ウィーンわが夢の街

ウィーンに魅せられてはや30年、ウィーンとその周辺のこと、あれこれを気ままに綴ってまいります

フォト・ギャラリー「飾り看板」 (2) ドイツ

2012-11-13 16:11:21 | ドイツ
ロスチャイルドのこと

突然テーマと関係のないお話をするようですが、みなさんは世界の大富豪ロスチャイルド一族の名前はきっと耳にしたことがあるはずだろうと思います。ドイツのフランクフルト(a/M)出身のユダヤ人ということも御存じの方は多いかもしれません。

フランクフルトには昔ユダヤ人のゲットーがありました。一族の祖先をたどっていくと遅くとも16世紀の半ば頃には当時のフランクフルトのユダヤ人ゲットーに住んでいたようです。

でもロスチャイルドという名前の由来については案外知られていないかもしれませんね。

当時ユダヤ人たちが住んでいた通りには今日のような番地がついておらず、建物はそれぞれさまざまな色の看板 (Schild) 、シンボルマークで互いに区別、識別されていたようです。ロスチャイルド家のご先祖様が住んでいた建物はそのシンボルマークで「赤い楯の建物」( das Haus zum Rothen Schild ) と呼ばれていました。何代にもわたって一族はその建物を住まいとしていたので、名前も Rothschild と名乗るようになったということです。これは一族が1664年に引っ越しをして das Haus zur Hinterpfann ( 辞書には載っていない単語なので想像を交えて直訳すれば、「奥の瓦の建物」 ) に住むようになっても変えませんでした。(Wikipedia)

というわけで、Rothschild はもちろん意味上、roth ( ドイツ語の現代表記では rot ) と Schild が合成されてできた言葉ですから、ロート・シルトと発音されます。これが英語発音ではなぜ「ロス・チャイルド」になってしまうのか不思議で首をかしげてしまうことです。ロス・シャイルドだったら理解可能ですけどね。

Schild は、貴族の楯の文様、職人、商売人たちの看板のみならず、誰もが文字を読める時代ではなかった頃、また、自分たちとは言葉が異なる外国人にも理解が出来るようにと工夫されたものです。現代でも交通標識に使われたり、案内所を示すのに大きな「i」の文字をつかったり、禁煙マークなどの形で Schild は生きています。絵、図柄というのは文字以上にインターナショナルな言語手段と言えるわけです。


ドイツ

ヨハンとロザーリウムは1983年にウィーンで一年過ごす機会が与えられました。当時まだ飛行機はアンカレジを経由して北極回りで、先ずはヨーロッパの玄関口のひとつだったドイツのフランクフルトに3月9日到着しました。せっかくの機会でしたから、私たちはそこから先鉄道でヴュルツブルク、ニュルンベルク、パッサウとドイツの町を見学しながらオーストリアに入り、3月14日にウィーン西駅へとまいりました。


1983年3月10日撮影 リューデスハイム ・ Drosselgasse
フランクフルトには2泊いたしましたので、到着の翌10日、日帰りでリューデスハイムを訪れました。
「つぐみ横町」と訳されるこのリューデスハイムの Drosselgasse は先の大戦で空爆され壊滅的な被害を被りました。現在の町並みは戦後に再建されたものですが、今も中世の面影をしのぶことができます。




1983年3月11日撮影 ヴュルツブルク ・ Weinstube Bürgerspital

ヨハンは飲んべいではありませんが、訪れるドイツの町はどうしてもビール、ワインの町がメインになります。
しかし、この Nasenschild に書かれている文字は Bürgerspital、訳せば「市民のための病院」という意味ですから、ビールやワインには関係ない、と思われるかもしれません。ところがそうではないのです。
Wikipedia の記事を読むと
1316年ヴュルツブルクの都市貴族ヨハン・フォン・シュテーレン Johann von Steren がこの土地に病人のための新しい施設 Spital (介護院) を作ったのが起源です、16世紀からは施設は Bürgerspital zum Heiligen Geist 「聖霊市民病院」と名乗るようになります。慈善事業と言ってもよいこうした施設の一番の問題は経営資金です。そこで施設の維持のためにさらなるブルジョア市民たちの寄付によりワイン畑が購入されました。市民病院ワイン酒場 (直訳するとどうも変な言葉になって申し訳ありません、中身はきわめてまじめ、ヒューマニスティクです) としての起源は1873年にまでさかのぼります。市門の前で市民病院のぶどう畑からつくられたワインが特別のお祭りの日に売られたのです。


私たちにとってまだドイツに行くなんてことは夢だった時代、ドイツから帰ってきた人たちがお土産にしたのがこの形のフランケン・ワイン。日本では当時なかなかお目にかかることのないしろもので、形も独特で、みなさん自慢そうに持ち帰りました。御相伴にあづかる身としては、ありがたく「これがフランケン・ワインか」と先ず称賛の意を表すことが礼儀でした。
そんなことで、ヨハンはフランクフルトの次にこのワインの産地であるヴュルツブルクを目指したのではなかったかと記憶しています。リーメンシュナイダーの彫刻は二の次だった?




