明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

文庫本片手に空想旅行(3)葛城万葉の古道

2021-11-04 13:03:09 | 歴史・旅行

1、しもと結う 葛城山に ふる雪の、間なく時なく おもほゆるかも

古き倭舞の歌である。「しもと」とは、春の若枝のことである。それで葛城の山人たちが神祭りにカツラを作り、皆で被って倭舞を踊った故事によるものだそうだ。「しもと結う」は葛城山の「枕詞」として和歌で使われている。歌意は、葛城山に降る雪のように「始終心に思われてならないことよ」となる。和歌の定番と言える手法で歌われたものだが、ここで内容を論じてもつまらない。要するに「想う」という純粋な感情に「葛城山の雪降る遠景を重ねた」ところがミソであり、優雅な倭舞の踊りに合わせて歌った舞踏歌の一種と思われる。田舎の伝統的行事で微笑ましいなと思っていたら、日本三大勅祭(春日・賀茂・石清水)の一つである春日の申祭り(3月13日)には4人の舞人が華麗な衣装で倭舞を踊るそうだから、結構有名なものだったのである。今度奈良に移住したら、一度見てみようかと思っている。

葛城の村々はJR和歌山線の御所駅で降りて(近鉄御所駅もすぐそばにある)大和街道24号線を南下、櫛羅・森脇・蛇穴・室・名柄・高天彦社・朝妻・高鴨神社・僧堂・風の森と広がる一帯を指す。この高台の地域は、古くからの鴨神信仰の地と言えよう。その先は吉野川沿いの五條に至り、古代遺物の人物画像鏡で有名な隅田八幡神社がひっそりと建っている。こんな片田舎の神社に古代史を紐解くカギになるかも知れない「国宝の鏡」が眠っているなんて、やっぱり奈良は奥深いなぁ。

やや黄ばむ 油菜のさき 見るごとく、夕月にほふ葛城の山

与謝野明子の歌という。奈良では東大寺二月堂のお水取りがすむと、3月の法隆寺会式と行事が続く。人々の生活の営みの中に寄合や行事が行われ、それにつれて自然の姿も移り変わる。そんな四季折々の葛城山の夕月夜を、楽しくまた感動を持って詠んだ佳作だ。大和万葉の景色は和歌が似合う、とは誰かが言った名言である。歴史の重みがそれとなく伝わる村々の風景は、今でも和歌を口ずさみながら見て歩くのが楽しい。

ついでに万葉集から寄物陳思歌をもう一つ
青柳 葛城山に 立つ雲の、立ちても座ても 妹をしぞ思う(巻11ー2453番)

2、葛城坐一言主神社

雄略天皇の逸話が古事記に残る「占いの神、一言主」だが、由緒は相当に古く、葛城襲津彦にまで遡るという。襲津彦は武内宿禰の子で、仁徳天皇の后の磐之媛のおじいちゃんか何かあたる葛城氏の始祖である。堀内民一氏は民俗学者らしく伝承などを素直に信じているようだが、私はそんなには「歴史家」というものを信用はしていないので、一応眉に唾付けて聞いている。雄略天皇の存在自体が謎めいていると思っているが、何れにしてもこの葛城の辺りが天皇家発祥の地、というのは動かないだろう。蘇我馬子が「葛城は我が産土」と言ったのは、どうも間違いがなさそうである。そう考えると、アマテラスの高天原というのは「ここ葛城のことだ」と喝破した高木彬光氏の論も「一理あるかな」と思ったりした。葛城から久米を通って飛鳥に至るこの一帯には、神武天皇陵以下多くの天皇陵が点在する。キトラ古墳や高松塚古墳や石舞台古墳なども近くて、古代の息遣いが直に聴こえてくるようで生々しい。すべてが闇の彼方に消えていく謎に満ちた古代だからこそ、奈良はロマンの宝庫だと言えるのである。

3、葛城の地名

蘇我の蝦夷が建てたという「葛城高宮の霊廟」だが、御所からちょっと行った北西の飯豊女王の「忍海の角刺宮」があった辺りを言うらしい。近くを流れる葛城川(忍海川・百済川は同じ川の別名)は、川幅が広くて浅いから広瀬というのだそうだ。それが大和川に合流するところを「広瀬の河曲(かわわ)」と言って、そこに祀られているのが、和歌にも出てくる有名な大忌神「広瀬神社」である。私が奈良に住みたいと思う理由の一つは、実は万葉集などの和歌に描かれた景色や古代人の気持ちを「実際にその場に立って追体験」してみたいと思ったからなのだ。それが可能なのは「地名が古代から変わっていない」ことである。だって「掖上の家々の竈に煙立ち・・・」と書いてあるのに地図で見たら、「葛城市中央一丁目」なんて言うんじゃ、雰囲気ガタ落ちじゃないの。まあ、古地図を見ればいいのかも知れないが、例えば小学校の同級生で「船越源一郎くん」とか言っていたのが、しばらく振りに会ってみたら「青山デレク」とか名前変わっていて、「誰?」って思ったりするのと一緒みたいなもんである。私は断然、名前「変えないで」派だ。

一方、葛城山の東麓の「小野の道」は言わば葛城の山辺道で、水分神社や鴨山口神社や鴨の神奈備の杜などに通じる古道だという。これがどの辺りを言うのか分からないが、「櫛羅の高鴨山とか森脇の一言主神社を後にして長柄の社(もり)」とかの記述を見て地図で確かめると、どうやら大和街道(24号線)のことを言うらしい。増村から水越峠に向かっていくと関屋村があり、そこの水分神社は葛城山系の水を分配するところで、関屋村の辺りに「名瀑の滝」があったと書いているから、昔は水量があったようだ。長柄の社から南に行くと高天彦神社があり、高天路を下ると東に掖上の国見岳を見て、遠く大和三山が見えるという。地図で見ているとイメージが湧かないが、このへんは「実地に行ってみる」しかないだろう。

古事記や日本書紀など古代の文献を読んでいて、ちょっと地名を確かめようと思えば「すぐ家から自転車で行ける」っていうのが、私の奈良に移住したいと思う「一番の目的」である。しかし、古代の歴史がこんなに近くにゾロゾロ出てくるなんて、こりゃあどうしても行かないといかんねぇ、マジで。


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