいことではありませんが、町はいつか甦ることを信じてその日を待っているのです。




ちなみに中華レストランの Wirtin (おかみ)、息子さんがとても優秀で学校の成績はオール1 (向こうは1が一番良い成績です) だったとのこと、今はウィーンで大銀行の課長をしているのが自慢のようでしたが、ご結婚されたお相手の方がオーストリア人女性で、「息子たちは息子たち、私たちは私たち、オーストリアは一生懸命働けば私たちもしっかり年金がもらえるのがすばらしい。だからね、息子たちには自由にさせているし、私たちはいつかこのお店はたたんで年金暮らしをするの」と繰り返します。ちょっぴり寂しそうでした

ヨハン (この記事は 2012/09/13、15、16、18 をまとめたものです)



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