1984年にふたりが日本に戻ってから5年、1989年にベルリンの壁が破れたというニュースは私たちにとってはそれまでまるで予想もしていなかった大ニュースでした。
なんとか都合をつけ、ウィーン時代にお世話になった方々を再訪することを兼ね、1990年私たちはウィーンからベルリンへと旅をしました。

それまで東西を分断していた壁も、検問所も当時はまだ生々しく残っていました。もちろん壁は穴が開き (そのころは壁の破片を持ち帰る人のためにハンマーを貸す商売をしている人がたくさんいました)、かつての検問所は嘘のようにがら~んとしていました。
ベルリンから国境のなくなったポツダムに直通のバスが出ていて、無人となってがら~んとした検問所を通りぬけ、私たちはポツダムの町を初めて訪れました。

  
1990年8月17/18日撮影

ウィーン滞在から10年後、1993年に再び一年研究休暇をいただくことが出来たので、今度はヨハンの希望を優先して私たちは東西が再統一したドイツの首都ベルリンに行くことに決めました。


1993年4月24日撮影 ポツダム
今となってはこの写真を撮影した確かな場所を思い出すことも出来ませんでしたが、幸いこの日はチェチーリエンホーフを訪れたと記録されていることと、写真の Markt Klause という文字から検索した結果をあわせて考えると、ポツダム旧市街の Brandenburger Straße 35 だったようです。正面に見えている教会は Peter-und-Paul-Kirche です。


みなさんは「ワルプルギスの夜」についてきっと耳にしたことがあると思います。
4月30日の夜から5月1日の明け方にかけて魔女たちがブロッケン山に集まりどんちゃん騒ぎをする夜です。春の到来を祝う行事がハルツ地方の魔女伝説と結びついてできたものです。
ハルツはベルリンからも近く、ヨハンたちも何かの情報で、ターレの山の上で西側からの参加者を交えて東西交流の魔女祭りがおこなわれると知り、ベルリンから汽車に乗って日本人として初参加してまいりました 

1993年4月30日撮影 ターレのワルプルギスの夜


1993年5月1日撮影 ターレのホテル「ロストラッペ」


1993年5月1日撮影 Hexentanzplatz 「魔女が踊る集会場所」


1993年5月1日撮影 ロストラッペ Roßtrappe は「馬の蹄のあと」という意味です。不思議な形ですね。誰かが彫ったものでもないようですし。

下記のサイトを開くとこの Rosstrappe に関する説話が紹介されています
http://de.wikipedia.org/wiki/Rosstrappe

ちなみに今ネットでターレを検索するとあれからずいぶんモダンな列車、最新鋭のロープウェイもでき、人気の観光スポットによみがえっているようです。魔女たちが一生懸命踊った成果なのかもしれません。





1993年7月3日撮影 バンベルク ・ Waltemate Galerie

私たちが訪れた頃のバンベルクは静かな、美しい街でした。宿泊したホテルのレストランで初めて Kartoffelpuffer (ジャガイモをすりつぶしてフライにしたもの) をいただきましたが、その衝撃的なほどの美味しさは今でも忘れられません。
でもその後ニュースでバンベルクでもネオ・ナチの若者が外国人を襲撃した事件がおこったことを知り、以来バンベルクは縁遠い町になってしまいました。




1993年7月3日撮影 バンベルク ・ Hotel-Gasthof Wilde Rose、 Keßlerstraße 7





1993年7月24日撮影 ライプツィヒ ・ カフェ・フュルスト、Barfußgäßchen 2-8

ライプチヒにはドイツ語の講習会にも2度参加したことがあり、知人も出来ましたので、かなり当時の町は歩いて探索しました。
当時講習会の期間中宿泊した大学の学生寮は、お風呂にお湯をためようとすると、湯船が濃い茶色に染まるほど水が汚染されていました。大学はじめ町のあちらこちらにまだ東独時代の名残がたくさん残っていて( 東独時代この町には秘密警察シュタージの本部がありました)、ドイツの出版文化を支え、東側の商業の中心であったライプチヒの古き良き時代に思いを馳せれば、ドレーデンとならんで二つの町はドイツにおける京都、大阪のような存在でしたが、この町がよみがえるのはいつのことだろうかと危惧されるほどすさんでいました。
でも以前このブログに書きましたように、2009年にライプチヒを再訪してみると、町が大変身をして昔の輝きをようやく取り戻しつつあることを肌で感じてきました。




カッセル在住のNさんご家族には訪れるたびに車であちらこちらと連れていっていただくことができました。
どうやってNさん家族と知り合ったか、というとウィーンのカフェ、デーメルでたまたま席が隣同士で会話したことがきっかけです。そのときいたT君はまだほんの子供さんでしたが、今はお子さんもいる立派なパパになっています。


1993年8月28日撮影 ハン・ミュンデン ・ ビストロカフェ Sieburg
この日はハン・ミュンデン Hann. Münden に連れて行っていただきました。木骨造りの家がたくさん残る可愛らしい町でした。

以下はウィキペディア日本語版によるこの町の説明です
「ハン・ミュンデンでヴェラ川とフルダ川とが合流してヴェーザー川となる。3つの川にちなんで、この街は「ドライ・フリュッセ・シュタット(3つの川の都市)」とも呼ばれる。この街は放浪の医師で、ハン・ミュンデンの病院にいるときになくなったドクター・アイゼンバルトの墓がある街として特に有名である。この街に関してしばしば引用されるアレクサンダー・フォン・フンボルトの名言、ミュンデンは「世界で最も美しい5つの街の1つ」という言葉は、しかしどこにも記述されていない。」(ドイツ語Wikipedia には „eine der sieben schönstgelegenen Städte der Welt“ と説明されていますので一応書き添えておきます )
とても美しい町ですが、ときどき川が洪水をおこすようで、Nさんは「ほらこんな高さまで浸水したんだよ」と建物に記された洪水痕の記録を教えてくださいました。ちなみにミュンデンという名前は「川が流れ込む場所」という意味を持ちます。



1993年8月28日撮影 ハン・ミュンデン ・ 家庭用品 Neufang



1993年8月28日撮影 ハン・ミュンデン ・ 薬局 Doktor Eisenbart、 Lange Str. 18




私たちがベルリンにいた同じ年1993年には南ドイツのフライブルクにI先生ご夫妻がやはり研究休暇で滞在されていました。「遊びに来い、遊びに来い」と何度もお誘いを受けましたが、なかなかベルリンからフライブルクは遠くて果たせずにいました。でも余り寒くならないうちにと11月私たちは列車を乗り継いで7時間かけてようやくI先生を訪問することが出来ました。



1993年11月18日撮影 フライブルク(i/B) ・ ドイツ最古の料理旅館《赤熊亭》
熊の下に Ältester Gasthof Deutschlands の文字


Badische Zeitung 「バーデン新聞」は2011年1月12日の記事で次のように伝えています。

Gasthaus "Zum Roten Bären" wird 700
Im Gasthaus zum Roten Bären – einer echten Freiburger Institution – wird in diesem Jahr 700 Jahre Gasthaus-Tradition gefeiert.
「料理旅館《赤熊亭》が700歳になる。
フライブルク生粋の料理旅館《赤熊亭》が今年創業700年を祝う


Badische Zeitung の写真

ただ Wikipedia で調べてみると、このドイツ最古というのは自称で、ほかにも die Herberge zum Löwen in Seelbach 「ゼールバハの宿屋獅子亭」と  Zum Riesen im unterfränkischen Miltenberg 「ウンターフランケンのミルテンベルクにある巨人亭」 もそれぞれに最古の料理旅館と自称しているようです。

気になるのは赤熊亭と言うものの、ゴールデン・ベアーが飾られていることです。





1993年11月18日撮影 Cormar

このI先生は無類のワイン好きです。車でこの日は国境を越えフランス側に入り、ワイン村に試飲しに行こうと誘われました。
ん? い・ん・し・ゅ・う・ん・て・ん? ヨハンはもう昔のことなので忘れました。I先生ではなくて奥様がハンドルを握っていたものと思います。





2009年4月12日撮影 アウグスブルク ・ Ratskeller
アウグスブルクにはオペレッタを聴きに行きました。まだ春先の4月上旬、夕方になると夏とは違いすでに真っ暗です。この看板の下のドアを開けて店内に入ると確かに階段を下りて文字通り地下にレストランがありますが、その店内から外を眺めると、向かいに小公園、その先が車の走る通りです。斜面を利用して建てられているので、そんなことになっているのでした。



2009年4月14日撮影 アウグスブルク
この画像は今ではまったく記憶にありません。背景の色の関係で Nasenschild もくっきり見えません。
目を凝らしてなんとか文字を推測して、検索をかけてみた結果 Zum Vinzenzmurr というお店だと分かりました。
チェーンストアのようです。食肉店か、レストランと思われます。
ただ、検索して出てきた記事は、ミュンヒェンのお店に引き続き、アウグスブルクの Vinzenzmurr も衛生管理に問題があることが発覚、という内容のものでした。お~マイ ガッツ!

2012/11/13 ヨハン


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